桜が咲く頃に
桜の花びらが舞う季節。
僕、石崎海斗と谷口美希は、公園の真ん中に立つ、満開の桜の木の下にいた。
「じゃあ、また今度、海斗くんが帰ってきたら会おうね」
美希は、満面の笑みを浮かべて、そう言った。
桜が舞う季節は、出会いの季節でもあれば、別れの季節でもある。二月の終わりに高校の卒業式を終えた僕らは、これから、それぞれの道を歩んでいく。
僕はこの町を出て、東京の大学に行く。
「そうだね……。また、会おうね」
笑顔で言いたかったけど、今の僕にそれはできなかった。美希の目を見ることさえ、できないのだから。
「最後くらい、笑顔で言ってよ。いつもの海斗くんなら、笑って言ってくれるのに」
その言葉に、ぐっと唇を噛む。本当はそうしたい。美希に言われなくたって、そうしたい。
…そのことを知らなければ、こんな気持ちにはならなかったのに。
心の中で、そう呟いた。
「私のことが心配なの?」
心配なんかじゃない。
「心配ないよ。私は元気にやっているから」
…嘘つけ。
「海斗くんは海斗くんの人生を、まっすぐに歩んでいくといいよ」
君に言われなくてもそうするよ。でも………。
色々と言いたいことはあった。けど、口には出せなかった。
「東京は明日からだっけ?」
「……うん」
「じゃあ、今日で一旦お別れか…。東京でも頑張ってね。いつでも、どんな時でも、私は海斗くんを応援しているよ」
「………」
美希の言葉に、またぐっと唇をかんだ。「ありがとう」の一言が言えない。
その言葉が、彼女の優しさだとはわかっている。けど、素直には受け取れない。
「美希は、……美希はどうするの?」
「どうするのって?」
「これからだよ!これから、どう過ごして行くの?」
なんとかして、美希の未来の話を聞きたい。美希が将来どうしたくて、どうなりたいかを、彼女の口から聞いてみたい。でも、美希から出てきたものは、素っ気ないものだった。
「私は…。そうだね、のんびり過ごしてみようかな。のんびり過ごしながら、海斗くんが冒険してきたこの街を、私も冒険してみようかな。半年かけて」
「なんで!他にも色々あるでしょ!美希の未来は、まだたくさんあるんでしょ⁉︎なんでそれを目指さないの?」
「……それが、…私に与えられた、運命だからじゃないかな」
美希は、そう答えた。
「それでも私は幸福だよ。海斗くんに出会えたこと。学校のみんなに出会えたこと。家族に大切に、この年まで育ててもらったこと。この年まで、生きてこれたこと。この全てが、私にとっては幸福なことなんだ。たとえ、あと半年で死んじゃったとしてもね」
美希は、僕から発射された言葉の槍をさらりと交わし、優しく言った。
美希が言ったように、彼女は将来を目指さないのではなく、「目指せない」のだ。原因不明で、不治の病。美希がそれから解放される手段はない。
去年の夏、家で普通に過ごしていたら、急に吐血し、そのまま意識を失った。気がついたら、病院のベッドの上だった。幸い、母親がすぐに気がついてくれて、すぐに救急車で病院に搬送されていた。
医師から原因を聞いたら、肺が何かに侵食されているらしい、ということだった。雑菌やカビなどの可能性を調べたけど、それに対応する薬が全く効かなかった。原因は不明。治す手段も、侵食を食い止める方法もない。このまま、侵食され続けるしかない。持って、あと半年。
そのことを、僕は今日、初めて知った。美希も、誰にも言っていないらしく、家族以外で知っているのは、先生と僕だけだそうだ。初めて聞いた時、もっと早く言ってくれたら、と思ったけど、言えなかった。僕らは大学の受験期だったから、余計な心配をかけさせたくないという美希の思いがあったのだろう。
美希は笑っている。いつものように。事実を話していた時もそうだった。その笑顔は、到底、自分の死を知った人とは思えないものだった。今までも、何もない、普通の高校生として過ごしていた。
僕はただ悔しかった。どんなに「助けたい」と願っても、僕には何もできないのだから。その自分の非力さが、ただただ、悔しかった。
「じゃあわかった」
何も言い出さない僕を見かねてなのか、美希はこう提案した。
「来年の今日、また一緒に、ここで桜をみよう。その時まで、私も頑張るから」
「え…でも…」
「いいじゃん。やってみよ?」
この提案にも、僕は答えられなかった。多分無理だろう、と言う思いと、美希の望みは消したくない、という思いがぶつかり合っていた。
「私自身、できないかもしれないって思ってる。けど、諦めたくない。わずかではあるけど、まだ可能性が残っているかもしれない。だから、諦めたくない。…海斗くんと過ごしたこの時間を、この景色を、これで最後にしたくない………。またもう一度、……海斗くんとこの景色を見たい。だから、………お願い」
美希は、さっきまでの笑顔をなくしていた。その代わりに、顔を少し赤くして、唇を強く噛んでいた。
美希のその思いに、僕は逃げ切れなかった。
「……わかった。約束しよう」
「絶対だからね」
「うん。絶対」
そし美希は、小指を立てた右手を、僕に向かって出してきた。
「指切りしよう?お互いに、約束の誓いとしてさ」
「うん」
指切りは、美希と付き合って以来、約束をしたら必ずやっていた。言い切った時に、強く腕を振って、その勢いで、絡めた小指を解いていた。ほかの人のやり方はわからないけど、僕らはそうやっていた。初めの頃は、息が合わなくて、失敗ばかりだった。失敗すると、結構痛い。でも、やっていくうちに、そんなこともなくなっていった。
美希の小指に、僕の小指を重ねて、お互いの小指を絡ませる。
『指切り拳万嘘ついたら針千本のーます、指切った』
言い切った瞬間、気負いよく、小指が離れる。その瞬間、僕の中でも、何かが切れた気がした。
「約束したからね。忘れないでよ」
「美希こそ、忘れるなよ」
「忘れないよ、絶対にね」
