初等部
昼間の学校というのは、日常からかけ離れた空気を纏っている。と私は思う。
もちろん、校内はそうではないのだろうけれど、こと校外に関して言うならば、静寂、そのものだ。
グラウンドが校舎から離れた場所にあるため、余計に鳥の鳴き声や風の音がよく響く。
「初めは、心音の方からだね。」
「僕、『しょとーぶ』っていう名前の学校は始めてだよ。」
先を歩いていた心音が、わーいっと嬉しそうに振り返る。
「まあ、呼び方は違うけど、小学校と変わらないでしょ。」
「えー!変わるよー!」
「何が?」
「ねーちゃんと学校同じになるんだよー!最後まで一緒に学校行けるね!」
ああ。
今確実に胸からキュンという音がした。
こんなことでときめいてしまうから、どこの学校でも『ブラコン』と呼ばれてしまうのだろう。
自分で納得できてしまうあたり、たちが悪い。
「ねーちゃん僕の校舎それ?」
「校門抜けたらすぐそこってお母さん言ってたから、多分。」
「わーい!ねーちゃんも?」
「うーんと、ねーちゃんは別館。心音が入る初等部と中等部は一緒の校舎だって。」
「なーんだ。」
目に見えて落ち込んだ心音に、胸が締め付けられる。
ああ。こじらせる前に直さなくちゃ。
「で、でも中等部は一緒だって!前よりいっぱい友達できるかもよ!」
自分ができる限りの楽しさを表情と声に乗せて、ジェスチャーまでつけて、彼を励ます。
いや、励ますという表現はおかしいか。
でも落ち込んでいるわけだから、あってる、のかな。
「友達いっぱい!ん?ちゅーとーぶって何?僕の学校と名前似てるね。ねーちゃんが行くところとは違うの?」
目に輝きが戻った心音は今度は、別のことに興味が移ったようだ。
これぐらいの歳の子は何でも知りたがる。
知らないままにはできない。こういう感情は、歳を重ねるにつれて捨てていってしまうものだ。
「えーとね、心音の・・・」
親指、人差し指、と順々に折りながら数える。
「四つ上のお兄さんたちが行く学校。ねーちゃんと心音の間の人たちが行くところだね。」
「そーなんだ!今度は学校がいっぱいあるんだねー!すごいや!」
心音の瞳の光が一層強くなったので、どうやら私の励ましは成功したようだ。
二つの部が一緒となれば、校舎もとにかく大きい。
故に、昇降口も想像以上に大きかった。
そして堂々と真ん中の入口から入る私たち兄弟の度胸もすごいと思う。
昇降口にはたくさんの真四角のロッカーが並んでいた。
ロッカーの高さから、三分の二が初等部の入口なのだとわかる。
六学年もあるのだから、初等部の人数が多いのは当然か。
しかし、中央に立っても、左端も右端もちゃんと見えやしない。
入口でこうだと、この校舎の全貌はいったいどうなってるんだろう。
初等部のロッカーが低いおかげで、受付窓口のようなものが見えた。
来客用のものだろう。私は心音の手を引き、そちらへと足を向けた。
しかし遠い。
いやまあ目的地が見えてるだけましなのだが。
とそこで、恐らく授業の終了を知らせる鐘が鳴った。
イスを引く音が、校内中に響き渡る。
高等部にいるときじゃなくて良かった、と胸をなで下ろした。
転校前に生徒と顔を合わせることほど気まずいものはない。
ガラガラと教室のドアが開く音も聞こえ始めた。
子供たちの声も徐々に大きくなっていく。
「心音、教科書は?もらった?」
「ううん。今日もらってきなさいってお母さんに言われた。」
「先生の名前なんだっけ?」
「みずまち先生だよ。」
「あ、人参買うの忘れそう。」
「僕が覚えてるから大丈夫!」
「じゃあよろしくね。ねーちゃんは今この時をもって、人参の記憶を消し去ります。」
「うん!まかせて!」
くだらない会話をしながら、歩いていくとやっと受付についた。
どうやら、この学校は1階には通常の教室がないようで、人の姿は見かけない。
とにかく広い入口だが、ロッカーを抜けてすぐに階段になってるのは、初めての人でも安心の親切設計だ。
この広い校舎で、階段を探す手間が省けたのは、とてもありがたい。
「すみません」と受付に座っているおばさんに声をかけると、
「どうしましたか?」と優しい声が返ってきた。
なんとなく一安心。
