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二百年生きる聖女は恋をした

作者: ルーシャオ
掲載日:2026/11/07

短編なのに長いです。これは書いてたら長くなったけど短編のつもりで書いたからもういいや!ってなったからです。ご承知おきください。

 トレザ聖王国の王位を継ぐ者は、歴代の聖女と結婚し、正妃として扱う決まりがある。


 今代の聖女アリスティドもまた、先代聖女の崩御によりカルナード王子との婚姻が定められたが——。


「聖女との結婚? そんなもの形だけのことだろう。実(・)質(・)的(・)な(・)妃(・)となるベルリア侯爵令嬢フローラとの結婚を進めるぞ」


 黙っていれば金髪碧眼の美形の王子様として持て囃されるカルナード王子は、当然のごとく聖女との結婚を軽んじていた。


 その上、明らかな侮蔑を込めて、大広間で聖女アリスティドをこう罵倒した。


「俺は俺で好きにやるから、お前も好きな男の元へ行くといい。ああ、『男と子を作れぬくせに次の聖女を産むような化け物』を愛する男がいれば、の話だがな」


 周囲に大臣や側仕えの者たちがいるにもかかわらず、カルナード王子は公然と銀髪の聖女が——この国だけでなく世界的にも特異な存在であることを指摘する。


 アリスティドの銀髪は、光輪の模様を生み出す不思議な色合いを持っていた。人形のような整った顔を持ち、髪の光輪と同じ模様が虹彩にも現れている。その外見の違いからも、カルナード王子はことさらに気味悪がった視線を向けてくる。


 その態度にアリスティドは内心うんざりとしていたが、トレザ聖王国と周辺国にも及ぶ聖女崇拝は王家の庇護がなければ成り立たない。正確には、聖女が形だけでも代々国王の正妃に就くことで保護され、大勢の民の巡礼や信仰を維持しているのだから、嫌で投げ出すという選択肢はなかった。


「……承知いたしました。では、私は聖女としての務めを全ういたします」

「そうしてくれ。それ以外のことで俺の前に現れるな」

「はい、必ず……」


 それ以来、カルナード王子は聖女アリスティドという正(・)妃(・)は存在しないかのように振る舞うようになった。


 アリスティドは王宮ではなく聖女大聖堂内の一室に住みつづけ、公務以外では王宮に足を踏み入れることは許されない。


 しかし、王子の周囲はもちろん、大聖堂の人々でさえも崇拝する聖女アリスティドへの同情の声はさほど上がらなかった。


「カルナード王子殿下が悪いのは分かるけれど……ねぇ。聖女様を崇める私たちでも、男性と子をなせないのに次の聖女を産むという話は、その、奇妙だもの」

「聖女様生誕時の話は本当なんだろうか。先代聖女様は処女懐胎し、次の聖女様となる女の赤ん坊を産み、急激に衰えて亡くなったという……」

「本当さ。トレザ王家も大聖堂もそう言っている、何より聖女様は二百年も生きるそうじゃないか……聖女様は本当に神の子で、私たちと同じ人間じゃない。だから皆のために誰よりも祈ってくださるんだ」

「聖女様のおかげでこの国も周りの国も豊かだ。それに災害もない。我々にとっては、それで十分すぎる。その事実だけあればいいんだ、子を産める産めないとかそういうことは……下々の我々には関係がない」


 大勢の人々が、聖女が何者であるかよりも、豊かさと平穏をもたらす大いなる存在であることを認め、疑わない。


 ただ、カルナード王子のように『聖女の特異なあり方』を疑問視し、嫌悪する者もトレザ聖王国の上層部にはいる。それもあって、歴代の聖女たちはたとえ国王と結婚しようとも王妃様ではなく聖女様と呼ばれるだけだ。


 今日も、アリスティドは大聖堂の奥、歴代聖女の石像が並ぶ聖櫃(せいひつ)の間で神に祈りを捧げていた。


 大昔、初代聖女は神から贈られた聖櫃(せいひつ)より現れ、人々を導いたという伝説がある。今となっては聖櫃(せいひつ)そのものはここの地下に眠っているが、約二百年に一度、聖女が死ぬとそこへ収められることになっていた。


 その伝説からして、聖女は普通の人間とは違う生まれと、終わり方を決められている。聖女として生まれ、正妃になり、ただ人々の安寧と繁栄のための祈りを捧げ、次の聖女を産んで死ぬ。


 つまり、どんな肩書きがあろうと、自分のやるべきことは変わらないとアリスティドは知っている。一日二度の質素な食事と数時間の睡眠、わずかばかり決まりきった聖女の公務と神へ祈りを捧げる毎日を繰り返すのみだ。


 好奇心旺盛な年若い修道女などは、自分たちとそう変わらない年齢だと思って食事時にアリスティドへ声をかけてくることもある。


「聖女様、一緒にお出かけしませんか? 今日は天気もいいですし、風も心地よいですよ」


 アリスティドは答えに窮(きゅう)してしまった。


 アリスティドには生まれつき人並みに常識も知識もある、けれど——。


「申し訳ございません。私は皆のように外の世界を楽しむことに不慣れで、体力もありませんから足手まといになってしまうでしょう」

「えっ、そ、そのような、足手まといだなんて」

「私のことは気にせず、どうぞ修道女の皆で楽しんでください。お誘い、大変嬉しく思います」

「そ、そうですか……」


 アリスティドの体はさほど強くはない。


 何せ、まだ生まれて五(・)年(・)、そのほとんどを大聖堂の中で過ごしている。言葉も思考もはっきりとして、姿形は年頃の乙女のようにしか見えない彼女を、誰も本来の年齢で扱うことはなかった。




☆




 夜、ひとけのない聖櫃の間は、寝室以外では唯一のアリスティドの縄張りだ。


 巨大な屋根の石柱の間から夜の月明かりが差し込むドーム状の広間には、居並ぶ八人の歴代の聖女の石像に、真新しいものが一つ。先代聖女、つまりアリスティドの母である聖女ジュディスの似姿があった。


 アリスティドは母の姿を憶えていない。生まれてすぐに母は亡くなり、それは定められた聖女の運命どおりだった。


 それぞれの特徴である光輪の模様が描かれた柔らかなウェーブのかかった長い髪に、慈愛に満ちた微笑み、聖女の正装である古代風衣装(キトーン)を身にまとった優美な女性像、この場にある九体の石像はどれも同じ記号で作られている。


 アリスティドもまた、その魂が天に還れば聖櫃の間に自分の石像を並べてもらえることだろう。


「……天に在(ま)します我らが父母よ、我が身は人々のために現世へ落ち、人々のために尽くし終えたのちは……」


 祈りのため唱える聖句のその先は、アリスティドの口から出てこなかった。


 アリスティドの背後から、足音がしたのだ。


 夜半に聖櫃の間を訪れる人間はいないはずだ、とアリスティドは振り返って、歩みを止めて影に隠れている来訪者へ誰何(すいか)する。


「どなたですか? ここは聖櫃の間。恐れ入りますが、一際静寂を保たねばならぬ場でございますので」


 来訪者は静かに影から一歩踏み出し、その姿を見せた。


 荒れた波のようにうねる前髪が特徴的な女性だった。長い金髪は後頭部で一つにまとめているが、腰元に当たる毛先まで荒れ狂うさまは、まるで芸術家が最大限動きを表現したがった彫像のようだ。


 それに女性にしては長身で、さらに細身だ。野暮な将校用のコートを身につけているのに、緻密な刺繍がびっしりと入ったブラウスとタイトなズボン、それに乗馬靴。どれも手入れが行き届いたものばかりで、着用者の身分の高さと裕福さを物語る。


 もっとも、それ以外のことはアリスティドには分からない。審美眼やモノの良し悪しだけでなく、敵意の有無まで読み解くには圧倒的に経験が足りなかった。


 あからさまに警戒して身を引いているアリスティドを見てか、来訪者はその場で片膝を地面へ突いた。


「失礼、ここに聖女様がおいでと伺い、ご挨拶にまいりました。急な訪問には事情がございますゆえ、何卒お許しを。フォンテーヌ家のクラウディアと申します。国王陛下より、聖女様の護衛騎士の任を拝命いたしました」


 礼儀正しく名乗ったクラウディアは、頭を下げる。波立つ金髪も同調して、ふわんと動き回った。


 しかし、アリスティドは来訪者の正体だけでなく、さらなる疑問を抱いていた。


「私の……なぜ? ほとんど大聖堂から出ない私を警護する必要がありますか?」

「ご安心を。あくまで名目上のものです、聖女様の何もかもを大聖堂に押し付けているとの批判に対応してトレザ聖王国として聖女様の雑用係を派遣した、と捉えていただければ」


 アリスティドは女騎士の軽口を信じなかったが、追い払えるだけの理由もなく——カルナードからの無礼と同じく——受け入れざるをえない。


 アリスティドは聖女らしく一切の感情を押し殺して、慇懃に応対する。


「そうでしたか。ご無礼をいたしました、私はアリスティドと申します。クラウディア様さえよろしければ大聖堂には出入りしていただいてかまいませんが、私に雑用係も護衛騎士も不要です」

「あら、そのようなことをおっしゃらないでください。私の仕事がなくなってしまいます」

「この世に飢えた人々がいるかぎり、私めのために挽かれた麦の一粒さえももったいないのです。私めのために労力を割くよりも、どうぞクラウディア様のなすべきことのために限りある時間をお使いくださいませ」


 ふと視線を向けると、クラウディアがアリスティドを見上げてきていた。


 そこで初めて、視界には入っていても、アリスティドは自分が女騎士へ視線を向けていないことに気付く。王宮から差し向けられた女騎士となれば、カルナードが関わっているに違いない。


 これが嫌悪や警戒、疑心といった人間らしい感情なのだろう、とアリスティドは胸に湧く不快感を押し込めた。


 その原因であるクラウディアのことはそのまま無視しようと決め、彼女がひざまずく横を通り過ぎ、アリスティドは聖櫃の間から出ていく。


 クラウディアは声をかけてくることも追ってくることもなく、アリスティドは安心して簡素な自分の寝室のベッドに潜り込んだ。


 翌朝のことだ。


 日が昇ってすぐ、アリスティドは起き出して大聖堂前の清掃へ向かう。大聖堂の前は大勢の人々や馬車が行き交う目抜き通りだ、汚れを清め、ゴミ一つなく拾い上げ、毎日清潔にしておかなくてはならない。


 ところが、年季の入った箒を手にやってきたアリスティドの目に映ったのは、あの女騎士クラウディアが年老いた女司祭たちに混ざってちりとり片手におしゃべりしている姿だった。


 一瞬立ち止まっていたアリスティドの姿を見つけたクラウディアは、にっこりと微笑み、立ち上がって挨拶する。


「おはようございます、聖女様」


 毎朝の風景に一つの異物が混ざっていれば、それがどんなものであれ驚くものだ。


 聞くべきことは何だったか、と思い出しながら、アリスティドは問いかけた。


「クラウディア様、おはようございます。何かございましたか?」

「いえ、何もありません。朝起きてこちらへまいっただけですよ」


 それにしては早起きですね、という言葉がアリスティドの口から出る前に、クラウディアはこう言った。


「ああ、フォンテーヌ家は都の各所に家を持っておりまして、大聖堂に近いそのうちの一つに当主である父の許しを得て引っ越したのです。これなら何があってもすぐに駆けつけられますので」


 波打つ長髪のあちこちが朝日を浴びて輝きながらくるんと跳ねて、クラウディアのまぶしい笑顔を彩る。


 まさか護衛任務のためとはいえ、クラウディアに引越しまでされるとは思ってもみなかっただけに、アリスティドは何とも無碍にできなくなってしまった。


「そうでしたか。では、よしなに」


 アリスティドは年季の入った箒を手に、クラウディアから少し離れて、大聖堂の階段の掃き掃除を始めた。


 どうやらクラウディアは女司祭たちと仲がいいようだから、邪魔をしないでおこう——聖女として自らの存在の大きさを知っているだけに、アリスティドはあえて距離を取る。


 誰かをひいきしてはならない、誰かの邪魔をしてはならない、皆は聖女を敬っているから聖女のためにと何事も優先してしまう。そういった経験から、アリスティドはいつも誰かから一歩身を引く癖がついていた。


 ところがだ、クラウディアの麗しさと男装姿に、遅れて大聖堂から出てきた修道女たちが次々と色めき立つ。


 そこに、所在なさげに掃除をしていた聖女へ声をかけることも厭わぬほど興奮した若い修道女がいたのだ。


「あのっ、聖女様、あのお方は……? 見慣れぬ女性ですけれども」

「ああ……クラウディア様とおっしゃる方で、王宮からいらしたそうです」

「まあ! 王宮から!?」

「いえ、王宮の方というわけではなく、その」


 アリスティドがどう説明すべきかと返答に窮していた矢先、さっとクラウディアが現れて、説明を引き継いだ。


「私ですか? これでも正式に叙任された騎士でして、王宮騎士団に所属しております。あなたがたと一緒に聖女様のために働けることを大変光栄に思っておりますよ」


 この出来事を皮切りに、修道女たちはクラウディアの周囲に集まってあれこれと話しかけていた。


「クラウディア様、女性なのに騎士だなんてすごいですね! 男性だって王宮の騎士になるのは難しいでしょうに」

「そうですね、我がフォンテーヌ家はたまたま私のようなおてんばを輩出してしまったものですから、代々の騎士の家系として騎士に育て上げるほかなかったのでしょう」

「おてんばだなんて、こんな素敵なレディなのに。ああでも、粗野な殿方よりずっとスマートで背も高くて、理想の男性ってクラウディア様のような方なのかしら」

「おだてすぎですよ。さ、掃除を手早く終わらせてしまいましょう」

「はぁい、また後でお話を聞かせてくださいな!」


 クラウディアはいとも容易く修道女たちをあしらい、本来の仕事へ向かわせていた。


 自分たちとは違う世界の住人の話は、年若く大聖堂に閉じこもる生活を続ける修道女たちにとって新鮮なのだろう。憧れ、と言ってもいいかもしれない。


 それならば異物であるクラウディアの大聖堂滞在もよいことなのだろう、とアリスティドは少し考えを改めた。ちりとりを借りに行く際、クラウディアへと一言申し添えておく。


「仲よきことはよろしいことかと。どうか、お暇なときには彼女たちにお話を聞かせてあげてください」

「承知いたしました。とはいえ、レディたちの興味のある話となると……宮廷ロマンスの詩などいかがでしょう? 騎士として有名どころは押さえてありますよ」


 特に興味のないアリスティドはちりとりだけ借りて、さっさと掃き集めた落ち葉へと戻っていった。


 大聖堂の一角にある食堂は、長机と長椅子が十ほど並んでいるだけの簡素な場所だ。


 食事は麦粥ばかりで、それにときどきパンも出る。特に戒律があるわけではないが、素食を旨とするだけに味付けは塩のみ、具材はもっぱら自家栽培した干しエンドウ豆を使う。たまに謎の草が入っているくらいしか変化がなかった。


 それでも、アリスティドにとっては生まれてこのかたずっとそればかり食べている。朝昼晩と食堂の壁際に並べられている木の食器を取って鍋当番の修道女から麦粥をよそってもらい、空いている隅のほうでさっと食べる。食事は味わうものというより、腹を満たすものだった。


 だが、この日の朝は目の前の席にクラウディアがいて、アリスティドの食事をつぶさに観察していた。


 クラウディアは自宅で食事を摂ってきたからと麦粥は食べていない。大聖堂の麦粥は舌の肥えた騎士の口には合わないことは明白で、申し訳なさも相まって誰も口出ししない。


 見られていては落ち着かない気持ちを隠して、あっという間に食べ終えたアリスティドへ、クラウディアは何とも言えない顔を向けていた。


「聖女様は少食なのですね」

「はい。祈ることしかできぬ身ですので、食べ物はありがたく必要な分だけいただいております」

「ん〜……そうだ、菓子はお好きですか?」

「ふすま(ブラン)のビスケットならお祈りのあとにいただきます。これです」


 アリスティドはポケットから手のひらに収まる程度の小さな紙の包みを取り出し、長机の上に置く。


 灰色とも黒とも言いがたい色をした焼き菓子は、少なくとも市井の菓子とは違って甘くはない。カラカラに焼かれて固く、落ち着きのない修道女たちの口に含ませて、お祈りの時間をしのがせるためのものだったという由来さえある。