美希は何があっても、楽しそうだ。
フワッと春風が吹いて、無数の桜の花びらが宙に舞って、僕らの間を抜けていく。美希の髪が、その風に煽られて乱れる。春風のイタズラに、美希は、わっ、と言って、慌てて髪を整えた。その仕草が、すごく可愛かった。
「何笑ってるの」
美希からの鋭い視線が飛んでくる。
「いや、風と戯れてる様子がすごく面白くてね」
そういうと、美希は鋭かった視線を、さらに鋭くした。ごめんごめん、と慌てて謝る。
「あ、さっきよりいい目をしてる。」
「え?」
「さっきはね、本当に生気のないような目をしてたよ?」
「ああ…」
「でも今はいいよ。いつもの海斗くんに戻ったって感じ」
「あんなこと、突然言われたら、誰しもそうなると思うよ」
「ごめん…。言おうかどうか迷ってたし、いうにもタイミングがなくて…」
「まあ、いいよ。頑張ろう。お互いにね」
「うん」
僕らの決意を祝福するかのように、風がまた強く吹いた。花びらが舞い散って、美希の髪も、また乱れる。慌てて髪を整える美希の仕草は、やっぱり可愛かった。
「あ、約束だからって、来年まで帰ってこない、ということはなしだからね」
「大丈夫だよ。ゴールデンウィークには帰るから、その時にまた会おう」
「うん」
桜が咲き、舞い散る季節。それは、終わりでもあるけど、始まりでもある。
三月二十七日。ここから、僕たちの新たな人生が、始まって行く。
「約束、絶対に守ってよ」
美希の言葉に、僕も笑顔で、頷いた。
別れるのは惜しい。もう、これで最後かもしれないから。でも、もうお互いに止まらなかった。互いに背を向け、正反対の道を、歩いていった。
*
大学に入学してから一年が経った。相変わらず、時の流れは早いものだ。
大学の春休み。電車に揺られながら、美希の待つ、僕の町へと向かう。その間、美希と出会ってから、今までの思い出を、一つ一つ思い出していた。
三月二十七日。
約束の桜の木の下。今年も満開に咲いている。去年とあまり変わっていない。時間がずっと止まっていたみたいだ。
もちろん君は……いないよね。もしかしたら、とかって思ってはいたんだけど、ね。君がこの世を去った、というのは、もうとっくに聞いている。
僕と話した一週間後に、美希は入院した。そして六月に、君はこの世を去った。あれだけ強く約束したのに、最後は抵抗のしようもない、って感じだった。
美希とは、ゴールデンウィークにあったのが最後だった。その時は、まだ元気そうだった。本当はどうだったのかは、僕にはわからない。
美希が亡くなったというのは、親からの連絡で知った。
六月七日。容体が急変し、そのまま静かに、息を引き取ったと言っていた。最後に残した言葉が
『今まで私を大切にしてくれた人に、本当に感謝します。ありがとうございました』
そう言って、彼女は目覚めることのない永い眠りについた。もう息もわずかしかできない中で、振り絞った声で、かすかに、そう言ったと聞いた。
そのことを知っても、僕は泣かなかった。そうか…くらいにしか、思っていなかった。
お葬式には行っていない。正確には、行けなかった。急だったのと、いくつか重要な役割を担っていたから、抜けることができなかった。
親が代わりに行ってくれたみたいで、その話だと、美希の寝顔は、本当に安らかだったらしい。本当に、ただぐっすりと寝ているだけに見えたって、言っていた。
一環の話を聞いてつくづく、美希らしい、と思った。全ての話が、そのまま、彼女の特徴でもあった。
桜は、去年と同じように、満開に咲いていて、風に吹かれては、花びらを散らしている。桜の幹は、太くて表面がゴツゴツとしている。一体、何年生きているのだろうか。この公園には、ちっちゃい頃から遊びにきているけど、この桜の木をじっくりと観察する時はなかったな。
見上げれば、青空が見えないくらいに桜が敷き詰められていて、それが優しくふわっと、僕に覆いかぶさっている。美希とここで話した時も、こんな感じだったのかな。
ひらひらと落ちてくる花びらが、僕のそばをすぎていった。
あの日、君は何を思っていたのかな。何を思いながらこの場所にきて、何を願いながら話をしていたのかな。
美希と別れてから、そんなことばかり考えていた。どう考えても、答えなんてわかりはしないけど…。
もしも叶うのなら、もう一度、美希に会いたい。聞きたいことや、言いたいことがたくさんあるし、もう一度一緒に行ってみたいところもある。
高二の時に、近くにある展望台に行った。そこからみた夕焼けが、すごく綺麗だった。美希と二人だけの空間で、真っ赤に染まった空を見つめていた。美希の切なげな表情に見とれてたっけな。夏休みに、川で一緒に遊んだ時もあった。魚釣りに行ったんだけど、最終的には水かけっこをやって、お互いにびしょ濡れになって帰った。「びしょ濡れの女子高生」と言うシチュエーションに僕は戸惑ってた。それに美希が気が付いて、「この変態め」なんて言われたっけ。やましいことなんて、何も考えてなかったのに。
美希がいた時は楽しかったな。今は東京の大学で工学の勉強をしている。そこでの研究や仲間との会話も楽しいけど、美希がいないと、やっぱ物足りないな。なんか、一つの空洞が、僕の中に存在している感じがする。
美希と過ごした日々を思い出すたびに、口元が緩む。それと同時に、美希がもうこの世界には存在しないということも実感する。美希に触れることもできなければ、声を聞くこともできない。
もっと長い時間、美希と居たかったな…。
…っていうか、そうだよ。美希のやつ。一年後にこの桜の木の下で会おうねって約束、守ってないじゃん。美希から言ってきたのに。約束破って簡単に逝きやがって………。
「誰が約束破って、簡単に逝ったって?」
後ろから聞こえた、殺気のこもった声にびっくりして、恐る恐る振り返る。
まさか、心の中の声が漏れてた?それを聞いて、誰かが勘違いをしたのかな?
