★★★秘密のボーナストラック★★★
20代前半のころ、某宅配業のアルバイトを2年ばかりしたことがある。配達先は主に僻地を受け持っていた。1993年ぐらいだったと思う。
当時、百夜月集落はたった一世帯にまで減少しており、一度だけ荷物を運ぶ機会に恵まれた。
作中でも言及したように、百夜月はそれこそ陸の孤島である。
宅配業者や郵便局員は郵便物や荷物がある場合、直前に住民へ電話をかける必要があった。
やや北山川の上流に行けば、川の上を渡す形でワイヤーが張られ、ゴンドラのような自走式搬器があり、リモコン操作によって行き来できるようになっていたはずだ。時間指定したあと、ボックスに荷物を載せて受け渡せと、先輩から教わった。
ネットでググると、交通手段は渡し舟しかないと散見されるが、一応こういった渡河方法もかつてはあったのだ。
実を申せば、その荷物を届ける機会に、ラジキャリーを使わなかった。
◆◆◆◆◆
では、どうしたかというと――。
ちょうど閑散期の荷物だった。僕はわざわざ住民にご足労かけていただくのも申し訳ないと思い、こちらから山を歩いて直接家まで配達しようと、善意のつもりで思い立った。
ふり返れば、このよかれと思った善意こそ、そもそものまちがいだった。
結論から言うと、僕は危うく遭難しかけ、死にそうな目に遭った。まさしく、『地獄への道は善意で舗装されている』を体現したといっても過言ではない。
今は亡き某宅配便もお中元とお歳暮の時期をのぞけば、気が抜けるほど暇すぎて、きっと魔が差したんだと思う。
20歳すぎの世間知らずの僕は、「きっと花井から山を越えて百夜月へ至るルートがあるにちがいない。だって百夜月は花井の一部なんだし、貨幣制度のなかった古い時代、こんなちっぽけな集落が生きながらえるには、他の集落と交易し、あるいは物々交換し、生活していたに決まっている。たった数軒の世帯だけで共同体が成り立つわけがない」と、高を括った。
ところが、この考えは浅はかすぎた。
花井のはずれから百夜月に向かって山を突っ切ろうとするのだが、文字どおり道なき道。獣道すら見つからないほどの木の密集ぶり。
花井のはずれは狭く、山越えルートがあれば見落とすわけはない。
とにかく、僕は無理やり山越えを強行。季節はお盆前の時期だったような気がする。
今でも荷物の中身は憶えている。I屋の水ようかんセットと、日本難聴者協会の薄っぺらな文書の入ったA4サイズの封筒だった。二つを手にしているので、もう片方の手で藪をかき分ける状態。
小高い、ほんの標高30~60メートルほどの山の連なりにすぎない。行けばなんとかなると思った。山というより、コブをいくつか越えた。
書籍版のゼンリンの住宅地図上では、花井から百夜月までの距離はたいしたことがないように描かれていた。今さらながら思えば、住宅地図のメインはあくまで住宅の位置情報であって、なにもない山中は省略されていたのかもしれない。だから僕は、歩いて行けると錯覚した。
じっさいグーグルマップで調べてみると、およそ1,400mも離れていた。険しい山中の1,4kmはシビアすぎる。強行軍しようにも無理がある。最初からわかっていれば、無謀な挑戦などしなかった。
当時の僕の心理は――たとえ道なき道であろうと、もともと山育ちだし、スタミナもまんざら自信がないわけではない。どうにか木々の間をこじ開けていけば、じきに百夜月の真上に出ると信じて疑わなかった。
ところが行けども行けども、めざす百夜月は見えてこない。
額から流れ出る汗は、蒸し暑さからだけではない。
山は急斜面で立ちふさがり、滑落し、谷間に落ちればただではすまない。こんな辺鄙な山中で怪我すれば身動きが取れなくなる恐れがある。冷汗ものだった。
そのうち細い杉の幹につかまり、次の幹へとしがみつくアクロバティックな登攀能力を求められた。片手は荷物でふさがった状態なのだ。
あまりにも傾斜はきつく、幹と幹との距離が開きすぎて危険な箇所はいったん引き返して、別のコースを選択せねばならないほどになった。本格的な登山でいう、ルートファインディングを要求したのだ。失敗は許されなかった。
◆◆◆◆◆
典型的な正常性バイアスが働いていた。
いったん山に入ったからには途中で戻ろうにも、せっかくここまで来たんだし、もうしばらく辛抱すれば、きっとこの小さな尾根を越えれば、次こそ百夜月のはずだと、引くに引けなくなった。
たいして標高は高くないのだが、危険な斜面は続く。やたらと神経を遣う道のり。その連続である。
そうこうするうちに日が翳ってきた。いくら夏場のうちは日は長いとはいえ、いずれ夜になる。
今さらながら回れ右して、引き返すべきではないか?
