水棲
人魚に出会ったことがある。
などともし真顔で言えば、恐らく返ってくるのは奇異なもの、あるいは可哀想な子を見るような目か、生暖かくも切ない無視か。
どこからともなく現れた数名の黒服たちに強制連行され、目隠しされたまま連れ込まれた施設に収容される……なんてことはまず、ない。
そして目を輝かせてそれを信じ、さらなる話を求めてくるような人種とは、お友達にはならないほうが賢明というものだろう。
と言うより、そもそも。俺が見た「人魚」というのは空想やら伝承上の存在ではなく、文学上の……つまりは比喩としての存在だ。
その人魚の棲んでいるのは、矢車菊色の海の奥底ではなくて、寂れてはいないが繁盛してもいないホテルのプールで、花壇に王子の石像を置くようなメルヘンな突拍子のなさとも縁はない。
大体、最初の印象からして、「水死体」。どれだけ可愛く描写しようとしても、せいぜいでマンボウ。
つまりは、水面にぷかぷかと浮かんでいたわけなのだ。
「……普通は、監視員に通報だよな。善良な一般市民としては」
ジュルジュルと行儀の悪い音をたてながら、フルーツ牛乳の紙パックがべこりとへこむ。
手のひらサイズの小さなパックの内容量は少なすぎて、物足りないとは思ったけれど、この手のドリンクの最大の長所は、コイン一枚でこと足りるその値段。
例えば、ちょっと礼を失してしまった相手への貢ぎ物とかに、最適。
「え、何それ。言いわけ」
「いや、そういうわけでもないつもりだけど、一応」
言いながら、すぐ隣のデッキチェアにまるでその持ち主のような態度でからだを伸ばす女の子を、ちらりと見る。
語調ほど機嫌を損ねているわけでもないらしい彼女は、俺からの献上品である飲むヨーグルトの紙パックを持って、同じようにこちらを横目で見ていた。
別に高価い場所でもないが、一応はホテルのプールサイドで、隣には同年代の、水着姿の女の子。しかも時間のせいか季節のせいか、他には誰もいなくてふたりきり。
健全な男としては、おいしい以外にないようなシチュエーションなのだが、生憎、余計な期待はするだけ無駄だ。
「へえ。別にいいけど。本当に人、呼ばれるよりは水死体呼ばわりのが、まだマシ」
ストローをくわえたまま、斜めに視線を向けられて、思わず目を逸らせてしまう。
「……悪かった。すみません。ごめんなさい」
根に持っている、絶対。
いやでも言わせてもらえれば、ここはそもそも市民プールにあるような流れるプールとかではなくて、普段はおばちゃんたちが健康維持(と、もしかしたら美容、効果は不明)のために使っているような、ただのプールなわけで、泳ぐためにある場所なのだ。そんな所に人がただ浮いていれば、誰だって不審に思って当然、むしろ自分は理性的に対応したほうではないかと。何せぼそっとつぶやいただけで。
「とはいえ、言うに事欠いて、水死体」
「……なんで」
「顔に出てる、全部。わっかりやす」
心の中だけで考えていたはずのことに、絶妙のタイミングで入るツッコミ。やたら楽しそうな声だったのは、自分の精神衛生のために、聞かなかったことにする。是非とも。
とりあえず、そういうわけで、甘酸っぱい青春的展開は、どうやら望めそうもない。
俺がこのプールに来たとき、ちょうどプールにはこの女の子しかいなくて、彼女はど真ん中のレーンでぷかぷか浮いていた。一応仰向けではあったから、自殺志願者とかそういう人でもないんだろうけど、とっさにそこまでは見れなくて、思わず俺は言ってしまったのだ。
「うわ、水死体、まさか事件とか」
別にテレビのミステリとかに興味はないから、そういった何かを期待していたわけではなく。
ただ、市民プールよりはよほどに金のかかる場所へ来ておきながら浮いているだけの人間がいるなんて、思ってもみなかっただけなのだ。
しかも、半分水に沈んでいたくせに、大きくはなかったはずの声を、聞きつけるとは。
「まったく、失礼極まりない。せめて人魚とか、そのくらいのことは言えない」
そういうわけで、不用意なつぶやきを耳にするや、たった今まで自堕落に浮かんでいたのが幻のように猛然と泳いできて目の前に上がった女の子に、俺は全面謝罪とヨーグルトの紙パックを進呈するはめになったのだ。