 紙を広げて現れたものを見て、クラウディアは眉をひそめていた。よほど、想像と異なるものが出てきたようで、食べ物であるかどうか疑わしげな目つきをしていた。


「……ふすま(ブラン)、ですか。一枚いただいても?」

「どうぞ」


 ビスケットをかじろうとしたクラウディアは、歯を当てたあと、しょうがなく口の中へ放り込んでいた。これはかじって砕けないと判断したらしく、無言になる。


 アリスティドは午後の祈りがあるため、クラウディアをそのままにして食堂から出ていった。


 次の日、クラウディアは銀製の菓子入れを持ってきた。


「聖女様、こちら、ドラジェというものです。お一つどうぞ」


 そう言って差し出された銀製の菓子入れには、指先ほどの大きさの純白の砂糖をまとった何か——アリスティドはドラジェが何であるか知らない——が詰め込まれていた。


 断るのも悪いと、アリスティドはドラジェというものを一つつまみ、頬張る。


「……甘いですね」

「お口に合いましたか?」

「このような……いえ、美味しいものですね。大変美味でした」


 アリスティドの口の中では、上等な砂糖とともにすっきりとした香草類と砕いたアーモンドが踊っていた。食べたことのない甘ったるさには少々辟易するが、それでも体が甘味の誘惑には抗えない。アリスティドは正直に答えるしかなかった。


 アリスティドのまんざらでもない反応に、クラウディアは花咲くような笑顔を見せた。


「そうですか! では、こちらごと差し上げます。どうぞ」


 無理矢理押し付けられた銀製の菓子入れを両手でしっかり握りしめ、アリスティドは困惑する。贅沢品だ、と頭は突き返すべきだと主張するが、アリスティドの両手は離すものかとばかりに固い。


 相反する感情のぶつかりに困り果てたアリスティドは、聖女としての責務を思い出し、クラウディアの善意への言い訳を考えつく。


「皆に分けて」

「先に配っておきました。なので、遠慮なくお召し上がりを」

「……そうでしたか」


 すでに先手を打たれていた。


 仕方なく、アリスティドはビスケットの代わりに、しばらくドラジェを味わうことになった。なくなれば悲しい気持ちになるだろう、と思いながらも食べる手は止まらず、空っぽになった銀製の菓子入れを大事にポケットにしまって、クラウディアへ返そうとしていたところ——。


「おや、なくなったら遠慮なく言ってください。はい、ドラジェです」


 銀製の菓子入れは、またドラジェをたっぷりと詰め込まれ、アリスティドは祈りの時間のあとだけしか食べない、と歴代聖女の石像へ固く誓うしかなかった。




☆




 クラウディアが大聖堂をうろつきはじめてから、アリスティドは各所の変化を感じ取っていた。


 大聖堂は女性ばかりの仕事場で、食料倉庫への麦袋の搬入や調度品の移動など力仕事はたまに男性を呼び寄せてやってもらう程度だったが、クラウディアが全部先回りしてやってしまうようになった。


 皆でやる掃除も洗濯も賑やかさが増し、おしゃべりを楽しむ余裕が生まれていた。以前なら修道女たちは厳しい女司祭たちの目を盗んでひそひそとおしゃべりするしかなかったが、今となっては女司祭たちも明るく雑談をしている。クラウディアがいつも朗らかにかつ敬意を持って話しかけるため、態度が随分と柔らかくなっていたのだ。


 それに、アリスティドの仕事の時間も早く終わるようになった。祈りは別として、聖女としての務めである人々との接見はクラウディアがスケジュール管理を担うようになったため、テキパキと終わる。小さな悩みや相談事は聖堂長や熟練の女司祭へ振り、思い悩む人や落ち込んだ様子の人をアリスティドが時間をかけて慰め、励ますようになったところ、人々の聖女に対する評判もよくなっていた。


 さまざまな変化が、いい方へと向かっている。少なくとも、アリスティドはそう肌身に感じていた。


 大聖堂の午睡の鐘が鳴り、皆が休憩のため中庭へ集まってくる。


 アリスティド自身は休む必要はないと思いつつも、休憩もまた義務と諭されて中庭で日向ぼっこをするようになった。じっと黙って石段に座っているだけで、中庭での修道女たちののんびりとした様子やおしゃべりの内容まで知るようになり、これまでにない変化を敏感に察知する。


「ええっ!? 王宮では騎士様も聖女様のことをそんなふうに噂していたのですか!?」


 年若い修道女の驚きの声が響く。


 アリスティドがさりげなく顔を向けると、数人の修道女たちがクラウディアを囲んでいた。


「騎士というか、私たち騎士はあくまで仕える主君の下にいるもので、貴族身分の者もいますが大半は平民です。フォンテーヌ家が代々騎士の家系であるように、生業としている家は貴族に近しいといえば近しいのですが」

「そっかぁ、貴族様の噂って酷いものが多いもの。聖女様のことだって悪く言うのは王家と貴族様だって決まっているわ」


 ぴく、とアリスティドの肩が震えた。


 結婚をしているはずのカルナードからの手酷い侮蔑と罵倒を思い出し、追い払うように頭を小さく振る。悪感情を抱くなというほうが無理である、と分かっていても、聖女として不快をあらわにするなどもってのほかだ。


 聖女は、崇められる存在でいなくてはならない。同時に司祭や修道女もそうであるよう努めなくてはならないため、諌めるべきか——とアリスティドが躊躇していたところ、別の修道女が王家と貴族を批判した年若い修道女をたしなめていた。


「ちょっと、よしなさいよ。どこに耳があるか分からないわよ」

「だって、聖女様は悪いことなどしていないのに、なぜ悪く言われないといけないんです?」

「だからと言って、偉い人たちを批判しても何にもならないわよ」

「じゃあ、王家や貴族様は聖女様のことがお嫌いなんですか? クラウディア様、そんなのあんまりです!」


 それ以上はいけない。王家批判の口を塞ぐため、アリスティドは立ち上がろうとした。


 しかし、クラウディアの穏やかな口調が、修道女たちの高まる感情をなだめる。


「いいえ、そんなことはありませんよ。貴族でも敬虔に聖女を崇める古くからの大貴族のほうが圧倒的に多い。ただ、最近はカルナード王子……先日戴冠したため国王陛下とお呼びすべきですね、陛下に同調して聖女様を悪し様に言う若い貴族がいることも事実です」


 そういえばそうだった。戴冠式に呼ばれなかったため、妻であるはずのアリスティドもカルナードが国王になったことをすっかり忘れていた。


「何ですか、それ! 聖女様をダシにしてゴマを擦っているってこと!?」

「許せない!」

「とはいえ、新国王陛下も大貴族に遠慮して最近は聖女様についての悪口を控えています。お小言を食らったのでしょうね、きっと」


 まるで鳩が豆鉄砲を食ったかのように、修道女たちは面食らって、そして破顔一笑する。


「なぁんだ、ちゃんと天罰が下っていてよかった」

「まったく、聖女様の祈りのおかげで平和なんだってこと、忘れているのね」

「まあまあ」


 修道女たちは和やかに、中庭に笑い声をこだまさせる。


 アリスティドは——クラウディアの話を聞いて、休憩の終了を知らせる次の鐘が鳴るまで考え込む。


 結婚相手とされるカルナードに強く拒絶され、聖女——『男と子を作れぬくせに次の聖女を産むような化け物』であることを、殊更に人々は嫌うのだ、とあのときアリスティドは思い知った。


 すると、この世界のすべての人々が同じであるように思えた。聖堂長や女司祭、修道女たちも内心ではそうなのではないか。聖女の力で平穏無事に暮らせるのだと分かっていても、崇めているのは聖女ではなく聖女の力ではないか……つまりは、アリスティドという個(・)や女(・)は人々に必要とされていないのだろう、と諦めていた。


 だが、そうではないのだ。


 修道女たちは聖女を本心から崇め、カルナードやその周辺以外の王宮の人々もまたその悪口を諌めてくれている。


 休憩時間の中庭でのおしゃべりに耳を傾けることがなければ、アリスティドはずっと人々への希望を、愛を諦めたままだっただろう。


 鐘が鳴り、修道女たちはぞろぞろと持ち場へ戻っていく。


 クラウディアはその最後の一人まで見送って、中庭を見回ろうとしていた。落とし物やゴミがないか、確認している。


 気配を押し殺していたアリスティドは、ようやく決心して、クラウディアへと近づく。


 中庭の花壇には背の低い花々のつぼみが並び、遮るものは何もない。


 長身のクラウディアは中庭では目立つ。いや、どこにいても彼女は目立つ存在だ。


 聖女よりも、クラウディアのほうがよほど人目を惹きつける。ただそこにいるだけで雰囲気を明るくし、会話によって朗らかにしてくれる。


 そんなクラウディアはアリスティドに気付き、大仰に一礼をした。ちょっとしたおふざけなのだろう。イタズラっぽい笑顔を覗かせている。


 アリスティドは、軽く頭を下げた。


「あなたの話は大変ためになりますね。私は……国王陛下ただお一人に拒絶されたことで、聖女を崇めてくださる大勢の人々のことを見失っておりました。たとえ、聖女が何者であろうと、我が身、我が祈りは人々のためにこそある。そこに国王も民も関係ない、皆同じ人々です」


 クラウディアはじっとアリスティドの告白に耳を傾けていたが、思いついたように一歩を踏み出し、アリスティドの左手を取った。片膝を折って、左手の甲に軽くキスをする。


 クラウディアが彼女なりの敬意を示したのだとアリスティドが気付くまで、少しかかった。彼女ほどの人にそう思われることは少々面映く、アリスティドは衝撃だったが——それ以上に、クラウディアの告白のほうが衝撃的だった。


「そう堅苦しく考えないでください、聖女様。私はこれでもカルナードの幼馴染でして、実は王宮騎士団長就任をちらつかされ、何人目かの妃になれと言われたので、その尻を蹴飛ばしてここへ流されたのです」

「蹴飛ば……?」

「我がフォンテーヌ家は騎士を多数輩出しておりますから、さすがのカルナード国王陛下も騎士全員にそっぽ向かれるよりはと理由をつけた左遷を選んだのでしょう。おっと失礼、私にとっては栄転でした」


 ははは、とクラウディアは軽やかに笑い飛ばす。


 どうやら、カルナード……いや、国王さえもクラウディアを縛り付けられないようだ。そう思ったアリスティドは、極力抑えてはいるものの、どこか、晴れやかな気持ちを抱く。


 これはいけない、とアリスティドは小さく咳払いして、表情を固く引き締めた。




☆




 夜が更けて、修道女たちは早めに就寝し、女司祭たちは大聖堂の運営について軽く会議を開いてからそれぞれの寝室へ帰る。


 最近はクラウディアもその会議に参加していて、すっかり暗くなった夜道を近所にある自宅まで歩くそうだ。


 そんな物思いに耽りつつ、アリスティドは聖櫃の間へ向かう。日課の夜の祈りを捧げるためだ。


 その途中、廊下に蝋燭の灯りが見えた。アリスティドは目を凝らし、灯りを持つ人物が聖堂長であることを確認した。中年の女性で、女性専用の神学校を優秀な成績で卒業した、という経歴から聖女大聖堂の実務的なトップを長く務めている。


 聖女に次ぐ地位を持つその聖堂長が、アリスティドへ固い表情のままこう告げる。


「少しいいかしら、聖女アリスティド」

「何でしょうか、聖堂長」

「近頃、クラウディアという騎士が修道女たちによからぬ話を吹き込んでいるようですね。あなたも知ってのとおり大聖堂に所属する修道女たちは独身を貫き、世俗から離れて聖女とともに祈る身。あまり誘惑的な話を耳にすると、好奇心に溢れる乙女たちは務めをおろそかにしかねません」


 それはもっともな懸念であり、聖堂長としてはとても看過できないことだろう。


 聖女大聖堂にいる修道女たちは、皆、孤児出身か、家から出ざるをえなかった事情を持つ女子だ。神学校を卒業した女司祭が親代わりとなって修道女たちを導き、生涯聖女の手助けをする役目を担わせる。


 彼女たちに求められるのは、聖女への崇拝を通じた忠誠、清貧潔白な身、信仰をその身で示す敬虔さだ。世俗への興味はそれらの成長を妨げる、として外界には大聖堂の周辺や必要な場所へしか出歩くことを許されていない。


 そこへ、外界をよく知る、その上魅力的な女性がやってきて話をしたとなれば、修道女たちは退屈な大聖堂の生活よりも外へ憧れ、やがて役目も忘れてしまうだろう。


(……それは、修道女としては悪いことなのでしょう)


 アリスティドは、生まれて初めて、違和感を覚えた。


(修道女たちは修道女たちであり、私のような聖女ではない。そう、私のような『男と子を作れぬくせに次の聖女を産むような化け物』ではなく、れっきとした人の子です。であれば……修道女たちは、聖女を見習わず、人間としての生活を営むべきでは……?)


 その考えをさらに深掘りしていけば、聖女崇拝の根源を揺るがしかねない思想に繋がるだろう。


 だからアリスティドはそこで止め、思いを言葉にするために、深呼吸した。


 緊迫して待ち構える聖堂長へ、アリスティドは初めて、自分の心のままに意見を述べる。


「私は……修道女たちに独身を貫いてほしくなどありません」

「何をおっしゃるのです? 聖女のあなたがそのようなことを口にしてはなりません!」


 明らかに、聖堂長の声色には驚愕が現れていた。


 従順で純粋な聖女の反抗が信じられない、と思っていることだろう、アリスティドはそう認めつつも言葉を続ける。


「彼女たちが聖女大聖堂から離れるときは、死ではなく、幸せとともにあってほしいのです。私のように陛下に捨てられた聖女のみじめさを目の当たりにして、人生やこの現世に絶望してほしくありません」


 アリスティドは、最後まで聖女としての言葉を絶やすことなく、締めくくる。


 それはアリスティドの言葉であり、聖女の言葉でもある。


 カルナードに否定されたアリスティドは、う(・)ん(・)ざ(・)り(・)した。聖女から生まれた聖女を畏怖する人々、気味悪がり拒絶する目、密かに聖女を化け物扱いする言葉、どれもうんざりしていた。


 アリスティドは、そんな思いを修道女たちにさせたくはない。彼女たちは人間であるし、聖女のように人間離れして生きることを望んでほしくなかったのだ。


 少しして、聖堂長は小さなため息を吐いた。


「あなたもそのようなことをおっしゃるのですね……」

「も?」

「先代聖女ジュディスも、殿方と結ばれる修道女を祝ってやりたいと常々おっしゃっておりました。しかし、どうしても表立って祝うことはできずこっそりと贈り物をすることがせいぜい、あとは世の非難を浴びぬよう祈るほかなかったのです」


 その話は初耳だった。


 思わずアリスティドは聖堂長の顔をまじまじと見つめる。彼女もまた、独身を貫く立場であり、元はいい家柄の出で才女とされた身だ。聖女大聖堂の聖堂長という名誉ある重職を過不足なくこなす以外の側面を、アリスティドは初めて知った。


 先代聖女ジュディス、彼女とも親交があった聖堂長は、彼女のことを深く尊敬していたらしい。悪感情など言葉からも声色からもまったく感じられず、むしろ慈しみさえにじんでいる。


 ならば、とアリスティドはこう唱える。


「……聖女を崇めるために、修道女にまで何かを強いるのはいかがなものでしょう。少しずつでかまいません、私は彼女たちのあり方や幸せについて考えていきたいと思います、聖堂長」