誤解である、ということを説明しようとしたとき、僕はさらに驚いてしまった。というか、目の前の存在に驚愕し、恐怖すら感じた。
「………美希?」
思わず僕は、そう呟いた。
*
君を見つけた。去年と同じ、公園の桜の樹の下に。
約束どおりきてみたけど、君はわからないよね。私は、君には触れられないし、声も届けられないからね。
でも、去年の夏から、君のことをずっとみてきたんだ。あの世の世界からずっとね。君がそのとき、何を思っていたのかも。
ちなみに、今考えていることも全部聞こえているんだ。
最後の言葉が、そんなに私らしいものだったの?
私はここの桜が好きで、ずっと見てきたけどね。
私だって、君ともう一度話したいよ。
ほんと、あの夕焼けは綺麗だったね。私は、海斗くんのまっすぐな瞳に見とれていたよ。
釣りは難しいよ。それに、川といったら水遊びでしょ?海斗がそんな風に見ないのは分かってるけど、からかってみたくてね。
私も、海斗との思い出は宝物だよ。
私も、もっと一緒にいたかったな。
海斗くんが心の中でつぶやく言葉に、私も密かに答えていく。話せていないのに、話しているようで楽しいから。私だけで、すごく、申し訳ないなって、思うけどね。私がこの世を去ってから、海斗くんがどれだけ大変だったのかを、私は見てきた。だから、こうやって私だけ楽しんでいるのは、なんか申し訳なかった。
でも、いつかは気づいてくれるかなって、そう信じて、ずっとそばにいた。海斗くんが大変だった時、私にできたのは、それだけだったから。
海斗くんはまだ、呟いている。そろそろかな、なんて思った時だった。その衝撃な一言が聞こえてきたのは…。
ああ、確かにそれは申し訳………、
ここまで思った瞬間、強い憤りを感じた。反射的に、申し訳、まで出てきたけど、これには、納得いかない。
なんで私が謝らないといけないの。あの時、私より死にそうな顔していたから、仕方なく提案したっていうのに。それに、簡単って…。誰が………、
「誰が約束破って、簡単に逝ったって?」
無意識に口に出していた。でも、海斗くんには聞こえない。届くはずがない。でも、私が言った瞬間に、海斗くんがビクッと肩を揺らすのが分かった。そして、ゆっくりと振り返る。
そして、恐ろしいものでもみてしまったかのような顔を、君はした。
「………美希?」
静かに君は、私の名前を呼んだ。
…タイミングが悪かったな。
私は密かに、そう思った。
*
美希は確かに、目の前に立っている。
僕は、なんて声をかければいいかがよく解らなくて、それよりも目の前で起きていることが信じられなくて、何も言えずにいた。
少しの間、互いに何も切り出せずにいた。沈黙の間を、さりげなく風が通り抜け、美希の髪がその風に少しなびいた。
「あ…えっと、………久しぶり?」
最初に切り出したのは美希だった。
「本当に美希なの?」
僕は未だに信じられない。
「うん」
嘘だ。だって彼女は…。
「信じられないのもわかるよ。私は確かに死んじゃった人だからね」
「なんで…?」
「約束したからに決まってるでしょ?また、ここで会おうって」
「そんな単純なことで、こんなことって起きるの?」
「起きたから、起きるんじゃない?」
僕の真剣な問いを、美希は簡単にはじき返した。
「それよりも」
美希は急に、強い口調で言った。
「私が簡単に逝ったってどういうこと?私がそんなにあっさりと死んじゃったとでも思っているの?」
その言葉に、僕は驚愕した。
「なっ…、なんで?」
「さっきそんなこと考えてたの知ってるよ。ちゃんと聞こえてたんだから」
「いや、そんなこと考えてないって」
本当は言っていたけど、反射的に嘘を言ってしまった。でも、聞こえてなかったはず。だって口には出していないから。
「絶対考えてた!そうでしょ⁈」
「うっ…」
なんでそこまで断言できるんだ?
