第11章
翌日、実家から車で約十五分程度の場所にある総合病院を家族四人で訪れた。病院は平日にも関わらず、「この人たちは普段何をしている人たちなんだろう」と純哉に思わせるほど、人々で溢れかえっていた。老若男女、かなりの人数が平日の午前中、病院の待合室にいる。それは純哉の「病気は限られた人がなることだ」という考えを覆す光景だった。
到着から約一時間でやっと母親の検査が終わり、それからさらに一時間半程待ってから、やっと診察室に呼ばれた。父が、家族全員が来ている旨を伝えると、医師は快く診察室に全員を招き入れてくれた。
医師は母の肝臓の状態を「とても悪い」と言った。少しもオブラートに包まない、直接的な言い方だった。絵美はいつもそうしているように、手帳を開き、そこに前もって記載していた疑問についてひとつずつ質問した。医師は丁寧に答えてくれてはいるのだが、純哉にはどうも曖昧な感じに聞こえて仕方が無かった。その表情まで曖昧に見えてきて、純哉は少し不安になった。しかし、「先生、昨夜移植のこと家族で決めました」という絵美の言葉を聞いて医師の表情が変わった。一度母親に視線を送り、机の上の書類を見て、そして家族の方へ改めて向き直った。
「それで、どうすることにしましたか?」
「弟の肝臓を母へ移植します」
医師は純哉の方を見て、それから家族全員をひとりずつ見た。そして安堵のため息をつき、ニッコリ笑った。そのままひとりずつ肩を抱いてきそうな勢いだった。基本的に分かりやすい人間のようだ。
「そうですか、うん、そうですか。お母さん」
「はい」
「良かったですね。がんばりましょう。必ず帰ってきてくださいね。弟さん」
突然のフリに純哉の返事する声は少し上ずった。
「よろしくね、よろしくお願いしますね」
何をお願いされるのかよく分からなかったが、純哉はちょっと誇り高い気分になり、努めて低くしっかりした声で「はい」と言った。
「絵美姉ちゃん。なんか変な先生だったね」
「でしょう。最初は私なんて頭きちゃってたからね。でもね、人みしりで不器用なのよ。こっちが心開けば随分心開いてくれるわ。それに顔に似合わず、かなり親身になって考えてくれてるからね。医者がどうあるべきかなんて分かんないけど、私は悪くないって思ってる」
「ふーん、ところでさ、気になったんだけど、『帰ってきてくださいね』って何?ここの病院じゃないの手術するの。なんか父さんと紹介がどうのって話もしてたけど」
「そうなんだ。ここの病院じゃ手術できないんだよ。そして県内にも手術できる病院は無いの」
肝臓移植手術はその特殊性から、手術を行える病院が限られている。地元の主治医に紹介状を書いてもらい、隣の県にある大学病院でまず診察を受け、それから手術になるとのことだった。純哉は、これまで診察を受けていたのだから、家族の決定により、すぐに手術が行われるものとばかり思っていた。しかし、父親が大学病院に電話をしたところ、『まずはこれまでの診察結果を元にお話をしたい』と言われた。わざわざ遠いところまで出かけるのだから、検査くらいするのだろう、と思っていたがそうでもなく、とにかく話をして、検査の実施についてはそれから決めることになる、ということらしかった。純哉はどことなく不完全燃焼な気持ちになっていた。
一週間後、純哉たちは新幹線で隣の県にある大学病院へ向かった。始めは車で行こうとしていたのだが、母親が「新幹線で行きたい」と言い出したのだ。「一度乗ってみたかったの」
地元に新幹線が通ったのは五年ほど前で、そのころから母親は密かに憧れていたのだそうだ。
「そんなこと、言えばいつでも乗せてあげたのに」、意外そうな顔をして父親がそう言った。
「嘘よ。お父さん、きっと『今度な』って言ってるわ。健康体の私だったら」
「私もそう思う」
「俺もそう思う」
家族の満場一致により父親は少しすねた。何にせよ、新幹線の座席から外を見る母親はとても嬉しそうだった。
駅からタクシーで、約十分程度の場所に大学病院はあった。紹介状の提示含め、事前に確認していた手続きを済ませ、エレベータで移植外科の外来受付へ行き、長椅子に四人並んで座って名前を呼ばれるのを待った。
地元医師によると、担当の教授は肝移植の世界では全国的に有名な人らしかった。白衣を着た男性が通るたびに、「あの人か?この人か?」と四人はその姿を追った。なかなか自分たちの名前が呼ばれないまま三十分くらいが過ぎたとき、かなり威厳がありそうな医師が現れた。医師は家族の方に向かって歩いてくる。純哉は「さすがに全国レベルともなると違うな」と思った。そして、その医師は、会釈だけして目の前を通り過ぎた。