 ほんの少しの変化でもかまわない、中庭でおしゃべりをする修道女たちは外に憧れてもいいのだと言える日は、まだ遠くても。


 そして、聖堂長は頷いた。


「分かりました。聖女のお言葉とあらば、従うまでです」

「……私のわがままに怒っていますか?」

「いいえ、本音を言えば賛成しております。立場的に苦言を申し上げただけですよ、ご安心くださいな」

「そうでしたか。それならよかった……」


 アリスティドは安堵した。聖堂長は、母のいないアリスティドにとって親代わりのような存在でもある。彼女にまで否定されてはどうしよう、という思いもあったのだ。


 とはいえ、何もかもをすぐに変革できるわけでもないし、聖堂長はそういった世の機微を人一倍把握しているだけに、アリスティドへ釘を刺す。


「ただ、外からは風紀の乱れと捉えられかねません。何かするときは必ずお声がけを、私も前向きに、かつ慎重に検討してまいりますので」

「そうですね。そのようにいたします」


 機会があれば、先代聖女ジュディスについての話を聞きたい。アリスティドは立派でお固い聖堂長へそう告げてから、聖櫃の間への毅然とした歩みを再開した。




☆




 昼過ぎの穏やかなひととき、聖堂長以下皆が休息している間、いつもアリスティドは手持ち無沙汰だった。


 皆が休んでいるときに動き回っては気が散るだろう、と気を遣って姿を見せないようにして、聖櫃の間の掃除をしていたが、それをクラウディアに知られてからはさりげなく廊下で引き留められるようになった。


 もちろん、意味なく引き留められているわけではない。クラウディアは毎回、アリスティドへ大聖堂のためとなる提案を携(たずさ)えてくる。


「なるほど。大聖堂での薬草の栽培体制改善……人々の役に立つのであればやってみましょう」

「栽培の知識を持つ知り合いがおりますので、声をかけておきます。聖女様に会えると分かればすぐに駆けつけてくるでしょう」


 今日のクラウディアの提案は、大聖堂敷地内の日当たりのいい空き地で行っている薬草栽培の改善案だった。


 大聖堂は医療施設ではないが、傷薬とされる民間医療の薬草程度なら自分たちで使う分くらいは育てている。幸い、まだまだ土地は余っていたため、困っている人々へ配れるくらい栽培しよう、というわけだ。


 聖女として、アリスティドはその提案を善行であると判断した。何事もやりすぎなければいいのだから、片手間にやる分にはかまわないだろう。


 それはそうと、とクラウディアは話題を変える。


「ところで、最近は王宮での公務はないのですか? ないほうがいいでしょうが、もしあれば根回しができますのでご相談ください」

「根回しですか。何をするのでしょうか」

「たとえば聖女様の悪口を言いふらしていた馬鹿な男との接触を最小限に抑えたり、やらなくていい雑務はきっぱりと断ったり、ですね」


 こほん、とアリスティドは小さく咳払いをした。誰のことかは分かりきっているが陰口はよくない。


 もちろんクラウディアの気遣いは有り難く、どちらかといえばアリスティドが彼女の口からわざわざその人物についての話を聞きたくはない、というだけだ。


「では、次の機会にはあなたへお声がけします」

「ええ、遠慮なくお申し付けを。フォンテーヌ家の名にかけて障害を取り除きますので」


 まだまだ未熟なアリスティドにとって、クラウディアの提案はなるほど、と感心することも多い。省くべきところを省き、やるべきことをやる。たったそれだけのことがままならないアリスティドを、聖堂長だけでなくクラウディアも導いてくれるようになったのだ。騎士クラウディアを、少しずつ心強い味方と信じられるようになってきていた。


 しかし、噂をすれば影がさす、とばかりに、聞き覚えのある男性の声がどこかから聞こえてきた。


「おい、あれはここにいるのか? 早く呼んでこいと言っている!」


 その高慢な声を耳にした途端、クラウディアの形のいい眉がきつく寄り、眉尻が上がる。


「……不愉快な声が聞こえましたね」

「……クラウディア様」

「失礼、様子を見てまいります。ここにいてください」


 アリスティドは怒りを抑えるよう諫め、止めたかったのだが、クラウディアは素早かった。


 仕方なく、アリスティドは言われたとおり——高慢な声の主と顔を合わせたくない理由のほうが大きかったが——その場に留まる。


 まもなく、クラウディアと高慢な声の主の会話がアリスティドの耳へと聞こえてきた。


「これは陛下、ご機嫌うるわしゅう」

「そう見えるか? クラウディア」

「少なくとも、王宮で馬鹿な若者たちに囲まれているときよりは真面目に見えますよ」

「相変わらず嫌味だな。まあいい、聖女はどこだ?」

「陛下御自ら探さずとも、人を遣って呼び出せばよろしいでしょうに。ああ、公務ではないから呼び出せないとか?」


 クラウディアは、国王となったカルナードにもそう易々と頭を垂れず、軽口と皮肉を交えて応答する。


 もしアリスティドが同じことをすれば、カルナードは怒り狂ったことだろう。


 しかし、カルナードは舌打ちしただけで、話を続けた。


「大貴族を中心に、聖女を王宮に置くよう進言が増えている」

「ほう、その心は?」

「決まっている! 我がトレザ聖王国が聖女を抱えていることを政治的に他国へ見せつけろ、と言っているんだ。それが利用するだけならまだしも、国王と聖女——正妃が仲睦まじいところを社交界で見せるように、だと!」

「夫婦仲がいいことは人々に好印象を与えるでしょうね。しかしながら、あなたと聖女様は別段親交がありません。逆にあなたの聖女様への嫌悪感があらわになれば、人々はあなたへの尊敬を失うだけでしょう」

「忌々しいことに、年寄りどもはそれを狙っているんだろう!」

「いえ、普通に仲良くしてほしいだけでしょう。あなたが聖女様を蔑ろにしていることは事実ですから」

「うるさい! あんな化け物をそばに置けるか!」


 聖女のお膝元、大聖堂の中で聖女を化け物呼ばわりするなど、たとえ国王でも許されることではない。周囲に修道女たちがいませんように、と廊下の隅で息を殺してアリスティドは祈る。


 ここでアリスティドが二人の前へ出ていけば、話がややこしくなる。もちろん常識的には怒るべきだろうが、カルナードに効くとは到底思えず、逆に火に油となりかねない。


 それに——聖女が怒りに身を任せるなど、それこそ人々の模範たる温厚篤実な姿からはかけ離れる。アリスティドの心に、わずかに燃えていた怒りの火は、蝋燭の頼りない灯火よりも小さく、消えていく。


 そして、代わりとばかりにクラウディアが声を張り上げた。


「聞き捨てなりませんね。トレザ聖王国は建国以来、歴代聖女の祈りによって繁栄を謳歌しているというのに、その国を継ぐあなたが聖女様を遠ざけてどうするというのです」

「もういい、お小言は聞き飽きた。あれは人間じゃない、化け物だ。妃にする慣習自体なくしてしまえばいい、あれに夫は必要ないのだから」

「では、聖女様は他の国に行くかもしれませんね。夫の庇護がなくなるのですから」

「だったら、いっそのこと」

「カルナード。それ以上わがままを言うようなら、君を軽蔑するよ」


 ぴしゃり、とクラウディアはそう言い放つ。


 いつもであれば反発するであろうカルナードは、不思議なことに黙っていた。


「我々は幼いころからともにいるが、君はいつまで経っても子ども気分が抜けない。私は君の妻にはなれないとあれだけ言い含めたのに、なぜ側妃になどと口にしたんだ?」


 呆れ果てた様子のクラウディアへ、カルナードは子どもじみた釈明をする。


「……はあ。そんなもの、フローラが馬鹿だからだよ。妃としての仕事を何もこなせない、朝起きてお茶をしてドレスを選んで俺の邪魔をして……そんな女よりもお前のほうが圧倒的に優秀だろ」

「正妃たる聖女様を遠ざけ、その仕事を望まないくせに、何を言っているんだ」

「あんな化け物は遠ざけて正解だ。それに、妃にはもっとも重要な後継者を産む役目がある」

「お断りだ。君との子など産みたくない」

「なぜだ!」

「私が騎士だからだよ。陛下、どうかこれ以上私を失望させないでください。お帰りを」


 この国の国王であるカルナードをここまでコテンパンに否定し、拒絶できるのは、クラウディアくらいなものだろう。惚れた弱み、とでもいうのだろうか。アリスティドはなんとも複雑な胸中だったが、その気持ちを言葉にするのは難しかった。


 それに、カルナードは威嚇するように地面を大きく踏みつけ、捨て台詞を吐いていた。


「今に後悔するぞ! フォンテーヌ家の栄達もここまでだ!」

「どうぞ、ご随意に。その程度で倒れる家など、必要ございません」

「ちっ!」


 最後までクラウディアにあしらわれて、カルナードは不機嫌な足音を盛大に立てながら帰っていく。


 それに関しては、アリスティドは何も思わないことにした。色々と寸評することはできるが、今後に影響が出かねない。


 やがてクラウディアが帰ってきた。


「お待たせしました、聖女様。来訪者にはお帰りいただきました」

「……ご対処、ありがとうございました。私は聖櫃の間へ向かいます、祈りを捧げねばなりません」

「分かりました。先ほどのつまらない言い争いはどうか、聞かなかったことにでもしてください」


 アリスティドは頷き、クラウディアと別れた。


 クラウディアの申し訳なさそうな顔を見ていると、ほんの少し、わずかに胸が痛む気がしたからだ。


 クラウディアは何も悪くない。聖女アリスティドは国王カルナードの正妃ではあるが、結婚式さえ挙げていないし、ただの名目上のこと。それに、ああも堂々と化け物呼ばわりされては、今後公務でも滅多に近づくことはないだろう。


 そのカルナードは、きっとクラウディアと結婚したかったのだ。アリスティドより、今の側妃より、幼少のころより一緒にいた男装の麗人である女騎士と、だ。


 クラウディアがはっきりとカルナードの求婚を断ってくれたことだけが救いと言っていい。同時に、アリスティドはもはや庇(かば)いようのないほどに、カルナードへの愛想が尽きていた。


 その後、夕刻まで続いた聖櫃の間での祈りは、どうにも身が入らない。


 アリスティドは悶々とした胸の内を抱えて、夜、聖堂長のもとを訪ねた。


 ランプの灯りと小さな机と書類棚が並んだ部屋で、聖堂長はまだ書類仕事の最中だったが、アリスティドを迎え入れてくれた。


 そして開口一番、アリスティドは問いかける。


「聖堂長、私は何者なのでしょうか?」


 聖堂長は即答する。


「聖女アリスティド。あなたは、トレザ聖王国と周辺国一帯を守護する聖女であり、人々の崇拝を一身に受ける存在です。それ以外の何かをお望みですか?」


 聖堂長の模範的な答えの中には、アリスティドの求めたものはなかった。


 アリスティドは無意識のうちに震える声で、こう言った。


「国王陛下にも指摘されました。聖女は化け物だと、人間ではないのだと。それは事実で、人間の女性と私は違います」

「……ええ、言い方はさておき、その差異は認めざるをえません」

「それでも私は、この国にいるべきでしょうか? 疎まれるのであれば、他の土地を探すべきではないでしょうか。妃になる必要のない、聖女として人々へ祈りを捧げる役目を妨げられない場所を、求めて」


 聖堂長は椅子を蹴って立ち上がり、アリスティドへ近寄る。アリスティドの両手を握り締め、真剣な眼差しで、見つめてきた。


「それ以上はいけません」

「聖堂長」

「どうか私を信じてください。あなたの気持ちは痛いほど理解できます、しかしながら、改革はそう容易(たやす)いものではありません。歴代聖女もさまざまなしがらみを一つずつ解くことで精一杯でした。ですので……周到に、綿密に計画し、少しずつ成し遂げてまいりませんと」


 アリスティドの悩みは、先代聖女もまた悩んでいただろうし、その前の歴代の聖女たちも同じだったかもしれない。


 しかし、何もできなかったのだ。苦難はそのまま受け継がれ、解決されていない。


 だからこそ、聖堂長は何かをするつもりだったようだ。


「今しばらくお待ちください。騎士クラウディアや女司祭たちとも秘密裏に話し合っております」

「そうなのですか?」

「ええ。ただし、まだ王家や貴族たちの耳に入らぬよう最大限用心しておりますので、改めてその件についてはあなたへご報告いたしましょう。今日はもう遅いですから、休んでください」

「……分かりました。もちろん、このことは他言いたしません」

「ありがとうございます。聖女アリスティド、おやすみなさい」

「はい、おやすみなさい」


 ひょっとすると上手く言いくるめられただけかもしれない、という疑いはあったものの、アリスティドは聖堂長を信じるしかなかった。


 一人でここではないどこかへ行けるほど、アリスティドは強くない。


 嫌悪を向けてくる人間を跳ね除けられるほど、アリスティドは世知に長けていない。


 アリスティドは、聖女の祈りのほか、己が何もできないのだと痛感していた。




☆




 ある日、聖女に話を聞いてほしいと望む大商人がやってきた。


 トレザ聖王国でも有数の資産家であり、王家御用達(ロイヤルワラント)の商品を多数扱う許しも得た商会を経営する有名人だというのに、今にも死にそうなほど思い詰めた顔をしていた大商人を見て、アリスティドは大聖堂の礼拝堂内に木で造られた小部屋——告解室へ連れていった。


 二人の人間が向かい合う形で座り、真ん中には声だけが通る仕切りがあるもので、内密の話があろうと聖女と一般市民を二人きりにするわけにはいかないため、この告解室を使う。


 告解室へ入る直前、アリスティドは大商人をちらりと窺う。アリスティドと目を合わせる気力もないのか、大商人は虚ろな目をしていた。


 それぞれの扉から告解室へ入り、着席する。


「聖女様、お目どおりが叶い、まことに嬉しく思います」

「こちらこそ、どうぞおかけになってください」


 アリスティドと大商人は互いの姿はもう見えないが、声は聞こえる。外に声が漏れることはないが、大商人の声は力なく、聞き取りづらい。


「聖女様は……髪と目が、不思議な光を放っておられましたね」

「はい。生まれつきでございます」

「そう、ですか。聖女様は神の子、やはり我々とは違うのでしょう」

「いいえ、この世界で果たすべき義務がある以上、私とあなたの何が違うと言うのでしょうか。あなたはあなただけの苦難の道のりを歩んでおられる、私はそのあなたを助ける道筋を模索したいのです」


 それは本心からの言葉で、アリスティドを形作る生まれ持った知識——おそらく歴代聖女から遺伝した贈り物なのだろう——がその言葉を選び出す。


 それでも、聖女の言葉を受けて、大商人は少し落ち着いたらしい。


 ようやく、大商人は本題を切り出した。


「実は、妻が他の男と寝ているところを見てしまいました。私はカッとなって妻を問いただし、出て行けと言い放ったあと……妻は家から飛び出して馬車に轢かれ、今も生死の境を彷徨っております」


 アリスティドは静かに息を呑む。


 聖女へ話を聞いてほしいと望む人々の多くは、己の身の振り方に悩んでいる。日常の些細な悩みから人生の岐路に立つ悩みまで様々だが——。


 アリスティドは、慎重に問いかける。


「では、奥様の治癒を望んでおられるのですね?」

「そうでしょうか。本心では、違うかもしれないと迷っております」

「……奥様のことを、憎んでおられますね」

「聖女様にはお見通しですね。はい、あんな妻に愛など残っておりません。ですが、世間体から見捨てることもできない。一日生き延びるごとに金も手間もかかる、さっさと死んでくれと思ってしまった私は、きっと人でなしなのでしょう……」


