第1話 不幸のはじまり
雲1つ無い空から温かい日差しがさんさんと降り注いでいるが、城内の奥まではさすがに届かないようだ。薄暗い城の奥にある妃達が暮らす区画の部屋では今日も王太子の婚約者へ「教育」が行われている。
このリュシアン王国は小国ながらも歴史のある国だ。海は無く周囲を山々で囲まれている立地だが豊富な動植物が暮らす地帯で気候はどちらかというと寒冷寄りである。
隣国には女帝陛下が統治するアーネスト帝国をはじめとした強大な国家に騎馬戦を得意とするフミール族もいるので治安は正直良くはない。特にフミール族とは長年戦争状態が続いているくらいだ。
そんなリュシアン王国の王族男子は代々4大公爵家と呼ばれる名家の子女のみ娶るという習わしがある。そして4大公爵家の中の1つであるクロード家の長女であるこの私……ジャンヌ・クロードは貴族学校を卒業する半年前に王太子であるレーン様と婚約した。それからはすぐに宮廷であるこの山の頂上にある城に籠り、卒業パーティーにも出してもらえないどころか外出自体させてもらえぬままに将来の妃教育を受ける日々を送っているのだが、これがとても鬱屈したものなのだ。
刺繍に舞踏会に領地経営に数カ国分の外国語などは勿論、剣術や馬術といった武術も教わる。体型だって厳格な食事制限を行い華奢な状態をキープし続けなければならない。
領地経営は10歳の頃から携わってきた仕事だし乗馬も領地の視察で培ってきた技術の1つではあるので、別段ガラテナ王妃から教えてもらう必要性はほぼ全く感じないのだが。
「ジャンヌさん、この刺繍まだ粗く見えるわね?」
「……っ申し訳ありません、王妃様」
今、城内にあるこの部屋の中、私の目の前に座っている茶髪を束ねて碧眼を鋭くさせて濃い緑色の首元までしまった長袖のドレスを着た女性はレーン様の母親であるガラテナ王妃。数年前、夫である国王陛下が病に倒れ半身まひとなり、公務が出来なくなってからは彼女がこのリュシアン王国の実質的な権力者となっている。もちろん将来の妃教育もガラテナ王妃の主導の元行われている。
「もっときつく細かくできないの?! 王妃になるなら刺繍は出来て当たり前よ?!」
「はい、精進いたします!」
「ほんとあなた公爵家の人間? 貴族学校の校長が公爵家の娘の中で一番優秀だからって言うからあなたをレーンの婚約者として認めてあげたのに……! 使えない女だこと!」
使えない女。最初聞いた時はショックを受けて辛かったけど何度も言われてきたらもう慣れてしまった。
「使えない女で申し訳ありません」
「何? あなた開き直るつもり?」
バシッ! とガラテナ王妃の掌が私の右頬を思いっきり叩いた。右頬を中心に全身へとビリビリした衝撃が広がっていく。
開き直るも何も、ガラテナ王妃の言った事に同意しただけなのだが。
それにしても教育は全てガラテナ王妃の機嫌ひとつで行われているようなものだ。この刺繍だってこれ以上細かくは出来ないくらいに繊細な大輪のバラの模様に王家の紋様を刺繍している。ちなみに妃になるには王家の紋様を刺繍出来ないと話にならないそうなのだが、王家の紋様は複雑な2体の竜と中央の城と盾と言う構図なので刺繍の難易度は非常に高い。
「王妃様。また砦が攻められているようです!」
部屋に銀色の鎧で武装した兵士が1人慌てた様子で入室してきた。大方フミール族からの襲撃を受けたのだろう。
ギリリと唇を噛み締めたガラテナ王妃はすぐさま兵士に向き直った。
「迎え撃てと伝えよ!」
「かしこまりました!」
兵士はガチャガチャと鎧から発せられる金属音をうるさく鳴らしながらバタバタと走っていった。はぁ。とガラテナ王妃の大きなため息がこだまする。
「刺繍を続けなさい」
「はい、王妃様」
しかしその後も兵士が慌ただしくガラテナ王妃に命令を仰ぎに訪れるのでついにはガラテナ王妃の不機嫌が最高潮に達してしまう。
