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002. お嬢さんお待ちなさい




 ここに途方もない理由で世界を渡った女が一人。


 忙しない現実から逃避したいなと夢想することはあれど、まさか常識外の力と方法で、こんなに遠くまで来るとは考えもしなかったのだ。






   * * *






 この世界には名もなき大陸が一つ。

 創造神が降り立ったとされる聖地を中心に、世界は東西南北に大きく四分割されて語られていた。

 そこに、東方屈指の王国であるウィスタンスがある。


 海に面した王都ニムロンの城下は、大通りから一歩外れると薄暗く寂れた小路がいくつもある。絡み合う蜘蛛の巣のようなそこを空であるくには、優れた方向感覚と、確固たる目的地が必要とされた。

 加えて、果たして本気で客を呼び込む気があるのか、少しばかり疑しい店が多いのも特徴だった。


 その中の一軒が、青い蜥蜴の看板がかかった術式屋だ。

 大通りにある名の知れた魔術師が経営する店とは違い、たった数人が入れる程度の店舗に、術士も店主を兼ねた一人だけ。しかもその人物は、気が乗らなければどんな大枚をはたかれても術式を売らず、気が乗れば干し肉の一枚でも瀕死の人間を救ってしまう術を施すような、商売人としては客を自ら選ぶという二流であり、人間としては気紛れな変人であった。


 平民に対してはおおむね好意的なために、知る人ぞ知る腕のいい術式屋と密かな評判もあるが、地位ある人間にとってはのっぴきならない事情に陥ったときの最後の手段と噂されていた。


 さて。そんな少しばかり真っ当そうでない店に、つい先日から一人の女が居候している。

 

「おぉーい、お客様が来てやったぞー」

「あ、いらっしゃいませ」

「おうおうキヨカ。元気でまだいるってことは、あの唐変木術士に愛想つかしてねえな?」

「あはは」


 ベルもない扉を押し開いて、不自由な右足を難儀そうに運ぶ中年男を迎えた女―――― キヨカは、店の片隅に寄せていた折り畳みの椅子を勧めながら軽やかに笑った。


 肩の少し下で切り揃えられた髪を流し、少し黄色みがかった白い肌は滑らかだ。小さくあまり高くない鼻に、薄く淡い色の唇。若く見られがちだが、黒の近い焦げ茶には相応の落ち着きが見える。強く主張するところはないが、なんとなくほっとする顔だと大抵は言われる。


「唐変木ですか?」

「俺はこれでも心配してんだ。なんたって酔った勢いでこんな娘っこを持ち帰っちまうヤローだ。なあ、嫌になったらすぐいいな。訳あり女なんて珍しくもねえよ。それなりの場所を世話するぜ?」 


 傷だらけの顔はたいそう迫力があるが、意外につぶらな瞳は温かみがあって、中年男の気の良さがうかがえた。


 さて何と言おうかとキヨカが一瞬考えたとき、店の奥から極々静かな気配で店主が顔を出す。


「うっせえぞ、おっさん。客だってんなら商品以外にケチつけんな」


 キヨカの目に映る店主は、どこにも無駄なところがない鍛え上げられた身体つきの大柄な男だった。身長はおそらく目算で一九〇はあるはずと思っている。一五五のキヨカからすれば、見上げると首が痛いほどだ。

 ダークブロンドの少しだけクセのある髪を後ろに掻きやっていて、ほどよく日に焼けた顔に髭の剃り残しを見つけた。粗削りな印象を受ける大ぶりな顔のパーツが絶妙に配置されていて、ともすれば男臭すぎるようにも厳めし過ぎるようにも見えるところを、少しだけ垂れ気味な青灰色の瞳が愛嬌を出している。


 外見だけの印象でいうならば世慣れた傭兵か何かにしか見えないのだが、魔法言語を複雑な法則で編み上げる魔導士だという。ただ何故か、世間一般には「魔術師」であると名乗っているらしい。


 どちらにしても、


(ガテン系インテリ)


 キヨカはそう一息で表わしていた。


 魔導士であり魔術師と名乗る店主ジオは、鬱陶しそうに中年男を見遣った。


「だいたい自分でお客様とか言ってるなよ」

「かーっ! こんな零細小店のお得意様だぞ、俺は」

「零細じゃねえ」

「嘘こけ」


 仲がいいのだろうと思うことにして、キヨカは茶の準備をし始めた。


 零細かどうかは置いておいても、彼女が世話になり始めてから見ていてわかるのは、そう忙しい店ではないということだ。

 開店も閉店も一定の時間ではないし、日に五人も客が来れば繁盛という状況らしい。


 自ら言うように常連である中年男は、兵士時代に痛めた右足に三日の一度の割合で術式を施すために来店している。基本は稼働補助、寒さが酷いときには鎮痛効果も加えるようだ。後者は薬を飲む手もあるが、効きは術式に及ぶべくもないらしい。


