第一章3 ただそこにあるもの
――それから一週間が経った。
それから、というのはあの不可思議な力を初めて確認した夜からである。
日々を濃密に、妥協無く、価値あるものとして生きてきた自信がユウキにはある。だが、そんなユウキをもってしても、この一週間に勝る濃密さは経験になかった。
あの理解の及ばぬ現象……こと現在に至っては能力と呼ぶに値するそれは、あの晩に限ったものではなかった。
一週間の間、ユウキは寝食を惜しんで、習慣を惜しんでこの能力への理解へ心血を注いだ。あらゆる情報が足りず、場合によっては自身に対する被害――そんな最悪な想定もありながら、しかしそれらの可能性をかなぐり捨て、ユウキはその能力を試した。
知らなければならない。今はただ、一秒でも早く、一つでも多く、正確に、この降って湧いたような出来事を理解しなければならない。
ユウキはひたすらに苛烈に自分を追い込みながら、この、いつ自分の下から消えてなくなるか分からない希望の全貌を必死に掴もうとした。
そうして一週間ののち、ユウキはようやくその能力を理解し始めた。――と言っても、まだまだ穴だらけの理解に過ぎないのだが。
ユウキはあの夜と同じようにリビングのソファに腰かけている。
「整理しよう……この、この現象を」
まず、もっとも重要な点……この能力は、認識できない。
――厳密には、直接認識することができない。一週間前の晩のようにコップやリモコンを動かすことに限らず、ユウキの意思によって何かを動かすことが可能だ。
そうなればそこには何らかの力が働いている――はずなのだが、それは視認できない。視覚に限らず、音、においでも分からない。
ただなんとなく、触れられるような、感触として分かるような、そんな気がするだけなのだ。ならば感触があるかと聞かれれば、分からないと答えてしまうだろう。それほどにあやふやで、確信のない感覚なのだ。
そんな曖昧な感覚が確かに、それはユウキが何らかのエネルギーを放出しているのではなく、元々そこにあったものを動かしている……そう訴えてくる。それはまさに、今まで一度として認識してこなかった、しかし確かに存在している、『ただそこにあるもの』だ。
確かなこととして、それは何らかに対して一方的に干渉できるものである。そして、それはユウキの意思によって扱うことができる。
一週間前には無意識的に機能していたようだが、今日に至るまでに幾度も試すうちに、それは実感を持って扱えるようになっていった。今は自分の付近のそれを押し出すように動かすことしかできないが、その感覚が正しければもっと異なることができるはずだ。
得体のしれない現状への恐怖。それはユウキには存在しない感情だった。
自分の夢には、壁がある。高く、厚く、そして一枚ではない。それらをすり抜け、乗り越えるような術を人生の中で模索し、己を研鑽してきたユウキの前に現れた異常。
こんなものがある日突然自分の中に目覚めるわけがない。――間違いなく、何らかの存在がその背景にあるのだろう。だがそれすらも、その存在すら今のユウキには愛おしい。
『ただそこにあるもの』に、ユウキは確かに、世界が変わる羽音を聞いた。
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「さあ、いらっしゃい!ユウキ!」
「や、おじゃましま――って痛い!痛い!」
ユウキの出鼻をくじくように、虎丸がバシバシとユウキの肩を叩く。しかし普段から体を鍛えているユウキをもってしても、その腕から放たれる信愛の一撃一撃が重い。痛い。
微笑ましくも、若干不安になるその光景は、小奇麗な一室の入り口で繰り広げられていた。
ユウキはその日、虎丸の通う大学に来ていた。表向きは、かつての親友の誘い通りに、交友を深めに。
この一室は研究室であり、大学のゼミで用いられる場所だ。ユウキは連れられるままに、虎丸とこの研究室に通う友人とこの研究室を紹介される流れだったのだ。
「お前はこう……奔放さに身体が追い抜いて、厄介なやつになったもんだな」
「ええ?いやいや、はは」
何か反論をしようとして、それを成すカードがないことに気付いたように照れ笑いする虎丸。