こんなところで滑落して怪我するのはもちろん、死んでしまったら、恐ろしいというより恥ずかしいという思いが先に立った。
勇気と無謀は紙一重だ。
谷間に転げ落ちて怪我しようが死のうが、職場のO先輩や上司、両親にすら、花井のはずれから山に入ったなどと連絡していないのだ。1993年当時、携帯電話はまだ普及していなかった。
その年、花井にはわずかながら住民がいた。
集落の端に営業車を停めていたため、不自然な車両として遠からず連絡が行くかもしれないが、迅速性に欠けた。
気づいてもらえたとしても、発見は遅れるのは眼に見えている……。
やっとの思いで、次の小さな尾根を越えた。
ところが、完全に切り立った崖っぷちに当たった。山の斜面が途切れ、真下に落ち込んでいるのだ。
ほぼ垂壁。むきだしの岩壁である。高さは30m以上はあり、下には無数の岩が転がっている。落ちればひとたまりもない。
到底降りられない。あやまって落ちれば即死するだろう。
迂回路も見つからなかった。
つまり、これ以上進めない。
僕はここまで来て、ようやくまちがいを認めた。
身をもって陸路など存在しないことを、この眼で確かめた。花井と百夜月を隔てる山中は、じつはとんでもない場所だったのだ。――そして百夜月こそ、完全に他と隔絶された集落であることを、生で見た瞬間だった。
◆◆◆◆◆
死に物狂いで、もと来た道を戻った。
刻一刻と日は西に傾き、薄闇が山を染める。
焦りとの闘いだった。
タイムリミットまで山からおりないと、万事休すになる。懐中電灯の類さえ持っていないのだ。
僕は別の事案で、暗闇に閉ざされた山で取り残されたことがあった。頭上は樹冠にさえぎられ、月明かりさえ届かない山中は、体験した者ではないと絶望感はわかるまい……。
必死でいくつものコブ状の山を越えた。
I屋の水ようかんの包装紙と熨斗紙が、土で汚れようが知ったことではない。生きるために全力を尽くした。
たっぷり1リットルもの汗を流し、僕はなんとか命からがら生還した。
どうにか花井の入り口にたどり着いたときには、日はとっぷり暮れていた。やっとのことで乗ってきた箱バンを見つけたとき、さすがに泣きそうになった。
無知ゆえに、愚かゆえに命を落とすほど、間抜けな者はない。
人間、分をわきまえ、無理だと思ったら潔くまちがいを認めるべきである。
若さと苦さという言葉はよく似ている……。
◆◆◆◆◆
とりあえず水ようかんの包装紙を新しい紙に包み直し、日本難聴者協会の書類と持って、お隣、紀和町和気の郵便局へ駆け込んだ。
ゆ〇パックで送ることにした。他社に丸投げもいいところだ。
配送料は自腹を切った。せめてそれぐらいの罪滅ぼしはするべきである。
夜の9時前にようやく事務所に戻ってきて、事務処理を終え、O先輩には何事もなかったかのように振る舞った。
「今日はやけに遅かったじゃないか。なにかトラブルでもあったか?」
と、聞いてきたが、正直にやらかしたことを話せば怒鳴り散らされるに決まっている。
涼しい顔をして、「いんや。別に~♪」と、シラを切った。
あとで鏡を見て気づいたのだが、涼しい顔には泥がついていた。
……この出来事は、リアルでは誰にも話していない。もう時効であろう。
しかしながら転んでもただでは起きない。
必死になって山中を引き返しているとき、ぜったい生きて帰ったら、この話をネタにいつか小説にしてやると心に誓ったものだ。創作活動自体は中学生のころからしていたのだ。
あれから四半世紀(!)。
念願叶って、うれしいやら恥ずかしいやらである。
身をもって、花井から百夜月をつなぐ陸路は存在しないことを確認した。これぞ身体を張った取材調査である。
よい子のみなさんは、登山道の整備されていない山など、不用意に入るべきじゃないよ! マヂで死ぬから^^;