15.精神の中の百夜月
村上は董子と思われる残像を追って、民家の横をまわり込んだ。
曲がり角のところで、そびえるばかりの障害物とぶつかりそうになった。
誰であろう、舘林だった。
「ここで会うたが百年目やないかい。え、兄ちゃん?」
迷彩柄の戦闘服を着た舘林は、顔にもべったりとドーランを塗りたくっていた。
血走った眼だけが闇のなかで浮かびあがっている。
ニッと笑うと、今しがた血を吸ったみたいに、やけに赤い口内が見えた。
村上は悲鳴をあげた。
舘林は手にしていた長い筒を水平に構えた。
なんと89式小銃。軽くひざを曲げ、両脚を前後に開き、立射の姿勢で銃口を突きつけてくる。
この男なら、なんの躊躇もなく引き金を引くだろう。なぜなら、もともとの性格もさることながら、中谷 董子のことが好きすぎて狂気に捉われたのだ。男の嫉妬は精神まで狂わせてしまう。村上に対する殺意だけが生き甲斐のようだった。
反射的に背中を見せて、身体を屈めて逃げた。
草叢めがけて跳び、前転した。
幸い5.56×45mm弾は発射されなかった。至近距離で連射を浴びればひとたまりもあるまい。
夜陰に乗じて生い茂った草叢のなかを這い進んだ。
舘林が自衛官なら、村上も匍匐前進で対抗し、追手から逃れようとした。
死に物狂いで草のなかをかき分けて這った。
やかましい物音を立てるべきではない。相手はプロなのだ。たやすく標的を見つけ、息の根をとめにかかるだろう。
民家の正面まで戻った。
頭だけ草叢から出して様子を窺う。
舘林の気配はない。
それどころか、あばら家の玄関らしき長方形の穴には、これも見憶えのある和服姿の老女が立ち尽くしていた。
まぎれもない。董子の母親だ。
「あなたさえ現れなければ!」母親がなじる口調で叫んだ。「あなたがあの子に近づいたばっかりに、あの子はあんな目に……。なんでしつこくつきまとったの!」
村上は立ちあがり、心外とばかりに両手を広げ、烈しく首をふった。
「つきまとったなんて、とんでもない! おれは、董子さんに惚れてたんです。信じてください!」と、弁解がましく言った。黙して糾弾を浴び、罰を受けるべきかもしれない。「たしかにおれが会いに行かなきゃ、董子さんもあんな身体にならず、すんだかもしれません。けど、今さらどうにもならない。おれなりに償うつもりです!」
母親に近づいた。
彼女は涙を流していた。年老いた人が泣く姿は見るに堪えない。
あばら家に向かって歩くと、母は踵を返し、家のなかに入ってしまった。
「待ってください!」
村上は舘林がそばにいないことを確認すると、あばら家のなかに踏み込んだ。
やにわに薄闇のなかから、またしても男の腕が伸び、胸倉をつかまれた。
闇から、これも見慣れた若者の顔が半ベソをかきながら現れた。
「ちくしょう! ホンマにあの中谷 董子とうまくやるとは!」と、五十部が悔しそうに顔をゆがめてまくし立てた。「おら、持ってけよ! 道路工事のバイトで、必死こいて稼いで買うたおれの宝なんやぞ! 事故ってオシャカにしてみぃ。承知せえへんからな!」
と言って、バイクのキーらしきものを放ってよこした。村上は面食らいながらキャッチした。
わけがわからない。なにもかもが支離滅裂だ。
村上は頭に手をやり、壁にもたれた。
6年前、舘林に鈍器で殴られた頭がズキズキと疼いた。今さらながら遠い過去からブラックジャックを受けたようだ。孫悟空の頭の輪っかが締め付けられるように、じんじんと痛みに苛まれた。
――いったいどうなってるんだ? なぜ百夜月に、見知った連中が次々現れては消えていくんだ……。ここは実在の集落じゃないのか?