「そ・う・で・しょ!」
ここまで責められたら、反撃しても意味はないか…。
「…はい、その通りです。すいませんでした…」
「まったく。人の苦労も知らないで、よくそんなことを考えられたね」
まずい。すごく怒ってる。っていうかそれよりも……
「なんでわかったの?もしかして、口に出して言ってた?」
「いや、ちゃんと心の中で言ってたよ」
「じゃあなんでわかったの?」
「霊になると、人の思っていることが手に取るようにわかるんですよ」
「え!本当に⁉︎」
「さっき海斗くんが思っていたことは、全部聞いてましたよ」
ツンとした口調で、美希は言った。
そうだったんだ…。
聞かれて恥ずかしいことは何も考えてなかったはずだけど、この事実は恐ろしい。
「まあ、でもよかった。海斗くんが元気そうで」
美希はまた、優しい口調に戻って言った。
「私が死んじゃったから、相当落ち込んでるのかなと思ってて、ずっと心配だった」
「去年、美希とここで話してなかったら、多分落ち込んでいたと思う。けど、美希と話したお陰で、僕は僕なりに頑張ろうって思えたし、君がいなくなってからは、君の分まで頑張ろうって思えた。それに、君だったら、僕が落ち込むことなんて願っていないだろうなって思ったから」
それでも落ち込んだ時は何回もある。そんな時には、「美希のためにも生きるんだ」と言い聞かせて、気持ちを上げていた。
「そっか。よかった」
美希に会えなくて淋しかった、というのは言わないでおいた。たぶん、バレているだろうけど。
「ねえ、どこか行かない?」
少しの沈黙があって、美希がそう言った。
「ここで話すのもいいけど、立ちながら話すのはなんか…ね?」
「いいよ。どこ行きたい?」
「それは海斗くんが決めて」
「え?」
「こういうことは、男が決めるもんでしょ」
急にそう言われても…。
せっかく美希が久々にここに来たから、美希の行きたいところに行こうかと思っていたのに。でもいっか。美希がそう言ってくれてるから、僕の行きたいところで。また一緒に行けるのならここに行きたい、ってずっと思っていた場所なら、一箇所ある。
「じゃあ、展望台に行こうか」
「いいね!私も、もう一度そこに行ってみたかった!」
なら言えばよかったのに、と思ったけど、多分、ほかのところでも、同じ言葉を聞いただろう。
「じゃあ早速行こう!」
そして、美希は「はいっ」と言って、右手を僕の前に出した。なんのためらいもなく、まっすぐに僕に向けて。
「えっと…これは…?」
「手をつないでいこうよ」
「え?」
美希の発言に、僕は戸惑った。
「触れ合えるのは、今のうちだよ」
その言葉に、胸がツンと反応した。
ためらいながらも、僕はその手に触れた。僕がその手に触れると、美希は少し恥ずかしそうに笑った。
風が優しく吹いて、僕らの間を、一枚の桜の花びらが通っていった。
公園を出て、この町で一番高い山の頂上にある展望台へと向かう。県道脇の歩道をずっと歩いていき、山道の入り口まで行く。
僕らはずっと、手を繋いだまま。
美希はためらいなく手を出してきたけど、僕らは出会ってから今日まで、手を繋いだことはない。今日初めて手を握り合った。
美希の手は小さくて、指も細かった。繊細、という表現が一番近い。でも、絶対に離さないという意思がはっきりと分かるくらい、僕の手をしっかりと握っている。
「海斗くんは、大学に入ってから何してた?」
しばらく歩いてから、美希が聞いてきた。
それぐらい知ってるだろ、って言いそうになったけど、そういえば入学したばかりの時はまだ美希は元気だったっけ。
「授業は、理系全般の基礎を学んでた。物理学、数学、生物。この基礎を一通り勉強したよ。一、二年はそんなもんだって。分野別になるのは三年からみたい。あとは航空科学研究サークルに入って、航空機について勉強してた。鳥人間コンテストにも出場しているところだから、航空機についてすごく詳しく学べるんだ。サークルでは、鳥人間コンテスト優勝を掲げて頑張ってるよ」
鳥人間コンテストは、大学生が人力の航空機を作り、タイムや飛行距離を競うもの。
飛行機好きの僕は、そのコンテストを毎年見ていて、いつも興奮したり感動したりしている。僕の憧れの舞台でもある。その大会に、自分で作った飛行機で、パイロットとして乗って出場し、優勝することが、今の僕の目標だ。ちなみに、このサークルでは、まだ優勝経験はない。
「そっか。頑張ってるんだね」
「美希は、何してたの」
「入院するまでは、この街をずっと散策してたよ。ぶらぶら歩きまわって、いろんなところに行ってきた。すぐに入院になっちゃったけどね。入院してからは、検査をしたり、点滴を打ったりして、あとはずっとベッドの上だったな」
「ずっとベッドのうえって、退屈そう」
「すっごく暇だった。でも、もらった本を読んだり、ほかの患者さんと話したりしていたし、みんながお見舞いにきてくれたから、そこまで退屈ではなかったよ」
「そうだったんだ。」
「でもね、本当はねすごく辛かった。入院してからはずっと、喘ぐくらいの激痛が治らなかったし、ずっと気分は悪いし、食欲もないし、夜は寝れないし。早く解放してくれ!って心の中でずっと叫んでたよ」
「そうだったの⁉︎普通に過ごしているように見えた」
