天使の本⑤~シグルド~
「てめえ、シグルド! さっさと姿を現しやがれっ。でないと殺すぞ!」
怒声が辺りに響き渡る。僕は恐怖に慄いてうずくまる。
正体が知れてしまった。僕の迂闊な行動で。こうなってはもういくら天使の本の証をジャグダンの本神殿の自室へ転移させていたとしても関係ない。
『呼んだ、シグルド。ああ……見つかってしまったのね』
(天使の本、僕はどうしたらいい? 炎の壁で時間を稼ごうとしたんだ、そうしたら)
『しっかりしなさいシグルド。貴方は五冊の本を手に入れて、魔の島の本棚へとわたしたちを納めるのでしょう。こんなところで死んでいいような人物ではないのよ』
……そうだ。僕は五冊の本を手に入れて、魔の島の本棚へと戻すのだった。
ここで死んでたまるか。
ここでアキアース君と対峙しなければ真に彼の持つ、剣王の本と誘惑の本を手に入れることはできないだろう。だから戦うんだ、彼と。
僕は未だ燃え続けている炎の壁の前に姿を現した。
「よお、シグルド。ひさしぶりだなあ。カナをどこかにやったそうで。まあ、殺す手間が省けたと思えば礼を言ったほうがいいんだろうけど」
にたりと笑って剣を抜き放つアキアース君は、まるで地獄から甦った魔人のようだった。魔人アルバクダル。
女神アステリアが天使の本が打ち鍛えし神槍クススニクでもって打ち倒した魔人アルバクダル。
その存在を疑問視する愚か者も女神信仰の中にいるが、具現化したとしたら、きっと、おそらくアキアース君のような姿をしていたのだろう。彼はおぞましい形相で僕を見ていた。
「まだ殺すかどうかは決めかねてたんだよ。なのにあんたときたらカナを……どうした。殺したのか」
すさまじい睨みで僕を見るアキアース君はどこか悲しげな瞳をしていた。まさか、彼がカナちゃんを殺されたと思い悲しんでいるのだとか、殺したと思われている僕を許さないと思っているとは思えなかった。だけど、深い悲しみを帯びたその瞳を見ていると。
「し、死んだかどうかはわからない」
「わからない? お前が殺したんじゃないのか。お前が」
「……カナちゃんはジャグダンの僕らが再会した教会の裏にある、廃墟の隠し地下室に閉じ込めたんだ。そこで外側から鍵をかけて扉に魔法が使えないように悪魔封じの呪をかけた。一応携帯食料は少しは置いてきたから一ヵ月は生きられていると思う」
「廃墟の隠し地下室だと? ちっ、そこにいたのかよ」
『剣王の本の所持者はカナを見つけることはできなかったようね』
(そうのようだね)
だけど、なんでそんなにカナちゃんのことを気にするんだろうかアキアース君は。もしかして、彼は。いや、先ほどの彼の尋常でない怒りを見ればおそらくそうなのだろう。彼はカナちゃんのことが。
僕はそこに活路を見出した。アキアース君にとってカナちゃんが大事な存在だとすれば。
「その扉の呪を解けるのは僕だけだ。ここで僕を殺せばカナちゃんは二度と出ることはできないよ。それでもいいのかい」
「……ちっ、汚ねえ野郎だ」
剣を下に降ろして唾を吐くアキアース君。これでひとまずは助かったと思っていいのだろうか。僕は彼に気づかれないようにふうと息を吐く。
これからどうすればいいだろうか。今彼は少し油断している。今ならば火の魔法で彼に攻撃できるのではないか。
僕は右腕を後ろに隠し、掌に炎を纏わせた。
「これで僕のことを殺せないよね。だって君の大事なカナちゃんの命を握っているのはこの僕なのだから」
「……たしかにカナは大事だよ。だって同じ異世界からきた者同士だからね」
「異世界?」
異世界とはどういうことなのだろうか。こことは異なる世界? まさか他にも世界があるというのか。ああ、だから悪魔の本と剣王の本は。二つの本の消息が掴めなかったのは異世界へと渡ったいたからなのか。
「そうさ、まず最初に俺が剣王の本に見出されこちらの世界にきた。その後カナが何も知らされずにこちらの世界に飛ばされたんだ。あの悪魔の本にな」
「じゃあ、カナちゃんは本当になにも知らなかったのかい」
「ああ……ということはシグルド、お前なにかカナに言ったな?」
「話したよ。五冊の本のことも詳しくね。もちろん君のことも話したさ。悪魔の本にだって書かれていたよ。君がアマンダという誘惑の本の所持者を殺したということもね。悪魔の本は物語り調に読ませるのが好きらしい」
「じゃあカナは知ったんだ、な」
アキアース君は事実を知って少しばかり身じろいでいる。今だ。この会話でできた隙に。
ごおおと掌から勢いよく炎がアキアース君に向かって噴出した。
これで彼はもう。勝った、悪しき者に僕は勝ったんだ!
「……そんなものは効かないな。こんなちんけな炎で俺をどうにかできると思ったのか」
な。そ、そんな。目の前の炎が剣圧でかき消される。僕は尻餅をついた。ざっざ、と足音をだして近づいてくるアキアース君はまさに魔人そのものだった。このままじゃ僕は。
「ひっく、くるな!」
「その人を化け物みたいな目で見るとかなに。俺はいたって普通の人間ですよっと」
ああ、剣が、振りかざされる……。逃げ場は、逃げ場は……。
「がぁ……は、あ」
「ふん、最初から証を渡していれば死ぬこともなかったのにな、可哀想なやつだ。ああ、お前がさっき言ってたことだけど、天使の本が自らの力で人を死に追いやることを許すと思うのか。俺の予想じゃそんなことはしないはずさ。そうだろう」
『それは……』
ひゅっと冷たいものが走った。胸がすうっとする。そして、どくどくと脈打ち始めた。ああ、冷たい。雨が降っているわけでもないのに、服が濡れるんだ。
『シグルド!』
「どうだ、天使の本さんよ。これでもうシグルドはお終いだ。世界の維持をするためにはわがままを言ってる場合じゃないんじゃないのか」
『……貴方がわたしの所持者のとなるのは、かなり不満で嫌なのだけれど……シグルドがこうなってしまってはもう。癒しの魔法も効かないでしょう。わかりましたわ。不本意ですけれど、わたしは貴方を認めましょう、剣王の本の所持者アキアース』
「よろしく、天使の本。じゃあ俺はカナのところへ戻るか。今からじゃ戻っても二月経っているだろうからどうなっているかはわかならないけどね」
なにを言っているんだ。天使の本。僕と契約を交わしたじゃないか。僕の手で本棚へと戻されることを望んでいたじゃないか。なのにどうして急にそんなことを言うんだ……。
『シグルド、そういうわけだから。わたしはアキアースを天使の本の所持者と認めるわ。剣王の本、あなたずいぶんとすごい所持者を見つけたのね』
『我の目に狂いはない。秋博はまさに我の所持者に相応しい器を持っている』
『だよねえ、アキアースはなかなかの性格をしていて僕は好きだな』
「そ、そんな……ばかな……」
剣王の本と、誘惑の本まで……なにを言っているんだ。
『シグルド……ここまでのようよ。今まで有難う。疲れたでしょう、ゆっくりおやすみなさい』
そんな……どうして……ああ、痛みがもう……ないんだ。寒い。冷たい。暗い。
僕は、神に……。
神に……。