 そのあたりのことは、キヨカにはまだ常識として身についていない。

 ただ、ああそうなんだと頷くにとどめるのみである。


「はいどうぞ。ジオさんも」


 なんだかんだと向かい合うようにして椅子に腰かける男二人に、武骨なカップに注いだ褐色の茶を出した。


 おう、と短く返事をしてカップを持ち上げたジオの腕には、まくりあげた白シャツから覗き見えるように青い墨が彫ってある。キヨカの記憶にある刺青よりずっと濃く青黒いため、見慣れるまでは相当驚かされた。

 基本は幾何学模様と細かな文字のようであり、それが背中の肩甲骨辺りまで続くらしい。さりげなく意匠化されているのは、おそらく店の看板にもなっている蜥蜴だ。


 この世界に置いて刺青はそう珍しいものでもないらしい。

 ウィスタンス王国は東を海に面し、北西には万年雪の山脈が連なる。古くは海で死のうとも、雪山で死のうとも、見つかった遺体がどこの地域の人間であるのかわかるようにその身分や所属を表わすものだった。

 今では術式を直接肌に刻んで護身とする意味合いが強く、王侯貴族はもちろん、金銭的余裕がある平民にもよく見かける。


 だがジオのように本職の魔術師などは、そうでない人々が手の甲など一部分に掘るのみなのに対し、桁違いに図案の量が多い。本人がどれほど複雑な術式を編むことの出来る術士なのか、図案の独創性がそのまま実力の指標でもあるからだという。


 なかなかに興味深い文化だなとキヨカも思うが、彫るときの痛みを想像すると何やら背筋のあたりに冷や汗が滲む。痛いのは嫌いだと、単純にその思考が占めるからだ。


 ふと目につくものにさえそんな未知の風が香っていて、あれは何これは何とキヨカには目まぐるしい。ただそのことに、いつしか忘れていたような心躍る感覚を思い出すのも確かだった。


(おかしいなあ。ジオさんじゃないけど、私だってまだ若い部類のはずなのに)


 ついこの間までの当然だった日常は、枯れているとまで言われたことはないが、華やかでもなかったなと思う。日々が過ぎていく早さだけを実感しながら、でも色濃い時間だとも思わず。むしろ隙間を埋めようと必死になりながら、今度は違う部分に綻びを作ってしまっていた気さえするのだ。


 そんな毎日から切り離されて初めて、努めてみないようにしていた部分があったのだと気付く。

 途方に暮れてどうしようもない気分になったとしてもまるで不思議ではないのに、何故かそういう感情は遠い。

 

 キヨカはまだ何か客と言い合いを続けるジオを見た。


 ―――― おそらくは、この魔導士だという男のせいなのだろう。


 文字通り、キヨカが考えもしなかった異文化の中で生活しなければならなくなった元凶という意味であり、そうであるはずが彼のおかげで悲壮感とも無縁だという意味でもある。






   * * *






 キヨカはの本名は、この世界の東方共通語では書き表せない「成瀬聖歌」と書く。ウィスタンス風に言えばキヨカ・ナルセだ。


 信じがたいことに彼女は異世界の人間だ。


 地球というところの日本国に生きていた彼女はその日、三大宗教の一つに欠かせない降誕祭の前日―――― つまるところクリスマス・イヴに猛烈に稼いでいた。


 いささか恥ずかしいコスプレ衣装まで身に着けてデパートのクリスマスバーゲンで福引係をしていたのは、短大を卒業して一年半以上勤めた会社をリストラされたからだ。


 こじんまりとした運送会社の事務をしていたのだが、社長が急逝して残された奥さんでは経営は出来ず、古株の社員が買い取ることになって落ち着いたかと思えば、社長の伝手を引き継ぐことが難しいために規模を縮小することとなった。

 数人いた事務員はみんな女性でキヨカが最も若く、「君なら再出発できるよ」と新社長に言われたわけだ。


 シングルマザーだった母は昨年電撃再婚しており、一周年記念なのだと義父とともにクリスマスから新年にかけてハワイ旅行へと旅立って行った。

 娘の大事にあらあらと反応はしていたものの、どうしても何ともならなかったら帰ってきなさいと、実におおらかな言葉を残して行った。


 すぐさま就活に動きたくとも年末年始にそれは出来ない。

 ひとまずは高収入なイベントバイトをこなすしかないと派遣会社に登録し、恥ずかしいまでに丈の短いミニスカサンタの衣装を着て、福引整理をしていた。

 混雑する店内のざわめきに酔いそうになりつつ客を捌き続け、終了時間の間際には、早朝にこなした荷詰め作業の別なバイトが響いたのか、今にも瞼が落ちそうなほどに眠かった。


