2.百夜月の百夜通い伝説
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いつの時代か定かではない。昔のことである。
対岸の、花井の一部集落には光月山紅梅寺という小さな寺があった。
寺には若くて美人の尼僧が住み込み、日夜、仏道修行に励んでいたという。
尼僧の美貌は近隣の村の若者たちのあいだで広まり、たちまち憧れの的になった。
北山川を挟んで、寺の前の畑で野良仕事をしている姿さえも、ため息が洩れるほど魅了した。
あるとき、対岸に住む青年が恋心を抱くあまり、ひと目彼女に会ってみたいと思った。
夜陰に乗じ、舟で川を渡って会いに行こうと決意。
しかし渡し舟に乗り込もうとするも、山の上にかかった月があまりに明るいため、尻込みした。
これでは村人に露見してしまう。尼僧にいらぬ疑いがかかるであろう。
その晩は行くのをあきらめ、家に引き返した。
ところが次の日も、また次の日も、青年は尼僧に会いに行くべく川まで下りるのだが、いずれも月明かりがまぶしくて行くことができない。
「今夜で何度目だろうか……」
数えてみると、九十九夜目であった。
とぼとぼ家に帰り、母にそのことを打ち明けると、母は、
「あの方は仏さまをお守りしておられるのです。きっとおまえが好きになってはいけない人なんだ。お月さまの光は人々が悪さしないように、いつもあたりを照らしているんだね。だから百夜通っても想いは届かないってことさ。あきらめなさい」
と、諭した。
それからというもの、この土地を百夜月と呼ぶようになった。
紅梅寺の尼僧は仏の教えを広めるため、近隣の村に寺の宝物を配り、祀ってもらうことにした。
紅梅寺対岸の村には九重の重箱を、下流の村には花瓶を、上流の村には竹の筒を配った。
重箱を贈られた村は九重(のちの和歌山県新宮市熊野川町九重)、花瓶を贈られた村は花井(のちの三重県熊野市紀和町花井)、筒を贈られた村は竹筒(のちの奈良県吉野郡十津川村竹筒)という地名になったと伝えられている……。
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老女の話を要約してみよう。
青年が恋した尼僧は仏道修行に明け暮れ、また仏に守られた尊い人であり、到底手の届かない雲の上の人だとわかる。のちに近隣の村の名付け親になったことから、これまた人間以上の存在だと言えよう。
ちなみに飛地の大元である紀和町花井自体も、いまや消滅集落となり荒れ果てているという。
そんな百夜月であるが、今でも辛うじて紅梅寺は残っている。ただし現存する寺は、伝説が示す時代から建っていたものではなく、後年再建されたものだそうだ。内部は3畳ほどとちっぽけで、小さな仏像を安置しているとのこと。
そんな百夜月へのルートであるが、なんと伝説のとおり、川を舟で渡ってでしか行き来することができないのだから驚きだ。代々の住民は、さぞかし不便な思いを強いられたことだろう。
「百夜月の百夜通いの伝説か。まさかこんなところで思い出させてくれるとはな」
悲恋伝説を聞いているうちに、村上の胸にも苦い味がこみあげてきた。
老女と別れ、車に乗り込んだ。
九重トンネルをくぐらず、右の旧道へ徐行しながら入った。
しばらく右手の雑木ごしに北山川を見ながら進んだ。
対岸の百夜月から遠ざかった。
途中カーブになり、広いところにさしかかったので右の路肩へ車を寄せ、パーキングさせる。
村上は今年26になる。20歳のころを思い出し、胸が締め付けられていた。
思わずハンドルにもたれ、腕に顔を埋め、ため息を洩らす。
――この九重に住むかつての青年は渡し舟に乗り、こっそり尼僧に会いに行こうとした。ことごとく邪魔が入り、思いを打ち砕かれたわけか。なんてことだ、あのころのおれとそっくりの境遇じゃないか。
村上にも同じように想いの届かなかった女がいた。
そこそこ歴史を知る者なら、百夜月の悲恋伝説はピンとくるであろう。
言わずと知れた、クレオパトラ、楊貴妃とともに、絶世の美女の代表格と評される小野小町を思い出さずにはいられまい。
その小町のもとに、足繁く通いつめた深草少将のエピソードで知られる百夜通い伝説に、あまりにも似ていたからだ。
恐らくなんらかの形で派生した異伝にちがいない。
弘法大師が乞食に身をやつし、村を練り歩いた伝説が日本各地に伝わるように、伝説は内容を変えて伝播するものである。
そもそも百夜通いとは、世阿弥などの能作者たちが創作した小野小町の伝説である。
小町に熱心に求愛する深草少将。小町は男の感情をわずらわしく思い、あきらめさせようと、こんな無茶難題を突き付ける――。
「それほど私を想ってくださるのなら、証拠として私のもとに百夜通ってみせてください。もし通い続けてくださったなら、そのときこそお心に従いましょう」
少将は真に受けた。
それからというもの、小町の屋敷へ毎晩通うのだが、最後の百日目にして大雪に阻まれ、あえなく凍死してしまう……。
百夜通い伝説に共通するのは、いずれも恋焦がれた男の失恋ないし、身の破滅である。