第18章
「忘れ物無い?大丈夫?」
「うん、と、あぁ待って待って、ポータブルプレーヤー入れてないや」
「ちょっとアンタ早くしなさいよね。なんで二度寝とかするわけ?アンタ緊張感とか無いの?」
「はぁ?緊張感?あるに決まってるだろ、あのさ」
「おい、どうでもいいけど早くしろ。十四時に病院だぞ」
「だって姉ちゃんが」
「うん、聞いてやるから車の中で話せ」
母親の入院から二週間後、手術の二日前、純哉が入院する日がやってきた。純哉には特に必要とされる検査も無かったことと、できる限り入院期間を短くしたい、という純哉の希望により、手術前々日の入院となった。純哉としては、腹は決まっていたものの、とはいえ怖がりな自分であることには変わりなく、なるべく短期決戦で臨みたかったのだ。長い入院でナーバスになりすぎて病院の人達に迷惑をかけたくないという思いもあった。
もう見慣れた高速道路の風景を眺めながら、純哉は不安などではなく、何か別の感情でドキドキしているのを感じていた。それは期待感にも似たものだった。母親の病気を知り、東京から地元へ戻ってきてから、ずっと純哉は何処にもいけず何にもなれないような、そんな気がしていた。短い期間にいろいろな経験をして、多少成長もできたとは思っていたが、上京する前も、東京でも感じていた生き方に関する疑問のようなものは、常に純哉の中に沈殿し続けていた。そしてそこから抜け出すには手術が必要だと純哉は感じていた。この生体肝移植は母親も自分も新しく生まれ変わるための手術なんだ、そう思っていた。
「純哉、ご飯どうする?どっかで食べていく?」
「いや、病院のパン屋でいいや」
「オッケー、ちょうど私もあそこのシュークリームに会いたかったのよ、そうしよ。お父さんもいい?」
「うん、いい」
車は一度だけサービスエリアに寄り、後はノンストップで一路、病院へと向かった。
純哉が通された病室は四人部屋だったが、他には誰もいなかった。今日も明日も入院の予定はないとのことで、結局手術の日まで純哉はひとりで四人部屋を使うことになった。自分の気持ちを整えるために、できれば一人になりたい、と思っていた純哉にとってはこの上無い環境だった。荷物をベッドの上に置き、一通り部屋の中を見回してから母親の病室へ行くと絵美の笑い声が聞こえた。
「どうしたの?」
「だって母さん、なんだか入院してるのに一人旅にでも来てるみたいなんだもん」
「なんだそれ。母さん、久しぶり」
「純哉、久しぶりね」
「うん、元気そうじゃん」
「普通のご飯がね、食べられるってことはとても素敵なことなのよ。よくね、パン屋さんに行ってコーヒー飲みながら読書したりもするの。こんなの久しぶりだからなんだか楽しくてね」
「えぇ?そんな自由にしてていいの?まぁでも何よりだな。父さんが少しおもしろくなさそうなのが気になるけど」
「なんだ?そんなことあるか。何で俺がおもしろくないんだ」
「父さん、あれね、母さんがひとりで楽しそうだから寂しいのね」
「あぁそういうことか」
「そういうことか、じゃないだろ。俺は元々おもしろくなさそうな顔をしてるんだ」
父親を皆でからかっていると、同室に入院している、純哉の母親と同じ歳くらいの女性が部屋に帰ってきて、目の前のベッドに腰を下ろした。
「あらぁ、ご家族いらしたのね。どうもこんにちは」
彼女は一ヶ月前に手術を受けたレシピエントで、母親に『病院の歩き方』について、いろいろと教えてくれる、いわば『先輩』だった。「大丈夫よ、きっと元気になるから」そんな風に言ってくれる存在は、母親にとってかなり心強いものだったに違いない。経験した上での言葉はかなり説得力があるものだ。ポジティブの固まりのようなその話し方は、純哉たちから、どうしても避けたい三十パーセントの割合のことを忘れさせた。
しばらくすると、そこへ、『先輩』に顔がそっくりな女性が洗濯物を持って入ってきた。
「こちらはね妹さんなの。ドナーさんよ」
母親に紹介され、純哉たちはお辞儀をした。レシピエントの『先輩』ほどではないにせよ、やはり姉妹だけあって、十分すぎるくらい明るそうな人だった。何より純哉は、そのドナーである『先輩』の妹が、いたって普通であることに驚いた。とても手術を受けた人には見えない。
「お兄ちゃんがドナーになるの?」、『先輩』の妹が純哉に尋ねてきた。
「あ、はいそうです」
「あらぁ、若いねぇ、いくつ?」
いくつ?なんて聞き方をされたのは久しぶりだった。絵美が顔を伏せて笑っているのが分かった。
「二十四歳です。あの、すごいお元気そうですけど、どれくらいで歩けるようになったんですか?」
「え?あぁ私ね。どうだったかしらね、確か一週間くらいじゃなかったかな」
「一週間で普通に歩けるもんなんですね」
