第一章1 世界が変わるきっかけ
――世界の色は、何色だと思う?
その日の朝は、やはりいつもと変わらないものであった。目が覚めたら世の中の何もかもが一変している……そんなことを、夢見てもいたのだが。
7月を跨ごうという猛暑日の朝、存在価値を失いかけている布団が体を覆っていた。それを蹴飛ばすようにして、ユウキは目覚めた。
「んん、おはよう……」
ユウキはじっとりと汗ばんだ寝巻のまま自室を出ると、階段を下り、リビングへと向かった。リビングにはカーテンの隙間から強い日差しが入り込んでおり、朝から張り切る太陽の活躍が伺える。小奇麗なその空間にはテレビとテーブルとソファー、あとは小物が入る棚が2つあるばかりのものである。
ユウキは棚から本を2冊取り出すとテーブルに置き、テレビの電源を付けると、一呼吸の後に顔をしかめた。
「おお?今日は、こんな時間に起きようと思ったんだっけ?……ああ、そうだそうだ」
ユウキが見たのはテレビの右上に主張する時刻であり、そこで9時を示していた。もっとも、日々の決まりごとのような予定の無い自分にとっては、大した意味を持たないものである。
しかし、今日この日に限れば、ユウキにはその時間を気にする理由があった。行こうとしていた場所があったのである。
テレビの画面には、決して若くはないが、瑞々しさのある女性が映っていた。顔に刻まれた皺は、歳によるもの以上に、彼女の人生の深さを感じさせるようである。
女性は進藤 茜という名であり、今この日本で知らない者はいないだろう。現在次代の首相候補の一人であり、ユウキの見立てでは十中八九確定だ。
世間では史上初の女性が首相となるのではという持ち上げ方をされているが、彼女は稀に見る手腕の持ち主である。一部熱烈な批判活動もあるものの、彼女が間もなく腕を振るうことになれば、余計な声もあがらなくなるだろう。
だが。
彼女では、世界を変えられない。ユウキはそう確信している。
テレビから流れ出る報道をそのままに、朝食のパンをかじりながら、棚から持ってきた本を開いて凝視する。そこには、小難しい医学や物理学に関することが所狭しと書かれている。
ユウキには自分の今を語る時に挙げられる場所が無い。小学校に通ってすぐから、高校を卒業し、3年あまり経った今現在に至るまで、その人生は研鑽に他ならなかった。
身を削るような肉体の鍛錬ばかりではない。ただの一秒も気を抜いて生きたことなど無く、人と話す時や見る時は表情・動き・言葉を観察し、目に映る全てを知識として取り込もうとしてきた。
生まれた時から他と異なる才能を持っていたわけではないが、その正気の沙汰では無い生き方は、ユウキを他と異なる地点に運んだ。170㎝と、決して高身長ではないその肉体は引き締まっている。顔は無気力なつくりだが、瞳は鋭く光っている。なにより、その頭の中身は、既に。
それから30分ほどでユウキは外出の準備を始めた。その間も、携帯の画面に映る時事的トピックスを見ながらという、まったく親の顔が見てみたい光景ではあった。この姿を世に晒そうものなら、インターネット依存症と指を差されることだろう。ユウキからしてみれば、10秒で済む情報をだらだらと流す報道よりも、ずっと簡潔で情報量が多いのだから仕方がないだろうというものだ。
テキパキと身支度を終えると、ユウキはそのまま足早に玄関へ向かい、靴を履いて扉を開けた。
22の男一人には大きすぎる家を出ると、朝のじんわりとした日差しが全身に照り付け、自然と苦笑いがこぼれるようだった。
しばらく歩くと、駅や店の多い場所に近づいたためか、人通りの少ないユウキ家の近辺に比べて多くの人が見られるようになってきた。人が増えるにつれて、ユウキはその光景をしきりに視線を動かしながら観察する。
――あの男の人は会社に通っているのかな?汗を拭う回数が少ない……何か考え事か、あるいは今日はいつもと違う場所に出張だろうか。
あの子どもは今日は学校がないのか。そうだ、今日が創立記念日の小学校が近くにあったな。表情からして、遊び……それも随分楽しみなようだ。あの手足はあまり体を動かしていないようだし、他所の家に行くのかな。
ああ、あのご老人は右肩を悪くしている。寝違えたという様子じゃないな。庇う動きに慣れていないあの様子だと2日…いや3日前にぶつけたのかな?足取りと表情からして、目的地は近そうだ。今日は駅の近くの市民館でイベントがあるから、そこに行きそうだ。
あの男は表情が曇っているな?おお、誰かと仲違いでもしたようだ。手に持っているのは近くの雑貨屋のものだし、喧嘩した女性にプレゼントでもした謝ろうとしているのかねえ。
