第17章
母親は入院するまでの間に二度痛みを訴えた。一度は父親が横に寝ているときで、父親は明け方近くまで背中をさすっていた。二度目は日中、純哉だけが家にいるときトイレの近くでうずくまっていた。慌てて「救急車呼ぶ?」と聞いたが母親は首を振って「少し背中をさすってちょうだい」と言った。背中をさすっていると母親の容態は次第に落ち着きを取り戻し、安らかな表情になっていった。眠ったのかな?そう純哉が思ったとき母親が、
「腹水がね、なければ楽になれそうなんだけどね」と小さな声で言った。
一度は腹水だけを抜くことも考えたが、地元の医師から、母の現状では手術はなるべく避けたほうが良く、腹水を抜くことだけを目的とした手術は最終手段として考えるべきだ、ということを言われていた。確かに、もう母親の体は二度も三度も手術に耐えうる体だとは思えなかった。それに根本となる肝臓が悪い限り、腹水は早かれ遅かれ再び元通り、もしくはそれより悪い状態になる。
「もうすぐさ、手術すれば全部上手くいくよ」
「そうね。母さんね、良くなったらタンタン麺食べたい。辛いやつ」
「おぉ、じゃさ、美味いとこ見つけて食べに行こうよ、タンタン麺」
それからしばらく純哉が背中をさすり続けているうちに、母親は寝息を立て始めた。一回目のインフォームドコンセントを受けた後、純哉は肝移植手術を、まるで『世界の終わり』のように感じていた。しかし今、純哉にとっての肝移植手術は『世界の始まり』に他ならなかった。そこを越えたとき、家族みんなが新しい一歩を踏み出すことができる、そう思っていた。
純哉と絵美が適合検査結果を大学病院で聞いてから約半月後、レシピエントである母親がドナーの純哉に先行して入院した。帰りの車の中で絵美が、「母さん、一人で不安だろうな」と呟いた。父親も純哉も同じ気持ちだった。翌日、残業で少し遅く帰ってきた絵美が食卓に着くなり、嬉しそうに携帯電話を取り出して言った。
「今日のお昼ね、母さんにメールしたんだけど、母さんすごく喜んでるの」
寂しそうな母親の映像が頭に浮かび、昨夜なかなか眠れなかった父が「なんでだ?」と尋ねた。
「あのね、病院では食事制限無いんだって。昨日の夜はトンカツにソースかけて食べて、今朝は焼き魚とお味噌汁食べたんだって」
純哉は不思議で仕方が無かった。母親の病気には塩分の取りすぎは厳禁であって、これまで家にいるときは絵美が塩分を計算して、それに基づいて食事をとっていたのだった。甘いお菓子にも塩分は含まれており、それを知った純哉は、塩が食べられないというのは何も食べられないということなんじゃないか、と思うくらいだった。
「えぇ!なんで?なんで入院した途端にオッケーなのさ?」
「そうなのよね。結局さ、移植手術をしないんであれば、今の母さんの肝臓をできる限り長持ちさせなきゃいけないわけじゃない?そうすると塩分にせよタンパク質にせよ、最善を尽くさなきゃいけないわけよ。でもさ、もうじき母さんの肝臓は全て破棄されて、純哉の肝臓が半分入るわけじゃない?そうなるとね、肝臓に気遣うより、手術に向けて少しでも栄養を摂ったほうがいいんだって。あと気持ちの方への栄養もね。母さん、もっと早く入院すれば良かった、なんて言ってるの」
「なんだそりゃ」
少し膨れっ面の父親のそんな反応に絵美も純哉も噴き出した。
「でもまぁ良かった。母さんが嬉しいなら何よりだ」
そこには父親の威厳も何も無く、笑い続ける息子と娘に軽く舌打ちして食卓を離れてしまった。父親の足音が小さくなってから絵美が言った。
「あれ、メールしに行ったわね」
「うん、分かりやすいね、我が父ながら」
「そうよね、アンタと私の父親だもんね、そりゃ分かりやすいわよね」
「そうだな」
二人の予想通り、父親は寝室で母親にメールを打っていた。
『良かったなあ。美味しいご飯が食べられて。本当に俺は、良かったなあ、って思うよ』そんなメールに返信された母親のメールは、ニッコリ笑顔のマークに続いて『お父さん、がんばるからねっ』と書かれていた。父親は携帯電話を握り締めながら、しばらくの間涙を流していた。