[29]引きこもり魔女と外に出るⅠ
暖かな光が差し込む。
体を包む柔らかな感触にとても安心する。
「んん……」
俺は目を覚ます。
見慣れた天井、見慣れた部屋、暖かな布団。
ここは俺が使っている寝室だ。アトリエの二階にある俺のパーソナルスペース。
「あれ、朝か……」
いつの間に眠ってしまっていたようだ。
……記憶が曖昧だ。確か、エニグマを追って屋根裏部屋に行った気がする。
「思い出せない……」
イリスなら何か知っているだろうか。
ベットから起き上がって廊下に出る。イリスの寝室は隣だ。
コンッコンッコンッ
「反応が無いな……」
イリスのことだ。いつものように深い夢の中にいるか、実験室で寝落ちしているかだ。
扉の奥からは気配を感じない。これならおそらく実験室にいるのだろう。
「わざわざ起こす必要はないか……」
俺はリビングを目指して階段を下りる。
まずは顔を洗って、朝飯の用意をして、掃除の準備を……。
「アイト! まさかアイトがお寝坊さんなんて!」
「え……?」
俺の目の前には衝撃の光景が広がっている。
なんと、あのイリスが俺の寝起きに立ち会っているのだ。
いや、流石にこれは夢じゃないか? 昨日のことを思い出せないくらいだ、だいぶ疲れているのだろう。
「アイトくんってもしかして、楽しみなことがある前日は眠れないタイプなん?」
ふと、俺の隣から聞き慣れた関西訛りが聞こえてきた。
ファラだ。またいるのか。あれほど節約していると言ったのに懲りないやつだ。
しかし、楽しみなことって何だ? 今日は何か予定でもあっただろうか。
「アイト、早く顔を洗って準備をしろ。でなければ置いていくぞ」
今度はニアが浴室の扉を開けて現れた。
準備? やはり、今日は何かあるのだろうか。
「もしかしてアイト、今日の予定を忘れたの? 昨日あんなに言ったのに?」
「え……?」
昨日のこと? ……ダメだ、思い出せない。
俺はエニグマを探して屋根裏部屋に行った、そこで黒いウネウネを見つけたんだ。
そうだ、エニグマはどこに行った?
「はよ準備せんかい! ホンマに置いてくで!」
「待て、さっきから何を言ってるんだ? どこに行くって?」
「そんなもの決まっている」
「そう、あたしたち全員で……」
三人はお互いを見合って息を合わせる。
「街に行くの!!」
「……はい?」
俺は急かされながら身支度を整える。一体何が起きているんだ?
訳もわからないままに玄関まで行くと、イリスがエニグマを抱えて待っていた。
「イリス、今日って何の日なんだ? その、寝ぼけて記憶が飛んだみたいでさ……」
「もう、アイトってば昨日から変だよ? しっかりしてよね」
俺はイリスに今日の予定を聞いた。
どうやら、今日はファラたちが街に帰る日らしい。
街にはファラの上司・商業組合長が来ているらしく、イリスの支援の幅を広げるためにこれから足を運んで交渉に向かうらしい。
そんなことになっていたとは、全く思い出せない。
「おーい! 待たせたなぁ!」
ファラが馬車に乗って遠くから手を振る。
馬車は二頭の馬が引く四輪で屋根の付いた幌馬車だ。荷台にはいくつか食材や日用品が積まれていて、基本的には商品を運ぶためのに使われているのだろう。
ニアが手綱を握って運転席に着いていて、その横にファラが座る。
「おぉー! ここすごいふかふかだよ!」
「えにゅ〜!」
イリスはエニグマを抱えて真っ先に荷台へ飛び乗ると、大はしゃぎしながら座席を堪能している。
「特別なお客さんを運ぶんや、これくらいサービスせんとな!」
どうやら、ふかふかの座席はサービスのようだ。ありがたく利用させてもらおう。
馬車に乗るなんて初めてだが、荷台は広々としていてゆったりとできそうだ。
「ほな、出発するで!」
ファラの合図で嘶きと共に馬車が動き出す。
車よりも揺れは大きいが、乗り物が久々すぎて感動する。なんだか懐かしい気持ちだ。
「け、結構揺れるんだね……! しっかり掴まらなきゃ……!」
イリスは少し怯えた様子だ。
乗り物に乗ったことが無いのだろうか。