「入院して初めてお母さんがお見舞いにきてくれた時、すごく辛そうな顔をしてたの。心配と悔しさと悲しみ、いろんな感情が入り混じった表情だった。心労は、はっきりとわかった。そんなお母さんをみたときね、もうやめよう、って思ったの。確かに辛いけど、それを表に出すことをやめようって、その時決めた。辛いのは私だけじゃないんだってことに気がついて、残された時間、私がみんなにできることを懸命にやろうって思った。とにかく笑顔でいて、辛い感じは一切出さない。来てくれた人には、必ず笑顔で帰ってもらえるように、ずっと工夫していたんだ」
過去の辛い記憶を、一つ一つ思い出しながら、美希は語った。
通り過ぎた家には、まだ八分咲きの桜の木があった。その桜の木の下を、美希と二人で、ゆっくりと潜っていく。
音もなく落ちてきた桜の花びらが三枚、僕らの間を通っていった。
花びらが通り過ぎた後、美希は続きを話し始めた。
「そんなことをしていたらね、一つの願いが生まれたんだ。みんなには、どんな時でも笑っていてほしい。どんなに辛いことがあったとしても、生きる希望を見失わないでほしいって。そういう願いがね。みんながきてから帰るまで、帰った後もずっと、そう願っていた。死んでからも、そう願い続けようって決めた。これから先、みんなに幸福が訪れますようにってね」
美希は、優しく微笑みながら語った。その話は、誰も知らない、彼女だけの物語だった。最初から最後まで、みんなのために生きた彼女の物語だ。
「だから、簡単になんかいってないからね!」
美希は僕を睨みつけながら言った
まだ引きずっていたのか。美希のその睨みつけてくる視線には、どうしても怖いものを感じてしまう。
「わかったって」
そういってなだめたけど、美希は納得していない様子。口を尖らせたまま、プイとそっぽを向いてしまった。このあと、色々と頑張って許してもらおうと思ったけど、結局、許してはもらえなかった。
そんなことをしていたら、展望台へと続く山道の入り口についていた。そして、なんの迷いもなく、僕らはその山道に入っていった。日に当たっていると暖かいけど、影になるとまだ肌寒い。でも、その寒さが、今はなんとなく気持ちよかった。
山の頂上へと続く坂道。舗装はされているけど、入り口付近は日当たりがいいみたいで、ところどころ苔が生えている。油断すると滑ってしまいそう。滑らないように、足元に気をつけながら、登っていく。
そこを過ぎると、あたりは薄暗い森の中になる。わずかな隙間から漏れてきた木漏れ日が、道に光の点をつけている。その光の点は、冷たい風が通る度に、ゆらりゆらりと道の上を漂っていた。
道の両脇は、杉の木とシダ類の植物が支配している。細くて長い杉の木。強風で折れてしまいそうだなっていつも思う。でも、実際には、台風の後でも折れていることは滅多にない。
「そういえば、さっき、皆が幸福になりますように願っていた、って言ってたけど、美希は元気に過ごしているみんなのことが羨ましくなることはなかったの?」
ふと思った疑問を、美希に聞いてみた。
「それはあったよ。だから、元気に過ごせる、ということが、一つの幸福なんだなって思ってた。みんなのこと、羨ましくはあった。でも、私みたいなことは体験して欲しくない。これを体験するのは、私だけでいい。他の人には、ずっと健康で、元気でいてほしい。そう思ってた。ただそれだけだよ」
ただそれだけ。美希は簡単そうにいったけど、本当はすごく難しいことなんだろうな。僕がやれって言われても、多分無理だろう。
人がほとんど入り込まない山道。折れた枝や、枯れた杉の葉が、道の上に散乱している。一歩一歩踏むたびに、パキッとか、シャリっとか、乾燥したものが折れる音がする。
ここまで、道の両脇は杉の木が、斜面を支配している。でも、その中で、杉の支配に抗うように、一本の山桜が生えている。そこだけ、スポットライトが当たっているかのように、明るく見える。その桜の木から次から次へと、雪のように、花びらは落ちてくる。木漏れ日に照らされながら落ちてくる花びらは、キラキラと輝いているようにも見えた。
桜の木の下で、美希は足を止めた。それにつられて、僕も止まる。音のない空間の中で動きを止めると、時間が止まっているように感じる。
上を見てみると、少し高いところで、桜の花が咲いている。薄暗い杉の森の中、桜の淡いピンク色の花は、まるでそれ自身が光っているように、眩しく見えた。
その桜の木から、花びらが二枚、音もなく落ちてきた。時が止まっているように感じるその空間を否定するように、でも、それを壊そうとすることもなく、ただ静かに、さりげなく、落ちていく。二枚とも、僕らの間を抜けていって、そのうちの一枚が、偶然にも、美希の肩に乗っかった。でも美希は、うつむいたまま目をつぶって、何かに耐えているようだった。
大丈夫かな?と心配していると、突然、勢いよく顔を上げて、上を向いたまま、深く深呼吸をした。いきなりの出来事に僕はびっくりして、肩に乗っていた花びらも落ちてしまった。美希は、僕の視線に気がついたみたいで、何も言わずにニコッとわらって、歩き出す。美希の突然の行動についていけなかった僕は、しばらく固まっていたけど、美希に手を引っ張られて、ようやく歩き出す。
頂上まで、中間地点を過ぎたところだ。
展望台の下にたどり着いた時は、お互いに少し息が切れていた。
「やっぱり、ここまでくるのは大変だね」
「そうだね」
美希の言葉に、息を整えながら頷いた。
