女神の香り-2
あの臭いはなんだったのか?
その疑問だけが頭の中を巡る。突然の嘔吐から保健室で休むように言われて素直にベッドに寝ている俺にしては珍しく、消毒の臭いがあまり気にならなかった。あの強烈な重異臭はここではしない。あれほどの臭いも結局は空気と同じ臭いであるということだ。建物の一番西側に位置する保健室に西風に乗って来る雪の臭いと保健室内の消毒の臭い以外はしない。
それよりもだ。消毒やらの臭いが充満するこの部屋に長い時間留まっているにもかかわらず、気分が悪くなることない。鼻が異常によくなってから初めてのことで戸惑っていた。これもすべてあの遅刻してきた志州という女の臭いが鼻に刺さってからだ。鼻があまりにも強烈過ぎる臭いに麻痺しているのか?それともあの臭いが強烈過ぎて他の臭いが気にならなくなったのか?もしもそうだったら、成木から勧められた先生が行った免疫療法の意味がほとんどなくなってしまう。なぜなら、あの志州から放たれた臭いをほんの一瞬嗅いだだけで他の臭いが気にならなくなったのだ。
だが、それも勘違いだとすぐに気付く。
タバコとそれをごまかすミントの臭いの混合異臭が接近してくるのが分かった。すぐに枕元においてあったマスクをする。その臭いは不快で俺の気分を害するものだった。その臭いを持っているの奴といったらさっき出会ったばかりだ。
コンコンというノックの音がすると俺の返事を聞く前に扉が開いた。
「入るぞ」
井東先生だ。
「お。起きてるな。大丈夫か?」
お前が口を開いてしゃべる度に大丈夫じゃなくなるんだよ。
「大丈夫です。横になって気分は少し良くなりました」
大嘘である。
「それは良かった」
無頓着だな。
井東先生は俺が寝ていたベッドのそばに立てかけてあったパイプいすに腰掛ける。
「なんでマスクしてるんだ?」
「ファッションです」
「誰にも見られていないのにか?」
「いいですか、先生。ファッションというのは見られていないところでも意識するべきなんです。そうすれば、どんな状況になっても自分のおしゃれに気を使うところが相手にしっかり伝わるんです」
「そ、そうなのか?」
知らない。
井東先生は今の反応とその薄っぺらい顔からして恋愛経験なさそうだ。なんか小声で何か呟いただろ。タバコとミント口臭で丸分かりなんだよ。臭い。
だが、その臭いをしばらく我慢しなければならない。タバコ単体だったら普段の成木から臭っているからそれなりに会話から発せられる口臭には耐えられるが、井東先生はそこにタバコの臭いをごまかすためのミントの臭いが混ざっている。タバコの煙とニヤ臭さとミントの爽快ある臭いがなんともいえないミスマッチなものだ。でも、我慢しなければならない。我慢しないとあの異常なまでの悪臭を纏っていた志州という女子のことを何も聞けない。
「あ、あの先生」
「ん?どうした?」
「えっと・・・・・・」
志州という女子のことを聞こうにもなんて聞けばいいのか分からない。あの謎の異臭を放っていた女子はなんなんだよっていうのが一番聞きたいことなんだけど、俺の鼻のことを言ってもいきなり信じてくれる成木くらいだ。だから、ここは少し遠回りに聞き出すべきだなと俺の中で結論付けた。
「遅刻してきたあの女子って何なんですか?」
「・・・・・・え?」
いや、これはさすがに俺でもえ?って聞き返したくなるわ!
いきなり何なんですかって聞かれてどうやって答えるんだよ。意味分からないだろ。すぐに訂正だ。
「す、すみません。さっきのは忘れてください」
するとだ。
「ははぁ~ん」
なんで笑顔なんだよ。
「さては犬山」
「なんですか?」
「志州に一目惚れしたな?」
・・・・・・・・・・・・・・・・え?