我ながらとても人に見せられたものではない思考だが、仕方がない。自分がなすべきことの為には、どれだけの研鑽をしても足りるものではない。――あまりに、足りないのだ。
穏やかな街に似合う人の動きはゆったりとしている。それぞれの目的地と、考えがありながらも、誰しもが持つ人間のリズム。流れるような、一続きの世界の動き。
だからこそ、その男の動きは閃光のように景観に描かれた。
視線の先、1人の小柄な少女が立ち止まり、首にかけた小さな鞄の中を探っている。
――何か忘れものに気づいたのかな?ハンカチやポケットティッシュでも必要なのだろうか。
いつも通りの思考の中で、ユウキは誰よりも早く自分の体を前に突き出した。
――少女が立ち止まったその場所は、車道のど真ん中だった。
道幅は2車線の大したことのない車道の上、車の通行は少なく、おまけに信号の切り替えが遅い。地元では多くの人が、勝手気ままに渡るようななんてことのない場所だ。
誰もその瞬間の恐ろしさに気付かないことは無理もない。ユウキだけが確かに、相当のスピードのまま角を曲がって来る車を視界の端に捉えた。
その一瞬の後、勢いよくカーブしてきた車が心臓に響くような音を鳴らしながら姿を現した。そこでようやく、周囲の人達がその現状を理解する。白い乗用車、運転手の顔は――。
止まらない。いや、止められない。
また、一瞬で理解したユウキから汗が噴き出す。
――このままいけば、自分ごと撥ねられる。当り方をうまくやっても、あの子は助からない。
そう理解できてしまうからこそ、ぞっとするような絶望と、失望。今、足を止めるべきだという最悪の思考。ユウキが絶対の信頼を置く自分自身の判断に、ちらつくのはなんなのか。
――――金色。
その色は、世の人間が思い描くそれではない。決して言葉では言い表せないような輝きと、存在感。
ああ、なんとかなる。あの子は助かる、と、その場にいる誰もが何故かそう理解できた。
――女だ。ユウキとは反対の歩道から飛び出したそれは、まだ状況に気付いていない少女に飛び掛かった。
一瞬とは言え、ユウキの方が走り出しは早かったというのに、その女は瞬く間に少女を抱くように捕らえた。
「ありえねえ!」と目を見開いたユウキも、まだ状況が終わってないことは理解できていた。
そのままの勢い。飛びつくように少女を抱え、ほんの僅かな差で直進してくる車を避けたが、それは普通じゃない速度だ。そのまま倒れ込めば死なないまでも……。
「ぐう……ッ!」
その落下地点に、一足遅れたユウキは体を滑り込ませた。互いに向かい合う形で走り込んだために、それを受け止める衝撃は凄まじいものだった。挙句に少女の体重とセットで飛び込みまでかましてくれた女はもう、砲弾で打ち出された鉛のようで、ユウキの体ごと1mほど押し込んで、こてり、と尻もちをついた。
周囲から、驚愕に近いざわめきが起こる。非日常的なものを目撃した、そういうざわめきだ。
日々の研鑽によって、ユウキの体はなんとかなったというところだ。もっとも、その研鑽がなければ車の存在になど気付かなかったのだから皮肉のようだ。
もし車が姿を現した後ならば、おそらく自分は走り出さなかった。そういう意味では、良かったのかもしれない。
「わああ、すごい!受け止めたの!」
女は、ユウキをよそに立ち上がりながら声を上げて感嘆した。こっちの台詞だ。
女の腕から解放された少女はわけも分からない出来事に怯えた表情だ。無理もない……けど、その様子を見るに、どうやら怪我が無さそうでユウキはひとまず安心した。
「すごいな~!」
ユウキが思うに、この場で一番すごかったやつ。聞くまでもなく地毛……輝くような澄んだ金髪を持つ女はそんな様子で、ユウキを見ていた。
馬鹿げている。世の中はそう上手くはできていない。だから、こんな出会いは、リアリティのない話だ――――そう、ユウキは唸った。
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「お願いごと、なににしたの?ねえねえ、ゆーくん!」
「虎がしずかにしてくれますように」
「ええええええええ~~~~ッ!!!!!!!!」
「うるさっ!!」
――保育所。
子どもたちが集まる大きな部屋で、とりわけ騒がしい二人。黒髪のどうにも平凡な少年と、美しい金髪を背中にかかるほどに伸ばした少女。戸上悠木と、小玉虎丸。
その日は七月七日。世に言う、七夕という日である。世間ではそれほどの大行事ではないが、こういう場所ではわりと大仰に行われる。小さな子どもが夢を書く。小粋なイベントだと言えるだろう。