桜の木を過ぎた後、山道の坂はさらに急勾配になる。僕らはいつも、この坂に苦戦する。でも今日は、すごく懐かしく感じた。帰省してきた時は必ずというくらい来てるけど、やっぱり美希がいるのといないのとでは全然違う。
「早く行こう」
坂道でへばっている僕に、美希はそう急かした。
美希の後ろについて、展望台の階段をのぼる。
この展開はよくあった。まだ美希が元気だった頃、美希とここまでの坂道を、「競争だ!」と言って走って登った。当然、僕の方が早くついたけど、その分、ついてからは当分動けなかった。そんな僕を横目でちらっと見て、「何してるの?早く行くよ」と、拗ねた口調で言って、美希はとっとと展望台の階段を登っていく。その後ろを、僕はいつも、ふらふらとついて行っていた。
展望台の隣には桜の木が生えている。この桜も満開に咲いていて、ちらりちらりと花びらを落としていた。ここの桜は、この時期はまだ咲き始めのはずだけど、今年はいつもより早く咲いたみたい。
足が重くなっているのを感じながら、展望台の階段を登って行く。螺旋状に続く階段を一周半回って、ようやく一番上についた。
「うわぁー!」
僕がつくよりも先に、美希の歓声が聞こえた。僕もすぐに、美希と同じ景色を見た。
「うわぁー」
美希と全く同じ歓声を出してしまった。
手すりに寄りかかって、景色を眺める。しばらくの間、お互い何も話さずに、景色を眺めていた。
眼下に広がるのは、さっきまでいた町。家や、僕らよりもはるかに大きい建物が、ミニチュア模型のように見え、そのミニチュア模型の中を、米粒のような車が走っている。
でも、その町をぐるっと囲む山は、より大きく見える。春霞のせいで、薄ぼんやりとしか見えないけど、山の向こうには、まだ頂上に白い雪を残している山もある。町からは決してみることのできない遠くのところまで、ここからならみることができる。
ちょうど町の真ん中には、さっきまで僕らがいた公園がある。その公園の真ん中に立つ桜の木も、小さく見えた。ここに来るまで、車道の脇を歩き、森の中を歩き、階段を登って来た。楽しかったけど、大変だったここまでの道。その苦労が一瞬にして吹き飛んで行ってしまうくらいの絶景。
「やっぱり、ここから見る景色はいいね」
美希のその感想に、僕も頷いた。
暖かい日差しが辺りを照らし、優しく吹いた冷たい風が、僕らの間を流れていく。
美希は深く深呼吸をして、遠くの空を眺めた。僕もつられて、その空を眺める。
淡く霞む青い空に、ふんわりと浮かぶ羊雲。風に流されてゆっくりと移動していく。
「ねえ海斗くん」
「なに?」
「実は今日会えたのはね、偶然じゃないんだ」
「え?」
「これから、本当の話をするね」
「うん…」
本当の話?どんなことなんだろう。もしかして、実際には、奇跡的に病気が治り、美希は死んでいなかった、ということかな?
少しの間、沈黙があった。風は止み、ウグイスの声と遠くからの町の騒音だけが、辺りに響いていた。でも、美希の言葉に集中していたから、周りの音は全く入ってこなかった。胸に重たい何かが生まれたような、そんな感じがしていた。
「私がもうこの世の存在ではない、というのは事実だよ」
「………」
美希は、僕の心を見透かしたように言った。
「でも、今日、こうやって私たちが合うことができて、話すことができるというのは、偶然じゃない。これは全部、必然的に起こったことなんだ」
美希の話が、いまいちよくわからなかった。
今こうやって話していることが偶然じゃなくて、必然的に起こったこと?今日会えたのは、お互いに約束を守り、果たしたいという思いがあったから、こうやって会えたんじゃないの?
「私ね、諦めてたんだ。自分が死んだとき、もう約束は果たせないのかって、諦めてたんだ。海斗くんと結んだ約束を守りたかったし、果たしたかった。けど、私が死んじゃった時点で、それはもう果たせない。守れなかったって、諦めてたんだ」
美希のその言葉を聞いても、僕は何も思わなかった。諦めていた、というのなら、僕も同じだから。美希の死を聞いたとき、やっぱり無理だったかって、諦めたから。
でも、そう考えてみると、お互いに約束を守り、果たしたい、という思いがこの時で無くなっている。じゃあやっぱり、今日会えたのは偶然じゃないのかな?他に何があるっていうんだろう。
「先に答えを言うと、これ全部、神仕組みなんだ」
「神仕組み?」
「うん。神様のお力があったから、今日会えたんだ」
またしても、僕は何も答えられなかった。突然、そんなことを言われたら、誰だって戸惑うだろう。
「でも、神様のお力があったから、今日会えたって言うわけじゃないんだ」
「え?どう言うこと?」
もう訳がわからなくなる。
「たとえ神様のお力があったとしても、私たち自身が、それを成し遂げたいって思えなかったら、何も起こることはないんだよ」
そうなんだ。
「じゃあ、僕らが今日、ここで出会うことを望まなかったら、たとえ神様の力があったとしても、美希には会えなかったということ?」
「そういうこと」
なるほど。そういうことか。つまり、今日こうして僕らが会うことができたのは、神様のお力があったから。でも、僕らがお互いに会うことを望んでいなかったら、こうして会うことはなかった。たとえ、神様の力があったとしても。
逆に、僕らが会うことを望んでいたとしても、神様の力がなかったら、会うことはできなかった。
僕らの思いと、神様の力。この二つがあったから、今日こうして、僕らは会うことができている。美希が言いたいのは、こういうことかな?