 大商人は今にも泣き出しそうな、消え入りそうな声で、誰にも打ち明けられない本音を語る。


 裕福で成功を勝ち取ってきた大商人という立場から、愛もなく、憎しみしかない相手を見捨てられない。彼はそう言った。


 つまりそれは、進んで見捨てたいのではなく、己(・)の(・)選(・)ぶ(・)べ(・)き(・)道(・)は(・)ど(・)こ(・)に(・)あ(・)る(・)の(・)か(・)、と聖女へ問い、正しいほうを指し示してほしいのだ。


 きっと彼は、正しければ憎い相手を見捨ててもいい、と言ってほしい……自分ではそう思っている。


 しかし、そうではないとアリスティドは見抜いた。


「人が人であること、すなわち正しい道というのは、確かに愛を伴っておりますが、愛だけで作られているわけではありません。なのに、あなたは愛憎にこだわっておられるようです」


 大商人は少しの間、静かになった。


 何を考え、何を言葉にすべきか、ようやく吐き出した問いかけは哀れなほど単純化されていた。


「聖女様、妻は生きるべきなのでしょうか。それとも、死ぬべきなのでしょうか」

「苦しみから解放してやりたいと思うならば、そのように。ですが、死ぬほどの罪があるとお思いなら、愛憎に生涯囚われるのはあなたです」


 それは欺瞞だ、方便だ、と彼は思うかもしれない。


 だが、アリスティドは嘘を吐けない。最初から大商人の望む答えを出すこともできない。


 正しくとも間違っていようとも、答えを出せるのは、本人だけなのだから。


「残念ながら、私に奥様を癒す力はございません。私の祈りが届かないこの無力さを恥じ入るばかりです」

「そんな、聖女様は日々我々のために祈ってくださっている! 聖女様のお力はあんな妻のために使うべきではない、いや、下々の人間の生き死になど、聖女様をかかずらわせることではないのですから」

「それでも、私はあなたとあなたの奥様が苦難を乗り越える道を模索したいのです。どうすればお助けできるのか、その答えはそれぞれ、あなたの助けとあなたの奥様への助けが同じであるとは限りません」


 またしばしの沈黙ののち、大商人は嗚咽とともに言葉を絞り出した。


「私は……妻とは政略結婚でした。商人の子同士、商売をより充実させるための。そこに愛はなく、それでも夫婦らしく生きていたつもりですが……妻はそれに我慢ならなかったのかもしれません」

「奥様への愛はない、けれど慈悲はおありですか?」

「……かもしれません。死にかけた姿を見たせいかもしれませんが」

「ならば、愛憎も世間体も慈悲も、同じことです。突き詰めるならば、あなたは正しいと信じた自身の考えに従うまでのことですから」


 鼻を啜る音が続き、嗚咽はくぐもっていた。


 アリスティドはじっと待つ。


 もはや言葉は足りている。


 大商人が落ち着くまでの間に、アリスティドはふと自分の立場について思いを馳せてもみた。形だけの正妃、憎々しげな化け物呼ばわり、女ではないとの拒絶。


 市井の人々も、聖女も、悩みごとなどさして変わらないのだ。


 鐘が鳴る。大商人はまだ涙声だったが、アリスティドへ感謝していた。


「ありがとうございます、聖女様。お言葉をしかと胸に刻み……今一度深く考えてみます」


 扉が開き、大商人は告解室から出ていく。


 大商人とその妻はどうなるのだろうか。愛もなく結婚し、愛を育むこともなかった彼らにとっての正しい道とは、なんだったのだろうか。


 答えなどあるわけがない。


 アリスティドは大商人とその妻のために祈りを捧げてから、ゆっくりと告解室を出た。




☆




 女司祭に慰められながら礼拝堂から出ていく大商人の背中を見送って、一旦中庭へと足を向ける。


 考えごとが頭から離れず、余計な心配事まで浮かんでくる。トレザ聖王国の王家が聖女の力以外を求めていなくても、民は聖女を純粋に崇め、信じてくれているのに、この国から離れようというアリスティドの考えは間違っているのかもしれない、と。


 確かに、聖女に求められているのは女としての役割ではなく、たとえ化け物であろうと人々へ恩恵を与えることが評価されているからこそ、正妃という『名誉称号』が与えられている。


 ならば、夫である国王からどれだけ罵倒されても、人々のために耐えるべきではないか。


 ふと、アリスティドはこんな考えが頭をよぎった。


(……クラウディア様は、そうなさるのでしょうか)


 クラウディアは聖女ではなく騎士だが、カルナードの幼馴染であり、国王となった彼にも物申せる立場にある。正しい行いをすべきであると諌め、親しい関係であろうと身分をわきまえてしっかりと側妃就任の要請を断った。


 ならば、アリスティドは聖女として、何を第一に考えるべきか。


 決まっている。この国でも国王でもなく、ましてや己でもなく、聖女を信じ奉じる人々の心を第一に考えるべきだ。


(もし、人々が崇める聖女を国王が蔑み罵倒している事実が、その光景が人々の目に映ってしまえばどう思うのでしょうか。聖女は化け物だから仕方ない、本当にそう思って見なかったことにする? それとも、自分たちの崇める聖女を貶められたと怒りを覚える? ……いいえ、そのどちらも不健全で正しい行いとは思えません。本当に人々の敬慕する信仰を守るならば、そのような歪みは解消すべきです)


 まっすぐな信仰は規範となり、規範は善行となり、善行はよき人生へと繋がる。


 人々へこんな信仰を持っていても仕方ないと思わせたならば、そのつながりは崩壊してしまう。崇拝を集める聖女が聖女たるべき姿を示し、正しくあろうとすることが無価値ではないのだと証明していかなくてはならない。


 それに、ついさっき、聖女として正しいと信じる道を選べと説教したばかりではないか。


 アリスティドの口元に、ふっと笑みがこぼれた。


 迷いは幾分か薄れ、考えごとばかりだった頭がすっきりすると、どこからか心地のいいメロディを口ずさむ歌声が聞こえてきた。


 素朴な歌詞に古き良き単調な旋律が合わさり、修道女たちの調和と清廉さが生み出す讃美歌とはまた違う味わいが耳を奪う。さながら子守唄や里歌のように馴染み深い、それでいて聞き慣れない。アリスティドにとって母も家も無きに等しいというのに、郷愁を感じるのは初めてだった。


 歌声を辿れば、当初の目的地である中庭へとアリスティドは誘(いざな)われる。


 木々の合間の木陰に腰を下ろし、波打つ長い金髪を三つ編みにしているクラウディアが、気分よく鼻歌混じりのメロディを奏でていた。


 クラウディアはすぐにアリスティドの気配に気づき、立ち上がろうとする。アリスティドはそれを右手で軽く制止して、隣に腰を下ろした。


「歌はお好きですか、聖女様」

「はい。私は聞くばかりで……聖女が喉を痛めてはならない、との慣習から歌うことはございませんが」

「なるほど、私が知る以上に細かな規則があるようですね」


 呆れ半分感心半分のクラウディアの言うとおり、聖女には様々な制限がある。贅沢や浪費を固く禁じ、祈りは一日の半分以上行うこと、魚や肉の生食は避け、普段着から正装まで服に使用できる色数は三色まで……アリスティド自身でさえ憶えきれないほどあり、制限に関する規則指導を専門に修めた女司祭の助言で何とか守っている。


 祈りを人々の恩恵とする聖女は、それ以上のことをしてはならない。喉を痛めてはならないというのは方便の一つで——歌えばさらなる恩恵が生まれてしまうから、踊れば神の不興を買うから、などと色々な理由があるものの、どれが本当のことなのかは明らかにされていない。


 アリスティドは自身の祈りの効果がただでさえ強すぎると知っていた。トレザ聖王国だけでなく、周辺国一帯に等しく恩恵を約束する。数年前、新たに聖女崇拝を導入した新興国など、聖女崇拝を決めた年から以前の倍以上の小麦が獲れるようになったと使者が感謝状を届けにきたほどだ。


 クラウディアのように歌えれば、どんなに素晴らしい気持ちになれることだろう。


 叶わぬ夢は諦め、アリスティドは話題を変えた。


「あなたのおかげで、毎食の麦粥にチーズが入ったと聞きました。若い修道女たちにより栄養が行き渡ることでしょう、感謝いたします」

「どういたしまして。近隣の農村でチーズが余っていると聞いていたので、仕入れ先に紹介しただけですから」

「余っていたのですか?」

「昨今は豊作続きで牛の数も増えているのです。とはいえ、我が国はさほど肉食を好みませんからもっぱら保存の利くチーズに加工して販売することを推奨しておりまして、そのせいで農村の倉庫がどこもチーズで溢れてしまっていたとか」


 アリスティドは自分が祈りすぎたせいかと不安になったが、実際のところ因果関係は不明だ。麦粥のチーズが美味しくて牛が増えるようにと望まないよう、自分を戒める。


「漁港は豊漁、森の収穫物は多く、天候に恵まれ、湧水は途絶えることがない。我が国は本当に豊かです、これも聖女様のおかげですね」

「……そうですか、それは何よりです」

「まことに失礼ながら、言葉と顔が一致していませんよ」

「そのようなことはありません。本心から、何よりだと安堵いたしております」

「では、他にも何かご懸念がおありですか?」

「色々と、考えごとはございますから」

「なるほど、そうでしたか。私の余計なお節介でしたね」


 クラウディアはそれ以上踏み込まない。親しき仲にも礼儀ありとは言うが、己の領分をわきまえ、節度ある距離を保つことにかけては見事なものだ。


 そうアリスティドが感心していた、そのときだった。


「聖女様、お暇なときにでもデートをしましょう」


 アリスティドは首を傾げた。


 いきなり踏み込んできたから、ではなく、デ(・)ー(・)ト(・)と(・)い(・)う(・)単(・)語(・)を(・)知(・)ら(・)な(・)か(・)っ(・)た(・)か(・)ら(・)だ(・)。


「デート、とは?」

「気の合う間柄で、一緒に外出することです」

「そうでしたか。私は……遠出はできません。体力もありませんし、この容姿は人々の目を引いてしまいます」

「では、いつかの約束にしましょう。もし叶うならば、そのときはきっと楽しい一日になりますよ」

「分かりました。お約束いたします」


 聖女の外出自体は禁じられていない、だから用事のないときならばデ(・)ー(・)ト(・)は大丈夫だ、とアリスティドは理解した。


 おそらくクラウディアは気遣ってくれているのだ、彼女は気遣いに本当に長けている——アリスティドはそう信じる。


 当のクラウディアはというと、三つ編みの最後をまとめながら、嬉しそうにデートの予定を語る。


「ふふっ、楽しみですね。街にはドラジェ以外にも美味しいお菓子がたくさんありますし、あなたが食べたことのないようなものも屋台に溢れています。広場の泉はかつての芸術家たちが技術を競って彫った石像彫刻に囲まれ、色鮮やかなタイルが見事な幾何学模様を描く。ぜひ、直接お見せしたいものばかりです」


 人生のほとんどを大聖堂で過ごすアリスティドにとっては、想像さえできないものばかりだった。


 数回足を踏み入れた王宮は荘厳な純白の石柱や最高級黒大理石の廊下、金の額縁に入った鮮やかなベルベットドレスをまとう美しい王女の肖像画、どれも豪華とは思った一方で感銘は受けなかったし興味も湧かなかった。


 なのに、クラウディアの言葉で飾られた街の紹介を聞くと、自然と意識がそちらを向く。どんなものなのか、と期待や好奇心が見え隠れしてしまう。


 その心を抑えるため、アリスティドは他のことに集中しようとして、先ほどの大商人のことを思い出した。


 愛なく結婚した末に苦難の岐路に立たされた大商人、後悔と自責に苛まれた原因は——愛の有無にはないと言い切れるだろうか。


 そう考えると、自然と問いが生まれていた。


「クラウディア様は誰かを愛したことはございますか?」


 すると、クラウディアは目を丸くしていた。少し間を空けて、誤魔化すような口ぶりでこう言う。


「さあ、騎士の勤めが忙しすぎて、何とも申し上げることが叶いません」

「そうでしたか……」

「ですが、いずれ人を愛することもあるでしょう。私と同じく、聖女様もそうでは?」

「私は……どうなのでしょうか」


 アリスティドは知識や常識を生まれながらに持っていても、愛は持っていない。少なくとも、アリスティド自身はそう思っている。とはいえ、聖女が愛そのものを説くことはないので問題はない。


 今まではそうだった。しかし、今は疑問だらけだ。


 聖女という、男性と子をなさず自身のみで次の聖女となる子を産む身であっても、愛を知ることはあるのだろうか、と。


「まあ、愛にも種類はありますので、一つ一つを知っていくことができればよろしいかと」

「確かに、歴代聖女の教えにもそのような記載がございます」

「彼女たちが誰を愛したか、誰に愛されたか、という記載は?」

「そこまで詳細に書かれてはおりませんでした」

「そうでしょうね、ええ。でも、あなたは書いてもいいのでは?」


 予想外の提案に、アリスティドは考え込む。


 愛とは何だろうか。私でも知ることができるならば、どうすればいいのだろう。


「……考えておきます」

「ぜひ」


 クラウディアはシルバーのシルクリボンで三つ編みの端をきつく結び、ポンと指先で弾いた。彼女の三つ編みは癖が強く、すでにところどころで波打った髪が編み込みから抜け出していた。


 アリスティドのまっすぐな銀髪とは似ても似つかぬ癖毛だが、まるで燃え盛る太陽神の輪郭がごとくうねるさまは、一種の威容さえある。打って変わって、アリスティドの銀髪は太陽の下では光る輪の模様も薄くしか現れない。


 太陽と月のように、と月並みな比較の言葉を思おうとしても、アリスティドとクラウディアではいくつも食い違ってしまう。聖女と騎士、金髪と銀髪、太陽と月、内向と外向、そして『化け物(聖女)』と人間。


 それ以上は、アリスティドは考えることをやめた。


 聖堂長がアリスティドの姿を見て、近づいてきていたからだ。


 二人は立ち上がり、普段よりも表情がわずかに柔らかな聖堂長へ会釈をする。


「ごきげんよう、聖女アリスティド。今、時間は空いていますかしら」

「はい。何かありましたか?」


 聖堂長の答えは、前向きな何かを予感させるものだった。


「詳しいことは中でお話しします、そろそろ西日が強くなってきていますから。騎士クラウディアもご一緒に」

「分かりました。では、行きましょうか」


 聖堂長とクラウディアに先導され、アリスティドは黙ってついていく。


 西に傾きはじめた太陽は特に金色を帯び、その輝きは失われゆく末期の灯火(ともしび)のようだった。




☆




 簡素な机と書類棚だけだったはずの聖堂長の部屋は、いつのまにか木製の鍵付きの書類棚が壁に並び、応接用の古びたアームチェアが二脚も追加されていた。


 聖堂長は鍵付き書類棚から頑丈な木箱を取り出し、蓋を開ける。中には封蝋付きのしっかりとした封書が詰め込まれており、どれも開封済みだった。機密性が高く厳重に保管しなくてはならないものなのだろう、そういったものがアリスティドではなく事務の最高責任者である聖堂長へ届けられるのはごく自然なことではあるが、それにしても数が多い。


 聖堂長は三つの手紙を選んで、アリスティドへ封書裏の差出人の名前を見せた。


「こちらの手紙はハンデール公爵、イデアロール侯爵、それにガストン男爵から届いたものです。彼らのことは憶えておられますか?」

「もちろん憶えています。毎月一度は大聖堂へ足を運んでくださる、特に信仰心の篤い方々ばかりですので」


 アリスティドは三人の顔と名前を思い浮かべる。


 ハンデール公爵とイデアロール侯爵はトレザ聖王国有数の大貴族であり、聖女大聖堂への寄付も桁違いに多い。アリスティドは毎月顔を合わせる彼らと言葉を交わすたび感謝を述べているが、カルナード国王のように傲慢さはなく、聖女の祈りによる恩恵は自領にも届いている旨を逐一伝えてくれる。