「あら、あの先生、じゃないのかしら」母がそう言い、「ねぇ」と家族三人が声を合わせて答えた。
「こちらへどうぞ」
次の言葉は誰が発した言葉か分からず、純哉は絵美を見た。絵美の視線は純哉の後ろ側に向けられていた。純哉が振り向くと、そこには眠たそうな目をした医師が立っていた。
「お電話いただいた者です。どうぞ」
それが母親の執刀医となる教授だった。家族一同、少しばかり不安になった。
教授が座り、大きなテーブルを囲んで、母親、父親、絵美、純哉の順に座った。家族の後ろに看護師が一人座った。そして教授がその場にいる全員の顔を見て、ゆっくりと話し始めた。
「これまでの診察に関する資料、見させていただきました」
父親も母親も絵美も純哉も、当たり前のことながら口にはしないものの、揃って裏切られた気がしていた。その裏切りは、良い方向への裏切りだった。母親の症状についての教授の意見は的確で分かりやすく、説得力があった。知識と経験を積んだものしか出すことのできないオーラがその教授にはあった。声のトーン、ヴォリューム、間、それら全てがあまりにも的確で、純哉は自分の頭が良くなったような錯覚を覚えたくらいだ。
「まとめさせていただきますと、お母様の肝臓の状態は、確実に移植手術に値する状態と言えます」
その教授の言葉で、家族の気持ちはきっちりとひとつに揃うこととなった。生体肝移植を受ける。父親が、四人の気持ちを込めて、「よろしくお願いします」と言った。
いよいよだ、純哉はそう思った。しかし、家族の気持ちをひとつにしたはずの、教授自身のリアクションは今ひとつだった。父親の言葉に対し軽く微笑み、軽く会釈はしたものの「分かりました、一緒にがんばりましょう」といった表情ではない。あくまでフラットだ。まだ結論には辿り着いておらず、話は途中だったのだ。家族四人が、自分がこれから発しようとしている言葉に集中する姿勢であることを、実際にひとりずつ目を見ながら確認し、教授は再び話し始めた。
「肝移植の意思が現在おありだ、ということですので、これからインフォームドコンセントを行います」
父親も母親も絵美も「そうか」という顔をした。純哉は分からない。
「今ドナーの候補となられているのはどなたですか?」
「僕です」
純哉初めての発言だった。純哉はどこか大きなコンサートのステージにでも、突然引っ張り上げられたような気持ちになっていた。
「分かりました。移植手術において、臓器を提供する側をドナー、臓器を受け取る側をレシピエントと言います。インフォームドコンセントというのは、その手術含む治療内容や、それに伴う利益やリスクについて、ご自身とご家族に詳細な説明を行うことを指します。移植手術の実施についてはこの説明を聞いていただいた上で、レシピエント、ドナー、双方から同意をいただく必要があります。インフォームドコンセントは手術までに最低二回行われますが、二回目の説明により同意した後でもそれを撤回することは手術直前まで可能です。あくまで、ご家族の方みなさん納得された上で、手術をさせていただくこととなります」
それから教授の長い長い、まるでどこか遠い国に伝わる物語のような説明が始まった。説明の途中で教授は、一人でも理解できていないことを察知すると、それをほぐすように分かりやすく説明してくれた。純哉は説明を受けながら、ずっとドキドキしていた。声のトーンに引き込まれ、まるで逃れることのできない夢の中にでも迷い込んだような気持ちになっていた。これまでもレシピエントに関する知識は積み重ねてきていた。しかし母親の病気をどうするか、という観点で、家族の中で話を進めていたため、ドナーについての知識はそこまで深くなかった。教授の話は、もっぱらドナー寄りの立場に立った観点で進められた。
「ドナーの方というのは健康体の方です。逆に言うと、健康体の方でなければドナーにはなれません。レシピエントの方は、ご自身の病気を治されるための手術ですから、お腹の切開も致しかたないというふうに考えられるでしょう。しかしドナーの方は、はっきり言ってしまうと、元々お腹を切開されるいわれが無いわけです。健康な体を手術によって、わざわざ病気にしてしまうようなものですから」
単に考え方の違いではあるが、純哉はそんなふうに考えたことが無かった。「そうか、自分は健康な体を病気にしようとしているのか」そう考えるとお腹のあたりに、何か重く、ドロリとしたものが溜まっていくような気がした。