「確かに志州は変わり者だが見た目はいいよな。いまどきのかわいい系っていうのか?見た目だけだったらそこそこ男子に人気があるんだよ。もしかして、志州の容姿がドストライク過ぎて胃袋がびっくりしたからゲロを吐いたのか?犬山はなかなか変な奴だな」
なんか俺が志州に一目惚れしてしまったみたいなことになっているんだけど。しかも、後付で変な奴だっているイメージを勝手に付けられたんだけど。つーか、俺は志州を見たのはほんの一瞬だけだぞ。それだけで一目惚れするくらいだったら日本の既婚率もっと高いだろ。
でも、この状況を利用すれば志州のことを自然といろいろ聞き出せそうだ。それに今の発現からしてこの井東先生は生徒の恋愛相談的なものにも乗っているようだ。だから、恋愛目線で志州のことを言えるんだろう。よし!行こうじゃないか。ちなみに俺は15年生きて好きな女の子なんかできたことのない童貞だ。
「変な奴とか言わないでください。まぁ、確かにかわいい子でしたけど・・・・・・気にはなりますけど」
嗅いだことのない強烈な悪異臭を放つ意味で気になる。
「そうか、そうか。まぁ、恋愛に関して先生である俺からはあまり横槍を入れるべきじゃないが、犬山が傷つく前に言っておくべきだろう」
「何をですか?」
「悪いことは言わない。志州は諦めろ」
その眼差しは真剣そのものだった。
「なぜですか?」
その問いに対して井東先生は小難しそうな表情を浮かべてパイプいすに目一杯もたれかかってから語り始める。
「今日、志州が遅刻した理由はなんだと思う?」
「遅刻した理由ですか?・・・・・・寝坊?」
「そんな単純なものじゃない」
遅刻する理由の王道を適当に言ってみたが違うようだ。これは俺のなんとなくだが、志州という女の子が遅刻した理由とあの臭いが繋がっているような気がした。それは井東先生の表情からも読み取れる。
「まぁ、俺も担任の先生だ。一応、遅刻した生徒にはその理由についてはちゃんと聞くんだ。でも、俺は志州の遅刻の理由についてはもう聞き飽きた。いや、もう聞きたくもない」
志州は遅刻魔のようだな。
「はぁ~」
とため息を漏らす。いっしょにタバコとミントの混合ガスも吐き出される。臭いから吐き出すな。しかし、志州の言動が井東先生の大きなストレスになっているようだ。臭いで分かる。人はストレスや疲労で体臭や口臭に異常をきたすことがある。ストレスによって自律神経が不安定になり、本来は体温を下げるために汗を出すという防衛本能が必要ない状況で働いてしまうことがある。それが体臭悪化の原因だ。井東先生はタバコとミントの臭いで分からないが、きっとストレスで体臭がひどいことになっている違いない。そういう意味ではまだミントの臭いでよかった。タバコの混合臭よりも体臭のほうが嫌いだ。あの臭いは鼻に穴が空くんじゃないかって思うくらい臭い。
「いいか。これは志州が言っていることであって俺の妄想とかじゃないから」
「え?あ、はい」
何を言っているんだ?こいつは?
井東先生は頭をぼりぼりを掻きながら答える。
「あいつには聞こえるらしいんだ」
「聞こえる?何が?」
その後、井東先生の言う言葉を俺は素直に信じることができなかった。成木に出会った一件から俺は信じることを選ぶことにした。信じてもらうことが救いになることを俺はこの身で実感したからだ。そんな決心をしたのは1年前の話だ。あの志を忘れた日はない。だが、初めて遭遇した信じられないことへの同様は俺の決心を忘れさせた。
「死体の声だ」
「・・・・・・・・・・え?」
「みんな最初は犬山と同じ反応をする。だが、これは本当に志州が言っていることだ。あいつは死体の声が聞こえる。そして、死体を会話することができる」
「え?あ、あの、すみません。言っている意味が分からないんですけど、頭大丈夫ですか?」
「俺じゃなくて志州が言っていることだってさっき言っただろ!」
ちょっとボケてみただけでうるさいし、口臭いし。
「俺だって志州の言っている意味なんて分からない。保護者によれば、精神の病気なんじゃないかって言われてるよ。精神疾患とか」
精神疾患。鼻が異常に良くなってから医者に同じ診断を俺も受けた。極度のストレスで発してもいない臭いを嗅ぎ取って体調を害しているんだと。精神系の薬を貰ったが俺は飲まなかった。自分の精神がいかれているとは感じたことはない。その辺の働きすぎてうつ病になるようなサラリーマンよりかは非常に安定していると思っている。
基本的に精神疾患というのはストレスとか過労とか睡眠不足とかが重なって発生する心の病だ。うつ病とかもその精神疾患の中に含まれる。俺は精神分裂病ではないかと診断された。見えないものが見える。聞こえないものが聞こえる。臭わないものが臭う。妄想や幻覚によって自我が崩壊するという感じのものだ。だが、精神疾患を抱えているからといって社会に不適合というわけではない。実際に治療やリハビリをして社会に復帰する人たちも多く存在する。
そんなような説明を医者から受けた。だから、知識はある。しかし、ぱっと見た感じ、といっても一瞬だけだが、志州は普通の女子生徒だ。異常な異臭を発すること以外は普通だと思う。
もしくは俺と同じように本当に聞こえているのに誰にも信じてもらえないか。
「志州は見た目がああだから、男子にはそこそこ人気があった」
その言い方は過去形だ。つまり、今はないということだ。その死体と会話できると訳の分からないことを言っていることが原因であることは目に見えている。
「でも、志州の異常な行動に誰もがドン引きした。俺も担任じゃなかったら関わっていることは絶対になかった」
「異常な行動とはなんですか?」
入れ食い気味に質問すると嫌な笑みを井東先生は浮かべた。この嫌は井東先生の感情ではなく、俺の感情だ。何か面白いことを考えているときのニヤニヤした顔だ。何かよからぬことを考えているときの顔だ。
「そんなに志州のことが気になるのか?」
「・・・・・・気になりますよ」
異常な悪異臭を放つ意味でだけど。
青春だなっと呟いているが全然青春してないからな。ただ、俺はあの異臭を嗅いだ直後に他の臭いを拾いづらくなったから今後、この異常によくなった鼻をどうにかするヒントになるかもしれないと思っただけだ。そのために志州という女を利用しようとしているだけだからなって言ったら、俺はただのツンデレになってしまう。なので言うまいか!
