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第10章

 改めて家族が揃ったことを母親はとても喜んだ。こんな日くらいと、純哉のために手料理をふるまった。純哉の大好きな唐揚げとポテトサラダが山ほどテーブルに運ばれた。母親が酢の物しか食べていないのを見て純哉は食べるのをためらいそうになったが、「いっぱい食べてね」という母親の言葉を受け、感謝しつつ、そのほとんどをたいらげた。皿も洗う、と母親は台所に立ったが、純哉は、自分が洗う、と言って母親を台所から連れ戻した。そのとき、久しぶりに触れた母親の感触は、明らかに純哉が記憶しているものと違い、その姿も、たった二週間の間にさらに衰弱してしまったように思えた。

 純哉が皿を洗い終わると絵美がコーヒーを入れてくれていた。四人揃ったところで父親が「母さんの病気のこと、今みんなで話さないか」と言った。絵美も母親も純哉も頷いた。それは極めて自然な流れで、元からそうすることが決められていたことのようだった。「こうして俺がこっちにいて、四人揃うことがずっと大事だったんだ」純哉はそう感じた。父親は、静かに話し始めた。

「これまで、肝硬変のことをこうやって、一緒に話す機会は無かったけど、純哉がこうして東京から帰ってきてくれたのを機に、家族みんなの意見として今後は話を進めていきたいと思っている。母さん」

「はい」

「母さんは余命の話が出ていることは知ってるよね」

 絵美も純哉も固まった。タブーとされていた『余命』という言葉を突然父が口にするとは予想だにしていなかった。でも皆の心配をよそに、母親は平然として答えた。

「はい、知っていますよ。自分の体のことだし、それに散々インターネットで見てきたからね。具体的にどれくらいっていうのは分からないけど、一年が五十パーセントくらいじゃない?ね?」

 そう顔を見て言われた絵美は下を向いてしまった。純哉も勿論何も口にできず下を向いた。そんな子供たちをまったく気にせずに父親は続けた。

「そうだよな。母さん、俺なんかよりずっと頭いいしな。それでだ、頭の悪い父親なりに可能性の話をするから母さんは口を挟まないで、まずは全部聞いてくれるか?」

母親はコクリと頷いた。

「うん。まず、第一に俺は母さんを助けたい。母さんとまだまだずっと一緒にいたい。」

 そう言われてさっきまで平然としていた母親は少し耳を赤くしてうつむいた。子供たちは普段そんなことを言わない父にさらに驚くばかりで、やはり何も言えなかった。

「母さんの肝臓はもう固まりかけている。明日、病院で診てもらってもそれが回復しているってことは無い。それが非代償性肝硬変というものだ。このままだと五年後、母さんがここに座っている確率は限りなく“0”に近い。肝臓は沈黙の臓器って言われるほど我慢強い。そんなやつが悲鳴をあげて体のいたる箇所に影響が及んでいるってことは、それだけ危険な状態にあるっていうことだ。だいたい腹水にしたって苦しくてしょうがないだろ、な、母さん」

 母親はまた何も言わず頷いた。純哉はそんな母親を改めて見つめた。ふと、その体の中で起こっていることが自分に起こったような気がして震えがきた。それくらい症状は表面化してきている。

「母さんの体に出ているいくつもの悪い症状を何とかするには、その原因となっている肝臓を交換するしかない。つまり生体肝移植だ」

 母親が何か口にしようとしたが、父親に見つめられ何も言わなかった。

「肝臓の出所は家族じゃなきゃいけない。何親等とか定めがあるけど、ここにいない親戚は現実的じゃない。そして血液型が同じであることが望ましい。つまり、絵美か純哉か、だ。今は技術が発達していて、実際他の血液型でも可能性はあるそうだ。しかし、成功率や手術の手間を考えると同じ血液型が理想的なのは否めない」

 純哉はまさかこれほど家庭内で緊張することがあるとは思ったことも無かった。自分の胸の鼓動が大きくなっている気がして、家族に気づかれないか心配だった。父親はそんな純哉の気持ちを感じ取り、少し間をおいて、それからゆっくりと続けた。

「そして、この手術は約束されたものじゃない、ということだ。家族のものとはいえ、人の臓器が体の中に入ってくると、体の免疫機能がそいつを攻撃するんだ。だから放っておくとせっかく移植した肝臓は移植先で異物として扱われ壊されてしまう。それを防ぐために免疫を抑える薬を使う。そうすれば肝臓は攻撃されない。しかし反面、免疫を抑えるわけだからウィルスに弱くなる。外からのウィルスもそうだけど、健康体の人間だったら何ともない、通常体内にいるウィルスにもやられてしまう。つまり感染症だ。その他にも母さんの弱り具合を見れば分かると思うけど手術時の血だって止まりにくい。そんないろんな要因で、患者は手術をすることで三割の人が亡くなる。手術をしなければ、もしかしたら二年後もいたかもしれない命を失ってしまうことになる。」

