パソコン
「またあいつか。いい加減疲れる」
周りから小言を言われながら、上司にしきりに頭を下げている人物は、良井蓮美。中堅の事務職に入社。約半年は経つ。
この会社は主にパソコンで先方先への書類作成やデータ管理を行っている為、いかに早くパソコンの扱いに慣れるかかが、今後の仕事に影響を及ぼしていくのだが。
「申し訳ございません。期限内に終わらせないとと焦っていて、誤字に気付いていませんでした」
怒りをあらわにしている上司に対し、ひたすら頭を下げ続ける。この光景は周りの職員はもうすでに見慣れていた。また、怒られているのかと囁く人もいる。
蓮美は元々、パソコンは大の苦手。初めは電源を点けることすら分からなかった。唯一、優しい先輩がいてくれたおかげで、なんとか業務を行うことは出来ている。だが、期限が迫ると焦りも募り、今回は単純な誤字さえも気づかぬまま先方に通してしまい、上司から雷を落とされている状況だ。
怒鳴られ続け、もう三十分は経つ。謝り続ける蓮美の肩に手が置かれた。柑橘系の爽やかな香水の香りが漂う。振り向くと、見慣れた先輩の顔があった。蓮美を見て、次に上司に目を向け、にっこりと笑顔を見せる。
「彼女の指導は主に私が行ってきました。今回のミスは私のミスでもあります。どうか許してもらえないでしょうか」
張りのある声で上司に言い、頭を下げる。上司は頭をかきながら、
「君が言うなら仕方ない。解散。解散」
あっさりとこの場から解放してくれた。自分の席に戻ると、私は隣に座った先輩にお礼を言う。先輩は無言で親指を立てた。
終電が間近に迫る時間帯に、一人社内でパソコンと向き合い、唸り声を上げている女性がいる。蓮美本人だ。
明日までに、またも資料作成を行わなければならず、今日は上司に特別に遅くまで残って仕事を続けていいと許可までもらえた。
しかし、なかなかはかどらない。パソコンの扱いが苦手である為、タイピングも遅い。改行もやっと出来るレベルである。
「もうこれじゃあ間に合わないよ」
自然と口から小言が漏れてくる。社内には蓮美以外誰もいない為、耳を傾ける人物はいない。
(ちょっと気分転換しよ)
資料作成のウインドウを閉じ、メールボックスを開く。一通の未読メールがあった。
「何これ。さっきまで無かったのに」
見覚えのない数字とアルファベットの入り混じったアドレス。この場合は開かないまま他の職員へ相談することになっているが、今は蓮美しかいない。
(まぁ。開けてもばれないよね)
パソコンへの知識の浅さが招き、未読メールへとポインタが合わさり、クリックされる。メールが開いた。
「ん?」
開いた瞬間、パソコン画面全体が真っ暗になった。電源が落ちたのかと思い、電源ランプを確認するも緑色のランプは点灯し続けている。不思議に思い、マウスを何度も押す。何も反応が無い。画面に何も表示されない。
「えー嘘。やばい」
蓮美は焦る。ただでさえ資料作成を終えていないのだ。さらにパソコンを壊したとまでなれば、焦るのは仕方がないように思える。
ザーーーー
砂嵐が流れているかのような音に反応し、電源ランプを見ていた眼を画面へと向ける。
画面に映像が映し出されていた。見たことの無い真っ暗な夜道を歩く様子が流れる。
徐々に、視界の端から赤い二つのランプが見えてきた。線路を横断出来るように設置された踏切だ。
動画は踏切の目の前に着くと、微動だにせずただ同じ風景を映し出している。
二分程経つと、次第に踏切の向こうから誰かが歩いて向かってくる様子が見えた。顔は俯いたまま、髪が長く全く手入れされていないことが画面越しでも分かる。
背丈は170cmほどであろうか。女性特有の胸の膨らみから、相手が女であることが伺える。
女は踏切まで近づくと、遮断機の黄色と黒のバーを両手で持ち上げ、線路内へと入った。そのままそこで佇んでいる。
「嘘!冗談でしょ!」
蓮美の両目はなぜか画面から離れない。離すことが出来ない。見続けることが義務であるかのようだ。
カンカンカンカン……
電車の近づく音が聞こえる。女に気付いたのか甲高いブレーキ音も響いてくる。
キイイイイィィィ
音が近づくと同時に、電車ももう近くに来ていることが分かる。どんどん甲高い音が高くなる。
瞬間、女が顔を上げ、カメラに向かいほくそ笑むと
グシャッ
肉の潰れる音が蓮美の耳に届いた。映像では速度を落とし続ける電車の側面が流れている。間に合わなかった。誰が見てもそう思える映像。そこで映像は途切れた。
映像の再生が終わると同時に、明るい青色の見慣れた壁紙が蓮美の視界に飛び込む。途切れていた思考が急速に回復した。
「い、いやああああああ!」
パソコンの電源は落とさず、そのままにして飛び出るように会社を出た。ひたすら走って家に辿り着く。
まだ、先ほどの不快な音が耳にこびりついて離れない。蓮美はトイレに駆け込み嘔吐した。明け方までトイレから離れることは出来なかった。
翌日、蓮美はだるい体に鞭を入れ、なんとか会社に入った。恐る恐る自分のパソコンを見る。電源ランプは点いていなかった。
電源ボタンを押し、パソコンを立ち上げる。見慣れた壁紙とアイコンの羅列が出てきた。
メールボックスを確認する。昨日のメールは無くなっていた。
(一体何だったんだろ)
安心感と恐怖感を同時に味わい続けていると、上司の怒鳴り声が蓮美に届いた。
「蓮美。まだ資料出来ていないのか!いい加減にしろ!」
蓮美は急いで席から立ち上がり、謝罪すると元の業務へと戻った。
昼休憩時、先輩とランチを食べていた蓮美はこっそり昨日の事について、相談した。
メールを開いたら、勝手に動画が流れたこと。気味の悪い映像であったこと。すると、先輩は
「うーん。映像だけじゃ本物かどうか分からないよね」
「何で映像だけですか?音も……」
蓮美の言葉は周りの喧騒に巻き込まれて、聞こえていないのか、先輩は話し続ける。
「元々、この会社の全てのパソコンは音が出ないように設定されてるし。あれ?大丈夫?顔色悪いよ」
その発言を聞き終わったと同時に、トイレに駆け込んだ。洗面所で嘔吐した。鏡に眼を向ける。
今も耳に残っている、人が轢かれた瞬間の生々しい音。先輩からの発言を聞き、もう一生、自分の脳内から消える事は無いのだろうと実感した。
絶望感に浸り、全ての表情が抜け落ちた自分の顔がそこにはあった。