 ガストン男爵は生粋の貴族ではなく学者の家系の出身で、大使として長年各国へ赴任したその功績によって男爵位へ取り立てられた経歴を持つ。聖堂長の話では、先代聖女ジュディスの代から、トレザ聖王国外のさまざまな動きや各国の困りごとなどをこっそり教えてくれている稀有な人物だ。


 大聖堂から出ることの少ないアリスティドにとって、そうした外部の情報は貴重だ。特に彼らはアリスティドと会うたびまるで久々に孫娘に会えた好々爺のごとく嬉しそうに話してくれるため、アリスティドも嫌いではなかった。


「お三方は聖女アリスティドのあるべき道を示してくださいました。少なくとも、聖女と聖女大聖堂は政治的な独立性を確保し、自己の利益のみを求める諸国から自立してあまねく民へ聖女の恩恵を届けることこそが、本来あるべき聖女の姿である、と」


 難しい話だ。聖堂長からすれば、常々そのことを考えてきていたのかもしれない。


 定説として、初代聖女から当代聖女アリスティドに至るまで、トレザ聖王国国王の正妃になることでその庇護を受けてきた。聖女大聖堂はトレザ聖王国王都にあり、周辺各国へ広範に及ぶ聖女崇拝の信仰の総本山として維持できているのは地域の大国であるトレザ聖王国を後ろ盾にしているからだ、とアリスティドは教わってきた。


 その定まり変わらないと思っていた状況が、もし、変化すべき時を迎えているとしたら。


 アリスティドは、信頼できる聖堂長の判断だから、と聖堂長の言葉のすべてを無条件に受け入れるつもりは毛頭ない。


 しかし、大貴族たちとの大量の手紙のやり取りの証拠が目の前にあり、アリスティドの隣で嬉しそうな表情のクラウディアもどうやら把握しているのであれば、聖堂長の言葉は信用に値する。


 アリスティドはそのくらいに思っていたが、聖堂長の話は予想外の規模へ拡大していく。


「そのお三方のお力添えをいただいて周辺のカランデア、ハウルージ、ナイレアといった有力諸国だけでなくフィリベニアやモンドルーといった小さな公国にも聖女大聖堂より特使を派遣し、秘密裏に交渉を重ねた結果、聖女アリスティドはトレザ聖王国だけのものではないという共同声明の発表、ならびに新たな聖女大聖堂の建設の立候補地リストの公表まで漕ぎ着けました」


 聖堂長は手紙を開いて、それらに関係する記載のあるものを机の上に並べていく。許しを得てクラウディアが一枚一枚目を通していき、何度も納得したように頷いていた。


 もはや、事態はトレザ聖王国と聖女の関係だけでは済んでいない。


 聖女崇拝を国家宗教としている国、公認している国、どれも聖女の恩恵を受けている国名ばかりが挙げられ、その国々をまとめあげた上で、聖女大聖堂の移転をトレザ聖王国へ半ば強引に承認させる——それが聖堂長の仕組んだ壮大な計画だった。


 聖堂長のあまりの深謀遠慮と行動力に、アリスティドは開いた口が塞がらない。同時に、すべてを理解しきれないアリスティドは、自身はまだ未熟だと痛感した。


「ほう、彼らの働きかけが実ったのですね。しかも、こんなにも早く」

「ええ、周辺国の王侯貴族からも歓迎の声が上がっているとのこと。無論、長年の一強体制を維持してきたトレザ聖王国に対する忌避や牽制の意味合いも大きく、このことはトレザ聖王国側が対処を誤れば戦争にもなりかねません」

「そうならないよう、文書の一言一句まで調整した甲斐がありましたね」


 やはり、クラウディアは聖堂長とともに動いていたようだ。仲間外れにされたというより、アリスティドが理解できるようになるまでは大人たちが、という配慮だろう。


 それに関しては、アリスティドは悔しさや寂しさもある。しかし、顔や口には出さない。


 そんなことよりも、聖女の役割を果たさなくてはならない。


「つまり、聖女大聖堂の移転が……実現するのですか? このことは、国王陛下はご存知なのですか?」

「実現の可能性は高くなりました、陛下に対しては内密にハンデール公爵を通じて事情はお話ししております。しかし、表立って反対はしないでしょう。いえ、できない、と申すべきですね」

「これだけの国家、大貴族たちが名を連ねていれば、トレザ聖王国側も反対はできないでしょう。自国だけに聖女様の恩恵を留めておける時代でもありませんし、何より国王自ら聖女様を遠ざけたのですから自業自得です。陛下は人心を見誤った、聖女様や人々だけでなく、大貴族もついていけないほどに」


 なぜだか、アリスティドは喜べなかった。


 望んでいた状況になりつつあるのだ、喜色を露わにしてもいいはずだ。だが、聖堂長とクラウディアは決して楽観視せず、あくまでまだまだ慎重に進めようとしている。


(私がこの国から離れることができるのは、国王への求心力が低下しているから……だとすれば、私は名ばかりでも正妃でありながら国王を支えずに逃げ出すようなものではないのかしら)


 そんな恐れも抱いてしまうと、アリスティドはどうにも複雑だった。ただ、誰かに話せるようなことでもなし、カルナード国王との関係改善は見込めない以上、その点はあえて黙っているしかなかった。


 一方で、移転が実現するならどうしても確かめておかなくてはならないこともある。


「聖女大聖堂が他の場所に、となると、聖女は国王陛下の正妃ではなくなりますか?」

「それはまだ何とも申し上げられません。トレザ聖王国はそのことだけは主張するかもしれません。聖女を膝元に抱える権威は手放しても、結婚の事実は残しておきたいと考える可能性も否定できません。まだ交渉段階にありますので、たとえ聖女崇拝に熱心なハンデール公爵の説得があってもどこまで通用するか」


 聖堂長の説明に、王宮内の事情に詳しいクラウディアが付け足す。


「すでに陛下に話が届いている今、結論を先延ばしにする工作の痕跡もありませんから、もうまもなく片はつくかと。それに——」


 クラウディアの言葉を遮るように、部屋の扉がノックされた。


 アリスティドとクラウディアへ目配せし、聖堂長は短く応答して招き入れる。


 入ってきたのは、聖堂長の部下に当たる修道女だった。


「聖堂長、失礼いたします。王宮より使者がお見えです」

「ありがとう、応接室にお招きしておいてください」


 修道女はあえて聖女と騎士の存在を意識しないよう、素早く部屋から出ていった。


 修道女の足音が遠ざかってから、クラウディアが話を再開させる。


「この時期に王宮の使者ということは、おそらく移転関係ですね。結婚についても話は出るでしょう」

「……離婚を切り出されるでしょうか」

「それならばまだいいのですが、この後もずっと結婚を続けることを移転の条件にされれば、たまったものではありません」

「どうにか回避できる策はないかしらね、騎士クラウディア」

「そうですね……考えてはいるのですが」


 自分にも何かできることはないか、とアリスティドは二人へ声をかけたかったが、タイミングを逸してしまう。


 クラウディアが、重くなった雰囲気を緩和するために、笑顔で気遣ってくれたからだ。


「まあ、ご安心ください。このクラウディア、聖女様のことを第一に考えております」

「疑ってはおりませんよ、あなたの働きは素晴らしいものですからね。聖女アリスティド、そう思いませんか?」


 不思議なことに、あれほどクラウディアを風紀を乱すとして警戒していた聖堂長が、今となってはまるで戦友のように信頼している。


 いいことだ。態度の変化にちょっとだけ不思議ではあるが、アリスティドは心の中でだけ微笑んでおいた。


「はい、クラウディア様のおかげで大聖堂は日々よい方向へ変化しておりますから、大変嬉しく思います。もちろん、聖堂長のご助力もあってのこと」


 アリスティドは深く頭を下げ、二人へと感謝する。


 自分も何かできることがあれば、と逸る気持ちはあるが、アリスティドはぐっと堪える。


 軽々に慌てずとも、聖女として、動くべきときが来れば動けばいい。聖堂長やクラウディア、それに懸命に働いてくれている女司祭や修道女たちを信じることも、聖女の務めだ。








 ところが、事態は思わぬ方向へと転がっていく。








 案の定、王宮からの使者はカルナード国王が聖女大聖堂へ来訪する日取りを決めるためのものだった。


 そのちょうど半月後。


 幾度かのやり取りを経て決まった国王の来訪日は、朝から雨が降っていた。


 アリスティドは聖堂長とともに応接室で来客を出迎える。国王本人、もっとも信頼する大臣、それから王宮騎士団から選抜された五名の護衛と従者たちが、修道女の案内で応接室へと足を踏み入れる。


 国王の外出だというのに随行者が少ないが、これは国王側が大聖堂移転そのものを外交問題にしたくないこと、聖女大聖堂は実質的に正妃の住む宮であるという建前から大人数を連れてくることができないのだ、とアリスティドはクラウディアから聞かされていた。王宮事情に詳しいクラウディアは今はおらず、急用が入ってしまい終わり次第来ることになっている。


「本日はお越しいただき恐縮にございます、陛下」

「ああ、まったくだ。とはいえ用件が用件だ、お前を王宮へ入れたくないからな」

「恐れ入ります」


 アリスティドとカルナードは目も合わせず、それぞれ相変わらずの慇懃と無礼しかこもらない挨拶を交わす。


 カルナードは初対面だった結婚の日からいくらか大人びてきているが、それでもまだ威厳が足りず若い、という印象が拭えない。着ている豪奢な服や簡易の王冠がなければ、せいぜい貴族の子弟くらいにしか見えないだろう。


 応接室のテーブルには、用意していた聖女大聖堂の移転計画に関する書類の束と最終合意書が二部ある。書類の束はきちんと本革でファイリングされているが、ちょっとした辞典や教典ほどの厚さになっている。聖堂長とクラウディアが最後まで文章の一つ一つに至るまで王宮側と細かく詰め、協力者であるガストン男爵の力も借りて形となったものだ。


 つまり、聖女大聖堂の移転計画は国王と聖女が書類二部にサインしてここで互いに合意すれば、すみやかに実施へと移される。しかし、この土壇場で国王側がごねたり追加の要求をしてこないとも限らないため、アリスティドも聖堂長も冷静を保ちつつ内心は警戒していた。


 実務者同士でまとまった話し合いが、気まぐれな国王の一言で白紙になるなど歴史上枚挙にいとまがない。


 クラウディアがやってくるのを心待ちにしつつ、それまでカルナードに無茶振りをされないよう話を逸らすしかない——そう思っていたアリスティドと聖堂長だったが、不意にカルナードが不敵な笑みを浮かべたことに気づいた。


 何かある。身構えても、カルナードの口から発せられる言葉は防げない。


「しかし、見下げ果てた化け物だな、聖女アリスティド。自らが自由になるためにクラウディアを差し出すというのだから」


 世間話のように投げつけられた、あからさまな悪意のこもった挑発に、アリスティドは一瞬固まる。


 カルナードの言っている意味が分からなかった。アリスティドがクラウディアを差し出すなどと一体何の話だ、と聖堂長へ視線を送るも、聖堂長もまたアリスティド同様に困惑し、驚いていた。


「それは……どういうことでしょうか。そのようなこと私は存じません、私は」

「ふん、結果としては同じことだ。お前はこの国を見捨てどこへなりと行く。この国とお前のために働いた女を犠牲に、だ」


 アリスティドは確信した。カルナードは何かを知っている、おそらく移転計画の中の欠陥か、自分に有利なように呑ませた条件——クラウディアを自分のものにするための——があることを。


 いつの間にかカルナードの背後に控えていた大臣がテーブル上の書類を開き、羽ペンとインクを用意して合意書へのサインの準備を整えていた。


「陛下、この書類にサインしていただければ、あとのことはお任せを……」

「——だめです!」


 アリスティドは手を伸ばし、書類を力一杯引っ張って、奪い取る。


 突然の聖女の行動に、その場の誰もが目を丸くしていたが、唯一羽ペンを握ったままのカルナードはわざとらしく嘲笑う。


「聖女様はだめだとおっしゃっているな。この期に及んで、何を反対することがある? お望みどおりだろう?」


 それでもアリスティドは書類を両手でしっかりと抱き、離さない。


 何か、裏がある。直感的にそう信じたアリスティドは、移転計画のすべてを知るはずの聖堂長を睨む。


「聖堂長、どういうことですか? クラウディア様が犠牲になるだなんて……」

「落ち着いてください、聖女アリスティド。何の話ですか? 騎士クラウディアは何も」

「この計画を国王として裁可するならば、俺の側妃になる要請を受け入れるとのことだ」

「何ですって?」


 聖堂長は上ずった声で、耳を疑うようなカルナードの言葉に衝撃を受けていた。


 聖堂長も知らなかったのであれば、同じく移転計画の主導者であるクラウディアの独断で、カルナードの出した条件か何かが書類の中に追加されているかもしれない。


 そこは本人に訊さねば分からない、しかしその本人がこの場にまだ来ていなかった。


「クラウディア様は、今どこに?」

「それが、後から来るとはおっしゃっておりましたけれど」


 クラウディアの遅刻が意図されたものである可能性も含めて、アリスティドはこの場を乗り切るためにどうすればいいか、必死に考える。


 いつものように聖堂長に任せてはいけない、目の前にいるのは国王だ。すなわち、対等に渡り合う権威を持つのはアリスティドだけであり、聖堂長やクラウディアへ責任を押し付けるわけにはいかない。


 だから、どうするかはアリスティドが決めるしかなかった。


「この計画は再検討をいたします」

「ほう、国王に時間を割かせておきながら、図々しいものだな?」

「大変申し訳ございません。齟齬がございましたので、今一度検討し、日を改めてお持ちいたします」

「そうかそうか、名ばかりでも正妃という立場を使えば、そういうこともできるらしい。おい大臣、次にこいつとの会談の日程を調整するとしたら、いつになる?」

「そうですな、一年後、それ以上後になるかと。何分、陛下はお忙しいお立場にございますゆえ」


 カルナードと大臣のやり取りは実にいやらしく、アリスティドはぐっと奥歯を噛み締める。


 つまり、この場で合意書にサインしなければ、次に移転計画を出してもアリスティドたちの立場が相当悪くなり、さらに何かの条件を呑まされる可能性が高くなる。


 それだけカルナードにとって有利な何かがこの書類にあるとして、今すぐにその箇所を特定するのは困難だ。書類の束は分厚く、一枚一枚めくって確認する時間など与えてくれるとは到底思えない。


 今すぐに判断しなくてはならないのだとして、果たしてアリスティドはどうすべきか、まったく確信が持てない。


 それでも、アリスティドは足掻いた。


「……クラウディア様をお呼びください。真意を質さねばなりません」

「まあいいだろう。それで、クラウディアはどこにいるんだ?」

「大聖堂を探させますので、少々お待ちください」

「俺を待たせるくらいなら、今回は見送りでいいだろう。そちらの不手際なのだからな」


 聖堂長が何やら抗弁していたが、アリスティドの耳には入ってこない。


 どうすればいい? 聖女としてどうすべきなのか? ひたすらにぐるぐると思考が回るが、答えは出ない。


 移転計画にアリスティド自身も深く関われなかったことが、今更ながらに悔やまれる。幼いからと、仲間外れにされたからと引かずに、自分から首を突っ込めばよかったのだと後悔ばかりが湧き出て、余計に思考を邪魔する。


 聖女らしく祈れば、という思いがよぎっても、祈ったところで今すぐに目の前の困難が解決するほど聖女の力は万能ではない。先ほどからクラウディアに早く来てほしいと願いつづけても来ていないように、聖女の祈りでもどうにもならないのだと痛感しているのだから。


 カルナードが笑みを浮かべ、アリスティドを眺めていた。薄ら笑うどころか、絶望を感じている聖女の醜態に満足しているかのような、悪辣な笑みだ。


 アリスティドは、先ほどカルナードからかけられた言葉を思い出す。「クラウディアを差し出して」——アリスティドが自らそうするように仕向け、クラウディアを手に入れようとしているこの男は、どれほど厚顔無恥なのだろう。


