第一章2 あるいは共に
ユウキと虎丸は二人でいた。
あの後、いわゆる事後処理――はそれほど行われなかった。だれがどう見ても事故寸前であったが、少女を救うことに必死であったユウキは勿論のこと、誰も車のナンバーを確認していなかったのである。
実際には事故は起きなかったとはいえ、そのまま走り去った圧倒的加害者筆頭のその車の運転手を見逃すというのはどうにも納得いかぬ思いだが、周囲の人間はそこに首を突っ込む様子は無かった。
ユウキもまた、詮索しようとは考えない。というより、踏み入ってはいけないと、無意識の自分が止めたのだ。
しかしもっとも驚くべきは虎丸である。車への興味はおろか、たった今救出し感謝の意を述べられて然るべき少女にすら、まるで興味を失っていた。というより、抱きかかえた彼女を解放したあとは、まるで赤の他人に戻っているようだった。
なんにせよ一命をとりとめた――いや、とりとめさせた二人は積もる話もあるため、近くの公園に並んで足を運んだのである。
駅から少し歩いたところにあるその公園は、辺鄙な街の土地をふんだんに使った場所で、なかなかの広さがある。中央には大きな噴水があり、構内にいくつかあるベンチはくつろぎスポットだ。
二人は妙に目立つような気がして誰も座らない、噴水のそばのベンチに腰掛けて、
「あっはははは!!!!」
ユウキは、陽気に笑う虎丸の横顔を見ていた。
肩にかからない程度の澄んだ金髪と、ころころと表情の変わる整った顔立ち。かつてユウキが魅了された、強いまなざしもまるで黄金に輝いているように錯覚してしまう。
「笑いすぎだろ」
何も変わらない親友の姿に、思わずユウキは微笑んだ。油断だ――普段のユウキであれば、思わず何かを表出させてしまうことなど無い。
しかし、ユウキにとって唯一と言える友であった彼女の様子に、まるで凝り固まった身体が解きほぐされるような心地だった。
「いやあ、元気そうで何よりだよ。……ユウキ」
「……こっちの台詞だよ。虎は、今はどこで何やってるんだ?」
ユウキ。自分の名前だ。
だけど昔の虎丸は、ゆーくん、と恥ずかしい呼び方をしていた。だからまるで時間を切り取ったように思えていた彼女の口から自分の名前が出た時、確かに刻まれている時間の流れをユウキは感じた。
そんな何とも言えない郷愁のような感覚からか、ユウキは彼女のことをかつてのように呼んだ。
「大学に行ってるよ。ほら、駅の向こう側にある――――」
まだまだ暑くなりそうな日よりの公園で、かつての親友と語る。彼女は二つほど隣の駅に住んでいて、この街の大学に通っているらしい。
不規則な生活のユウキとは、たまたま街を散策する気になった虎丸が大学とは反対方面に来た今日以外で遭遇することが無かったのである。
いやはや、偶然とはこうも面白いものだろうか。中学を卒業して当時生まれ育ったこの街を離れた虎丸との再会。互いにこれほど成長すれば、今更再開の目途をつけようなんてこともなく、しかし今日運よく出会ったのだ。
今日からはまたいつでも会える。ユウキに叶わぬ夢を見せた少女と、また騒がしくも、温かい日々が始まるのだと。
――――最低の気分だ。
「あ、もうこんな時間だね」
「ああ、本当だ。残念だけど行こうか。会えてよかったよ、虎」
「うん、約束通り、今度大学に遊びに来てね」
優しく流れる時間が終わり、ユウキはベンチから腰を上げた。
何かを期待したのだろうか。あるいは、この気持ちに、決着を付けようとしたのか自分にも分からない。
――人生で最後だ。考えや意志を無視して、自分のわがままを行うのは。
振り向いて、ユウキは彼女を見た。
「なあ、虎。今のお前の、夢はなんだ?」
虎丸はユウキの突然の質問にきょとんとした顔で答えた。それだけで、ユウキの欲しい答えは出たのだ。
そしてほんの一瞬の間を空けて、あっけらかんな笑顔を見せた。
「夢なんてでっかいこと……無いけどさ、またユウキと会って話すことかな」
「それはそれは」