五十部は消えていた。
頭を片手で押さえたまま室内を見まわしたが、董子の母親の姿もない。がらんどうの廃屋に、灯明だけがぼんやりと灯っているだけだ。
と、そのときだった。
家の外で、草叢を踏み分けるひそやかな音がしたと思ったら、詠うような調子で、
「花の色は、うつりにけりな、いたづらに。我が身世にふる、ながめせしまに」
懐かしき董子の声がした。
村上は勇んで表に躍り出た。
月明かりに照らされて、萌黄色のハイネックのセーターを着、パンツ姿の中谷 董子が、我が身を抱いた姿勢で別のあばら家の壁に寄りかかっていた。
「暁の、榻の端書き、百夜書き。君の来ぬ夜は、我も数書く」ふたたび董子は詠った。そして村上に挑むような目線を送った。「――せっかく君が99日通ってくれたのに、たった1日来れなかっただけでふいにしてしまったね。その埋め合わせに、私の方から来ちゃった」
「董子さんが来てくれた? ここは……百夜月は、いったいなんなんです?」
董子は肘を抱いたまま笑った。
「ここは、そうね――時がとまった、君の心象世界ってとこかな。悩める村上君が作り出した心の澱。川の流れに、場所によって淀みがあるように、快活だった君の内側にも、こんな暗いポイントがあったってこと」
「心の澱」
村上はなんとか彼女に近づこうとした。
そのたびに董子は逃げた。
いつもそうだ。追えば逃げる。いつまで経っても手の届かない人だった。
くすくす笑いながら、女はあばら家とあばら家のあいだを縫って駆けていった。
村上は手を差し伸べ、追った。
百夜月集落自体は広くはない。山の際に民家が点在するものの、50mと行かないうちに例の紅梅寺に着いた。
その先は山の斜面に閉ざされ、董子も逃げることはできない。
息を切らしながら、村上は何気なしに対岸を眺めた。
さっき渡ったばかりの北山川の向こうには九重トンネルがあり、国道169号が伸びていたはずである。向かってトンネルの左が和歌山であり、右が奈良。いま村上たちがいる百夜月は三重であり、この周辺は特殊な境界線上にいるわけだ。
それが電柱や常夜灯も忽然と姿を消し、トンネルはおろか、肝心の国道さえ見当たらない。コンクリでできた側壁がなく、ただ茫漠と濃い山影だけが広がっていた。かろうじて月明かりが山々を浮かびあがらせている。
あきらかにさっきまでいた場所ではなかった。
村上はとんでもない境界線を越えてしまったようだ……。
あらためて光月山紅梅寺を見た。
粗末な庵のような古寺である。
その前に剃髪した尼僧の恰好をした女が立っていた。
董子だ。さっきまでの姿はどこへやら、仏門に仕える清廉な佇まいになっている。
彼女は眼を閉じ、合掌した姿勢で立っていたが、しばらくすると紅梅寺のなかに入った。
村上は意を決すると、董子を追った。
百夜月に伝わる伝説では、尼僧に憧れた青年は夜ごと会いに行こうとするも、月に阻まれ、渡り舟に乗ることさえできなかった。
村上はこうして川を渡り、なんとか女に手が届くところまで来ることができた。
尼僧姿の董子を抱きしめ、寺から出た。これからありったけの気持をぶつけるつもりだった。
時間はたっぷりある。
村上は空を見あげた。
光月山紅梅寺の真上に巨大な満月がかかっていた。
誰しもあの月を見つめていると、吸い込まれそうな錯覚を憶えるだろう。
じっさい、ズームアップするかのごとく月に近づいていくと、ほのかに黄色い色が視界いっぱいに広がった……。
◆◆◆◆◆
黄色いカラーは遠ざかると、粒子の荒いデジタルの数字になった。
さらにカメラは引く。
緑、水色、白などの二桁の数値と波形が現れた。
なんと生体情報モニタに切り替わったのだ。心電図や血圧、呼吸、酸素濃度、体温と、さまざまなバイタルサインを数値化、もしくは波形で示している。
そこは終末期病棟の一室。
白いベッドに中谷 董子が横たわっており、モニタによって監視されていた。
鼻から胃にかけてチューブを挿入されていた。経管栄養を与えるためだ。
手首にも管が通され、横の機械とつながっている。
董子は眠り姫になって、かれこれ6年が経っていた。
あの事件以来、なんとか呼吸はしているものの、自発的に意思表示できない状態が続いていた。栄養を与えれば消化、吸収、排泄は無意識にするとはいえ、自力で移動や摂食は叶わなくなった。
病室には見舞いにやってきた董子の母の姿があった。
眠ったままの娘の顔に手をやり、
「先生が言うにはね。白雪姫になっちゃった人の大半は、脳外傷から半年以内に亡くなるそう。たとえ生き続けたとしても、残りの人でも大半は2年から、せいぜい5年ほどなんだって。でもあなたは、こうして6年生き延びた。あなたを丈夫に産んで、お母さん、立派だと褒めてやりたいぐらい」と、言った。うるんだ眼をしてなおも、「きっとあなたのことだから、思いがけないサプライズ、してくれるよね? きっと意識を取り戻すと、お母さん信じてるから。――だから、いつまでも待ってるからね」
了
なんという後味の悪さw