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癒やし、その4 異界渡り

【135000円】

「嘘おん」


 思わず田中は変な声が出た。今日は実際、魔法を使ってみる日だと思って、ルンルン気分で会社に行って、営業途中で、銀行によって3万円だけ下ろした。就業中に私的なことをしてはいけないのだが、これぐらいは許されるだろう。


 田中がしている営業仕事は【クリスタル・フェニックス】という飲むだけで、体が再生するという特別な水の販売である。


 大げさな名前を付けているが、要は自宅などで水道水ではなく、濾過した美味しい水を飲みたいと言う人たち向けのウォーターサーバーである。


 それを家に置いてもらえるように一軒一軒まわっているのだ。今日は一台設置してもらえる契約を取れた。そのおかげで女課長の嫌味もちょっとだけマシだった。意気揚々と帰りに自転車屋さんに寄ったら、電動自転車は田中が予想していた値段と桁が一つ違った。


「安いものでも7万円ってスクーター並だな」


 ここまで高いとは完全に予想外だった。どうするべきかと考える。銀行はもう閉まっているだろうが、コンビニはまだ空いてる。お金をおろすことはできる。いろいろ考えたが、これから魔法の練習を何度もすることになるかもしれない。


 朝起きてから【治癒】の魔法を、もう一度だけ試してみたが、強烈な発光現象が起きて、その後、一気に眠気が吹っ飛んだ。どうやら魔法が使えることはもう間違いないと思った。


「よ、よし」


 田中は急いでコンビニに行き、お金を10万円にして、そして自転車屋さんで7万5千円の電動自転車を購入した。残念ながら充電が出来ていなかったが、一日だけは我慢しようと、アパートによるとすぐに荷物を降ろして、私服に着替えた。


 季節は夏場で暑い。白いTシャツとジーパンという姿だ。田中にしては珍しく気が急く。ご飯も食べていないのに早く魔法が唱えたくて、昨日の夜のうちに用意した荷物をチェックする。


 夜に山の中に入るので、懐中電灯と虫除けスプレー。そして万が一、あちらの世界に入ってしまった時のために、バックパックにビールと再び魔法が唱えられるまで不自由しないようなセットは入れておいた。


 田中は慎重派である。


 そこまで用意して、暗闇の中、一生懸命に自転車をこいだ。


 5キロの道のりを30分程かけて、目的地に到着する。目的地に到着したといっても、山の中のぐねぐねした細い道を走って、車が対向するために道路が膨らんでいる部分についただけである。


 白いガードレールによせて自転車を置く。この向こう側に池がある。向こう側は山中で完全な闇だった。


「怖い……」


 42歳になる田中はシンプルにそう思った。これから魔法を唱えようというのにそもそもこんな暗い場所に行くのが怖かった。それでも魔法唱えるのだと思って勇気を出して、白いガードレールを超えると暗くなった夏の山の中へと入っていく。


 暗がりの山中。空は曇り、正真正銘、明かりのない夜だった。


 一応懐中電灯は必要かと思って持ってきたが、これがなければ本当に一旦家に帰るしかないぐらい暗い。42歳のおっさんなど誰も襲わないだろうが、誰か襲ってこないかとおびえながら歩いた。


「こんな時間にこんな山の中に入って行く人いないだろうな」


 もしそんなことをする人がいるとすれば、自殺志願者か何かだろう。田中はとにかく怖い。この世にお化けがいたら100%今出てくるタイミング。それでもお化けとは遭遇せず、道なき道をゆく。


