空の巣
前書きのためのスペース
<音芽アリアの配信はこの日はお休みらしいです>
「...なるほど。しかし、ご無事で何よりです」
相沢はイスに深く靠れ、近くの自動販売機で買った缶コーヒーを軽くすする。お昼時間を終え3限の授業が始まった大学のカフェテラスはやや閑散とし、静かな空気感が保たれていた。真理子は肩をすぼめ小さく頷く。
相沢とのバイトの数日後、話があると電話をもらい真理子は相沢の通う大学へと招かれていた。東京の新宿区にある理工キャンパスで、大きな設備が多々あることから学生からは「工場」と呼ばれている。メカメカしいのとは対照的に暖色系ライトが使用された落ち着いた学習エリアもあり、そこのカフェテラスの一角で相沢と真理子は相まみえている。
真理子はバイトの後に弘と何を話したのか、そして何があったのかというところを下手くそな言葉で説明したが、相沢は真剣なまなざしで聞いていた。
「実は今日会うまで紹介しようか迷っていたんですが、尾田さんの話を聞いてちょっと紹介してもいいんじゃないかなと…」
相沢は自分の手提げカバンの中をごそごそと探り出した。カバンの中の整理がついていないせいかテーブルの上に参考書や端の折れたレポート用紙などを置き、あったあったと1枚のクリアファイルを取り出す。中にはフライヤーのようなものが一枚入っているみたいだった。真理子はその様子を見てクスッと笑う。
「ふふ、ごめんなさいね。整理整頓が弘とちょっと似ているとことがあって...」
「理系の学生からしたら整理整頓は敵なんですよ」
「いえいえ、相沢君も学生だものね」
「でも、正直なところ課題レポートを少し溜めこんでて学生の本業を最近サボり気味というか...。あ、尾田さんの件は全く関係ないのでご安心くださいね」
真理子は いいえそんなことは無い と首を振り、相沢はクリアファイルから例のフライヤーを取り出して話題を元に戻した。
「紹介したいのがこの『引きニート転生化計画』です」
「何でしょう?」
「引きニートを転生させて世の中に貢献できるような素養のある人間へと更生を図る計画があるみたいです」
「ごめんなさい、私には何なのか...言葉が難しいというか...」
「そうですよね...少しかみ砕いて解説しましょう。
そもそも弘さんは『引きニート』つまり『引きこもりのニート』という風に一般的に呼ばれます。ニートというのは”Not in Education, Employment or Training”、日本語で就学・就労・職業訓練に従事していない若者をさします。弘さんは失礼ながら若者と言える年代ではないため中高年のニートということになります。」
「全然全然、弘は46歳だからね。」
「それで転生というのは生まれ変わることや生活態度や環境を一変させることを指すそうです。因みにこのフライヤーでは『てんせい』とルビがふってありますが本来は『てんしょう』と読むのが良いそうですね。どちらの意味でも通じるので、特段気にすることは無いと思いますが...。」
「アリアちゃんの配信でも"転生"ってお話してたものだったかしら?意味が分からなくて全然覚えてないけど...」
「あれはまたファンタジーな世界のお話ですね。今回はその話とは関係ないですが...
まとめると引きこもりである労働に携わっていない人、携わる予定のない人にもう一度チャンスを与えて更生させようという取り組みです」
「分かるような分からないような...ファァ」
真理子は外にあるキッチンカーの方を向いて大きなあくびをした。女の子2人組がクレープを購入している様子があった。
「あそこのクレープ美味しいんですよ。カスタードチョコバナナにアイストッピングするのが僕のお勧めです」
相沢もガラス越しに見えるキッチンカーを見る。クレープを受け取った女の子たちはスマホを取り出し自撮りを行う。
「えぇ…、ものすごく甘ったるくて重そうな感じだわ。いちごクリームとかで十分」
「まぁ真理子さんが僕のお勧め食べてたらちょっとびっくりです。お話終わったら一緒に食べませんか?僕の奢りです」
「いや、相沢君にお金を使わせることはしたくないわ。でも、ありがとうね」
「そうですか」
相沢はやや残念そうな表情を浮かべフライヤーに視線を戻した。真理子も視線を相沢の方へ戻す。
「この計画ですが、実は主導者とコンタクトが取れてある程度内容を聞いたんで難しい箇所は端折って説明します。まずは弘さんを『引きニート転生化計画』の方で保護します。」
「保護する?!!!」
真理子は大きな声をあげてドンッと立ち上がった。それは親としての怒りを表したようなものであった。相沢も急に大きな声を出され動揺した。しかししばらくして我に戻ったのか椅子に座り、またキッチンカーの方向を見る。
「あ…ごめんなさい。取り乱してしまって」
「こちらこそ、実際の内容とはいえ伝え方に問題がありましたね」
「い、いいえ...。ただ、保護...ね。いえ、弘が知らない誰かに連れていかれて空になった部屋を見た時に私はどういう感情になるのか想像したら怖くなって...」
「そうですよね...すみません。今回の話はやっぱり聞かなかったことに...」
相沢は後悔の念を浮かべフライヤーを片付けようとする。
「待ってよ!しっかり、聞きたいわ」
真理子は突き刺すような感じで話した。親としての怒りの感情が含まれていそうだが、先ほどに感じた者とはまた異なっているようだった。
「...本当に大丈夫なんですか?」
「ええ」
「無理強いはしません。尾田さんがやっぱり無理というのなら別案を考えます」
「分かったわ」
「ありがとうございます。では、続きです。と言っても残りは”転生”で終わりですが、転生がうまくいけば弘さんは生まれ変わって尾田さんの元に戻ってきます。転生がうまくいかなくても同様に尾田さんの元に戻ってくるとのことなに変わりはないので、弘さんが完全にいなくなってしまうことは無いです」
「...それは本当にできるものなの?」
「え」
「転生って本当にできてうまくいくようなものなの?」
「そこらへんは...主導者に聞きましたが、返答をいただけませんでした...やはり...」
「もういいです」
真理子は相沢にはっきりと返答した。それは全てを悟り覚悟したような様子であった。相沢は駄目そうだなと思い、むしろこんな惨くもある提案をした自分が悪いとしてごめんなさい!と言おうとした先、真理子が口走る。
「弘をこの計画で転生してください」
「え」
予想外の発言に相沢はフリーズしてしまった。理解が追い付かなかった。あれほどにまで我が子を心配して心配して息子ファーストで考えていたのに、急に息子を手放すことになるかもしれない計画に送り込むことを了承したのだ。相沢自身、計画の安全性について深くは理解しておらずちゃんとした説明ができない中でむず痒くあった。それにもかかわらずである。
「尾田さん、本当ですか...」
「ここでずっと過保護しているのは良くないってずっと思っていた。でも、私は弘に厳しくできない。本当はずっとこんな機会を待っていたのかもしれないね。」
「本当に本当にですか?」
「相沢君が提案してきたんでしょ?自信持ってよ。それに転生した弘と再会したらどういうお話ができるのか楽しみだわ」
真理子は目を輝かせていた。奥に涙を揺らしていたのかもしれない。しかし、70歳にそろそろなりそうなおばさんは本当に久しぶりに期待を抱いたのだ。相沢はその様子を見てふぅと息をつき、椅子に再度靠れつつ真理子に話す。
「じゃあ、弘さんを外に出す手立てを考えましょうか」
弘、転生へ
(ようやく主人公・弘中心の物語になります)