今やもう、他人は観察対象であって自分の心に近い場所には決して寄せ付けないユウキにとって、かつてその場所にあった存在――虎丸のあり様は、胸に不思議な感覚を与えてくる。
「あの、ええ、虎丸」
そんな中、咳払いをしながら、そんな二人の気を引こうとしている青年と、その横に縮こまっている少女がいる。
ユウキもこの研究室に入った時から気づいてはいたが、挨拶を交わす前に虎丸の激しいスキンシップの被害にあったためにその機会を逸していた。
青年のアピールが実を結び、虎丸はハッとして頷く。
「そうだった!ほらほらユウキ、これが私がいつもいる研究室です」
「えーっ!!こっちだろ!研究室より先に、俺らだろ!!」
「もう、冗談だよ。タイガージョークだよ」
「タイガージョークって何だよ!誤魔化されねえぞ!!」
肝心のユウキを置き去りに、突然始まるコントのような会話。坊主とまではいかないが、かなり短く切った茶髪の青年が歯を剥いて虎丸に向き合う。
その虎丸はにへらとしており、これはもうどちらが虎なのか分かったもんじゃないと、ユウキは苦笑した。
「まあ、それはさておき。ユウキ、この子は守。同じゼミの一つ下の後輩で……うん、いい子……かな?」
「おい!なんだその紹介!いい子だろ!」
虎丸の紹介も紹介だが、この守とかいう青年の反論の言葉もどこか抜けている。
ユウキは軽く会釈すると、守の隣に並ぶ少女に目を向ける。
「ええと、はい、私も守と同い年で……未波といいます。どうぞ、よろしくおねがいしま――ぎゃっ」
ユウキの視線に敏感に反応して挨拶を始める未波の頬を、ギュッと守がつねる。
「かしこまりすぎだろ!虎丸の幼馴染だぞ、気さくにいけ!気さくに!」
「ははは、その通り。もっと気楽に接してくれ。聞いてると思うけど、ユウキって呼んでくれ」
勝手にユウキへの接し方を指導する守と、それにおどおどする未波。二人に軽く笑いかけ、ユウキもそう自己紹介した。
研究室の中は小奇麗だが、いくらか物が散乱している。部屋の端の方には机やソファがあり、その反対側の方には散乱した資料や顕微鏡など小型の器具が見える。
大きな設備は別の部屋にあることは、ここに来るまでに虎丸から聞いたことだ。
虎丸の大学に見学に来て、そこの友人と顔を合わせる。虎丸とのそんな約束を果たしに来た。もっとも、連絡先などを交換していなかったのでぶっつけで大学に足を運んだら、まるで待ち受けていたように虎丸と遭遇したのだ。
――そんな微笑ましい内容が、表向き。ユウキの本当の目的は、ここの設備と、人を使って実験するためだった。自分の干渉する、『ただそこにあるもの』。
ユウキ自身もその全貌を、どころか輪郭すら掴みきれていないこの能力について少しでも何かわかるのであれば、それに越したことはない。ただ、そのためにこの能力の存在を自分以外の何者かに掴まれてはいけない。そのタイミングは、まだ先のはずなのだ。
だからこそ、大学の学生と、その研究室を利用すればその心配を減らせると考えた。万が一の場合も――どうにかできる。
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その日、ユウキは実に楽しい一日を過ごした。虎丸とその友人、守と未波との会話、実験の様子を見学しながら自分自身の能力を割り込ませた。
その結果分かったことは、やはりこの能力はただそこに存在するばかりで、誰にも観測できないものであるということ。実感として、というだけでなく、計器を用いてもそれは測定できない。
あるいはなんらかの力が働く以上、そうやって干渉された物体の方を観察することは可能であるし、それならば計器によって計ることは可能だろう。しかしそれは間接的に捉えるだけで、その根本的な要因である力そのものには届かない。
もしもこの推測が正しいのであれば、ユウキは手に入れたことになる。
――誰も知らない『ただそこにあるだけのもの』に干渉する能力を。
確かな確証は得ていないが――これが認識不可能な能力である以上、それに確証を得る術はない。組み込もう、この能力を、自分の利用できる手段の一つへと。
「じゃあね!ユウキ!また連絡するね!」
大学の正門前、ユウキが明るく手を振りながらそう言った。
一日中話し、楽しんだ。他の二人とは学内で別れたが、虎丸はこうして正門までユウキを送ってくれた。名残惜しさなんてものとは彼女は無縁だろうが、しかし次への期待を込めて、笑顔で。