 もはやいつものように怒りが抑えられず、煮えたぎる熱はアリスティドの体を無意識に突き動かしかけた。


 応接室の扉が、乱暴に蹴り開けられるその瞬間までは。


「失礼、遅れました。不届者に絡まれておりまして」


 当事者以外のその場にいた全員が、蝶番が壊れて枠からぶら下がる扉の無惨な姿に唖然とした。


 突如部屋中に響き渡った轟音と、扉の苦しむようなキィキィという悲鳴のような甲高い音、それに短いうめき声が一斉に奏でられ、誰もが状況を把握しようと慌てている。


 炎の荒波のごとき髪を後ろへ流し、クラウディアは手に持っていた——男性の騎士を床へ投げ捨てた。不届者はクラウディアから這って逃げようとしており、同僚の騎士たちに助けられていた。


 クラウディアは目もくれず、堂々と剣呑な雰囲気のテーブルへ突き進んでくる。


 そして、国王を見下しながら、圧をかけた。


「カルナード、さっさとサインしてくれないか?」

「クラウディア様……!」

「ふん、一度は断っておきながら随分と急かすものだな。貸せ」

「だめです!」

「さっさと渡せ!」


 アリスティドの抵抗虚しく、書類はカルナードに奪い取られた。二つの同じ書類、合意書のサイン欄にすぐさま国王直々の署名が入っていくさまを見せつけられ、カルナードの勝ち誇った顔にアリスティドは生まれて初めて憎しみを覚えた。


 サインを終えたカルナードは、自分のものになると決めてかかったクラウディアしか目に入っていない。


「ほら、これでいい。クラウディア、さっそく王宮に入ってもらうぞ」


 やはりクラウディアは側妃になってしまうのか、とアリスティドが谷底に突き落とされかけたそのとき。


 クラウディアは腕を組み、首を傾げた。


「は? 何を言っているんだ君は。その合意書の条件では、籍を入れる、ただそれだけの話しか書いていないだろう」


 何かがおかしい、とアリスティドも聖堂長も、無論カルナードや大臣もまた察した。


 しかし、今度はカルナードが困惑する番だった。


「何を言い出すんだ。聖女大聖堂の移転を認める代わりに、お前が俺の妃になるとここにちゃんと書かれているだろう」

「ああ、そう書いているな。私と君が結婚する、そう書いている。つまりそれは籍を入れるだけだ。君は、正妃である聖女様をここまでこけにしておいて、側妃となる私と王宮で夫婦生活を営めるとでも思っていたのか? また別の女が気になったら私も放り出して終わり、だと分かっているのに?」

「屁理屈だ! 話が違うぞ、クラウディア!」

「話? 何一つとして聖女様の話を聞かず、私の忠告さえも耳に入れず、己の欲ばかり通そうとする君に言われたくないぞ」


 クラウディアは磨き抜かれた切先のような言葉で、鋭くカルナードを刺していく。思い当たる節があるのかないのか、顔を真っ赤にしたカルナードはさらに合意書の条件面を持ち出そうとして、大臣に制された。


「陛下、恐れながら」

「何だ!」

「我が国では確かに、側妃が王宮に住まう義務はないのです。歴代の正妃たる聖女を王宮外の大聖堂に住まわせるため、居住場所の制限は設けられなかった慣習がございまして」

「はあ!? そんな馬鹿な、妃が王宮におらずに何をすると」

「おや? 先祖代々、正妃を王宮から追い出してきたくせに聞いて呆れる言い草だな、はっはっは!」


 勝ち誇っていた顔は失われ、屈辱と怒りとでないまぜになったカルナードは、そのことにはまったく思い至っていなかったらしい。


 アリスティドは二人のやりとりの最中、そっと自分の前に置かれた書類を確認する。


 確かに条件の記載されたページには『カルナード・トレザとクラウディア・フォンテーヌが籍を入れる。クラウディアはトレザ聖王国国王の側妃となる』という文面があった。しかし、それだけだ。どこに住むかなど当然書かれていない。


 となると、クラウディアが側妃になる、ではなくカルナードと結婚することしか条件になっていないわけだが、これはどこまで有効なのだろうか、という疑問が世間知らずのアリスティドにさえ浮かぶ。


 その疑問に答えるかのように、クラウディアは浮かれていたであろうカルナードを真正面から叩きのめす。


「つまりだ、聖女大聖堂の移転に合わせて、おそらく君は聖女様と離婚する。そして新たに正妃を選ぶ、そのときに新たに妃に関する諸制度を整えればいい。何もおかしくはないだろう、聖女様は新しい聖女大聖堂がどの移転候補地に決まろうと、この国にはもういらっしゃらないのだから」

「そうか、離婚すればクラウディアを正妃に押し上げることができるというわけか。なるほど」

「ああ、それは拒否するよ」

「今度は何を根拠に」

「私は側妃になる前提で結婚を了承したことになっている。つまり、正妃にするのならその契約書に記載されている私の結婚に関する部分は無効だ。君が破るのだから、私に何も責任はないよ」


 確かにそうだ、とアリスティドは何度も頷いた。


 まず、カルナードは正妃アリスティドと離婚したい、そしてクラウディアと結婚したい。しかしクラウディアを正妃に押し上げることは合意内容に含まれておらず、この国からいなくなるアリスティドと結婚を維持することも現実的ではない。


 加えて、すでに側妃であるフローラを正妃に格上げするとなれば今度は国内政治の問題が勃発する。なぜならフローラの実父ベルリア侯爵もまた聖女崇拝に熱心な大貴族であり、愛娘フローラの正妃昇格を受け入れることは離婚された正妃の聖女の後釜になるということで、そのために聖女を追い落としたなどと批判されるくらいなら強烈に反対することだろう。


 他の貴族も同じようなもので、もしカルナードに近い反聖女派の貴族が娘を正妃に、と担ぎ上げれば、当然批判は殺到するだろうことは言うまでもない。


 さて、正妃であるアリスティドとの離婚が叶うなら、もちろんカルナードは選ぶだろうが——。


「で、すでにサインしたこの合意書。まさか、トレザ聖王国の国王たる君が、合意を履行しない……などと言わないだろうね?」


 クラウディアは満面の笑みを浮かべる。


 国王であろうと署名したならばその効力は絶対であり、守るべき最後の一線だ。


 それでも、カルナードは諦めない。


「なら、聖女との離婚はせずにいればいい、ということだろうが。この国から出て一生戻ってこなくても、この国で俺と籍を入れたことには変わりない!」

「ところが、大問題がございまして」


 割って入ったのは、カルナードが信頼する大臣だった。カルナードは大臣には怒りをしっかりと向ける。


「大臣! お前はどちらの味方だ! お前までもこの俺を謀ったというのか!?」

「ど、どうか落ち着いてくださいませ! この場合、問題になるのは王位継承権と遺産相続なのです!」


 このときのカルナードの顔は、まさに間抜けと形容するにふさわしいものだったため、アリスティドは目を逸らすことでことなきを得た。


 王位継承権と遺産相続、という今までまったく論題に上がってこなかった上に移転計画の書類にも書かれていない単語について、大臣は懇切丁寧に——カルナードを説得するため——説明してくれる。


「曲がりなりにもお二人が正式に結婚しているということは、すなわち財産分与の諸権利もそのまま適用されます。その、陛下よりも、これまでの例を鑑みれば聖女様のほうが明らかに寿命は長く、万一陛下がご逝去されたのちは正妃たる聖女様にもこの国で国王が所有する財産の半分を分け与えられる権利が生まれ……今までは聖女様がこの国から出ていかないことを大前提に、不文律となっている慣習に頼ってそれらはほぼ放棄されてきておりましたが」

「だから何だ! 何とでも理由をつけて、法律を作ってでも財産分与の権利を与えなければいいだけだろうが!」


 とんでもないことを言い放つカルナードへクラウディアは侮蔑の視線を向けていたが、向けられた本人は気づいていなかった。


 ことの重大さを理解している大臣は、しっかりと国王の主張を否定する。


「いけません。結婚の宣誓に関する諸制度諸規定は、万国共通と言っても差し支えありません。少なくとも、聖女崇拝を掲げる周辺国はすべて同じです。なのに、陛下がそれを守らないとなれば我が国の沽券に関わります。法律や信用問題どころの話ではないのです。ことは信仰の根幹、共通認識に関わるのですから、それを破るとなると各国と信仰を違えることと同じです」


 そればかりは、一国の国王程度ではどうにもならない。


 国内の制度であればいくらでもカルナードの一存でどうにかなっただろうが、聖女崇拝は周辺国一帯に及ぶ。聖女との離婚だけでも鼻白まれることなのに、さらに財産分与も諸権利も無視するなど、もはやトレザ聖王国が聖女崇拝から離脱するかのように受け止められてもおかしくはない。


 であれば、移転計画に合意したカルナードは、合意を反故にしないかぎり、アリスティドと離婚してなおかつクラウディアとの結婚を果たせないままになる。そのあとにクラウディアとの結婚が成立する可能性はきわめて低いだろうが、引き起こされる数々の重大な問題と禍根に比べれば安いものだ。


 なるほど、このためにサインさせたのか、と外野のアリスティドはただただ感心していた。アリスティドたちを罠に嵌めたつもりが逆に罠に嵌められたカルナードに、同情心など微塵も湧いてこない。


 クラウディアは書類をさっさとまとめ、アリスティドと聖堂長ににこりと微笑みかけた。


「さて、そろそろ移転の準備をしないといけませんね。行きましょうか」

「待て! まだ話は終わっていないぞ!」

「陛下。聖女アリスティドは多忙の身、聖女としての務めをこなさねばなりません。会談のお時間はすでに過ぎておりますので、また後日お越しください。しばしの間、移転計画を進めるために聖女アリスティドは時間を取れぬやもしれませんが、それも陛下がご賛同くださった移転計画を完遂するため。どうかご了承のほどを」


 クラウディアに先導され、アリスティドと聖堂長は応接室から出ていく。


 それにしても、まだその場にいなかったはずのクラウディアがすっかりそのままカルナードへ意趣返ししてしまうとは。


 これから学ぶべきことは多い、とアリスティドは背後から聞こえてくる怒声と騒がしい幾つかの声に耳を傾けながら、密かに決意を胸に抱く。


 こうして、長い間トレザ聖王国王都に腰を下ろしていた聖女大聖堂は、国王の許しを得て、やっと動くこととなったのだ。




☆




 応接室から十分に離れた廊下で、本当はすでに聖女大聖堂の移転先は決まっているのだ、とクラウディアはアリスティドへ耳打ちした。


 カルナードの横槍を警戒し、今の段階で移転先を知られないようにするため、わざと候補地が複数あるというていにしておいたらしい。


 アリスティドの知らないところで、いろいろなことが動き、決まっている。


 クラウディアが聖堂長へ、持ち出してきた本革の分厚い書類のファイルを渡していた。


「はあ、まったくもう、肝を冷やしましたよ、騎士クラウディア」

「申し訳ない。ですが、カルナードを諦めさせるために、ああするしかなかったのです。まさか応接室に口で勝てない私を入れまいと、邪魔する騎士まで配置しているとは思ってもみなかったものですから」

「とにかく、無事でよかった。では、私は書類を厳重に保管しておきますので、これで」


 聖堂長は二人へ一礼し、急ぎ足で去っていく。


 そうして二人になった途端、クラウディアは上機嫌にはしゃぎだす。


「聖女様、見ましたか、カルナードのあの顔。してやられて顔が赤黒くなりつつありましたよ」

「そうですね。初めて見ました」

「なかなか爽快でしたね、聖女様」


 クラウディアは大変愉快そうにしているが、少し冷めた態度のアリスティドを見て表情が引き締まる。


 アリスティドには、これだけはクラウディアへ言っておかなければならないことがあった。


「クラウディア様」

「はい」

「二度と、相談もなしにあのようなことをなさらないでください。たかが移転計画のために私はあなたを犠牲にしたくありません、他のどなたでも同じです」


 本来、奔放な性格のクラウディアは他人に何を言われようと気にしないたちだろう。女性ながらに騎士となり、国王の求婚を撥ねつけ、王宮騎士という立場で聖女へ肩入れしているのは、彼女だからこそ可能なのだ。


 だが、そうであったとしても言わなければならない。あなたの自己犠牲を喜ぶ者はいないのだ、ということを。


 もっとも、クラウディアを失うなど聖女大聖堂としても、聖女としてもありえない——そこまでは、アリスティドは口に出さなかった。聖女らしからぬ余計な感情を込めてしまいかねないからだ。


 見上げるアリスティドを見つめながら、クラウディアは神妙になり、あっさりと謝罪した。


「少々不誠実でしたね。面目次第もありません、今後は必ず相談いたします」


 アリスティドは、それがクラウディアの気遣いだと分かっていた。何も知らず、人との駆け引きも心得ていないアリスティドに、今日のクラウディアのような真似はできない。クラウディアは自分の仕事をしただけだ、謝る必要はなかったのに謝らせてしまったと自覚する。


 それでもだめなものはだめ、というわがままかもしれない思いに、少しだけ罪悪感が混じる。


「でも、あなたのおかげでいろいろなことが上手く行きました。私の離婚も、聖女大聖堂の移転も、行き先の選定も……」

「私一人ではありませんよ。議論を重ね綿密に計画を練ってくれた聖堂長や女司祭の皆様、それに交渉の際にメッセンジャーとして走り回ってくれた修道女たち。誰もがあなたとあなたの理想のために、手を尽くしたいと願ったのです」


 それと、とわずかにもったいぶってから、クラウディアは朗らかにこう告白した。


「先日、トレザ聖王国王宮騎士団へ辞表を出しておきました。なので、私を大聖堂で雇ってくださるとありがたいのですが」


 クラウディアはイタズラっぽくウインクしてみせる。


 思い切りのいいことに、どうやらクラウディアはとっくにアリスティドのために決断、行動していたようだ。


 ならば、アリスティドもまた思い切りよくそれに応えたかった。


「分かりました、では聖女大聖堂騎士団を作りましょう。あなたは初代騎士団長です」

「あら、それはまた素晴らしい重職を用意くださるのですね」

「あなたには、まだそばにいていただきたいのです」


 場の雰囲気に流され、茶化される前に、アリスティドは畳みかける。


「デート、するのでしょう?」


 一瞬だけ間が空き、それからクラウディアは激しく同意した。


「そうでした! では、どこに行くかを考えておいてください。ああ、この国よりも移転先のほうがきっと」

「いいえ。移転すればもう来られなくなるのなら、しっかりと目に焼きつけておきたいのです。この先どうなるかは分かりません、トレザ聖王国まで聖女の恩恵が届かなくなることもありえます。そうならぬよう、努力はしますけれど」

「では、私とのデートで最後にこの国の人々へ聖女様のお姿を見せつけておきましょう。国王はどうでもいいとして、民はきっと惜しむでしょうから」

「ええ、そうであれば」


 どれほどいいか、とアリスティドが言いかけたところで、急にクラウディアがしゃがみこんで、自分の前で地面へ片膝を突いた姿勢を取った。


 今まで見上げるだけだったクラウディアが、見下ろす位置にいる。それだけでアリスティドの胸がざわつき、不思議と鼓動が早くなる気がした。


 クラウディアはアリスティドの手を取り、手の甲にそっと口づけする。それは騎士の誓いだとアリスティドの知識は告げ、それは愛する人への最大級の愛の表現なのだとアリスティドの常識が教える。