それにユウキも笑顔で答える。胸中には、もはや何も残っていなかった。悔いも怒りも。
彼女への思いはもとより、感謝しかなかった。だからこれは断じて、彼女が責められるようなことではないのだ。彼女は誰もが言えることを、口にしただけなのだから。
頭痛。――虎丸と別れてからずっと、静かな頭痛がユウキの表情を歪めていた。
その日やるべきことを終え。自宅へ帰ったころには、もう22時を回っていた。鍛え上げた身体も、もはや休めることを知らない頭にも疲労は少ない。あれだけのことがあったにも関わらず、身体に目立った外傷もない。
しばらく続いていた頭痛も夕刻ごろには収まっていた。しかし、やはり家に帰れば多少なり、疲れが押し寄せた。
「情けない話だな。幼馴染の成長した姿を見て、体調崩してどうすんだよ。成長した娘に頭を悩ませるパパか俺は」
帰宅後に手洗いなどを済ませると、ユウキはリビングのソファに身体を沈めた。帰宅してすぐに付けたテレビには、連日報道されている通り魔の事件についてのニュースが流れている。
「だらしないねえ……」
リモコンを机の上に置くと、今度は机の上のコップを持つ。中にはたった今入れた水が入っており、ガラス製のコップを伝って手に冷たさを感じる。
――今、都心で少しずつ騒がれ始めている通り魔。1年ほど前から現れ、静かに、しかし確かに名を広げていった存在。恐ろしい衣装、言動、メッセージ……劇場型犯罪者である。
映画やドラマでは見慣れたものでも、いざ実際に表れると世間の反応は様々であった。当然、否定的な意見が大半だが、そこに肯定的な意思が入り混じるのはその異常性に由来する。
人を傷つけ、時に殺める証拠が分からず、足跡を辿れず、動機が分からず、そして警察はその姿を捉えることすらできていない。
警察の捜査や警戒は特にここ数か月で相当なものになってはいるのだ。しかし、まるで悠々とその鼻先をかすめるように犯行を重ねている。
まるで壮大な劇を望む世間に呼応したかのように表れた存在。そして誰がそう呼んだのか、やがて『黒点』と呼ばれ始めた。
――黒点。強い光にかすみ、そして見えた存在。
この街も黒点の行動範囲外とは言えないが、前例はない。加えて、人目に付く場所には現れず、また何らかの正義に反しなければ黒点は現れない。
正義、というのはどうやら黒点が持つ基準によるらしい。それもネットに書かれていたことだから、世間一般の認識ではないが。
だが黒点の捜査に躍起になって、肝心の治安を守れなければ本末転倒というものではないだろうか。つい今朝方、実に痛快な速度で少女を跳ね飛ばさんという車がいたところだ。
「警察にしてみれば、好き放題やってくれている犯罪者の顔面にブローの一発でもキメてやりたい気持ちだろうけど、是非ともあの運転手を独房に放り込んでほしいもんだねえ」
水面下でカルト的な人気の種を芽吹いている黒点の危険性に、世間はようやく気付き始めている。これから、この話題は世間のスタンダードな会話の切り口となるのだろうか。
もっとも、この黒点が、運悪くお縄にかからなければの話だが。
「はあーあ!どうしてこんな夜遅くに、ニュース見てるんだろうなあー俺は」
それが自分の生活なのだから仕方があるまい、とツッコんでくれる人間はあいにくどこにもいない。
仕方がないから他のチャンネルを見てみようとリモコンに手を伸ばしたユウキの手が虚空を掴む。
「あれ?」
手元に置いたリモコンを取るのに、わざわざ目視で確認するまでもないし、そもそもここにあるだろうなんて考えることもない。
だが、ユウキが自然と手を伸ばした先にはリモコンはなく、その少し先、テーブルの奥の方に置いてあった。
別にリモコンの位置の記憶に絶対の自信がるわけではないし、ここには自分一人しかいないがこのミスは恥ずかしい。自己の研鑽に毎日を費やすユウキとしてはなおさらだ。
この歳で老いだろうか?人よりもたくさん頭を回しているからボケるのも早いということか?いやいや、そんな馬鹿な。