「おう。お前もあんまりはしゃいで、事故とかには合わないように」
「あはは!気をつけます!」
揃って、車の眼前に飛び出した経験のある二人だ。その言葉の小粋な面白さに笑みを浮かべて、虎丸は振り返り際に、
「ユウキも、ね。最近物騒じゃない?あのなんとかって言う通り魔に襲われないようにね」
「返り討ちにするさ」
ユウキの自信ありげな返答に頷いて、虎丸は学内に戻っていった。
自信のあるふりなど簡単だが、ユウキには自信を裏付ける根拠がある。研鑽した肉体、研鑽した頭脳、研鑽した覚悟――そして、真新しい能力。
それに、万が一にもユウキが『黒点』に襲われることなどない。何故なら――――
「お前のことだもんな」
声。
その中にあふれる言葉は、誰に向けて発しられているのか判断しなくてはならない。しかしこの声は確かに、自分に、自分に向けてのみ発しられたものだとユウキは理解できた。
振り向くとそこには小柄な――――存在。
身長はユウキの肩程で、白衣というには厚手の、コートのようなものを纏い、そこから出る手は同じように白い皮手袋のようなものをはめている。
わずかに深い紫がかった肩にはかからない程度の黒髪は乱れ、その下から目つきの悪い顔を覗かせている。顔かたちは整ってこそいるが、その目つきが相まって、決して良い容姿ではない。
「俺が、なんだって?」
疑問は尽きないが、いつものように頭の中で思考しながら、まずは当たり前の返答をする。
こいつはおかしなことを言った。お前のこと――など、何を言いたいのかさっぱりだ。
大体、初対面の人間にお前って、お前。
「黒点」
その小柄な者は言葉を続けた。
こうして向き合って聞いても、その声からは性別が判断できない。中性的な、強いて言うなら男性である方に分がありそうな気だるげな声。
その声は、次に信じられないことを口にした。
「お前だもんな」
「――――」
殺そうか。
思考の激流は、しかし一瞬だった。
「お前、普通の人間じゃあないな」
「……へえ」
組みあがった理論。突然の言葉に、逆に突然の言葉で返したユウキにそれは興味深げに、疑問の色を乗せて声をあげた。
「俺がそうであることは、誰にもバレない。そんなミスは俺はしない」
「絶対かよ」
「絶対だ」
異常事態への邂逅に、ユウキは動揺しない。そもそも、ユウキにとって、今が想定にない事態であることこそが、答えを如実に導いているのだ。
「人間にはそんなことはできない。できないように俺がしている。じゃあお前は何なのか――――運の悪いことに……いや、良いことに、俺はそんな異常事態に心当たりがある」
「――――」
「普通の、人間に対する警戒や対策の土台がひっくり返ったばかりだ。そういう存在なら、俺に辿り着ける。黒点からじゃない……『ただそこにあるもの』から俺を辿ったな」
ユウキの言葉は支離滅裂だ。傲慢と、破綻した理屈。だが、その実成り立っている。
彼の傲慢極まりない自己評価は紛れもなく正しく、ただそれだけで理論は固まる。それはユウキと、その理論に辿り返された者だけが分かる一瞬の邂逅だ。
「ひどく、驚いた」
変わらずに中性的な声をそれは放ち、気だるげで、禍々しい目をほんの少し見開いた。
「なるほど、こうなっていたのか。どうりで……いや、話をしたい。長くなる」
「のこのこ付いて行くとでも?まあ行くけどさ、でも、俺が付いて行きたくなるような自己紹介は済ませろよ」
ユウキはすでに、内心湧き上がる感情を抑えるので必死だった。それは不安や恐怖とは程遠い、おそらくはこの状況にあって、ユウキにしか決して持てない感情。
――期待、喜び、興味。
まだ訪れるのか。俺の利用できるものがまだ増えてくれるのか。
世界平和なんていう、先の見えない終着点への、異常な抜け道がそこにあるのではないだろうか。いや、ユウキは確信していた。ある、あるはずだ。
「そうだな、ユウキ。自己紹介をしてしまおう」
名乗るまでもなく、それはユウキを知っている。そのことに疑問など持たず、ユウキは次の言葉に耳を傾ける。
「俺はナギサという呼び方になっている。この星に――地球に来たのはな、ユウキ。お前を迎えに来たんだ。お前に会うために」