二人は保育士や他の子ども達の集団から離れて、二人で短冊を書いていた。とにかく願いを暴いてやろうとする虎丸に、ユウキはむっとした表情で目を向けた。
「虎はきまったの?お願い」
ユウキの言葉に、うねうねと騒いでいた虎丸はピタリと動きを止めて真剣な表情を見せた。突然の挙動に、ユウキは驚きながら同じように固まった。
そして数秒ほどの膠着の末に、虎丸はニマ~と表情を緩めた。
「じつはですね、もうきまっています……!」
虎丸はむふふんと自慢げに胸を張り、自分の黄色い短冊をユウキに向かって見せつけるように突き出した。
「なにそのいいかた……」
虎丸の大げさな物言いに失笑しながら、ユウキは突き出された短冊を見た。そこには「世界が平和になりますように」と書いてあった。
「なんてよむの?」
ユウキがいまだにお偉い雰囲気を醸し出す虎丸にそう聞くと、虎丸はフンッと自信満々な鼻息。
「せかいがへいわになりますように、とよみます」
「すごい」
「ね!でしょ~!」
「かんじ、かけるんだね」
「それは、せんせいにおしえてもらった」
ご丁寧に、子ども達が誰も読めない漢字で書いた虎丸に感動するユウキに、「そっちじゃないでしょー!」と虎丸が短冊を指差す。
「しってる?せかいじゅうで、せんそうしたり、たべるものがなかったり、たいへんなんだよ!」
「へえ」
「たいへんなの!」
「へいわになると、たいへんじゃなくなるの?」
「たいへんじゃなくなるの!」
虎丸なりに、テレビや大人の話に耳を傾けての結論なのだ。ユウキは言葉では淡々としながらも、胸の中に熱いものを感じた。
――虎丸のお願いは、すごいお願いだ。
この間無くなって子どもたちの間で大騒ぎになったトランプのスペードの4がほしい。できるだけたくさん!――なんて彦星様も失笑もののお願いを第一候補で書こうとしていたユウキにとって、虎丸のお願いはすごいものだった。その内容以上に、年に一度のお願いに、見知らぬ誰かのことを書く虎丸に憧れたのだ。
虎丸が意気揚々と短冊を吊るし、その神々しさにうんうんと頷いていると、ユウキがそのすぐ近くに短冊を吊るし始めた。
「おー、ゆーくんはどんなおねがい?うま?うまがほしい?」
変わらぬ笑顔で願いを見ようとするパパラッチのような彼女に、ユウキは「はは」と愛想にもならない乾いた笑いを送った。
その表情は、少しだけ不安を含んでいた。
「……!」
ユウキの短冊を見た虎丸は、力が抜けたように動きを落ち着かせて、目をまん丸にしていた。
その短冊には、しっかりとした字で「せかいへいわ」と書いてあった。「せかいへい」にやたらスペースを使ってしまった為に、「わ」が端に追いやられていて不憫でならないが、ともかく――。
「ほら」
目を丸くして黙ったままの虎丸の様子に不安になったユウキは何か言おうと口を開いた。これは、自信満々に考えた虎丸の大事なお願いごとを、勝手に使ったようなものだ。さっきの様子から、彼女にとってこのお願いがとても大切だということが分かったからこそ、ユウキは子どもながらに、その後ろめたさは感じていた。
「えっと、さ……たいへんなおねがいだからさ、ひとつよりふたつあったほうがいいかなって……」
「うん」
虎丸の声が随分と久しぶりに感じ、そしてそれが怒っている様子ではなく、ユウキはほっと息を吐いた。
「うん、うん。いいね。ふたつあると、もっとよくなるね……」
いつも元気で活発な彼女からは想像もできないような、優しい声色だ。消え入りそうなきめ細かいその声には、しかし確かに強い芯がある。
そんな少女を見ながら、ユウキは思った。
――神様とか、彦星様とか、見たことがない。信じていない。だけど、だからこの大事なお願いは、自分が叶えよう。きっとできる。だって、みんなが優しくなればすぐにできるようなことじゃないか。
この数時間後、「たくさんあるともっといい」ブームがきた虎丸によって、百枚近い世界平和の短冊が吊られ、その百分の一を担ったユウキも共犯として叱られることになったのである。
壮大な願いに感心する先生達と、自信満々の虎丸のドヤ顔、そして「革命家の木かと思ったよ」と爆笑する園長先生の姿はしばらくの語り草であった。
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「――――虎丸……?」
怯える少女をガン無視し、地面に尻をついたままのユウキを見下ろし、15年以上の月日を経てなお何も変わらない、天真爛漫の獅子の姿が、そこにはあった。