 早く帰ろうとロッカーに向かう途中、何となしにお手洗いに寄って、ああ疲れた顔だなあと鏡をぼんやりと見ていたとき――――それが起こったのだ。


 何かズズッと身体が横に引かれるような感覚。何だろうかと反応するよりも早く、ちかちかと眩い光が襲い掛かるように彼女を横殴りに通り過ぎ、思わず目を瞑った。

 足場のない空間をごおごおと音が鳴るほどスピードで引かれ、意識が遠のいたのがわかった。


 ……その途中、彼女を強引に引く見えないものが断ち切られるように横移動がすっと止まり、しばらく真っ暗闇にぽっかり浮かんだままの一瞬があったと思う。

 そうして、本当にただあるべき場所に収まるようにすとんと、気づいたら抱き留められていたのである。


 ―――― 嫁を召喚しようとしたのだという、酔っ払いな魔導士の腕に。






   * * *






 酔った人間のしたことですからでは済まされないことだったのだが、満足気に笑ってキヨカを抱きしめて眠った男の顔が、立派な大人なのにあまりにあどけなく……。


 状況が飲み込めないことと眠気で呆然としていたこともあるが、その場にいた紫色の髪をしたやたら綺麗な顔の青年の方がよほど恐慌状態だった。

 外見からしても違う人種であるだろうとは思っていたが、始めは何事かをしきりに訪ねてくる青年の言葉も分からず、すやすや寝入った魔導士―――― ジオが目覚めるまではお手上げ状態だった。


 青年が耳元で叫んでも足蹴にしても起きなかったジオが覚醒し、二日酔いでぐだぐだなところで状況を把握したらしく、怒っているんだか申し訳ないんだかわからない顰め面をしていたのが少し怖かった。


 キヨカが東方共通語を操れないことを知り、翻訳の術式を施してようやく、彼女がジオや青年たちの生きる世界とはまったく違う場所から来たのだということが明らかになった。


 男たちがその事実に気付くまでが短かったのは、ひとえに異世界人の前例が身近にあったからだ。

 彼女が召喚された夜、国を挙げての祝い事の中心人物であったウィスタンス第四王子妃はキヨカと同じ世界の人間だという。

 けれどそちらはときどきあるという境界線を越した迷い人と呼ぶそうで、誰のどんな人為的力が作用したわけでもない。


 通常召喚の術式というのはせいぜい自分が認識できる範囲、つまりは違う世界を越えて何かを呼び出したりは出来ないはずで、今までにもそんなことは聞いたこともなかった。


 だがキヨカは現に世界を渡ってしまい、歴史にでも残りそうなそれを成功させたのはおそらくジオなのだ。

 酔った勢いの奇跡が起きてしまったのか、ジオにも何がどうなってという説明が出来ないらしい。術式が発動する瞬間を見たという彼の弟弟子も、細かな条件が山ほど編み込まれていたとはいえ、これまでの概念を越すほどのものだったとは思えないと言っていた。


 つまり、だ。

 結果は明らかでも、逆算してその過程を説明できない以上、キヨカは元の世界に帰れない。


 平謝りの末、解明のために兄弟弟子そろって尽力すると約束はしてもらったが、彼女には理解できない分野のために大きく希望を持つのも難しい話だった。

 けれども気をもんでも彼女では解決できない。


 ゆっくり休んでみたいと思っていた。

 これはそう、海外への旅行というか、留学のようなものなのだとキヨカは考えることにした。


 そしてふとしたとき、こちらにいる間の衣食住もろもろを提供すると申し出たジオの言葉を思い出す。


『必ず責任は取る』


 客相手にも乱暴な口調だが、不自由な足に稼働補助の術式を施す顔は真剣で、その骨張った太い指先はおどろくほどに繊細な動きをする。

 空中の見えない物質を掻き集めて何かを描き出すように、ジオの編む術式は芸術のように美しかった。




 そうしてキヨカは異世界の国、ウィスタンスで生き始めた。

 何故か常連の中年男には、したたかに酔ったジオが、欲に任せて身寄りのない訳あり娘を連れ込んだのだと認識され、それが他の客に伝播していきながら。


 青蜥蜴の唐変木術士に、一足早く春来る――?

 

 裏路地の小さな術式屋を舞台に、噂は当人たちを差し置いて、生温かな瞳ばかりがそうして増えていくのだ。







    

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