 片手にはスマホを持って、地図アプリを開いて、もう片方の手では懐中電灯を照らす。クモの巣が引っかかる不快感。虫よけスプレーをしたのに虫がたかる。


「痒い」


 夏の山の夜。明かりをつけているから余計に田中のそばに虫が寄って来た。蛙の鳴き声がうるさい。草を踏みしめ、自分で獣道をつくる。


 そうして頑張って歩いたら、ひらけた場所に出た。うっそうとした山の中だと思ったら突然池が現れた。


「危なっ」


 こんな辺鄙な場所で人が池に落ちないような配慮などあるわけもなく突然の池だった。もうちょっと足を前に進めてたら、池に突っ込んでいた。


「ほっ」


 落ちなくてよかった。足で草を踏みしめて、木々の合間にひらけた場所を作った。とにかく予定どおりに魔法を唱えよう。暗がりは怖いので、田中は懐中電灯をつけっぱなしにした。


 ステータスが全回復していることを確認。異界渡りを唱えてみることにした。


「……」


 唱えようとした瞬間。


「え?」


 こことは異なる世界。少し離れた場所。でもそれほど遠くない。右足を一歩踏み出しただけでも辿りつくし、それはすぐ隣にあるのだと感じられた。


「【異界渡り】」


 田中は唱えた。魔法を唱えた。


「ぐっ。またか!」


 そのままの姿勢で立っていることができないほどの地震が起きた。それなのに周囲を見ると木はざわついていないし、水面も揺れていない。この地震は田中だけに感じられるもののようだ。


 その理由も魔法を意識して唱えたことで田中にはわかった。この地震は地面が揺れているのではない。次元が隣の世界と繋がるために揺れているのだ。


「そういうことか」


 頭の中で何かがひらめいた。田中は向うの世界を確実に感じることができた気がした。こことは違う世界。理が違う。成り立ちが違う。だから、次元の繋げ方を変えると時間の流れまで変えることができる。


「凄い」


 まるで神様にでもなったような気分だった。田中は試しにここでの1日を向こうの10日に調整できないか試した。次元のつながりを遠回りさせて、向こうは加速、こっちは鈍足。


 そんなに難しいことじゃない。きっとやり方が分かれば誰でもできることだ。何せ()()()()()()()()()のだ。そんな気がしながら、次元の道をつなげた。不思議と今までそれができなかったのが理解できないと思うぐらい簡単なことだった。


「またあの靄だ」


 目の前に靄があらわれていた。薄い板のようで、姿見の鏡のような大きさ。顔を突っ込んでみる。この先に広がっていた光景は、以前と同じはずだった。


「街だ」


 しかし、まったく違う景色が広がっていた。


「唱える場所によって繋がる場所も違うのか?」


 街が広がっていた。以前の森の中とはまったく違う景色。


「池袋の隣が森の中で、山の中の隣が街なのか?」


 中世ヨーロッパ風の街並み。煉瓦造りの建物が並んで、人がたくさん行き交っていた。空は青く晴れ渡って、街はにぎやかで楽しそうだ。耳の長い人や、普通の人間より小さい人、奴隷なのだろうか、首に鎖を付けた人もいた。


 露店が立ち並んで見たこともない果物や野菜を売っている。ゲームに登場するような魔女の帽子をかぶった人が、田中と目があったはずなのに、目を留めることなく通り過ぎていく。


「相変わらず、こっちのことは向こうから見えてないみたいだな」


 異界渡りの魔法が有効な間は田中の姿が誰にも見えてないみたいだった。


 田中はどうするべきか悩んだ。危なそうな山の中なら、当然、入るのは避けた。しかし、ここは街中のようだ。今すぐ危険に晒されるようにも見えなかった。それならちょっと入ってみてもいいんじゃないだろうか?


「入ってみたい」


 昨日は帰ってこられるかどうかの自信がなく、意味のわからない現象に戸惑って入るのを避けた。しかし今は自分で異界に渡れる自信があった。たぶん、あの時の感覚を信じるならば地球に戻るのもそれほど難しい話じゃない。


「よ、よし」


 田中は慎重派だ。でも戻って来る方法がある。そして、渡った先は危なそうな場所でもない。何よりもサラリーマン生活に疲れた田中は、今とは違う世界へ行ってみたい衝動を抑えられなかった。

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