14.彼岸へ
――せっかく99日も身を削り、董子さんのために尽くしたというのに!
――たった1日だけ! リーチをかけていたのに、願いが叶わないなんて……。こんな無念さ、死んでも死にきれない!
――なんで……。よりによって最後の日に……。こんな無念さあるか! たった1日だぞ!
◆◆◆◆◆
さっきまで九重トンネルをくぐらず、横の旧道へ入り、右にふくらんだ路肩に社用車を停めていたはずだ。まだ日の翳っている時間帯ではなかった。正午をなにほどもすぎていなかったのに。
なのに、いまでは薄闇があたりを包み込み、恐るべき時間の経過を感じずにはいられない。
知らぬ間に車外に出て、どこをどう歩いたのか。
村上は国勢調査票の束を手にしたまま、いつの間にか川のそばにおりていた。淡い緑色の作業着姿も、この仕事をこなすうちに板についたものだが……。
考えてみれば、あの事件以来、ときおり見当識障害に襲われることがあった。
自分が何者で、ここがどこなのか、時間の観念さえあやふやで、まるで富士山の五合目あたりで雲海の中を泳いでいるかのようなのだ。
北山川の川幅はどうということはない。場所によって異なるが、せいぜい20m前後。
10月半ばで、ここしばらく降雨はなかったので、水かさや流れすらたいしたことはなかった。むしろ、此岸と彼岸の両側を占める砂利の浜の方が広いほどである。
村上は川べりで立ちすくんだ。
おかしい。
というのも、川向こうの300m先にうずくまる百夜月の民家がさっきより増えたような気がするからだ……。
おぼろげな灯火まで見えた。もっともあまりにも弱々しく、電気による灯りには見えない。あそこは、とうに消滅集落になったはずではあるまいか?
背後の小高い山の連なりを従え、古ぼけた民家と納屋か蔵らしき建物、10軒ばかり。はたして百夜月はこんなにも戸数があったか?
すっかり日は翳り、陰鬱な雰囲気が立ち込めていた。たしかに昼間見たときには、いくつか電信柱が立ち、何本かの電線が此岸の九重方面から引かれていたはずなのに、それもかき消されていたのはどういうことなのか?
左端に見える庵が、再建された光月山紅梅寺であろうか?
いつの時代とも知れない。尼僧が住み、近隣の若者たちに慕われたようだが、こうして客観的に見てみると、そんな胸ときめくような過去があったとは、にわかに信じ難い。
あの事件から、村上はときおり、見当識障害に襲われることがあると言及した。
時間の感覚が失われ、自分がどこにいるのかわからず、軽いパニックに襲われることがありはしたが、発作に見舞われたら、まずは落ち着き深呼吸すれば、大抵は状況を把握することができた。記憶障害から生じるものにちがいない。
しかしながら今回の場合は勝手がちがう。深呼吸しようが、頬を打とうが、もとには戻らない。
いつの間にか、浅瀬に小舟が浮かび、そばの杭に舫ってあるのが闇の中でもわかった。
なぜ薄闇であるにもかかわらず、舟だと識別できたかというと――。
百夜月の小高い山の上に、大きな満月が浮かんでいた。
スーパームーンさながら異様な満月。白い光をふりまいていたから、下界は思いのほか手に取るように丸見えだった。
なるほど、おあつらえ向きの夜である。
百夜月に残された悲恋伝説によると、尼僧に惚れた青年はこの月のせいで、口説きに行くのを諦めたにちがいない。
村上はむしろ奮い起こされた。
好きな女をものにしたければ、監視の眼があろうがなかろうが、行動あるのみだと思った。
船べりに手をかけて渡し舟に乗った。
櫂があったので手にし、艫に立ち、器用に舟を漕ぐ。
舟はゆるやかな流れを裂く形で、わずか20mの川幅を渡っていく。深さも船底をこすりそうなほど浅い。
――月明かりに暴露されるのを恐れるぐらいで、尻尾巻いて逃げ帰るなんざ、度胸がないっての。そんなことで、女をものにできるかってんだ。おれならたとえ月が邪魔したとしても、ぜったい渡ってみせる。たとえルビコンの川であろうと。
村上の恋愛観は肉食系にちがいない。
グダグダしていては狩りが成功する否かの以前に、生存競争すら勝ち取れないと本能が知っていた。そんな村上の座右の銘は『先行逃げ切り』だった。
下流へやや流されつつも、なんとか渡河した。
渡し舟を乗り捨てた。
砂利の浜におりると、前方の百夜月に何者かが佇んでいるのを見た。
ひどく見憶えのある恰好に、村上は衝撃を受けた。
胸が烈しく動悸をくり返す。
陰鬱な山影を背後に、山際で張り付くような民家の庭先である。
なんと青いドレスをまとった、肌も露わの女が突っ立っているのだ。
場ちがいにも程がある。いかんせんここからは遠すぎて、その人物の顔までは識別できない。
あれこそ山科の中谷邸で、食事会に招かれたときの、ドレスアップした董子本人ではないか?
これだけ離れていても見まちがえるものか。なぜ董子があそこにいたのか? 謎は深まるばかりだ……。
全身が粟立つほどの悪寒を憶えた。
釘付けになったまま、砂利の浜を歩き、百夜月に近づいた。
もどかしい。片脚に麻痺が残っているので、ぎこちない動作で走った。
青いドレス姿が、誘うようなそぶりで悠然と横切る。
ここまで来ればわかった。やはり董子だった。夢のように美しい女――。
民家の側面にまわり込み、姿を消してしまった。
村上は段差をあがり、集落に踏み入れると、あわててあとを追った。
10軒近くの民家が建ち並んでいた。
どれもが屋根は瓦ではない。今どきめずらしい萱葺き。対岸から見たときとは打って変わって、粗末なあばら家にすぎない。
窓からのぞいてみた。
LEDの蛍光灯ならいざ知らず、裸電球の電気ですらなく、油の入った皿に燈芯を突き出し、火を灯しただけの灯明がそよ風に揺れていた。
家の中身さえも、なにもかもがおかしい。およそ現代とは思えぬ造りなのだ。よもや時間を遡ってしまったというのか……?