「佐倉と申します。明日からこの学校に転入するので、ご挨拶に伺いました。ええと、水町先生にお会いしたいのですが・・・」
「はい。水町先生ですね。少々お待ちください。」
おばさんはにっこりほほ笑むと、何かボタンを押す。
すると、聞きなれた音が校内に鳴り響いた。
―――ピーンポーンパーンポーン
『水町先生、水町先生、佐倉様がお見えです。初等部受付までお願いいたします』
どうやら、すぐそこにマイクがあるらしく、おばさんの声が校内に流れた。
そうか。こんだけ広い学校だと、私たちが『行く』んじゃなくて、先生が『来る』のか。
そりゃそうだよね。こんな空間に一人投げ出されたら完全に迷子になっちゃうもの。
「ちょっと待っててくださいね。もう少ししたらいらっしゃると思いますから。」
「はい。ありがとうございます。」
「高校生?」
「はい。私も明日から高等部に転入するので、ご挨拶に。」
「へぇ。しっかりしてるのねぇ。」
「いえ、そんなことないですよ。」
なんだかこのおばさんと話していると時間の流れがゆっくりに感じる。
このほんわかオーラのせいだろうか。
おばさんとの会話が一区切りついたところで、心音に目を落とす。
「今、水町先生来るって。」
「わかった!」
心音の元気の良い返事が、一階に響き渡る。
ふと、足音が聞こえた気がして、階段へ視線を向けると、
ジャージ姿の男の人、と制服姿の女の子が降りてきた。
この人が、水町先生、かな。
彼は、心音の目線に合わせてかがむと、
「佐倉 心音くんだね!待ってたよ!明日からよろしくね!」
と言って、心音の頭を撫でた。
想像よりおじさんだなあ。
小学校の先生って若い人多いのに。今までの先生もそうだったし。
「よろしくお願いします!」
心音はえへへと嬉しそうに笑いながら元気よく返事を返した。
「ええと・・・お姉さん、かな?」
突然、立ち上がったかと思うと私に目線を映してそう聞く。
そりゃそうだ。普通挨拶に伺うのは親だもんね。
「はい。明日から心音がお世話になります。今日は、母の代わりに、ご挨拶と教科書や制服を受け取りに伺いました」
「こりゃ丁寧にどうも。しっかししてるな~。佐倉さんもうちの学校?」
「はい。高等部にお世話になります。挨拶はこれから、伺う予定で。」
「ほーう、そうかい。何年生?」
「一年生です。」
「ありゃあ。じゃあ、入学したてで転校かあ。そりゃ寂しいな。」
「はい。でも引っ越しはよくあるので、もう慣れました。」
「ホントにしっかりしてるな~。高校生とは思えね~。」
「そんなことないですよ。」
「今日はとりあえず、制服と体操着、教科書を持って帰ってもらうけど、持てるか?」
先生の手には紙袋が2つ提げられている。
見た目からして、重量がありそうな方が恐らく教科書だろう。
「はい。心音、リュックに制服と体操着入れて。」
先生から紙袋を受け取ると、軽い方を心音に渡した。
「わかったー!」
心音がニコニコしながら、紙袋ごとリュックに詰める。
教科書は入らないので、私が持つ。いつものことだ。
「ああ、そうだ。心音、リコーダーってもう買ったか?」
「リコーダー?」
先生が思い出したように手をたたくと、心音が不思議そうに聞き返した。
「すみません、まだ買ってないです。前の学校は2学期からリコーダー使うみたいで。」
リコーダーがわからない心音の代わりに私が答える。
「そうか。じゃあ、リコーダーも頼んどくから、そのお金、明日持ってきてもらえるか。えーといくらだったか・・・」
「千五百八十円です。」
今まで黙っていた女の子が突然口を開いた。
さっき階段を降りてくるときも思ったけど、この子とても可愛い。
まさに美少女。小学生特有のツインテールがまた似合っている。
結わえていても、肩につく黒髪はさらさらのストレート。
きっと小学生だから何も手入れしてないだろうに。うらやましい。
加えて、肌の色も白く瞳も大きい。
そこらのアイドルより可愛いんじゃなかろうか。
「ああ。すまん。紹介するのを忘れてた。天子 雪子。心音が入るクラスの学級委員だ。」
「はじめまして!僕、佐倉 心音よろしくね!」
「馬鹿にしてるのっ!?さっき聞いてたからわかるわよっ!」
おお。
これまた強烈な子だこと。
つり目なのがまた良い具合に言葉に迫力を加えてるなあ。