「うちの学校には月に一度くらいのペースで手荷物の抜き打ち検査をするんだ。学校に余計なものを持ってきていないかって調査するのが目的だ。担任である俺は自分の受け持つ生徒の荷物をチェックする。志州のかばんの中には何が入っていたと思う?」
その表情は暗く顔色も良いとは言えない感じになった。思い出すだけで不快なんだろう。
今までの話を聞けば、その中身がなんなのか容易だった。俺も想像するだけで、鼻が捻じ曲がってしまいそうだった。
「・・・・・・死体ですか?」
ゆっくりと井東先生はうなずく。雪と木々の香りを乗せたさわやかな風が保健室の中に吹き込んでくるがその匂いを俺は心地良いとは思えなかった。
「志州には死体の声が聞こえる。そして、志州はその死体を拾って来てはしばらく胸の中で抱えている。前に犬の死体を抱えたまま授業を受けようとしたから犬を奪い取った。そのときの表情を俺は忘れない」
顔を覆うようにしてうつむく。
「泣いていたんだ」
「泣いてた?」
「小説とか漫画とかだと死体に関わるような人って死神とか悪魔とか表現されることがあると思うが志州は真逆なんだ。―――女神みたいだったんだ」
まったく俺には想像できなかった。死体を抱える女神の姿を。真っ白な清楚で純潔なイメージの強い女神が朽ちていくだけの死体を果たして抱えているだろうか。抱えるはずがない。下手したら生き血ではないものが付着するし、その死体が元の生き物の形を保ったままとは限らない。そんなものを抱えているのは先生の言うように死神や悪魔と評されるほうが自然だ。それが女神と先生は言う。
ますます、興味が出てきた。
「とにかく、志州に一目惚れした犬山にはすまないが」
いや、一目惚れしたって一言も言ってないから。
「志州は諦めろ。あいつは普通じゃない。言っていることが何から何までおかしすぎる。コミュニケーションは死体としかとっていない。見ているだけで身震いするんだ。ぐったりとして死体を抱えてしゃべっているんだよ。楽しそうに」
思わずぞっとしてしまった。だが、それもすぐに収まった。たぶん、成木も最初はこうだったんだろう。
「信じられないことばかりを口にする奴だ。関わらないほうがいい」
忠告するように強く俺に言う。関わるなと。俺は満面の偽物の笑顔を作る。
「分かりました」
だが、俺の鼻を狂わせるほどの強烈な悪異臭と死体を会話できる信じられないことと、その様子が女神のようだというその志州と関わらないのは俺には到底無理だ。
まずは鼻だ。俺は異常なまでに鼻が良い。志州が教室と壁を隔てた廊下を歩いているだけで俺の体がその臭いに強烈なまでな拒否反応を起こしてしまう以上、無視なんてできない。そして、俺はこの鼻のことを成木に信じてもらえたことで心が救われた。こうして普通の生活をできているのも成木に信じてもらえたからだ。俺は信じるか信じないかと言われたら信じることを選ぶことにしたんだ。だから、志州のことを俺は信じたい。そのためには信じるだけの証拠が要る。これも成木から教わったことだ。最後に俺は先生の言う死体を抱える女神という表現をさせるだけの志州という少女のことが単純に気になった。




