11.監視の眼
子どもじみたゲームだった。
どちらかが折れるか、どちらかが根負けするかの勝負でもあった。
村上にしても、百夜通いと言わず、数週間でも続けていれば、そのうち彼女も情にほだされ、陥落すると思っていた。情緒が安定してきたら、いずれ屋敷に招き入れてくれるのではないかと高を括った。
本丸にまで侵攻できたら、あとはこっちのペースにできる。ありったけの情熱をぶつければ、いかな鉄壁の城といえど落としてみせると思った。
――ところが通えど通えど、玄関の扉はおろか、あらゆる窓が開くことすらなかった。
ただ、邸宅の外でエンジン音が響くたびに、レースのカーテンごしに、彼女のおぼろげな姿が見えることがあった。
にっこり笑い、手を振ってくれるサービスぐらいはあった。
そんな先行きが気になる、けれどじきに単調な、作業的な毎日は続いた。
若さゆえにひたむきになった。
怖いもの知らずゆえに、連日のごとく飽きもせずバイクを走らせた。
それにしても百日通わせるとは酷なことだ。現実的に毎日欠かさず通うなど苦難の連続だった。
もっぱら仕事が終わったあと、夕方から夜半にバイクに乗ることが多かったが、気が向けば眠れぬ深夜1時に走り、とんぼ返りして睡眠もとらず職場に出たこともある。
休日は昼間に走った。
肉体疲労が重なり、睡魔が襲いくる日も、季節はずれの暑い日差しが照り付け、アスファルトに陽炎が立つさなかも、花散らしの雨が降りしきる荒天の日もマシンを酷使した。
いくら燃費のいいホンダCBR250RRでも、街乗りの平均燃費は26.7km/L。高速道路の走行の場合だと、平均30km/L。
ガソリン代が経費で落ちるわけではない。CBR250RRの平均燃費は、同クラスのカワサキNinja250やヤマハYZF-R25と比べ、特別良いとは言えないのだ。
無償の通勤であった。
なにより20代はじめの貴重な時間を惜しみなく浪費していた。
愚直なまでに、董子の家へ行っては帰ることをくり返した。
ほとんどの場合、董子本人は在宅しているようだった。それでも訪れる時間帯によっては就寝しているときもあれば、最寄りの心療内科へ出かけているときもあったはずだ。
在宅にせよ不在の場合にせよ、村上がちゃんと毎日通っているかどうかの判定については、画線法で証拠とした。二人であらかじめ決めたルールだった。
玄関にぶらさげた小さな黒板。
中谷邸まで訪ねてきた証として、チョークで正の字を一本ずつ書き入れていくのだ。
当然、彼女は毎日チェックしているだろうから、不正は認められないだろう。村上も下手な小細工もせず、堂々と文字を書き足していった。言わずもがな、正の文字が20個、完成すれば百日通えたことになる。
――余談だが深草少将の場合、牛車の榻(引き棒を置く台のこと)に、通うたび日数を刻んで証拠としたとする説や、榧の実(常緑針葉樹の種子。和製アーモンドと評される)を、小町の邸宅にひとつずつ運んだとする説がある。
◆◆◆◆◆
そんな二人だけのゲームも、やがて誰かに見つかり、好奇の眼差しを向けられるようになった。
週刊誌の記者が、山科に張り込むようになった。直接インタビューを求められることはなかったとはいえ、カメラで撮られ、そのスクープは憶測で書かれ、ひそかに誌面をにぎわせることとなった。
村上はカメラの被写体とされるがままにした。
仕事明けの疲労もものともせず、山科までバイクで通うことをくり返した。
そのうちカメラをかまえた記者にまじり、マイクを手にした女リポーターと、放送ビデオカメラを担いだ、見るからにテレビクルーらしき一行の姿も眼につくようになった。
知らぬ間に、一躍時の人となっていることに村上は気づいた。まさか自身が奇矯な人物として取りあげられるとは、夢にも思わなかった。
あるとき、書店で週刊誌の見出しを見た。そのキャプションに苦笑を禁じ得ない。
――『京都山科に甦る、現代の小野小町と深草少将の百夜通い。なんとお相手はバイク通勤?』。
何枚ものモノクロの写真が掲載されていた。
バイクにまたがり、疾走する村上を隠し撮りしたものだ。
中谷邸の門の前で佇むショットまである。望遠レンズで覗いたのか、玄関にぶらさげた黒板に文字を書き込む後ろ姿が意味ありげだ。
いずれもフルフェスヘルメットをかぶり、黒いライダースーツに包まれた正体不明の男として誌面を飾っている。
記事を読んでみた。
『かつて女子アナ業界で注目されていながら、突然の引退劇から半年。京都中京区テレビ、美人キャスターの家に、毎日通う若者がご近所で噂されている。時間帯もおかまいなしにエンジン音を響かせ、近所迷惑もなんのその。中谷 董子はそんなことは百も承知で、青年A君の愛がホンモノかどうか、百日通わせているのではないか? 青年A君は以前、出待ちしていたファンの一人であり、そこから昇格を果たそうと頑張っているようだ……』
と、微笑ましい文面である。まさに至れり尽くせりだ。
当の董子は、現代の小町を語るには、いささか奔放すぎるような気もしたが。
幸いにして、直接董子にインタビューを求めた節はない。あの扉はちょっとやそっとじゃ開けてはくれまい。
彼女はそっとしてあげておいて欲しい、と村上は願うのだった。
そのために村上が矢面に立たされ、董子にあれこれ詮索される煩わしさから眼を逸らせるのなら、標的にされることも厭わなかった。
数人の友人から電話がかかってくるようになった。
「いま、おまえらしきバイクに乗った人物がテレビに映ってるんだが――やましいことでも、やらかしたのか? そのうち指名手配にされるぞ」
と、ちょっかいを出される始末だった。
笑ってごまかした。
マシンにまたがり、脇目もふらずアクセルを吹かし続けた。
雑音に気を取られまいとして、ひたすら名神高速道路の黒い舗装路を事故らないよう集中した。
水冷4ストロークDOHC直列2気筒250ccエンジンは期待を裏切らず、忠実に従ってくれた。
村上の頭を占めていたのは、なんとしてもこのゲームに勝利し、董子の気持をもぎ取ること。それしかなかった。
1カ月ほどバイクで行き来していたころ、突き刺さるようないくつもの目線を感じるようになった。
監視の眼がそこかしこに光っていることを自覚した。
真っ赤なカウリングのCBR250RR自体はめずらしくもなかったが、ナンバープレートこそモザイクはかけられたうえマスコミに紹介されると、たちまち世間からマークされるようになった。
恐らく、同じ型のバイクに乗っているだけで、嫌疑をかけられた気の毒なライダーもいたにちがいない。
高速道路で車に追い抜かれざま、ドライバーや同乗者から奇異な視線を向けられることもあったし、中谷邸周辺で、根強い中谷 董子のファンから敵意のそれを背中に浴びることもしばしばであった。
大抵はファンはテレビ局で出待ち入待ちした連中であり、道路標識のように立ちんぼした男ばかりだった。