10.過酷なルーティーン
村上は門のそばにバイクをとめると、ヘルメットを脱ぎ、ライダースーツのまま敷地に入った。
石造りの邸宅へ向かおうとする。
すぐに、飛び石の中ほどで和服姿が立ち塞がった。
半年ぶりの董子の母との対面だった。
「お久しぶりね、村上さん。あの子はちゃんと家にいます。誰とも会いたくないと頑固に拒んでおりましたが、最近になって、やっと症状が緩解してきたみたいなの」
「なら会えますか」
「もしかしたら会えるかもしれない」と、白髪の増えた母は薄く笑った。この半年で親子の間になにがあったのだろうか、別人のように老け込んでいた。「とにかくドアベルを鳴らしてみて。あの子次第で玄関を開けてくれるかもしれませんし、ダメかもしれない。保証はしません」
「やってみます。時に董子さん、食事はどうしてるんです?」
「いつも私が運んでいます」
「ちゃんと食べているなら、それでいい」
せっかく一宮からはるばる会いにきたのだ。このまま引きさがるつもりはなかった。
この城を落とすためには、玄関に座り込んででも待ち続ける覚悟があった。
ところが意外や意外、あっさり樫の扉は開いた。
が、ようやく天岩戸から姿を見せたときには、董子の人格は変わっていた。
元気そうなのには、村上も安堵した。しかしながら、病みあがりの雰囲気よりも、もっと不穏な艶めかしさを感じた。
◆◆◆◆◆
「私のこと、そんなに好きだった?」と、萌黄色のハイネックのセーターを着た董子は、身体を戸口にあずけ、我が身を抱いたまま艶然と笑った。鬢にかかった後れ毛をもてあそびながら、「ならさ、一宮から山科の私の家に百日通ってみせてよ。一日たりとも欠かさず通えたら、君の女になってあげてもいい。つまり、小野小町と深草少将の、現代版百夜通いってわけ」
董子は流し目をよこした。そのあしらいに、村上は背筋の凍る思いをした。
いったい、なにが彼女を変えさせたのか? 病気がこうも人の人格を変化させるものなのか……。
「董子さん、本気で言ってんすか」
「小町は深草少将に、夜に通わせたようだけど、それだと仕事に障るといけないね。だったら、早朝だろうが、仕事が終わったあとだろうが、どっちだってかまわない。どう――この条件。飲める?」
はじめこそ知的で理性的なクールビューティーが、魔性の女に転じたことに戸惑いもあった。
そう挑発されるとゾクゾクしてきた。惹き込まれるのは危険すぎるとわかっていながら、あえて飛び込んでいきたい背徳感があるのも事実だった。
それほど以前の董子も、いまの董子も、村上にとっては抗いがたいほど魅力的であった。
前のめりになり、董子のそばに寄った。
「悪くないね。つまりこれはテストってことでしょ?」
「そ」董子は肘を抱いた恰好でうなずいた。「男の気まぐれだったら許さないから。本気なのか、それとも単に私とやりたいだけの不純な気持ちなのか、見てあげる。そうして君自身の信念も試すわけ」
「不純なもんか。わかった。受けて立とう」
もしかしたら、このテストに見事合格した暁には、董子を村上の思うどおりにさせることができるかもしれない。
つまり、もっと優秀な心療内科に診せ、適切な処置をすれば快方に向かうのではないか。
少なくとも、天岩戸に引っ込んだままではこの状態から改善されない気がした。
天照大神は暗闇から引っ張り出して、ちゃんとケアさせるべきだ。そうすれば、以前のありのままの中谷 董子を取り戻せるような気がした。
いまの彼女は、別の人格が憑りついているかのようで、それが望んでいた姿とは思いたくない。
それからというもの、人格の変わった董子と、村上の孤独なテストがはじまった。
一宮の寮から、はるばる山科の邸宅までの道のりを往復する過酷な日課。
わずか1週間やそこいらではないのだ。それが3カ月、連続で通えと言うのだ。かなりハードな約束だった。言うは易く行うは難し……。
一宮の会社の寮から山科の中谷邸まで、直線距離で約96Km、最短ルートで約130km。
渋滞がないに限り、片道1時間45分を費やすわけである。
大塚高岩の高台までやってきては、董子の部屋にあがり込んで求愛するわけではない。
2階のバルコニーの下で、ロミオとジュリエットよろしく言葉をかけ合うわけでもない。
開くことのない窓を見あげ、「今日も会いにきたよ」と、ひと言だけ告げて、もと来た道を帰っていく――およそ現代人には似つかわしくない芸当を愚直に飽きもせず、くり返した。