癒やし、その2
この奇妙な薄っぺらい靄の中に入っていいのだろうか?田中は迷った。入って帰ってこれなかった場合、会社に未練はないが、両親には未練がある。安月給で田中をなんとか、高校卒業まで育ててくれた両親。
愚痴っぽいところのある2人だったけど、田中は両親にとても感謝していた。弟と妹が先に結婚しているから、自分がいなくなったとしても大丈夫だと思う。でもうちの母親は子供大好きの人間である。
田中みたいなできの悪い子供のことでもよく心配して電話をかけてきてくれる。父親もいつも帰りは遅かったが、子供の頃はあまりない休みの日にキャッチボールをしてくれたりして、田中は意外と父親も好きだった。
「どうしたものか?」
靄に頭を突っ込んだまま、田中は考え込んでしまう。先に結婚されてしまった弟と妹とも別に仲が悪いわけじゃない。きっといなくなったら心配するはずだ。するよな?
何よりもこんな手ぶらの状態で、こんなよくわからない森の中に入る自信はなかった。田中は一旦冷静になろうと靄から顔を出した。そうすると、まるで靄が嘘のように消えてしまった。
あの薄い板のような靄がどこにもない。
「あっ」
もったいないことをしてしまっただろうか?もしかしたら、小学生の頃で卒業してしまったゲームで見たみたいな、違う世界に行って勇者みたいに活躍する。そういうことだったのかもしれないのに。
しかし、奇妙なことがあった。
田中の目の前にあのA4サイズの青白く光るボードみたいなものが、相変わらずあったのだ。そうすると先ほどまで田中のことを見ていなかった人たちが、
「ねえ、なんかあれ、光ってない?」
「え?」
「空中投影技術……?」
こちらの方に急に注目しだす。どうやらこの青白く光るボートは他の人にも見えているようだ。それはどこか近未来的で異質だった。あれほどの地震や奇妙な靄にも全く注目していなかった人たちがかなりの数こちらを見ている。
田中は目立つのが苦手だった。何よりも変な人だと思われたら嫌だ。目の前の光るボードに消えろと念じた。すると本当に消えてしまった。
「あっ」
またもやもったいないことをしてしまっただろうか?もう二度と出て来なかったらどうするんだ。そう思ってまた出てきて欲しいと思った。そうするとまた光るボードが目の前に現れた。
「もうあんな技術開発されてるんだ」
「なんか、おっさん自身が驚いてないか?」
「ステータス画面みたいだな。田中サラリーマン?」
「ぷぷ、次元を渡る者?中二病……」
田中の大事な個人情報は人に見られてしまう。田中は慌ててステータス画面と言われていたものを消した。同時に思い出した。小学生の頃にこういうのを見たことがある。夢中になってやったRPGで見たものだ。そうだ。これはステータス画面といわれるものだ。
「自分のステータス画面が見られるのか?」
そう思った瞬間、全身に鳥肌が立った。もしかして、これってものすごいことじゃないのか?もしかすると、もしかするんじゃないのか?田中は一気にテンションが上がった。とにかくこんな人目のある場所では何もできない。
ステータス画面が再び見られることがわかっただけで、あの世界に行かなかった喪失感が和らいだ。もしかしたらそこにもまたいける方法があるかもしれない。すぐに家に帰ろう。立ち上がった田中は意気揚々と歩き出し電車に乗った。
朝のラッシュほどではないが、そこそこ混んだ電車の中で座ることはできない。いつもはそれが営業で疲れた体にこたえた。田中はもう42歳だった。でも今日はそれが全く苦痛じゃなかった。
むしろ今から走り出したい気分だった。田中は吊り革を手に取って、痴漢と間違われないように、女性からは距離を置いた。以前、ケツを触っていると告発されて捕まった人を見たことがあるのだ。
せっかくすごいことになるかもしれないのに、そんな馬鹿な目に遭わないためにも、田中はいつも以上に慎重になった。そしてまるでスパイみたいに周りを警戒しながら、山梨の一人暮らしのアパートに帰り着く。
部屋の中に入るとマメな田中は、ちょうど帰り着く時間にセットしていたご飯をかき混ぜた。そしてステータス画面をまた出した。これだけでなんだか嬉しい。そのまま出しっぱなしにして、料理に取り掛かる。
「ふんふん」
ジャガイモは一つで充分だ。にんじんも1/3でいい。慣れた手つきでジャガイモの皮をむく。機嫌が良いから人参の皮だって包丁でむいてしまうぞ。
「いてっ」
しかし、調子に乗ってたら、自分の手を切ってしまった。
「ああ……」
自分の親指から血が出てくるのを見ると一気にテンションが下がる。しかし、そこで開きっぱなしにした自分のステータス画面を見た。
「【治癒】……」
これってひょっとして今使えるのだろうか?
「ああ、でも、無理か……」
【異界渡り】というものを使うと、MPを136消費するという意味の表示があった。だとすると田中は今MPがないはずである。田中はそこまでバカじゃないから、それぐらいの察しはすぐにつくようになった。
どれぐらいでMPというものは回復するんだろう。田中が小学生の頃にしていたゲームだと宿屋で泊まらないとMPは回復しなかった。だとすると今は使えないのだろうか?
「いや、使ってみれば良いじゃないか!」
思わず大声が出た。普段滅多に出すことがない大声だ。田中は調子に乗っていた。だから、田中は試してみることにした。明日まで待てば確実に使えるのかもしれないが、今すぐ使ってみたいというワクワクする衝動が抑えられなかった。
魔法を使う。
田中はそう意識した。
それだけで使いかたがなんとなく頭に浮かんでくる。
「【治癒】」
傷の部分に手を当てて唱えた。体の中を奇妙なエネルギーが駆け巡る感触。それと同時に強い発光現象が起きた。それは驚くほどの光。テレビで見たことのある閃光弾のような光だった。
ストーン級と書いていたから田中の認識が間違ってなければ、一番簡単な回復魔法だ。しかし、この強烈な光。体の中から一気に癒されていくような感覚。それが収まると田中は傷が塞がっていることを確認した。
「あの頃、ゲームで見た回復魔法って、こんなにすごいエフェクトがあるものだったんだな……」
田中は呑気にそんなことを思った。