自転車で旅をする(他2篇)
「自転車で旅をする」
カーテンを開けたら
突然洗われたような気分になって
くすんだ鍵を持った
タイヤに空気を入れた
見捨てていたようなものだったのに
案外しっかりと走ってくれたから
申し訳なくなった
凡庸な銀色のウイング
フェンスから高速が見下ろせる道へ
見知った景色は
いつしか見慣れないものになる
波打つようにゆるやかに上り下りを繰り返しながら
ひたすら真っ直ぐな道を
電波塔が立っていた
南天の実が赤い季節だった
小春日和の高気圧に相応しい風が吹く
次第に灯る熱に応えるように強く呼吸して
揺れてきらきら光を受けるペットボトルの水を飲んだ
ひとり地図の配色をぼんやりと見て考えた
彼が見ていた旅路は
ここにはないだろう
土星の環だってここからは見えない
けれど時に
歴史が崩れていくような
果てしなくて大きいものを
僕も見たくなる
空がこんなに青いのだから
求めている答えではなくても
きっと別の何かが見つけられると思った
世界の広さが欲しい
もう一度
果てしないものが欲しい
ペダルを漕いでいるうちに
そのまま宙に消えていくような幻が見たいだけ
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「チョコレート」
一粒で
ひとかけらで
これほど人を幸せにできるなら
バターに砂糖にミルク
時に苦くてスパイシー
ガラスと蜂蜜の隣人
美味しいものを手に入れたのなら
少しぐらい浮かれてもいいじゃない
銀紙をそっと剥がす瞬間
赤いリボンを解いて箱を開ける瞬間
初めてそれを見た日も
その味を始めから知っていたように
口に入れたのだろう
異国の薔薇と真砂を思わせる濃厚
きっと私達は
随分古い魔法を使っているのだ
口にする者に全てが委ねられるなんて危うさ
胸焼けしないように
少しずつ砕いて溶かしていく
出来るだけ最後まで自然のままに
そうして時計のルビーのように
身体の中で糧になる
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「嵐」
闇夜
何も見通せない黒い水晶
渦を巻いたその中のどこかに点のように自分がいる
自分が嵐の中に
ここにいることを感じる
こんな日でもなければ
感じられないでいるのだ
孤独なんてまやかしだということを
生きていたいから生きているのだということを
窓に雨が当たる
風が唸り奔っている
どこかで枯葉が飛ぶ
一度地上に落ちた雫が吹き上げられる
枕に頬を埋めて
目を閉じればそれは
浜辺の波打ち際で
柔らかい泥水に
指をくぐらせた時の感覚に似ていた