第01話 開戦
―いつからだろう。
暗いこの空間にいるのは。
―何も無い。
吹く風も無く。
香る匂いも無く。
あるのはただ一面の黒のみ。
見慣れた瞳に映る黒を見つめたまま身体はゆっくりと下に落ちていた。
―ああ…光が欲しい。
不意に記憶の中にある光が浮かぶ。
懐かしい。
愛おしい。
当たりまえだと感じていたあの光が、今は無性に恋しかった。
あの光の温かさが。
あの光の眩しさが。
なぜ突然そんなことを思うのか。
自分でもよくわからない。
ただもう一度だけ光を見たかった。
だからだろう。
願った光が見えたとき、その奇跡が起こったとき。
涙が頬を伝っていた。
しかし、やっと現れた光はとても小さかった。
瞬きをした次の瞬間には消えてしまいそうなほど。
―お願い!消えないで!
だから必死に手を伸ばした。
骨と皮だけで力なんて入らなかったけど、それでもその光を、その奇跡を逃がしたくなくて。
震える手でその光に向かって、精一杯手を伸ばして。
そして…願いは叶った。
■■■■■
廃れた古城を歩く一組の男女がいた。
腰まで伸ばした真っ直ぐな金髪。
大きな空色の瞳。
身に着けているのは白銀製の甲冑。
剣帯には白い鞘に納められた剣が吊るされ、純白のスカートを纏った美しい少女。
耳が少し隠れるぐらいまで伸ばされた黒髪。
髪と同じ黒色の瞳。
黒と金で刺繍された豪奢な長衣。
左手には自分の身長ほどある黒光りする杖を持つ、少女と並んでも見劣りしない美形の少年。
身長差がそれほどかわらない少年と少女は、薄暗い通路を無言で歩く。
辺りからは物音ひとつせず、少女の踵が石畳を踏む音と少年の杖が石畳を叩く音が不気味なほど静かな空間に響く。
常人であれば不気味なこの空間に怯えそうだが、少年と少女にその雰囲気は無い。
どちらもその顔には余裕があり、まるで今から目当てのモノを買物に行くような気軽さがそこにはあった。
二人の足取りの迷いは無く、乱れも無かった。
「着いたわね」
やがて通路の終点にたどり着いたことを少女が知らせる。
終点の先にあったのは巨大な鏡。
二人の身長を突き抜け、古城の天井に届きそうなほどの大きさだ。
もちろん普通の鏡では無く、表面は小石が投げられた湖のような波紋が途絶えることなく広がっていた。
少女と少年は鏡の数歩手前で立ち止まる。
「…だね」
少年もまた目的地に着いたことを確認する。
「長いようで短いような気がするんだけど…どうかしら?」
「いや。実際かなり長かったよ。またここまでくるのは」
少年はうんうんと頷きながら腕を組む。
「あんな屈辱を受けたのは初めてだったからね。臥薪嘗胆の意味がようやくわかったよ」
「おろろ。あんたでも悔しがることがあったのね」
「…そりゃあるよ」
少女は意外ね、と呟くと、少年を見ながら含み笑いを漏らす。
「そういう君はどうなのさ?」
少女の笑みに憮然となりながら少年が返す。
「あたし?もちのロンで悔しいに決まってるじゃない!だから…」
少女の笑みが一段と深くなる。
「やられたらやり返すのよ」
ふふん、と鼻を鳴らす少女が傲慢な女王様に見えたがあえてそれを口にはしない。
彼女がこういう人間だということは、付き合いの長さでいい加減わかっていたから。
「さてさて…無駄話もこれくらいにして、いい加減行くとしますか。…Are you ready?」
少女が楽しげに問う。
何で突然英語、なんて疑問は浮かばない。
彼女はこういう人間だ。
それにこういうノリは嫌いじゃないしね、と少年は思う。
だから、振られたら乗ってあげるのがいつものこと。
「I'm ready」
少年の答えに満足そうに頷くと、少女は足を踏み出した。
少年もそれに続く。
向かう先は巨大な鏡。
波打つ波紋に躊躇することなく彼らは近づく。
そして、ずぶっと吸い込まれるようにして飲み込まれ、彼らの姿は古城から消えた。
■■■■■
鏡を抜けると、そこは小高い崖の上だった。
崖下に見える大地を含めて、地面には草一本生えておらず、乾いた茶色の土が地平線の彼方まで続いている。
荒涼とした大地に雨でも降らすつもりなのか、空は錆色の雲たちに支配されていた。
雲たちが連れてきた湿った風が肌に触れて気持ちが悪い。
だが二人ともそのことに対して不満を漏らさない。
いや、漏らす余裕がないと言った方が正しいかもしれない。
なぜなら二人とも鏡を抜けてからずっと前しか向いてない。
そう、ほんの数分前までは何もなかった地平線の彼方を。
地平線の彼方にあるそれは始めは黒い点だった。
やがて、点から染みが漏れ出し、黒い染みと成り。
そして、今、それは黒い海となって地平線を埋め尽くしていた。
黒い海の正体は…魔物だった。
大地を、空を、埋め尽くすほど大群の魔物がこちらに向かって迫っていた。
カチャカチャ、と風の音に異音が混じる。
震える少女の甲冑が立てる音だ。
カチカチ、と少女の隣からも異音が聞こえる。
震える少年の歯が鳴らす音だ。
「…緊張…してる?」
少年は噛まないようにゆっくりと少女に尋ねる。
「まさか武者震いよ…そっちは」
「同じく武者震いさ」
二人とも視線は前に向けたままだ。
「…ふふふ」
「…ははは」
地平線の彼方には数えるのも馬鹿らしいほどの魔物の数。
それが一直線にこちらに向かって来ている。
正気の沙汰じゃない。
―ええ、そうでしょう。
こんなの正気の沙汰じゃない。
―ああ、そうだろう。
でも、だからこそ…
「…ふっふふうっふうふぅふふふ!!!!」
「…あっはははぁはははっははは!!!!」
―面白いんじゃないの!
―面白いんじゃないか!
「さてと…リベンジと行きますか」
少年は楽しげに笑うと杖を構える。
「ええ、この前の借り一兆倍にして返してやるわ」
少女は不敵に笑うと抜刀する。
眼下に見えるのは、総数百万の魔物。
VRMMORPG『Legend』史上において最も難しく、攻略不能とまで言われた超難関クエスト「終末の刻」。
挑むPTはたったの二人。
後の世において伝説として謳われる少年と少女の物語の始まりは、百万対二という絶望的な状況から幕を開けた。