「ジャンヌさん、もういいわ。部屋に戻りなさい! 出来損ないばっかりで気が狂うわ!」
「……かしこまりました」
(今日は駄目だ。早く部屋に戻ろう)
でも将来の妃教育はガラテナ王妃の機嫌次第でどうにもなる。どうせ後で呼ばれてまた勉強させられるんだなと思うと足取りは重くなっていった。
(ほんと、嫌になる)
私が廊下を歩く途中、狩猟用の服装をしたレーン様とすれ違う。フミール族からの攻めを受けている間も呑気に狩猟かと心の中で愚痴を漏らした。
「お帰りなさいませ、王太子様」
「ああ、いたんだ」
レーン様はそれだけ言って振り返りもせず配下を引き連れて歩いていく。
(はあ、こんな人と婚約したのか……)
このように彼は私の事など眼中にない。こうしてまだ話しかけてくれるのはまだましな方だ。機嫌が悪い時は徹底的に無視される。やっぱり親が親なら子も子という事なのだろう。
でもこれは周りの人達が決めた婚約だし、公爵家の人間である以上王家へと嫁ぐのは名誉な事であるのは十分理解できる。でもこれは正直生贄も同然じゃないかという気持ちもある。
自室に戻りソファに腰掛けながら窓の向こうを眺める。眼下には広々とした景色が広がっているのが見えた。
「もうやめたい。帰りたい……でもどうせ怒られるんだろうな」
両親は私には厳しかった。いずれ王家へと嫁ぐ者として幼い頃から令嬢として未来の妃として厳しく私に接してきたし本来なら父親がするはずの領地経営の仕事だってこなしてきた。仕事をしてみてはじめて父親の無能さを感じた時には吐きそうになったくらい。
テーブルマナーをちょっと間違えただけでも食事は抜きにされたし年頃の友人とお茶会するもはばかられた。
でも妹のメイリアは逆に甘やかしていて、彼女の欲しいものはなんだって与えていた。そのせいかメイリアはわがままで欲しがりな令嬢に育った。
「ほんとお姉様って駄目よねえ! あはははは!」
無能両親には厳しくされ、妹のメイリアからはバカにされる日々。屋敷に戻っても私の居場所はない。だから城から出ても私の居場所なんてない。
「……っ!」
涙が出てきた。両手で拭っても拭っても渇く事はない。すると部屋をコンコンとノックする音が聞こえて来る。
必死に顔を手で拭きどうぞ。と答えるとメイドがメイリアが私に会いたいと言っているがどうしますか? と告げる。
(なんでこのタイミングでメイリアが?)
屋敷からこの城に来て半年が経過するが、それまでメイリア含め家族とは一度も会っていない。理由はガラテナ王妃が許可を出していないからだ。でもなぜこんなタイミングでメイリアが? ガラテナ王妃が許可を出したというのだろうか?
「ガラテナ王妃からの許可は出ているんですか?」
「はい、許可は下りています。今すぐにお会いしなさいと」
今すぐにお会いしなさいと言う言葉にちょっと不自然さは感じるが、ガラテナ王妃がそう言うのなら会って良いのだろう。
「わかりました。通してください」
部屋の扉がぎい……と開かれるとそこにはピンク色の派手なドレスを着たメイリアとメイドが2人姿を見せた。
「あらぁお姉様ぁ。お久しぶりねえ? 華奢なのは良い事だけど地味さはこの城に来てもまったく変わらないのね」
「……何しに来たの。何も用がないなら帰って」
(ん?)
メイリアのお腹が不自然なくらいに膨れている。正面からはそこまで目立たないが、横や斜めからだとややふくらみが目立つ。
(なんか嫌な予感がする……)
「あらぁ。何も用が無いだなんて失礼だわ! そうしていつも私を虐めるんだからぁ!」
(うわ出た被害妄想)
被害妄想はメイリアの常とう手段である。両親はいっつもメイリアの被害妄想を信じて時には私を鞭で叩いて折檻する事もあった。貴族学校では真実を見抜いて彼女を無視したり私の味方になってくれたりする学友もいたのだけれど。
「話をしなさい。そのお腹は何かしら?」
「ふふ、私レーン様とのお子を身ごもっているの。だから私に王太子妃の座をくれない?」