まぁ、日頃から引きこもっているしこうして外に出ることすら久々だろう。いい経験になったな。
しばらく馬車が走っていると、イリスが具合を悪そうにした。
「うぅ……、なんだか気持ち悪いかも……」
どうやら乗り物酔いするタイプのようだ、少し休憩したほうがいいな。
「ほな、ここで少し休憩しよか」
広々とした草原で休憩をすることになった。
なだらかな丘の一面を青々とした草が生い茂り、柔らかく吹きつける風が心地いい。まさに広大な自然だ。
村の外に出たことは無かった。こうして考えてみると俺もイリス同様に引きこもりと大差ない。
「自然を見るのは初めてか?」
ニアが隣にやってきた。
「ああ、ここまで雄大な景色は初めてだ」
「元の世界でもか?」
「……ああ、俺がいた世界ではあまり見かけなかった。そこは喧騒の止まない街、明かりが消えることのない街だった」
「……すまない、少し立ち入りすぎたようだな」
「え?」
どうして謝ったんだ? そんなに俺はひどい顔をしていたのだろうか。
……元の世界か、帰りたいと思わないわけではない。
だが、俺もイリスと同じで、ただ離れたくないのかもしれない。
「アイトくん〜! ニアちゃん〜! おやつ食べよや〜!」
遠くからファラの声が聞こえた。
声の方を見やると、馬車の側でイリスとおやつを分け合っているようだ。
「おう! 今行く──」
「伏せろ!」
瞬間、ニアが俺を突き飛ばした。
俺は背中から地面に倒れて尻餅をつく。
「ど、どうした!?」
「警戒しろ、魔物の気配だ」
魔物だって!? でも、周りには何も……。
「そこだッ!」
ニアは目にも止まらぬ速さで拳を振り抜き、俺の顔の横を掠めた。
視線だけを動かしてニアの拳を追うと、そこには緑色のドロドロとしたスライム状の魔物が姿を現していた。
スライムはニアの拳に絡みつき、うねうねと動きながら腕全体を覆うように体の中心を目指して侵蝕していく。
「む……」
ニアは俺の側から離れた。
スライムは既にニアの腕を包み、上半身にまで達している。明らかに肥大化していて、このままではニア自身がスライムに覆われてしまいそうだ。
「心配するな、離れていろ」
ニヤリとしたニアは右手を掲げる。
「盾鉄の誓ッ!」
ニアの右手に稲妻が当たる。
雷鳴と共に生じた衝撃波で俺は後方に吹き飛ばされた。
ニアの全身はバチバチと雷光が迸り、右手には巨大な盾が現れている。
体を包んでいたスライムは跡形もなく飛散していて、所々に液状の粒が残されていた。
「ふむ、呆気ないな」
ニアは息を吐いて盾を地面に落とす。
その衝撃で地鳴りを起こし、液状の粒もぽたぽたと落下する。
「アイト、これを舐めてみろ」
「えぇ、これって……」
ニアが差し出したのは液状の粒。
さっきまでニアを攻撃していたスライムの残骸だ。
見る分には透明なゼリーのようで害はなさそうだ。
しかし、やはりそれがスライムであることを知ってしまった以上、抵抗がある。
「うん、やはりいけるな」
ニアは俺を他所に粒を口に運んでいる。
俺からするとゲテモノ食品以外の何者でもない。
仕方なく、目を瞑って勢いよく口に運んだ。
「……ん!? 意外とイケる……!」
「ふ、そうだろう」
不思議な感触だ。
口に入れた瞬間、パチパチとした刺激があってすぐに溶けて無くなってしまう。特に味は無いが、何度も口に運んでしまうほど癖になる。
「あまり食べすぎるなよ、腹をこわす」
「え、それを先に言ってくれよ……」
急に不安になってきた。
しかし、ニアのおかげでさっきまでの緊張が嘘のようだ。
「あー! アイトたちだけ違うの食べてるー!」
イリスとファラが騒ぎに駆けつけたようだ。
ニアの体に付いた粒を片っ端から舐めようとするイリスを制止してその場を収める。
本当に愉快な仲間たちだ。
このまま街に向かう、そして商業組合長に会ってイリスの支援を交渉するんだ。
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