「レシピエントの方における手術の成功率や、手術をすることによる合併症、つまり手術自体が原因となって体に及ぼす悪影響については先ほどお話しした通りですが、ドナーの方にも同様のことが言えます」
父親が以前口にした「ドナーの合併症」のことだ。
「手術は、もうご存知かと思いますが、お腹を端から端まで横に切開し、おへその上からミゾオチに向けて真っ直ぐ切開します。Tを逆にしたような形、我々はよくベンツマークと呼ぶのですが。それだけの傷を負うわけですから、人体に影響が無いわけはありません。切って閉じる、という簡単な話ではありません」
話が核心に迫り、純哉の緊張はピークに達しようとしていた。
「日本では一九八九年から二〇〇五年までに一件の死亡例があります」
死亡?純哉は耳を疑った。思わず教授の顔を見つめた。教授は無言のまま「続けますよ、いいですか?」と純哉に尋ね、純哉も無言のまま「はい」と答えた。
「国外においてはこれまでに十五件程度の死亡例があると報告されています。また、死亡には至っておりませんが、手術のための麻酔により、国内で一件下半身麻痺になった例が報告されています」
純哉は反省していた。今日ここに来るまで、僅かではあるが英雄気取りな自分がいた。それが教授の説明を受けている今、そこには生身で震えている、か弱い生物がいるだけだった。自分には関係が無いと思っていた「死」という領域。しかし今、浮かんでは消え、また浮かぶ泡のように純哉の中で「死」という言葉がゆっくりと点滅していた。
純哉は一旦部屋を出てしまいたかったがそういうわけにもいかない。まだ教授は大事なことを説明していて、純哉はそれを全て理解しなければならなかった。自分の選択によって、自分に何が起ころうとしているのか。
教授は次に合併症の発生する確率や種類について説明を続けた。その種類はバリエーションに富んでおり、潰瘍、出血、肺炎、臓器がくっつく癒着、発熱、黄疸など様々なものがあった。そして軽度のものと、重度のものとを合わせると、合併症の発生率は全体の約十五パーセントに及ぶとのことであった。肝臓の大きい側である右葉、小さい側である左葉、それぞれを移植したケースにおける事例件数も提示され、その具体的な件数は純哉にとって決して「少ない」と思える数ではなく、いつの間にか「母の移植手術」であることすら忘れてしまっていた。教授の話を聞きながら、純哉は自分のお腹の至る箇所が、何度も何度も切開されることを想像した。純哉の麻酔はすっかり覚めていて、お腹の中にある臓器は、純哉の見ている前でくっついたり、ねじれたり、腫れあがったりして、血を流しながら純哉に痛みをもたらすのだった。夜の海が思わせるような、深い闇の淵にズルズルと滑り落ちていくような、そんな気持ちから、純哉は逃れることができなくなっていた。
それからの説明は純哉の頭にほとんど入ってこなかった。インフォームドコンセントは、脳死肝移植の可能性、移植される肝臓の大きさ、肝臓のつくり、移植される部位に関する各説明へと続き、最後に改めて生体肝移植によるレシピエントの術後生存率について、グラフを用いた説明が行われた。七十パーセントの生存率が、紙の上で図となり、くっきりと表れていた。
気持ちを下降の螺旋に飲み込まれながらも、そのグラフをぼんやりと眺めているうちに、純哉は母親のことを思った。母親はこんな説明を聞いていて大丈夫なんだろうか?見ると母親は、グラフから視線を外し、窓の外、陽光にきらめく緑の木を見つめていた。それは何処かにひとり取り残されたような、あきらめをも感じさせる表情だった。その表情は純哉に後ろめたさを感じさせた。「母さんを助けなきゃいけないのに、自分のことしか考えられなくなっていた」、それに気づいて、純哉は自分の存在価値を感じることができなくなってしまった。考えようとすればするほど、思考能力は低下し、再び純哉の脳内は混沌となった。「死」との距離感に純哉は怯え続けており、それを表情に出さないようにすることで精いっぱいだった。
