12.百夜目にしてのアクシデント
6月上旬のある雨の日。
百日通ってみよと約束を交わしてから九十九日が経ち、ついにあと1日をクリアすれば終了という日まで漕ぎつけていた。
若さとしぶとさだけが取り柄の村上からすれば、もはや習慣づけられ、苦痛を感じなくなっていた。というより痛覚は鈍くなっていた。
それも今日で報われると思えば、感慨深い。
ときおり、なんのためにおよそ130kmもの道のりを往復しているのか、わからなくなることがあった。
京都くんだりまで通っているのに、肝心の董子がろくに姿を見せてくれない日もあるのだ。馬の鼻先にぶらさがるニンジンとなるものが乏しく、惰性で、機械的なルーティーンになりがちだった。
魅惑的なランジェリー姿を披露してくれる1日でもあればモチベーションもあがるのだが、訪れる時間帯によってはからっきし気配すらないケースもめずらしくない。
ささやかなボーナスもない。
眠気と疲れた身体を引きずってとんぼ返りで一宮まで帰ることをくり返していると、見当識障害にも似た感覚に捉われてもふしぎではなかった。
最終日も、仕事が終わってから山科の大塚高岩まで例のごとくやってきた。
20時前にさしかかっていた。
週刊誌で叩かれたのを踏まえ、エンジンを吹かさず、トロトロとマシンを動かし、中谷邸の前へ着いた。
あとは玄関にぶらさげた黒板に、20個目の正の文字を完成させるだけだ。
それで3カ月以上続いた苦労も報われる……。
スタンドを立て、バイクからおりたときだった。
門から人影が現れた。
そびえるような大きな身体。まるでラガーマンのような体格の男。
海兵隊じゃあるまいし、大きなリュックを背負っているのが場ちがいに映った。
以前、どこかで見た顔だと思った。
なぜか顔に赤黒い塗料がべったりついていた。まさか本当に演習中の自衛隊員であり、顔じゅう迷彩用のドーランでも塗っているのでは……。
「ようやくお出ましか、色男の兄さん。ここで会うたが百年目やないか」と、見憶えのある男は村上につめ寄り、昂奮した口ぶりでまくし立てた。両眼が血走っていた。「憧れの董子サンをやってもうたことは、しゃあなかったんや。はっきり言って、こじらしたおまえが悪い。おまえこそ元凶や。ベテラン追っかけのおれを怒らしたんやさかい。おまえが現れてから董子サンがおかしなった。もう見ていられへんかったんや。おまえにゃ、積もる感情があってな――」
やめろ!と言うが早いか、男はつかみかかってきた。
たちまちヘッドロックをかけられ、太い二の腕で首を絞められた。
反射的に相手の脇腹へ貫手を打ち込む。
相手はうめき、腕の力が弱まったすきに、村上はその戒めから逃れた。
あらためて常夜灯のもとで、顔をゆがめた男を見る。
顔にべったり付着したのはドーランではない。
返り血ではないか?
嫌な直感が頭をよぎった。
中谷邸の敷地の向こうから誰かの悲鳴があがった。
男はそちらをふり返り、舌打ちした。
「董子サンを道連れにして、おれは死ぬ気やった。そやけど、本命はおまえや。おまえが現れたいま、おれは――」
男はポケットから片方の靴下を取り出した。
ただの汚い靴下ではない。
角ばったたくさんの異物を入れているのか、ゴツゴツ膨らんでいた。恐らく無数のナットにちがいない。
そのとき、右手の路地の陰に潜んでいたらしい別の人物が姿を見せた。
手にはデジタルカメラ。御多分に洩れず、記者かなにかだろう。
「おい君、いくらなんでも暴力はやりすぎじゃないか。黙って見すごすわけにはいかんぞ!」
突然の仲裁者には目もくれず、大男は村上に近づいた。
靴下の履口を持って振りかぶった。
遠心力を利用して殴りつけてきた。
村上はとっさに腕をクロスさせて頭をカバーしたつもりだったが、防御を乗り越えて即席のブラックジャックが脳天に炸裂した。
たちまち意識は、ブレーカーが落ちたみたいに遮断された。