「でも、さっき諦めたって言ったじゃん」
「最初の頃はね。海斗くんも同じでしょ?」
「うん」
「でも、少し経った後、また私に会いたいって思っていたし、それでも約束は守ろうって思っていた。これも事実でしょ?」
「うん」
美希が亡くなって、約束が果たせないと諦めた。でも、せっかくだし、たとえ会えないとわかっていたとしても、約束の日に、あの場所へと行こうと決めていた。それに、美希が亡くなってから、すごく寂しい思いをしていた。
普通なら大丈夫なのに、突然襲ってくる寂しさ。メールの着信を見ても、今まではあった美希の名前が、もう出てくることはない。メールを送っても、もう返ってくることはない。電話をかけることもできなければ、今まで聞こえていた美希の声も、もう聞くことはできない。そう思ったとき、底の知れない寂しさに襲われるとこがあった。そんなとき、美希とのメールを見返したり、会話や美希の笑顔を思い出していた。でも、それも次第に薄れていって、もうぼんやりとしか思い出せなくなっていた。逃れられない寂しさに追われ続ける中で、もう一度美希に会いたいって、何度も願ってきた。だから、今日こうして会えたことは、嬉しかった。
「その思いがあれば、十分だよ」
「じゃあ、美希はどうだったの?さっき、美希も諦めたっていってたけど」
「確かに諦めていたよ。でも、海斗くんが、それでも約束は果たすっていっているし、もう一度私に会いたいってなんども言っている。それを聞いて、私もまた、約束を果たしたい、海斗くんに会いたいって思うようになったんだ」
「そう…だったんだ」
美希のその言葉は、すごく嬉しかった。と言うのも、僕は美希に対して、罪悪感を持っていたから。美希が入院していた時、会いに行けたのは、ゴールデンウィークの一回だけ。お葬式には、忙しいと理由を言って行かなかった。だから、美希にすごくさみしい思いをさせてしまったなと、ずっと思っていた。僕が寂しさに襲われているとき、「これは美希が体験した寂しさなんだ。だから、僕はそれを背負わないといけないんだ」と思っていた。美希は、また僕に会いたいなんて思っていないだろうと、勝手に思い込んでいた。
でも、今の美希の言葉で、それが全部消えていった。それが聞けただけでも、僕は十分だ。
「本当は全部知っているんだ」
「何を?」
「海斗くんが、今までどれだけ辛い思いをしていたのか。私のことについて、どれだけ考えてくれていたか。全部知っているんだ。それなのに、私が何もしないわけにはいかないじゃん。なんとかしたくなるよ、海斗くんのために、ってね」
「僕のために?」
「うん」
「何かしてたの?」
「うん。でもそれは秘密」
「えっ。なんで?」
「いつかわかるからだよ」
「いつかって、いつ?」
「それはわからないな」
僕は、美希がなぜそこまで秘密にするのかがわからない。僕のことは知っているのに、それはないよ。
「それにもう、話している時間も、長くはないからね」
何事もないかのように、さらっと言った美希の言葉を、僕の胸は、しっかりと受け止めた。楽しい時間に満たされていた僕の心に、一抹の寂しさが芽生える。
下の森から、風の音が聴こえてきた。その音は、止まっていた時間が、また動き始める。そんな予感をさせた。
「最後に、海斗くんにお願い事をしてもいいかな?」
最後。その言葉が、芽生えた寂しさを、大きくする。
最後のとき。それはいつか訪れる。わかっていたこと。美希がすでにこの世から去っている人間だって本人が言っていた。嬉しくて、楽しい時間だったけど、永遠には続かない。こんな時間なんて、本当は存在しないのだから。
「去年まで持っていた、私の夢なんだけどね…。海斗くんに、託していいかな?」
「うん」
さらに大きくなろうとする寂しさを、強引に抑え込む。
「じゃあ、言うね」
「うん」
美希は、手すりから離れると、僕の方を向いた。その美希の真剣な眼差しと雰囲気に、僕も手すりから離れて、美希と向き合う。
再び、緊張が僕を襲う。でもさっきとは違って、胸がチクチク痛くなって、ちょっとしたことで何かが切れてしまいそうな、そんな緊張だった。
「いつかの君みたいに、夢もなく、希望のない人たちがたくさんいる。その人たちに、夢と希望を、届けて欲しい。海斗くんなりのやり方でいいから」
美希のその願いに、僕は少し戸惑った。だって、明確に、これをしてほしい、ということだったらやれるとは思うけど、美希の願いは「夢と希望を届けてほしい」ということ。どうすればいいのか、わからなかった。
でも、うん、と言ってしまったから、拒むことはできない。
「…わかった」
何をすればいいかは、正直わからない。でも美希は、僕なりのやり方でいい、と言っていた。なら、その方法を探してみるしかない。
この世で、美希が叶えたかった夢。それを僕に託してくれた。できるかできないかはわからない。けど、できるところまではやってみよう。