 父親はそこまで話すと、まるでずっと息を止めていたかのように、ひとつ大きく呼吸した。額には汗が浮かび、そして目は充血していた。母親が席を立ちタオルを持ってきて父親の汗を拭くと、父親は唇を噛みしめ涙をこらえた。一番辛いはずの母親がまるで家族を慰めているような、そんな光景だった。母親は父親の肩に手を置きながら話し始めた。

「ありがとうね、お父さん。今お父さんがした話、全部知ってたから大丈夫よ。前にお父さんと絵美ちゃんには言ったけど、お母さんの気持ちは変わってないの。たしかに腹水辛いし、塩分取れない食事は味気ないし、治ればいいな、とは思うけど、誰かの体、それも子供の体傷つけて生きるのは嫌なの。それに母さん、なんだかんだ言って五年くらい生きる気するのよ、ね、だからこの話は」

「じゃあ俺の肝臓を移植しよう」

「お父さん」

「血液型は違うけど、きっとうまくいく」

「だめよ、父さんだって腎臓悪くして健康体なわけじゃないのよ。もう若くないし、肝臓を切り取っていいわけないじゃない。ドナーの合併症のことだって分かってるでしょ?」

 ドナーの合併症?純哉にはその言葉の意味が良く分からなかった。でも重い響きがする言葉だと思った。そんなとき意を決したように絵美が口を開いた。

「母さん、例えばよ、例えば移植手術をするとして、ドナーが誰かとかそういうことは考えないでおいてね。母さんは何もしなければ二年くらい生きるの。でも五年生きることは無いの。可能性とかじゃなくて、無いの。移植手術をすれば五年生きることができるかもしれないの。でもその手術で亡くなってしまうかもしれないの。母さん、さっきも言ったけど、ドナーのことを考えないとして、母さんは手術を受ける?それとも受けない?」

 究極の問題だった。そこには誰かが用意してくれる答は無く、あくまで自分が選んだものを答とするしかない問題。そしてその責任の所在は選ぶ人間自身にある。

「分かんない。母さんもちょっと考えたことあるんだけど、でも分かんない。やっぱり怖いわ。せっかく純哉も帰ってきたのに、手術のせいでもう二度と会えなくなると思うと、このままでいいって思うの。少なくとも一年くらいは一緒にいられるわけだから」

「そう」

 絵美と父親はこれまでに何度も通った地点にまた戻ってしまった。そして言葉を失った。純哉は、フル回転で考えていた。自分が帰ってきた意味を探しながら、何がベストなのか、自分に何ができるのか。

「家族がみんな揃うと、嬉しいけど怖くなるね」

 母親がそう言ったとき、いつしか純哉は立ち上がり、そして半ば無意識に話し始めた。

「母さん。東京行くとき手紙くれただろ?あれね、うれしかったよ。支えになった。俺、本当は目的も何も無かった。ずっと何も無かった。こうしたい、って思うことも無かった。でも今はあるよ。ねぇ、母さん、俺の肝臓あげるよ。母さんは俺を傷つけるのが嫌だって言うかもしれないけど、俺はもし、ここで肝臓をあげずに母さんにいなくなられたら一生後悔すると思う。自分の存在価値も分からなくなると思う。三十パーセントの失敗があるんじゃなくて、七十パーセントの成功があるんだよ。俺も絵美姉ちゃんもこれから結婚してさ、子供が生まれてさ、そいつが少しずつ成長していくんだよ。それを見ていてもらうにはさ、母さんには五年後もここにいてもらわなきゃいけないんだよ。母さん、俺はさ、俺は母さんに肝臓をあげたいんだ。あげなきゃ俺、また何も無い自分に戻ってしまうんだ。そんなの、俺は嫌だ」

 純哉が話し終わっても絵美は純哉の顔を見つめ続けていた。父親は立ち上がり母親の肩に手を置いた。母親は父親を振り返り、そして純哉に視線を戻し、表情を変えぬまま静かに涙を流した。大粒の涙が頬を伝い、そして自分の顔を見つめ続ける息子を見つめ返していた。

「純哉」

「なに?」

 母親は目を閉じ、ゆっくり深呼吸してから言った。

「純哉、どうぞよろしくお願いします」

 その言葉がきっかけとなり、絵美は声を上げて泣き出した。今まで耐えていたものが、全て決壊したような涙だった。絵美は長い時間泣き止むことなく、その泣き声は、家族みんなに蓄積していた疲労をゆったりと解きほぐしていくようだった。純哉はその涙を見て、自分を救ってくれたどしゃぶりの雨のことを思い出していた。

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