5.中谷 董子と相合傘
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梅雨前線が長らく停滞し、どしゃ降りの日があった。
長雨の影響で鴨川や桂川の水かさが増し、連日ニュースでも懸念されていた。ときおり降りが烈しくなると、雨が素肌に当たると痛いほどで、さすがに出待ちのファンは誰一人いなかった。
傘もろくに役に立たない正午すぎ。
だからこそ、この雨が味方してくれると思った。
テレビ局のすぐ眼の前に、ハイヤーが待機していた。
せっかく出待ちしているのに、先に車に乗り込まれては意味がない。
村上は大胆にエントランス前に行った。あえて建物の庇の下には入らず、傘もささず、ずぶ濡れになりながら待った。
エントランスから彼女が現れた。
傘をさし、かばんを肩にかけ、そそくさと出てくる。
董子が心配そうに村上のそばにやってきたときには、してやったり!と、内心笑った。たった一人の出待ちだからこそ、印象付けたにちがいない。
「君、このあいだから見かける顔ね。雨の中、ご苦労さま。風邪ひいちゃわないようにしてね」
ファンには見向きもしない中谷キャスターが、めずらしく声をかけてきたのだ。しかも憶えてくれていたとは驚きだった。
村上はみじめに濡れそぼりながら、精一杯の笑顔を作ってみせた。捨てられた小犬の気持ちがわかる気がする。
「声をかけてくれてありがとう。1時間待った甲斐あった。やっぱり董子さんは冷たい人じゃないな!」
傘をさしたままの彼女に真っ向から見つめられた。
「冷たいなんて、誰が言ったの。私、見た目は表情が変わらないって言われることはあっても、そんなつもりはないよ」
中谷キャスターのブログからは、猫をこよなく愛する姿と温かい文章から、人となりは透けて見える。
とはいえ、世間一般のSNSの書き込みには、『クールビューティーも仕事から離れると愛想がない、ビジネスライク。近寄りがたい、お高くとまっている』との批判的な意見も少なくなかった。ニュースを読むときは毅然としているだけに、損をしている面もあるのかもしれない。
雨が降りしきるなか、董子と向かい合った。
メイクもばっちり決まって、すらりとした身体つきの、百合の花を擬人化したかのような麗人である。
相手は8つ年上。姉と弟みたいなちがいこそあれ、醸し出す成熟ぶりは村上には手の届かないような開きがあった。
「なに、見つめてるの」
「見とれてた。――あんまりきれいだから」
「かわいいこと言ってくれるね、君。苦しゅうない。近う寄れ」
董子はわざとらしく、おどけた口調で言った。
傘を差し出す。
村上はすかさず、烈しい雨からまぬがれるちっぽけな安全地帯に入った。
かなり間近に接近できた。
驚くほどまつ毛が長い。なめらかな白い肌。よもや熱狂的ファンでも、ここまでお近づきになれた男はいまい。
「ね」村上は眼をうるませて言った。大人の女の馨しい匂いにやられそうになる。勢いにまかせて、「彼氏はいるの? 誰か好きな人はいる?」
「これが眼に入らぬか」指をそろえ、右手の甲を見せた。今日にかぎって薬指にシルバーのリングが光っていた。「……嘘。これ、ダミーなの」
「ダミー?」
「つけてないと、君みたいに勘ちがいされるから。そこの警備員さんや、タクシーの運転手にも口説かれたこともあるの。面倒だからね」
「おれのは勘ちがいじゃない。ひと目惚れしたんです。こんなにも夢中になったのは初めて。だから――会わずにはいられない」
「わざわざ雨の中までとは恐れ入った。そこまでするのは君だけよ。さっき、大雨警報が発表されたの知らないの?」と、ピンク色のオイルリップが塗られた唇が形良く笑った。「けど、男の人のほとんどが勘ちがいしてると思う。すてきな人、世の中にはいくらでもいるから。私って、テレビに出てるからみんなに知られてるんであって、ほとんどの人が勝手に幻想を抱いてると思うよ」
「なんで卑下するんです。董子さんがテレビで演技していようが、プライベートで片尻あげてオナラこいていようが、ファンの気持ちは変わらないです」
「片尻あげてオナラとか」
傘のなかで董子は声を出して笑った。
テレビでここまで弾けた姿を見たことはない。
つられて村上も笑った。
「いまのでポイント、稼いだかな」
「なんのポイント?」と、顔を斜めにして村上を悪戯っぽくにらんだ。二人は相合傘のまま、ハイヤーのかたわらまで歩く。運転手は気を利かせ、車の後部座席のドアを自動で開けた。「そろそろ行くね。お腹ペコペコなの。それに早く帰って、猫ちゃんたちにおやつ、あげなくちゃ」
「なら、一緒にご飯でも。おごらせてください」
「だーめ」董子は傘の柄を村上に押し付けた。「ほら、これあげるから、もう帰りなさい。私は帰ってからも、明日のナレ原、まとめないといけないの」
しなやかな身体が後部座席にすべり込んだ。
スリットの入ったタイトスカートから伸びたベージュ色のストッキング。脚の形がすばらしい。
ドアが閉まった。
車窓ごしにバイバイをしてくれた。
村上はなす術もなく、大人っぽいフリルのついた傘を手にしたまま、ハイヤーが発車したのを見送った。
車は京中テレ前のロータリーになった駐車場をぐるりとまわり、敷地から出ていこうとする。
村上は傘を閉じ、追いかけた。
ふたたび雨にずぶ濡れになりながら、負けじとダッシュする。
リアウィンドウに、ふり返る董子の顔が映った。
すぐに運転手になにか叫んでいる。
車は停まった。
追いつき、車体に手をついた。
後部座席の窓が半分開く。
董子はなにか言いかけたが、村上は機先を制し、
「ずっと前から朝のニュース、観てました。いくら寝ぼけてても、董子さんの声でシャンと起きることができました。ありがとうございます!」
車内の彼女はにっこり微笑んでくれた。
「うれしいね、そう言ってくれて。意外とこの仕事って、感謝されないものなの。励みになる」
「おれの方こそ、董子さんに声かけられてめちゃめちゃうれしかったです。ずっと応援してますから!」
董子は眼をしばたたき、無言で笑った。
手をふりながら窓を閉め、車をスタートさせた。今度こそ別れた。
村上はフリルのついた傘を広げ、テールランプが見えなくなるまで突っ立っていた。
傘の中は、彼女の残り香が漂っていた。