 思えば、これほど近くでまっすぐに見つめられたことは初めてだった。アリスティドの戸惑いが伝わったのか、クラウディアは手を握り、ひときわ麗しく微笑む。


「これからも変わらず、あなたの騎士として忠誠を誓いましょう」


 クラウディアは騎士だ。誰もが認める責務と役目を果たせる力を持ち、その精神もまた騎士である。


 燃え上がるような波打つ金髪と、青灰色の熱意のこもった両目は、騎士の思い以外にも何かを秘めていそうだが——今のアリスティドには、それを明確な言葉にできなかった。


 その曖昧さがもどかしいが、アリスティドがもっとクラウディアのことを知れば分かるかもしれない。


 デートへの期待がより一層膨らみ、アリスティドはその日を待ち侘びた。




☆




 聖女の非公式の外出時には、ウィンプルと呼ばれる幅広の頭巾を被らなくてはならない。


 とはいえ理由は明快で、光輪のある銀髪や目は目立ちすぎるからだ。綿紗(ガーゼ)を何重にもしたウィンプルと、生成りのふっくらとしたブラウス、くたびれていない踝丈(くるぶしたけ)の藍染めのスカートを選び、アリスティドは昼前の大聖堂入り口で、クラウディアと待ち合わせた。


「ご機嫌うるわしゅう、レディ。おっと、今日はお化粧をしていますね?」

「ええ、祭典時などの練習と思い、白粉(おしろい)を薄く塗ってみました。やはり、気付かれてしまいますか」

「いえいえ、外に出ると太陽の光で白粉の中の真珠粉が輝いて見えただけです。あなたの肌は元々白く透き通っていますから、これからの季節は日焼け止めも必要でしょう。それに日傘も」


 そんな世間話の間にも、アリスティドはさりげなくクラウディアの服装へ目を凝らす。


 ジャケットとレギンスにブーツ、といういつもの男性服に、派手にうねる長髪を何とかまとめて山高帽にしまおうとしているが、クラウディアの髪はそれを拒否してぴょんぴょんとうなじあたりに脱出していた。


 クラウディアはいつもきちんと化粧をしている。最低限の礼儀だとでも言わんばかりで、祭典でもないかぎり白粉の蓋を開けないアリスティドにとっては少し羨ましかった。


 ふと、付近で様子見をしている修道女たちの視線に気付き、クラウディアは手を振った。そしてそのまま、アリスティドの手を握り、歩きだす。


「どこへ行きましょうか。まずは歩いて、気になるものがあれば寄り道をしてみますか」

「では、そのように」


 アリスティドは徐々に離れている大聖堂を振り返りつつも、足を止めない。


 まるで慣れない土地に来てしまった子どものように、アリスティドが目抜き通りの大きな石柱や大理石を使った建造物を見つめていると、「あれは銀行です。あちらは国内有数の商会の本拠地、大きいでしょう?」とクラウディアが解説してくれる。


 通りの石造りの建物はずらりと隙間なく並び、大聖堂に引けを取らない堂々たる風格を備えている。ようやく左右の交差する道が現れると、そこから先の区画はまた違う世界のように、煉瓦造りの建物が並びはじめる。スレートの黒い瓦が規則正しく屋根を構成している一方で、建物自体はわずかに曲がった道に合わせてカーブしているものが多くなっていた。


 それに、徐々に人の生活を感じる音や匂いがアリスティドにも届いてくる。


 洗濯物が風にはためく音、昼食の温かいスープから立ち上るブイヨンの香り、家事をしながら女性たちがおしゃべりする声に、玄関先の植木鉢から咲き誇る花々の芳香。


 馬車は忙しなく蹄鉄と車輪の音を立てて走っていたが、アリスティドは不意に乗客と目が合った。


 どこかの上流階級の令嬢だった。お付きの老女とお出かけしている最中なのだろう、鍔広(つばひろ)の帽子の紐を調整してもらっていた。ご令嬢が少しふくれ面をしていたのはドレスか帽子が気に入らなかったのか、お出かけ自体が嫌だったのか、分からない。


 過ぎ去っていく馬車は、あっという間に辻の角を曲がっていった。もうすでに次の馬車が通りかかり、新聞を読む男性たちが運ばれていく。


 石畳の道路は人を載せ、どこへ進むとしても未来へ運んでいく。アリスティドのそばを、十歳になるかならないかくらいの子どもたちが走り抜けていった。


 そんな見慣れない、それでいて祈りの行き着く先の一つである風景を見ていると、アリスティドはいつの間にか歩く速度が遅くなっていた。何も言わずとも、クラウディアはしっかりとアリスティドの意図を汲み取って、ゆっくりと歩いてくれている。気の合う間柄と出歩く『デート』だからかもしれない、となるとクラウディアの意図もあるだろうから、とアリスティドは尋ねてみた。


「クラウディア様の行きたいところはおありですか? 私は街を歩くだけで物事が新鮮ですから、行き先まで思い至らず」

「では、もう少し歩いた先にある、飴菓子の店へ行きましょうか」


 クラウディアの案内どおり、次の角を曲がってすぐのところにある店からは、砂糖を溶かした甘い甘い香りが外へ漏れ出していたため、すぐに分かった。


 店の前面に貼られたガラスの向こうで、若い飴職人がフックや棒を使って練り上げられた巨大な飴を引っ張ったり、畳んだりしていた。手のひらで転がして細い棒状になった飴をリズムよく包丁で叩いて小さくしていき、よく見かける飴の一粒一粒が袋詰めされていく。


 アリスティドは、その魔法のような工程を子どもに混ざって一心不乱に眺めていた。不思議なことに、細長い飴をくるくると巻けば、棒付きキャンディ(ロリポップ)の出来上がりだ。食紅を混ぜてピンクにしている飴もあれば、白い雲のようなものまで作られていく。


 まじまじと飴作りに気を取られたアリスティドの肩をクラウディアが遠慮がちに叩くまで、すっかり見惚れてしまっていた。子どもたちの集団から少し離れて、クラウディアは手に持っていた紙袋を開き、アリスティドへ中身を見せる。


 まず柑橘の匂いがした。それからコーンスターチをまぶされた黄金色の飴が積み重なり、袋の中でコロコロ転がっている。それに、アリスティドが嗅いだことのない、というより味わった覚えのない香りも混ざっていた。


 クラウディアがあっさりとその正体を明らかにする。


「オレンジのキャンディです。はちみつがたっぷり入っていて、滋養もあり喉にもいいですよ。お一つどうぞ」


 勧められるままに、アリスティドはおずおずと袋へ指先を差し込む。


 はちみつ。言われてみれば、アリスティドは食べたことはないかもしれない。蜂が集めた蜜を濾過して……と知識としてはあっても、味の想像がつかなかった。


 ひとまず、アリスティドは舌の上に乗せてみる。ふすま(ブラン)のビスケットのようにそのまま置いておくと、じわりと飴が溶けてきた。


 ひょっとすると以前クラウディアからもらった砂糖菓子のドラジェにも入っていたかもしれないが、今日の飴からは「これがはちみつ!」とばかりの甘ったるさが舌に染み込んでくる。


 それが、アリスティドはどうにも嫌いではなかった。むしろ、わずかな酸っぱさも相まって魅惑的な味だ。いいのだろうか、聖女がこんなにも甘く美味なるものを口にして——思わず告解室の反対の席で懺悔したくなるほどに。


 しかし、アリスティドは聖女である。できるだけ冷静に、平易に、感想を述べる。


「美味しいです」

「それはよかった。足元に気をつけて、このあたりは轍(わだち)がありますから」

「はい、気をつけます」


 再びクラウディアと手を繋ぐ。アリスティドはオレンジのキャンディが思ったよりもすぐに溶けてしまったことに気を取られ、すっかり道々の風景から目を離していた。


 クラウディアの足が止まり、ようやくキャンディから意識を離したアリスティドの目に飛び込んできたのは、大噴水を中心とした円形の広場だった。年月と風雨に色褪せてもなお主張する赤や青、灰色、それに少しずつ色の違うタイルを使って広場の地面に描かれているのは、緻密な幾何学模様だ。


 それらを、アリスティドは知識として知っている。一千年以上前の賢者たちが編み出した数式と図形の法則、学者と呼ばれるようになった教師たちが一つの円形にいくつの違う大きさの円を詰め込めるかを競ったフラクタル図形、三角形だけでどこまで広大な宇宙を表せるかを突き詰めた天文幾何学模様。


 それら人類の知の歴史の上に、老若男女が座り、椅子とテーブルまで持ち込んでチェスに興じたり、食べ物の屋台に並んだりして、思い思いの生活を営んでいる。


 アリスティドは、広場とは人の集まるところ、くらいにしか知らなかった己を恥じる気持ちでいっぱいだ。ここには人々の数だけ人生があり、交わりながらも離れていく。ひととき留まる場所でありながら、その行く先は無限に広がっていくのだろう。


 そう思えば感慨深く、自らの目で捉えられた興奮はひとしおだ。


「……広場とはこんなにも広いのですね。皆様、思い思いに過ごされています」

「週末は市が立ちますから、もっと賑わいますよ。討論会や祭りのときは騒がしすぎて大変ですが」

「あれは何でしょう?」


 アリスティドは早足で人混みの屋台へ向かう。


 ぽたぽたと屋台の上から水が滴り、吊るされたものを満遍なく濡らしている。頭ほどの大きさの、さっぱり見たことのない色と形をしたそれらは肉だろうか、それともそういう生き物なのだろうか、と考え込んでいた矢先に、そっとクラウディアが耳打ちした。


「茹でた牛や豚の内臓を売る屋台ですね。庶民の味といいますか」

「内臓、ですか。美味しいのですか?」

「まあ、そうですね。レモンとオリーブと塩でさっぱりと」


 ふむ、とアリスティドは考え込むのをやめ、行列が途切れた隙を見計らって屋台の店主へ話しかけた。


「こんにちは。一ついただけますか」


 新しい水と氷を袋に入れ、屋台の上から滴らせる調節をしていたちょび髭の店主が振り向く。


「はいよ……って、聖女様!?」


 どうやら、至近距離では瞳の光輪が見えてしまうこともあって、一目でアリスティドは聖女と見抜かれるようだ。元々姿を隠しているわけでもなし、一度や二度は王都の民なら礼拝でアリスティドと会うこともあるため、顔を覚えられていたのかもしれない。


 それでも、アリスティドは好奇心を抑えられなかった。


「美味しいと聞きましたので、食べてみたくて」

「ど、どうぞ! こんなものでよければ」


 ちょび髭の店主は、素早く吊るしてあった牛の第四胃を一つ引っ張って細かく刻み、切り分けたオリーブの実とともにパンに挟んで、レモンと塩を振った。その早さたるや、アリスティドも目で追いきれない。


 渡されたパンを、アリスティドは頬張る。柔らかく、それでいて歯応えのあるもの、これが茹でた牛や豚の内臓なのか、としみじみ味わう。レモンと塩がいいアクセントになり、口へパンを押し込む手がどんどん進む。


 半分ほど食べたころ、クラウディアがちょび髭の店主と同じ顔をして、アリスティドの様子を伺っていた。アリスティドは夢中になってしまっていたと自戒し、しっかり飲み込んでから話す。


「とても、とても噛みごたえがあります。初めて食べますが、味わい深いものですね」

「まさか、聖女様がお召し上がりになるようなものではないのに」

「生肉でなければ問題ありません。ひょっとして、高価なものでしょうか?」

「いえ、庶民の食べ物ですから安価です。ええ、こちら代金を」


 クラウディアは、ちょび髭の店主へ銅貨を渡していた。確かに安価なようだ。それ以上のことはアリスティドには分からない。


 まもなくパンを食べ終えたアリスティドは、次なる屋台を目標に定めた。


「あちらの屋台は煮込み料理のようですが、赤いですね」

「あれは辛いもので」


 大鍋を載せた屋台の店主は、ふくよかな女性だった。料理上手な母親、という雰囲気を感じ取り、アリスティドは踏み込む。


「こんにちは。一ついただけますか」

「ひえっ、聖女様!? こんなものを!?」


 またしても一見して聖女だと見破られたが、かまうものか。アリスティドは大鍋からよそわれる一杯の赤いスープに目が釘付けになっている。スープに浮かんでいるものは先ほどの牛豚の胃腸と同じように見え、汁には少しとろみがあった。


 スープは木の器に入れてもらい、アリスティドは口をつけて飲む。大聖堂では許されない行いだが、ここにスプーンはないため致し方ない。そう思っていたところ、店主から木製のスプーンが差し出された。


 スープは辛味がほどよく、それ以上にトマトと玉ねぎの旨味がなめらかな舌触りを生み出している。細切れの内臓はとろとろに煮込まれ、うっかり噛まずに飲み込んでしまうほどだ。


「こちらは柔らかい、それにトマト味です。辛いものが入っていますね」

「……美味しいですか?」

「はい、脂に濃厚な甘味と奥行きがあります。パンに合いますね」

「お口に合ったようで何よりです、ええ」


 クラウディアは明らかに微妙な顔をしていた。店主へ銅貨を渡し、アリスティドが食べ終わって器を返してから屋台を離れる。


 アリスティドは満足だった。美味しいものは甘いものだけではない、温かいもの、旨味あるもの、他にもたくさんあって、体が求めている感覚だ。贅沢といえば贅沢かもしれないため、おかわりは遠慮しておいた。


「内臓というのは美味しいのですね」

「その分、新鮮なものを使わねばなりません。なかなか管理が大変なのですよ」

「これほどの味をいただけるなんて、ありがたいことです。感謝いたします」


 ハンカチで口を拭い、アリスティドはぼんやりと大聖堂でも食べられないか、と考えはじめていたとき、クラウディアがこう言った。


「聖女様、一つだけ申し上げるならば」

「何でしょう?」

「おそらく修道女たちは牛や豚の内臓を好みませんから、食事に加えることだけはおやめください」

「……そうでしたか。分かりました」


 納得しきれないアリスティドだったが、クラウディアがやめろとまで言うのは珍しいため、聞き入れるしかない。


 それに、周囲には聖女がここにいるとバレてしまい、注目を集めている。わがままを言うつもりは毛頭なく、アリスティドは聖女らしい姿を見せなくてはならないと今更背筋を伸ばす。


「はしたなく食べてばかりの姿をお見せしてしまい、申し訳ございません」

「何をおっしゃるやら。あなたが美味しそうに食べる姿は、皆を魅了していますよ」


 言われてみると、店主たちを含めて広場にいる人々は遠巻きながらもアリスティドの食べている姿を目の当たりにして、なお目を離していない。


 その事実が、アリスティドにとっては意外すぎて、なんだか居心地が悪い。


「……恥ずかしいです」

「また来ましょう。彼らも喜びますよ」


 どう返事をすればいいか分からないまま、アリスティドはクラウディアに手を引かれて、広場を後にした。


 聖女様は牛や豚の内臓料理がいけるらしい、という噂が市井に出回った際、真偽のほどはさておき屋台の売り上げが伸びたとかなんやかんやで長期的に見ればトレザ聖王国の食肉品質の向上に繋がるのだが、次のデートの日程や三食の麦粥に入れるチーズの種類に悩むアリスティドには知る由もなかった。




☆




 半年後、聖女大聖堂の移転は公に明かされた。


 トレザ聖王国王都から大陸南岸にある聖女降臨の地と伝えられる場所へ移り、聖女大聖堂を新たに建設する。表向きの理由は聖女崇拝の広域化による参拝や巡礼の不便さを解消するためであり、あくまで信徒である人々のためとされた。


 もちろん、各国の上層部ならば裏の事情も把握しているが、トレザ聖王国に睨まれたくないため黙っている。すでに新たな聖女大聖堂とどれほど強固に結びつけるかを競うように各国重鎮の会談や援助協力の申し出がある現状、国際関係の平衡を保ちながらのきわめて慎重なやり取りが求められるだろう。


 難しいことは聖堂長と協力者に任せ、アリスティドは己にできることを模索してきた。


 その一つが、トレザ聖王国での最後の礼拝日のイベントだ。


 トレザ聖王国の聖女崇拝に熱心な貴族たちはもちろん、カルナード国王やフローラ王妃(正妃も側妃も公式には同じ王妃称号だ)、この国において上流階級とされる人々を招いての礼拝であり、一人一人に会うことは難しいため別れの挨拶代わりの催しだった。


