エピソード06 「子猫の決意」
私は彼女がシーツに包まった侭のベッドの端に腰掛けて、結局、私達は、窓が白み始める迄、取り留めの無い世間話を続けた。
学校の友達の事、昔憧れていた先生の事、押絵が趣味だと言う事、実はオクラが苦手だって事、100m走で一番をとった時の事、本当はダイエットの為に凄く食事には気をつけている事、聞いた事も無いテレビドラマが好きだって言う事、
私は、何だか嬉しそうに話し続ける彼女の言葉に耳を傾けながら、(自分の禍々しくも薄ら黒い感情はヒト匙もおくびに出さない侭で)、何が本当に正しい選択なのかを、自分自身に問いかけ続けた。
そしてとうとう、夜明けの晩を過ぎて、私は、しおりの母親に電話をかける事を決めた。勿論、最初からそのつもりだったのだ。
きちんと飛行機に乗せる事、きちんと迎えに来てもらう事、を確認、了承してもらうつもりだった。
私は更に20分余りをかけて、彼女が抱いている不安と、この一週間の出来事と、その他、母親としてとるべき責任について説明した
母親の反応は、驚くでも無く、怒るでも無く、嘆くでも無く、ただ一言
母親:「娘をよろしくお願いします。」
その、…一言だけだった。
栞:「どう、これで、私が「どうなっても良い子」だって言う事が、判ったでしょう?」
確かに、しおりの言い分は、まるっきり的を外れている訳では無い様に感じられた。
どうして、其処まで娘の事に無関心で居られるのか、この親子の間に積み重ねられた幾百重ものすれ違いを理解する事は、到底私には出来ないのかも知れない。
しかし、
正:「もう、いい、」
私は、しおりの頭を、鷲掴みにして、綺麗な長い髪をくしゃくしゃに掻き混ぜる。
正:「いいか、君の事を「知らない」「どうでも良い」と言う人間は放っておいたって世界中には腐るほど居るんだ。 だから、君だけは、絶対にそんな風に言うんじゃ無い。」
正:「それに、私も君の事をそんな風には絶対に思わない。君が、今此処に居る事を、意味のある事、価値のある事だって、私は知っている。」
しおりは、少し困った風に、私の事を上目遣いしながら、…
栞:「ありがとう。」
私は、少し照れ隠し気味に目を逸らして、それからいよいよ意を決して、…
正:「私達、友達になろう。」
しおりは、突然の私の提案に、不安そうな眼差しを向けて、…
栞:「どうして?」
私は、一寸苦笑いして、…
正:「君は、普通ならきっと胸の中にしまった侭、決して明かさなかった筈の想いを、私に聞かせてくれた。…友達になるのには、それで、十分だよ。」
その時、それは、私という人間を肯定する、必要十分な選択肢の様に、思われた。
正:「だから、その、もう少しだけ面倒見てあげるよ。 …友達として。君が、自分に自信が持てる様になる迄。」
しおりは、私の顔を見上げて、驚いた様に、目を大きく見開いて、…
栞:「迷惑じゃない?」
正:「良いかい、迷惑かけても「しょうがないな」って言うのが、友達なんだ。」
栞:「おじさん、…」
しおりは、少し俯いて、一瞬、泣き出すのでは無いかと思われた、…そんな風な、か細い声で、
栞:「それはそうと、私は一言も、頭に触って良いなんて許可した覚えは無いわよ。」
正:「あっ、ごめん。」
そう言ってから、しおりは、もっと撫ぜてくれと言わんばかりに、頭をもたげて来る、…
栞:「でも、赦してあげるわ。 頭を撫でられるのって、とても気持ち良いものなのね。」
まるで、自分勝手な都合で甘えてくる子猫みたいだ。
栞:「でもね、私、此処を出て行くわ。」
正:「えっ?」
しおりは、大きな瞳を細めながら、私の掌を両手で包み込む様に受け止めて、…胸に抱く、
栞:「私、おじさんの事、好きよ。 親切にしてくれたし、優しくしてくれたし、心配してくれた、私の事友達だって言ってくれた。」
栞:「だから、これ以上迷惑をかけたくないの。」
栞:「おじさんには、奥さんも、子供もいて、仕事もある。それなのに、私みたいな女の子を何時までも傍に置いていたら、迷惑をかけるのは、判りきっているわ。」
私は、自分が、何をしたかったのか、すべきなのかを、…見失う。
正:「それで、どうするつもりなんだ? 私は君のお母さんに「君の事をよろしく頼む」って頼まれたんだぞ。」
栞:「心配しないで、…またふらっと居なくなったって言えば良い。きっとママは、私がどうなっても、構わないと思うから、」
正:「君は、自分の事をもっと大切に考えるべきだ。 世の中は、君が考えてる程、安全じゃない。」
しおりは、静かに目を閉じて、私の掌を両手で慈しむ様に抱きしめて、そっと、…口付けする。
栞:「おじさんも、…そうなのでしょう?」
栞:「だから、私、おじさんを困らせたくないの。」
そう言われてしまったら、もはや私に、返す言葉など、…ある訳が無い。
正:「それで、君は何処へ行くつもりなんだ?」
私は、滑稽に浮かれていた自分の取り繕う様に、抑揚の無い冷めた口調で、そう問い掛ける、
栞:「そうね、スペインにでも行って見ようかしら。」
そうしてしおりは、私を慰める様に、優しく微笑みながら、そう答えた。
栞:「私、フラメンコを見てみたいな。」