「よかった」
美希は、ホッとしたような笑顔で、そう言った。
「ありがとう。海斗くんに託すことができて、本当にうれしい」
美希のその言葉に、またひとつ、決意を固めた。
冷たい春風が、僕らを包んで、流れていく。その中で美希は、コクンと小さく頷いた。
風がさり、美希は深く深呼吸をする。
そのとき、美希の頬を、一つの雫が、流れ落ちていった。太陽に照らされて、キラリと光ったその雫は、そのままポタリと、落ちていった。
一つの雫が落ちた後、それにつられるかのように、止めどなく涙が溢れていく。
「あっ。ごめんね。嬉しくってね。会えたこととか、願いを託すことができたこととか」
まだ何も聞いていないのに、美希は勝手に話していた。
「だっ…大丈夫だよ!本当に…何もないから…」
あふれ続ける涙を、美希は必死にぬぐい続ける。でも、どんなに必死に拭っても、拭いきることはできていなかった。僕はどうすればいいかがわからず、なんて声をかけたらいいかと、悩んでいた。
そんな僕らを、風が再び包み込む。
そのときだった。ドンと言う衝撃が体を襲い、僕は後方に飛ばされそうになった。運良く、手すりを掴んでいたことと、反射的にバランスを取ったことで、倒れることはなかった。
衝撃の正体は、美希だった。僕を両腕で強く抱きしめ、顔を胸元に押し付けて、泣いていた。
突然のことに、訳も分からない僕は、とりあえず、美希を優しく抱きしめた。
僕の胸元で大泣きする美希の声が、あたりの山に響く。
この時、僕はあることに気が付いた。それは、確信はないけど、美希が秘密にしていることの一つだと思った。
美希は確かに、ずっと見ていた、といっていた。そして、僕のために尽くしていた、とも言っていた。それがどういうことか、この時ようやく気がついた。
そして僕は、美希のそばで、そっと言った。
「…ありがとう。僕のために、一生懸命に尽くしてくれて。本当に、ありがとう」
美希は、ここまでくるのに、どれだけ頑張ったのだろうか。どれだけ走り周っていたのだろうか。どれだけ、辛く、大変だったのだろうか。そのことは、僕には分からない。
この世で生きていた時、病気と一人で戦っていた。その大変さを、誰にも悟らせることもなく。そして、あの世に帰ったとしても、今度は僕のために、一生懸命になってくれた。
いったい、どれだけ頑張ってきたのだろうか…。
それでも、美希は来てくれた。僕のためにって、会いに来てくれた。その努力の量は、美希の涙が表している。
「ばか……ばか……海斗くんのばか…」
いつもなら、言われると悔しい言葉。なのに、この時は受け入れざるを得なかった。
「…ごめんね。…気づけなくて」
そしてありがとう。今まで本当に、ありがとう。
落ち着きは取り戻しても、絶対に離さないと言うように、美希は強く抱きしめていた。
風は優しく吹き続けた。冷たい風と暖かい日差しと森のざわめきが、僕らを包み込んでいる。
少しして、美希はもういいよ、と言って、僕から離れた。
「最後に一つ、伝えておくね」
「うん」
「私はずっと、海斗くんのそばにいいる。たとえどんなことがあったとしても。たとえ、見えなくても、私は海斗くんのそばにいる。ずっとそばにいる。だから、海斗くんは決して独りじゃない。私が必ず、そばにいるから。これだけは、忘れないでね」
「うん。わかった」
美希は優しく微笑んで、そっと目を閉じた。そして、深呼吸を一つして、静かに頷いた。
「じゃあ…またね、海斗くん。…また、会えるときまで」
「うん。ありがとう。また…会えるときまで」
美希は笑顔で、答えてくれた。その笑顔は優しくて、いつか見た、桜みたいだった。
風の中に、一枚の桜の花びらが舞い込んできて、僕らの間を、さりげなく通りすぎていった。僕は一瞬、それに目を奪われた。次に来た強い風に、桜の花びらは、あっという間に、遠い空へと消えていった。
次に振り返ったとき、美希の姿は、もうなかった。風が美希をさらったかのように、あっという間の出来事だった。
暖かい春の陽と冷たい風。かすかに響く、町の騒音と森のざわめき。森のどこかでウグイスが鳴いて、風に乗った桜の花びらが散っていく。
ほんの数秒前まで、僕以外にもう一人いた。そんなことを感じさせないくらい、静かで何もない。美希が今までここにいた証は、美希が消えたのと同時に全て消えた。涙に濡れた胸元も、何もなかったかのように乾いている。
それでも、美希が残していった二つの願いは、僕の中にしっかりと残っている。その願いは絶対に忘れない。そして、美希のためにも必ず果たす。僕はそう、心に誓った。
その誓いに応えるように、風が吹き、無数の桜の花びらが散っていく。風に乗った桜の花びらは、僕の誓いを美希に伝えるように、青く澄んだ遠い空へと、消えていった。