ユウキはいつも通りの自分の変な思考に呆れながら、今度はちゃんと目視したリモコンに手を伸ばした。
「――――は?」
手を引いた。
悪寒。混乱。
いくら一足早いボケが来たとしても、そんな思い違いはないはずだ。だというのに、目の前の光景と、記憶が合致しない。
「待て、待てよ。俺はリビングに入って、コップに水入れてここに座ったよな?……それでリモコン使ってテレビを付けた、それを手元に置いた」
らしくもなく混乱する頭をなんとか整理させようと、声に出しながら状況を振り返る。
しかし勘違いで済めばいいものを、確認すればいよいよおかしい。
「置いてねえ、立って手を伸ばさなきゃ届かないとこだ……そんなところに、置いてねえ」
リモコンが勝手に動いたなんてことを肯定するよりも、ユウキは素早く振り返り、室内を見回した。
自分一人で生活している寂しげな空間。誰かがいる気配などない。
いや、違う、違うのだ。リモコンを置いてから、自分はこの部屋から出ていない。誰かが現れて、それを動かすような小さなドッキリをやったという可能性はない。
幻ではあるまいか、と今一度リモコンに目を向けたユウキは絶句した。
机に置かれたリモコンが、コップまでもが、ゆっくりと奥に向かって動いているのだ。
――勝手に動いている。
「ま、待て!」
自分は何だ。リモコンと水の入ったコップに言っているのかと馬鹿にしたくなる光景だが、混乱したユウキからすればそれどころではない。
今にも机の端から落ちそうなリモコンにそう声を荒げた。
――すると、ピタリとリモコンとコップが動きを止めた。
目の前の出来事にいよいよわけが分からなくなってきたが、そこはこのユウキという男である。頭をフル回転させ、この眼前の現象の理由を考える。
「や、やあ元気?……日本語が分かる?」
もう万策尽きている。考えれば考えるほど、今この状況の説明がつかない理由が盤石になるばかりなのだ。
当然リモコンから小粋な返答が返ってくることもなく、ユウキはひとまず安心する。
そしてもう一つの可能性を検証する。ユウキは机の反対側へ回り込んだ。
リモコンも、コップも、ある方向へ動いていた。それはユウキとは逆方面である。
もしかして――――
「……ッ!」
そして予感は的中した。さっきよりもずっと遅く。しかし確実にコップがユウキの反対側に向かって動きだしたのだ。
そうなると疑問がわいてくる。何故今ユウキに近いリモコンが動かず、コップだけが動くのか。
――――仮に、まるで磁力のようにユウキによって何らかの力が発生しているのであれば、
「いや、仮に、仮にの話だぜ?……ああクソ、なんでこんなバカみたいなこと考えてるんだ……」
頭を抱える思いだが、もう馬鹿な話じゃ済まされない状況である。これはあまりに深刻な――そう、重要なことだ。
ユウキという男は異常事態を愛していた。
目からビームが出せる夢を見た時――夢から覚めたユウキは大いに時間を割いて、それが夢ではなく、現実のことか試そうとした。
馬鹿らしいことだと分かっていても、もしも、仮に、本当であれば。
夢まぼろしに、ありえないことに、縋りつかなければいられないほどに、
「俺の夢は、遠すぎるんだよな……」
ユウキはコップを凝視した。
――――動け。
奇妙な感覚。五感のいずれでもない何かで感じ取っているかのような、不気味な何かがコップを吹き飛ばし、向かいの壁に叩きつけた。
凄まじい衝撃がコップを襲ったように思えたにも関わらず、すぐ近くのリモコンも、室内の何もそれの影響を受けていない。
驚き、恐怖。それ以上に、このたびもまた、ユウキの胸中を支配する感情。
このどうにもならない状況を一変させることへの期待。不思議な力が覚醒して、それを自由に扱えるなんて――最高じゃないか。
この『力』によってその出来事は大きく動き出す。ただそれが、どれほどユウキの望むものであっただろうか。
あるいは共に夢を追えたあの金色の女性のように、この世はすべからく、思い通りにならないものなのだ。