「……人魚は優雅に泳いでいるもので、水面に浮かんでるものじゃないと思う」
懲りずにぼやくと、一度は謝っておきながら何をしつこく愚痴愚痴と、という目で見られた。
俺だって普通の青少年だし、女の子にそういうふうに見られると、割とへこむ。
「社交辞令って、うつくしい日本語がこの世には存在するでしょ」
「社交辞令でいいのかよ」
「初対面の人間に、『おお、私の人魚姫』とか本気で言われたら即行逃げると思わない」
「ご説ごもっとも」
飲み終わったらしい紙パックを几帳面に折りたたんで、女の子はそれをゴミ箱に放り投げた。見事なホールインワン、ただし飛距離は一m。
「ごちそうさま」
「お粗末さまです」
反射で返した俺を、彼女は面白そうな目で見る。隣のデッキチェアから身を乗り出す姿は、グラビアアイドルなんかがよくやっているポーズに似ているような気もするのに、なぜか悲しいまでに色気を感じない。
さすがにこんな場所でこんな格好で、色っぽい女の子にされたらタダじゃすまないだろうから、好都合といえば、好都合なのだが。
むしょうに切ないのは、男の性というものか。
「君さ。変わってるって言われるでしょ」
……断定で来た。
いくら色気がなかったとしても、女の子にきらきらした目で見られるのはかなり心躍ることのはずなのに、どうして、こう、物事というのは漫画か何かのようにうまくいったりはしないんだろう。
「普通、『お粗末さま』なんて言葉、出てこないよ。しかも男の子」
「うちでは普通に言われてる」
「さっきから聞いてたら、ボキャブラリーとか独特だし。面白い、君」
「……おもしろがられても」
と、言うか。この子にだけは、言われたくないような気もする。
幸い今度は顔に出なかったのか、それとも俺が何を考えていようとどうでもいいのか、ほんのつい先ほどまでとは打って変わった上機嫌な顔の彼女は、妙に勢いをつけてデッキチェアから飛び降り、とんとんと温かい水に濡れた床面を蹴った。
乾きかけて細い束になった髪が、動く肩や背中でリズミカルにゆれる。
「思わぬ拾いもの。今日は、本当にただ浮かびに来たんだけど」
言って、女の子は普通に歩くみたいにしてプールの水面へ降りた。水飛沫もほとんど上がらず、ゆっくりと波紋が広がるその下を、濃い色の影が真ん中に向かって動いていく。
すぐに、まるで俺が来たときのように、レーンをひとつ占領してぷかりと浮かび、そのまま動かなくなった。
「普通、プールってのは、泳ぎに来るもんだと思ってたけどな」
聞いているのかいないのか。最初のことを考えるに、多分聞こえてはいるんだろうが、彼女は今度は動かない。
ただ浮かぶだけのその姿は、やっぱり水死体に見えてしかたなかったけれど、頭の周りでゆらゆらしている髪の毛が、水と混ざりながら照明の白い光を反射していて、それなりに、きれいに見えた。
どう見ても、嵐の中で王子を助けるような人魚姫の優雅さにはほど遠いのに、のんびりと水面にからだを伸ばす、その仕草が水の生きものと言えば、言えないこともないような気もする。
俺が来てから、割と時間は過ぎたのに、季節のせいか、誰もプールには来ないままだった。いつもこのプールを利用しているおばちゃんたちは、衣替えを前にして箪笥の整理にでも忙しいのろうか。
気が付けば、俺は水にも入らないまま、乾いた体でぼーっと、水色に塗装された二五mプールと、その真ん中に浮かぶ女の子を見ていた。
「……人魚、なぁ」
二m先、半分ほど中身の入ったゴミ箱めがけて、すっかりへこんだフルーツ牛乳の紙パックを放り投げる。
見れば、ちょうど反対側のプールサイドに上がった彼女が、サウナ室に入るところだった。
二、三回ほど首を回して、入れ替わりのように、ことさらに勢いよくプールに飛び込む。生温かい水の中からぼやける天井照明を見上げて、ふと思う。
別に人魚だって、四六時中せわしなく尾びれを動かしているわけでもないだろう。というかそんなロマンのない人魚は嫌だ。
息が苦しくなって水面に顔を出せば、さっきまでここでゆらゆらしていた髪がひらひらと、ガラスの扉の向こうに消えるところだった。
「……あ、」
しまった、と思っても、時すでに遅し。
結局俺は、あの人魚の名前も訊けずじまいに終わったのだ。