癒やし、その5 ファンタジー世界
「す、すごいー!」
田中は世界を渡って見て思わず漏れた言葉。周囲の注目を集める。慌てて自分の口を抑えた。ファンタジー世界に田中はやってきていた。突然田中が現れたこと自体には周りの反応は特になかった。
まるで周囲に溶け込むように、そう、最初から居たというように田中は世界に現れた。何と呼ばれている世界なのだろうかと気になりながらも周囲を見渡した。田中のいた日本では見かけるのことのない果物や食べ物。
そんな露店の立ち並ぶ場所をおっかなびっくりではあるがウキウキもして、歩いて抜けていくと、ちゃんとした店構えを持った場所に到達した。
武器を示すような剣マークの看板。鎧マークの看板。薬瓶のようなマークの看板もある。人が鎖に繋がれたマークの看板もあった。
「奴隷が普通にいる世界なのか?」
日本で住んでいた田中には想像できない世界だった。田中は現在魔法が使える。だから今のこの世界が夢のようではあったけど、夢ではないとかろうじて思えた。
無趣味の田中だがファンタジー世界がどういうものかはなんとなく想像がつく。たぶん小学生の頃にしたゲームと似た世界なのだ。だとすると魔王とか勇者とかもいるのだろうか。エルフはまわりを見渡すと普通にいた。
そんなに頻繁にいるわけでもなさそうだが、100人に1人ぐらいはエルフの姿が見えた。田中がしていたゲームでは見かけなかった犬が人間になったみたいな人もいる。話しかけたい。それに店でどんなものを売っているのか確かめたい衝動もある。
だが、残念ながらこの世界のお金を持ってない。露店のところで見かけた通貨は、昔の硬貨のようなもので、それを手に入れる方法もわからない。
スマホを取り出して時計を確かめてみた。22時45分。田中の会社の始業時間は9時だった。通勤時間は1時間半ほどだから、田中はいつも余裕を持って6時ぐらいに起きる。
「7時間ぐらいあるよな?」
ここの10日が1日になるように設定した。
「しかし、よく考えたらすごいことをサラッとやった気がするんだが」
田中にもなぜあんなことが出来たのかよくわからない。難しく考えずにシンプルにできると思ったのだ。ともかくやれたものは仕方がない。10倍の時間あるということだから70時間。
70時間後までこの世界に居るかどうかはわからない。
しかし、このままスマホの設定を変えずに、70時間後にアラームがなるように設定しておいた。電源は一応、予備バッテリーを持ってきているし、そもそも満タンにしてあるので、使わなければ70時間ぐらいは持つだろう。
「この世界の一日が何時間なのかも知りたいな」
「なあ、おっさん、それなんだよ」
田中は立ち止まってスマホをいじっていた。そうすると興味深そうにこちらを見ている人間がいた。その横には耳の長い人と、獣人のような人も居たが、声をかけてきたのは人間の若い女だった。
女としては平均的な身長で額に傷がある。日本だと額に傷があるのはかなり嫌なことだろうが、女はそれを気にした様子もなかった。ちょっとワイルドさもある筋肉質。青い甲冑を着ていて、おへそが出ていた。
田中が昔していたゲームの女戦士のような姿だった。
「え、あ……」
どう答えるべきか、田中は迷った。この世界はスマホがあるような機械文明ではどう考えてもなさそうだ。だとすれば、こんなものを見せると非常に奇妙に見られる。
「ひょっとして【異界の迷い物】か?」
「へ?」
「キナ。知りもしない人間にいきなり声をかけて、あまつさえ、いろいろ聞くのは失礼ですよ」
「あの、私は……」
田中は一瞬たじろいだが、24年間営業職で生きてきたのは伊達ではない。人との挨拶の仕方がわからないわけでもなかった。
「田中というものです。失礼ですが、あなた方はどういうご職業の方たちですか?」
普通なら失礼な質問だろうが、いきなり声をかけてきたのは向こう側だ。これぐらい聞いても大丈夫だろう。田中はそう判断した。それに異界の迷い物というのも気になる。
「俺たちに職業を聞くのかよ。見ればわかるだろ」
「キナ。すみません、この子は、礼儀を知らないばかものです。私は長命種のグーリンデ。この子はキナ。見たままの人種です。この静かなのは獣魔種のヒトミ。我々はトレジャーハンターという職業をしているものですよ」
丁寧に教えてくれた人がエルフ。胸がペッタンコで名前からしても男か女かよくわからない。顔はやたらと綺麗な人だった。ヒトミと呼ばれる人は日本らしい名前をしている。それでも日本人でないことだけは体が毛で覆われていることからわかった。
ビーストアーク。名前からして獣が混じっている人間ということだろうか?女性のように胸の膨らみがある。胸にバンドと腰に布を巻いてるだけで、キナと呼ばれる女の人より露出が多かった。日本の夏と同じような気温だったからそのせいだろうか。
露骨に胸を見たら失礼だろうから目のやり場に困った。
「トレジャーハンター……」
「はい。ところであなたはひょっとすると【異界の迷い子】ではありませんか?」
「迷い子」
また別の単語が出てきた。迷い子?これに頷いていいのか、頷いてはダメなのか?田中にはその判断がつかなかった。しかし、言葉のニュアンスからして、田中のいる世界から、この世界に人が来る事は初めてではないということだろうか。
田中は警戒心が沸き起こった。何しろ奴隷などという制度がまだ普通にあるような世界である。異界の迷い子がどこかに売り飛ばされる可能性もなくはない。
「迷い子だったら何だというんですか?」
まだビールは飲んでない。でも、ここに来て1時間ほど経過して、なんとなく少しだけ魔力が回復してきているのを感じた。おそらく一発だけなら魔法が使える。ここはごまかして逃げるべきだろうか。
「安心してください。私たちは怪しいものではありませんよ。まあ、そう言われて安心する人はなかなかいないでしょうが、あなたが【異界の迷い子】なら、教え導くのがエルフの務め。どうでしょう?少し私達と付き合いませんか?」
「付き合う?結婚?」
「うん?」
「あ、いえ」
42歳田中は結婚を夢見ている。だから付き合うといえば結婚にすぐにつなげてしまった。相手が理解していないようで良かった。おかげで大恥をかくところだった。
付き合うと言えば、一緒に付いて行くことだ。しかし、田中は迷い子ではない。迷ってここに来たのではなく、自分の意思でここに来た。でも、この世界に迷い込むというのはなんとなく分かる。何せこの世界は地球のすぐ隣にある。
田中は【異界渡り】を使った時に確かにそう感じた。
だから偶発的に次元が歪むと多分すぐにここに入り込んでしまう。多分その逆もある。この世界の人間が田中のいる地球に迷い込んでしまうケースである。
その場合、どうなっているのか、田中はよくわからなかった。もしかすると田中のいる世界も意外な不思議に満ちているのか?そんな想像をふくらませそうになるが、今はとにかく目の前のエルフだと思考を引き戻した。