「ここに来られるご家族は、ほとんどの方々が『移植をすればいいんだ』と思って来られます。しかしインフォームドコンセントを受けた後、現実を知り、手術を辞められる方々もいらっしゃいます。お母様は手術をしたとしても、それで未来が約束されたことにはなりません。酷なことを申しますが、術後、残念ながらレシピエントさんが亡くなられて、健康体を衰弱させることとなったドナーさんだけが入院しているというケースもあります。手術が成功した場合も生活するうえでの制限があり、感染症と戦っていかなくてはなりません。勿論このままの状態では生き続けることのできる可能性は非常に低いので、手術は確実に有効な手段だとは言えます。また、手術の同意はしたものの、病院にいらっしゃらなかったドナーさんなどもいらっしゃいます。今回息子さんは結婚していらっしゃいませんが、『手術をするなら離婚をする』と奥様に言われ断念された方もいらっしゃいます。今のご家族の状況から考えると、ひどい話かと思われるかもしれませんが、まったくそんなことはありません。立派な選択のひとつです。怖がる、ということは人間の能力のひとつです。例えば息子さんが今お母様に肝臓を移植したとして、もし未来において生まれてきた赤ちゃんが肝臓に疾患を抱えていたとすると、当然のことながら息子さんが肝臓を提供することで赤ちゃんを救うことはできません。よろしいでしょうか。非代償性肝硬変において、肝移植を行うことが全てではありません。痛みを和らげる治療もあります。私どもは可能性についてお話させていただくことしかできません。本日ご説明しました内容に関する資料をお渡ししますので、改めてお読みいただき、ご家族でよくお話され、ご家族にとっての正解を導き出してください」
その説明を最後に、第一回目のインフォームドコンセントは終了した。父親も母親も絵美も深々とお辞儀をして部屋を出た。純哉の混乱は変わらず続いており、軽く会釈しただけのような形になって、教授の顔をまともに見ることすらできなかった。
診察室の外では担当の看護師が父親と話をしていた。
「分からないことや知りたいことなどありましたら、いつでもご連絡ください」
優しそうな看護師が家族を見渡しながらそう言った。純哉は思っていた、「分からないこと?僕は、本当にこのまま移植手術を受けるんでしょうか?」
ちょうど昼食時だったので、四人は病院にあるカフェに入った。
「へぇ、病院のカフェだから覚悟してたのに結構おいしいね」
ピザをかじりながら、ヨーグルトだけ食べてる母親にそう言う絵美を見て、純哉はまだ真似できないと思った。それに、確かに美味しいパンだったが、純哉は今ひとつ味を楽しむ気になれなかった。そんな純哉を見て父親が話しかけた。
「純哉、お前、大丈夫か?」
「え?俺?どうして?大丈夫だよ、何ともない」
「そうか、それならいい」
純哉は心を見透かされたような気がして焦った。母親に伝わってしまわなかったかと心配になったが、母親はレジの上のメニュー表をぼんやりと眺めていた。
「まぁさ、これまでに調べたりして知ってたこともあったけど、やっぱり具体的な説明は違うよね。現実感とかがさ。先生も言ってたけど、家に帰ってさ、おさらいの意味も込めて、またみんなで話そうよ」、そう言う絵美を見て、父親も母親も頷いた。純哉も一応頷いたものの、実際は絵美の明るいトーンの言葉を無責任だと感じながら、もう中身の入っていないコーヒーカップを口に運んでいた。
絵美がお土産に、とシュークリームを買って、家族は病院を後にした。「これは買っておかないと後悔するわ」、そういう絵美はとても嬉しそうだった。でも純哉には、その嬉しそうな表情が少し無理やりなものに思えた。純哉のその思いは当たっていて、絵美も少なからずインフォームドコンセントにより混乱していた。「やはり自分がやるべきなんじゃないだろうか」そんなことを感じていたのだった。
帰りの新幹線を待つ間、純哉はひとり喫煙所で煙草を吸っていた。病院でもらったインフォームドコンセントの資料を読んでみようとしたが、ちっとも頭に入ってこない。「あんな細かい説明なんて受けなければ、ドナーになることなんて何も問題無かったのに」、純哉の中の混乱が少し収まり、その隙間に不満が入り込んできていた。「母さんにとってもそうだ、ただ怖くなっただけじゃないか。あんな説明受けたって、少しも体はよくならないし、せっかく手術を受ける気になったのに台無しにしてしまうかもしれないよ」。考えれば考えるほど腹が立ってきて、「母をどのようにして救うか」という論点が「病院側の何処が悪いか」という論点にすりかわっていた。そしてそれは、心の奥深くでは気づいていたものの、純哉自身が手術から逃げようとしていることの表れに他ならなかった。
「純哉、もうすぐ電車来るよ」
「あぁ、これ吸ったら行くよ」
小さいころだったら姉にすがって泣くこともできたが、今じゃそんなことはできない。大人になんてなるもんじゃないな、純哉は姉の背中を見ながらそんなことを思っていた。