「あーそっか。そうだよね。ごめんね。雪子ちゃん、よろしく!」
心音も心音で素直に謝ってるし。
まあ、傷ついてなくて何よりですが。
この二人、ちょっと噛み合ってなくて面白い。
「あなたねー!プライドってものがないの!?何素直に謝ってるのよ!」
「プライド?うーん・・・だって、今のは僕が悪いでしょ?」
「~~~~~~~っ!!もういいわ!私、学級委員だからあなたの面倒見てあげる!」
「あなたじゃなくて、心音だよ。」
「どっちでもいいじゃない!」
「良くないよ!し・お・ん!」
心音の目が鋭く光る。
「・・・・わ、わかったわよ!し・お・ん!これで良い!?」
「うん!」
おお。さすが心音。
さっそく勝ってる。
私も心音との言い争いじゃ勝てないもんなあ。
「名前呼ぶだけで何が変わるのよ。あなた変だわ。」
「変わるよー。これでもう友達だもん。」
「な、な、なに・・・言ってるのよ・・・!」
ああ。我が弟ながら末恐ろしいです。その天然タラシっぷり。
雪子ちゃん真っ赤になって、何も言えなくなってるじゃない。
末恐ろし。いや、将来有望とも言えるが。
そんな考えが顔に出てしまったのか、雪子ちゃんに思いっきり睨まれてしまった。
「何見てんのよ、おばさん!」という文句付きで。
小学生からすれば、高校生なんておばさんですものね。
だから特に傷付いたり腹が立ったりなんてことはないのだけれど。
反対のね、感情が。
ダメ、もう、抑えきれない。
「あ~可愛い!もう可愛すぎる!雪子ちゃん!」
そう言いながら、彼女を力いっぱい抱きしめる。
いっぱい、と言っても、もちろん小学生相手だから加減はしている。
「な、何するのよ!変態!」
雪子ちゃんの罵声が聞こえる気がするけど、気にしない。
彼女が必死で私を引きはがしにかかってるけど、気にしない。
だって、可愛すぎるんだもん。
「やっぱりね~。ねーちゃんのタイプだと思ったー。」
心音が横で、冷静に言う。
先生と受付のおばさんは、唖然としたかと思うと、声をそろえて笑い始めた。
「はっはっは!雪子!同性に好かれたの初めてじゃないか?」
「良かったわねぇ、雪子ちゃん、ふふふ。」
一通り雪子ちゃんを撫でくり回した後、ふと我に返る。
またやってしまった。
どうにも、こう、あからさまに反抗心を持った子を見ると、抱きしめたい衝動に駆られてしまうのだ。
可愛くて、可愛くて、仕方なくなって、ことに及んでしまうわけである。
これだから、どこの学校でも『ドM』と呼ばれてしまうのだろう。
自分で納得できてしまうあたり以下略。
「あ・・・。ええと・・・雪子ちゃんが可愛すぎて・・・。」
水町先生と、受付のおばさんに「取り乱してすみません」と謝る。
恥ずかしさに頬が熱くなるのが、自分でもわかった。
「ちょっと!!おばさんのせいで髪がぐしゃぐしゃじゃない!!」
雪子ちゃんが身なりを整えながら、私を真っ赤な顔で睨みつける。可愛い。
ぐしゃぐしゃと言いつつも、元々の髪質が良いせいか、手櫛で元のキューティクルヘアーに戻っていた。
「さっそく友達ができて良かったね、心音」
「うん!」
「な、誰が友達なのよ!!」
「え、友達じゃないの・・・?」
あ。出ました心音のしょげ顔。
チワワのようなこの顔に勝てるか、雪子ちゃんよ。
「しょ、しょうがないから友達になってあげるわよ!!!」
さすが心音。
初日にしてさっそく、難攻不落っぽいクラスメイトを落としたか。
我が弟ながら以下略。
「佐倉さんは、これから高等部行くんだっけ?」
「は、はい!」
突然話しかけられ、返事がどもってしまった。
「高等部行ってから、またここに寄るか?」
「良ければ、教科書ここで預かるから、またいらっしゃい」
先生とおばさんのうれしい提案に、私はもちろん賛成した。
教科書の入った紙袋をおばさんに渡し、「お願いします」と頭を下げる。
私が高等部に行ってる間に、心音は雪子ちゃんに校内を案内してもらうことになったようだ。
「こっから高等部まで、結構複雑だけどわかるか?」
「はい。地図あるので、大丈夫です。」
校舎も見えてるし、校舎に向かって歩いていけば大丈夫だろう。
私は再び、先生とおばさんに頭を下げ、初等部・中等部の校舎を後にした。