「うんそうね、でもお兄ちゃんくらい若かったら手術から二、三日で歩けるんじゃない?」
「二、三日、そんなもんなんですか?」
「そうよ、そんなもんよ、若いんだから余裕よ」
母親同様、純哉も実体験者のそんな話にかなり勇気づけられた。これまでも、インターネットや書籍で、いくつかの実例を見てきたが、やはり現実に触れるということは、純哉にとって実感の湧き方が違った。
「それじゃ、父さんと私は、いったんホテルにチェックインしに行くね。夕方また来るから」
「うん、分かった」
父親と絵美は病院に隣接したホテルを予約していた。父親は、「ツイン一部屋でいいだろ」と言ったが絵美から、「シングル二部屋に決まってるでしょ、ばかじゃない?」と返され、何も言えず、シングルルームを二部屋借りることになった。少し離れた市街地に綺麗で割安なホテルもあったのだが、絵美の意見でホテルに隣接した、少し古ぼけたホテルに泊まることになった。
「とにかく行き来するのに便利な方がいいの。汚いとかそういうの私気にしないから。実用性よ実用性」
宿泊予約をするとき、父親が気づかって、今年オープンした温泉つきのビジネスホテルにしようか、と提案すると、絵美が頭ごなしにそう言った。絵美は結構綺麗な方だし、普段は気さくな優しさもあるのだけど、何かを決めるとか、何かをまとめるとか、そういうときには異様なほど実用的になる。純哉は、「そういうところをちょっと何とかできてれば、今ごろ結婚してるんだろうな」と頭の中で考えながら、勿論口にはしなかった。
絵美と父親をエレベーターまで見送ってから、純哉は母親の病室へ戻りかけたが、何となくひとりになりたくて自分の部屋へ戻った。一通り荷物の整理を済ませ、ヘッドフォンを耳にあて、純哉はベッドに横になった。ベッドは介護用のそれと同様のもので、ボタン操作で頭を上げたり、足を上げたり、ベッドの高さを調整できるようになっていた。初めてのことだったので、おもしろくなってきて、上げたり下げたりして遊んでいると人の気配を感じた。そこには看護師が一人、微妙に笑いながら立っていた。V字腹筋のような形で慌ててヘッドフォンを外し、とりあえず「こんにちは、すみません」と言った。
「いえいえ、何度かお声かけたんですけどヘッドフォンされてたのに気づかなくて。入院中担当させていただく西原と申します。よろしくお願いします」
「あ、どうもよろしくお願いします。担当、って一人に一人ずつ看護師さんつくんですか?」
「はい、三交代制なのでその時間帯によって他の看護師含めてローテーションしますが、基本的には退院まで管理させていただきます」
「あぁ、そうなんですね」
「いかがですか?不安ですとか緊張ですとかされていませんか?」
少し考えて純哉は答えた。
「いいえ。もうね、通り越しちゃいました、そういうの。後はもう身を任せるつもりです」
「そうですか。良かったです。もう任せちゃってください、それが一番いいです」
その日はそれから、病棟の施設や入院の概要について説明を受け、検温と採血を行っただけであとは何も無かった。夕方、父親と絵美が再び病院にやってきて、母親がいる部屋で過ごしていたのだが、食事を摂って少ししたくらいで母親が疲れてきたため、小一時間でホテルへ戻った。純哉は部屋に戻り、ただ一冊だけ自分で所持している小説を読んだ。その小説は東京の福生が舞台となっており、激しい若者の生き方が描かれているものだった。文字を追うのに疲れると、絵美から借りたDVDプレーヤーでアイルランドのロックバンドのライブを観た。純哉が高校生のころ、バンドを始めるきっかけとなったDVDだった。小説に出てくる激しく生きる若者、大観衆の前、たった四人で演奏するロックバンド、あの頃の自分がなりたかったもの、なろうとしていたものたちと、今の自分との距離を思うと純哉はおかしくなった。でもそんなに悪い気はしていなかった。「僕にはやるべきことがある」そんなふうに思えたのは二十四年間の人生で初めてだったのかもしれない。
DVDが終わり、ヘッドフォンを耳から外して電源を切り、部屋の中に静けさが訪れると、ドアの向こうから子供の泣き声が聞こえてきた。その泣き声は、まだ幼稚園生くらいの小さい子供のようだった。自分たち家族のことから、純哉は「子から親」という移植しか考えていなかった。しかし教授の話の中にもあったように、「親から子」というケースも存在するわけだ。小さな体の中の肝臓が機能しなくなってきていることが分かったとき、親に訪れる絶望はどれほどのものだろう。小さい体から肝臓が取り出され、自分の肝臓が移植されるまで、どれほどの希望にすがるのだろう。そんなことを思うと、純哉は祈らずにはいられなかった。何を誰に対してなんて分からなかったが、とにかく、祈らずにはいられなかった。