 聖女大聖堂の礼拝堂は人で溢れかえり、国王夫妻以外の若者は身分の別にかかわらず立ち見を余儀なくされている。


 もっとも、敬虔な信徒である大貴族たちは立ったままの礼拝に慣れているため、進んで女性や子どもを長椅子に座らせていた。それに倣って他の貴族たちも立ち上がり、目立ったトラブルもなく礼拝堂は満員になる。


 礼拝堂の指揮を任されているクラウディアは、協力者であり国内屈指の大貴族のハンデール公爵がやってきたことに気付き、すぐさま案内へ向かう。白髪の老公爵はいまだに巡礼をこなせるほど足腰が強く、キビキビと動いていた。


「ごきげんよう、ハンデール公。こちらへどうぞ、お席をご用意しております」

「いや、私はいい。そちらのお嬢さんに座ってもらうといい。青い顔をしているぞ」


 ハンデール公は壁際にいた十五、六歳ほどの赤髪の少女を指差す。この中では身分も比較的低いのだろうし、若いからといって長く立たされて貧血気味になっている。


 クラウディアは急ぎ少女を用意していた椅子に座らせ、手の空いていた修道女をそばにつけた。他に体調不良を訴える人がいれば優先して対処するよう言いつけ、ハンデール公を別の場所へと誘導する。


「クラウディア、聖女様はどちらに? 今日はやけに外国人が多いな」

「ええ、聖女様が招待なさったのです。トレザ聖王国に駐在する各国大使や留学生たち、それから」


 先ほどの赤髪の少女もそうだが、壁際に立たされている若者のほとんどがトレザ聖王国にやってきた周辺国出身の留学生たちだ。本国ではいくら身分が高くても、トレザ聖王国では一段も二段も下に見られる。


 だとしても彼らも聖女崇拝の信徒であり、優秀さを見込まれた留学生には将来の外交官や国の重鎮も含まれているだろう。それゆえに、この最後の礼拝に招かれたのだ。元は聖女アリスティドの指示であり、トレザ聖王国だけを特別視しているわけではないことを示したいという意図があってのことだった。


 クラウディアは礼拝堂の二階へとハンデール公を連れていく。本来は客席などなく、物置や石像や装飾の設置にかかる手すり付きの足場くらいしかないのだが、ハンデール公は最初からここへ来る予定だったとばかりの軽い足取りだ。全体を見渡せる位置につき、ハンデール公は目を細めた。


「陛下までいらっしゃるのか」

「散々不貞腐れた挙句、フローラ王妃殿下のご説得もあってようやく足を運んでくださいました」

「まあ、王宮はすぐそこだからな」


 すぐそこなのに国王は礼拝へ足を運ばない、という皮肉も含まれているが、クラウディアは反応しなかった。


 カルナードとフローラ、金髪碧眼の見目麗しい美男美女二人の、幼稚な会話が聞こえてきてしまったからだ。


「カルナード様ぁ、まだ怒ってらっしゃるの〜?」

「怒っていない」

「じゃあ笑いましょうよぉ。ねぇねぇ、聖女様って本当に素敵でしょう? 王宮に住んでいらしたら一緒におしゃべりできるのに、どうしてそうなさらなかったの〜?」

「いいから静かにしろ」

「ぷ〜、カルナード様ったらいつもそうだわ〜。わたくし、聖女様にお近づきになりたくて王妃になったのに、会うことも止められてもうどうしたらいいか〜」

「ちょっ、泣くな、フローラ。人前だぞ」

「うえぇ〜」


 礼拝堂の二階は、ドーム状の屋根に反響して騒がしい中でも珍妙なやり取りが耳に届いてしまう。


 ハンデール公があからさまなため息を吐き、クラウディアは笑った。


「お似合いの夫婦ですよ。ええ、結局フローラ王妃殿下の尻に敷かれているのですから」

「まったくだ。ベルリア侯も上手くやったものだ、と感心したよ。あれなら利かん坊の陛下も多少マシになると思ったのだが、はあ。結局はこうなったか」


 ハンデール公は嘆き、生まれたころから知っている国王夫妻の現在に何とも言えない顔をしていた。


 フローラの実家であるベルリア侯爵家もまた、国内屈指の大貴族と言っていい。当然聖女崇拝には熱心で、ハンデール公とベルリア侯は旧知の間柄だ。カルナード国王の側妃に、と結託して政治に興味のないマイペースな性格のフローラを送り込んだのはよかったものの、まさか国王が正妃である聖女アリスティドとの離婚を決断してしまうなど想像もできなかったのだろう。


 ちなみに、クラウディアもフローラのことはよく知っている。実家フォンテーヌ家はあちこちの貴族の家へ優秀な騎士を送り出しているため、大貴族と呼べる家柄の人々、特に同年代とはほぼ全員と顔見知りだった。


 しかし、済んだことを悔やむより、現条件からいかにいい結果を導き出すかを考えたほうが有益だ。


 トレザ聖王国の重鎮たるハンデール公も、まさかトレザ聖王国のためにならないことはしない。聖女崇拝を重視しつつもトレザ聖王国がいかに利益を得るか、損をしないか——そのために聖女大聖堂と繋がりを保ち、聖女の祈りの恩恵が消失しないよう何度も確認をしてきた。


 クラウディアは今日もまた、その確認代わりにきちんと明言しておく。


「聖女大聖堂が移転しても、トレザ聖王国に対する恩恵は今までと変わらずある、と聖女様は約束してくださいました。そのお言葉を信じましょう」

「しかし、何一つとして保証はないだろう。今でこそ聖女様の御前で各国は争っていないが、疑心暗鬼になれば瞬く間に古の戦乱の時代へ逆戻りだぞ」

「信じてもいないことをおっしゃるのですね、ハンデール公」


 クラウディアは微笑み、老公の疑念が立場上の建前であることを見抜く。


 ハンデール公が何か言いかけたとき、階下から大きな歓声が湧いた。


「聖女様だ!」


 その声の元へと、皆の意識が引き込まれる。


 象牙色(アイボリー)と空色(スカイブルー)、藍色(インディゴ)の三色だけを使った古代風衣装(キトーン)に、透かし彫り刺繍(アジュール)のマントを羽織った妙齢の女性が、讃美歌を歌う修道女たちを引き連れて礼拝堂へとやってくる。


「聖女様!」

「聖女様、ごきげんよう」

「お会いできて嬉しいです、聖女様」


 銀髪に光輪を宿した聖女アリスティドは、人々に目線で答えながら礼拝堂の壇上へと一歩一歩進み、そのたび椅子に座る人々は立ち上がって恭(うやうや)しく頭を垂れる。


 それは国王も同じであり、王妃とともにわずかに頭を下げ、文句を言う。


「あんな化け物に媚を売るなんぞ、気色悪い」

「もお〜、カルナード様はそういう憎まれ口ばっかりおっしゃるから、嫌い!」

「引っ張るな! こら、やめろ! ちょっ、待っ、鼻水を拭くな!」


 果たして王妃フローラはカルナードの衣服のどこを引っ張って鼻水を拭いたのか、それはアリスティドには分からずじまいだった。


 何にせよ、笑わずに壇上へやってきたアリスティドは、聖女としてこの場の全ての人々へ、祈りを共有する。


「皆様に神の祝福が在らんことを……聖女として、切に祈らせていただきます」


 聖女の祈りには実利がある。だからこそ、古(いにしえ)より現代まで信仰を集め、権威を保ってきた。


 ただし実利というものの見方は、もはや古とはまるで異なる。人は大地に溢れんばかりに増え、国は無数に分かれ、新たな知識や概念は生まれつづけている以上、聖女の祈りもまた利を届けるべき場所を再設定しなくてはならない。


 アリスティドは考えた。祈りの届く範囲を、祈りの行き着く先を、祈りの求める先端を。


 結果、このような宣言を出すに至ったのである。


「国境の別なく、身分の別なく、ありとあらゆる生きとし生ける命のため、私は祈りを捧げます。聖女の祈りは恩恵となり、大地のすべてへ分け隔てなく降り注ぐならば、今後二百年、私は命の限り祈りましょう。私はこの世のすべてへ祈り、その結果生ずる恩恵という恩恵を隅々まで行き渡らせたいと願っております」


 聖女を見上げる無数の目に宿るのは、何も期待や羨望ばかりではない。わずかでも猜疑や不満が滲んでいるだろうし、大人たちが揃いも揃って無垢(むく)なる信仰を持つなどありえない。


 なぜこれまでの聖女たちがあえてしなかったことをするのか、と問われたとき、アリスティドは軽々しく時代の流れだと口にすることはしない。


 その代わり、行動で示すことにした。


「私の大望を叶えるために……私は、修道女たちと祈り、讃美歌を歌いましょう」


 修道女たちはアリスティドを中心に二列を作って、ざわめく人々のほうへ顔を向ける。


 おそらくこの中では年長のハンデール公さえも、聖女が歌う場面に遭遇したことはないだろう。細則を知らずとも、礼拝堂で歌うのは聖女ではなく修道女たちであることが常識とされてきたのだから。


「聖女の歌は禁じられるほどに、祈りよりも恩恵が溢れてしまう……そう言い伝えられてまいりました。ですが、今こそその溢れんばかりの恩恵を、人々が目の当たりにする必要があると考えます。神の奇跡を願うのではなく、私は私の祈りによって人々の希望を示したいのです」


 礼拝堂の奥に位置するオルガンの鍵盤が打たれ、ゆったりとした長大な旋律を発しはじめる。


 歌えば祈りよりも効果が出てしまう以上、練習もままならなかったが——アリスティドは多少の緊張はあれど、失敗を恐れてはいない。


 なぜなら、少し前にクラウディアへ相談したからだ。


 最後の礼拝で聖女として讃美歌を歌う、というアリスティドの提案に、クラウディアは笑うことなく真剣に向き合った。


「歌を?」

「はい。歌詞はなくとも、音律を奏でることができれば」

「それならば、適当にハミングすればよろしいかと……しかし、歌ってもよいのですか?」

「私が音痴かどうかを確かめたくて、クラウディア様へご相談にまいったのです」

「そうではなく、聖女は歌うことを禁止されているのでは……?」

「あっ……ええ、それはそうなのですけれども、あくまで祈りの効果を抑えるためだと聞きました。なので、一時的にでも聖女の祈りの効果、恩恵を集まった人々にだけでも知らしめられれば、多少なりとも移転計画に寄与するのではないかと思った次第です」


 打算的な狙いと言われればそれまでだが、聖女の祈りを失うと危惧しているトレザ聖王国の貴族たちを安心させるためには、これしかない。


 とはいえ、アリスティドは生まれてこの方歌ったためしがなく、讃美歌の練習で居残りを命じられる涙目の修道女のように——早い話が、自分が音痴ではないか心配でたまらなかったのだ。


 禁止の規則はどうとでもなる、何なら聖堂長を巻き込んで指導役の女司祭を徹底的に説得してもいい。


 そこまで決心したアリスティドを、クラウディアは認めてくれたようだった。


「なるほど、陛下はもちろんのこと、自国へありのままに状況を伝えられる各国大使、留学生らが聖女の祈りの実在を信じ、その効果を認めざるを得ない状況を作り出せれば、ということですね」

「はい」

「いいアイデアです。やりましょう、そしてカルナードを思いっきり後悔させましょう」


 そうして、口を閉じるか開けたまま歌詞なしで歌えるか、試行錯誤の末に開けたふりをして讃美歌の音律をハミングすることになった。


 その結果は、讃美歌を耳にして徐々に表情が和らいでいく聴衆を見ていれば分かる。


 普段の讃美歌であればつまらなそうに、あるいは厳粛に祈りと歌を両立させる信徒たちも、今日ばかりは祈りを忘れて聞き惚れるようにのめり込んでいる。


 もしこの場に信仰厚い大貴族たちだけがいたなら、アリスティドも大した意味はないと思ってしまっただろうが、最前列の国王夫妻や壁際の留学生たちまで年若い好奇心よりも静かにたたずむことを選ぶほどの効果があれば、認めざるをえない。


 祈りの力か、それとも珍しい出し物に釘付けになっているのかはさておき、聴衆たちは歌の終わりまで音一つ立てずに耳をそばだてていた。


 オルガンと歌声が完全に音としての役割を終えた瞬間、アリスティドは今一度、壇上で宣言する。


「生涯この祈りを皆様へ届けることを、私は約束いたします。たとえこの身がここにあらずとも、祈りによって私は皆様をお支えいたします」


 讃美歌に拍手はすべきではない。だが、礼拝堂を埋め尽くす人々はそのことをすっかり忘れ去り、誰からともなく手を叩き、喝采の渦を作り出した。


 その中にはクラウディアも、ハンデール公も、フローラ王妃に無理矢理両手を掴まれて拍手させられている形のカルナード国王もいた。


 興奮冷めやらぬ夢の舞台から、アリスティドは無事、最後の公式の務めを終え——旅立ちの支度を始める。


 この年のうちに、聖女アリスティドは無事国王との離婚を執り行い、聖女大聖堂ごとトレザ聖王国から惜しまれつつも去った。




☆




 大陸南岸、一年中温暖で晴れの日が多い平原に、白亜の聖女大聖堂があった。


 大聖堂の南には断崖絶壁の先に海が広がり、はるか昔には大陸があったが沈んだとか、島々の神々がいなくなり削れて消えてしまったとか、さまざまな伝承がある。


 ここには最初の聖女が降り立ったため、聖女崇拝の聖地であり巡礼の終点としてささやかに知られていたが、約五十年前の聖女大聖堂の移転によりガラリと様相が変わったのだ。


 第一に、大量の白亜(チョーク)が産出され、聖女大聖堂の建設はあっという間に済んでしまったこと。


 第二に、海の幸が豊富であることが分かって新しい漁港が生まれ、美食の街として発展したこと。


 第三に、巡礼の都合で陸路も海路も整備され、辺鄙な土地のはずが大陸のどこからでもアクセスがしやすくなったこと。


 つまり、各国王都ほどではなくとも、洗練された都市が生まれる下地が育まれ、何もなかった平原と断崖絶壁には高低差すらものともしない広域の大都市が生まれていた。


 その中心が、聖女アリスティドの座す『新聖女大聖堂』である。


 海の見えるテラスで、聖女アリスティドは老婆とテーブルを囲んでいた。


「相変わらず、あなたとこの土地は美しいままです」


 眼下の海は青く、透き通っている。崖下には白い地層が海面あたりに分厚くあり、余計に海の青さを引き立てていた。


 アリスティドが普通の人間のように老いることはない。五十年経とうと何百年経とうと、次の聖女を産むまでは妙齢の女性のままだ。


 片や、右目に刺繍入り眼帯をした老婆にとっては、五十年は実に長かっただろう。彼女はジャケットとパンツを鍛えられた細身にまとわせ、腰には銀鞘の剣を下げている。胸元の勲章は肩からポケット下まで続き、それでも省略したほうだ。後ろで束ねたうねる波のような髪は、白くなっても相変わらず元気がいい。


 アリスティドは彼女の名を呼ぶ。


「クラウディア様」


 五十年前から変わらない呼び方に、老婆クラウディアはニコリと深いしわを作って微笑んだ。


 初代聖女大聖堂騎士団長クラウディア・フォンテーヌ。史上初の女性だけの騎士団創設、身分や国籍を問わぬ登用、何よりも男性でさえ厳しい訓練を課すことで知られたクラウディアだったが、寄る年波には勝てず、引退することになった。


 その最後の挨拶では、テーブル上に温かいホットチョコレートが用意されていた。アリスティドとクラウディアは遠慮なくそれぞれのカップに口をつけ、ほどよい甘味に顔を綻ばせる。


「五十年、あなたは何も変わらないように見えて、多くのことを自分で決められるようになりましたね」

「はい。あなたを含め、皆様のおかげです」

「うちのひ孫にもあなたを見習うよう言いつけていますが、誰もあなたが自分が音痴ではないか心配するような方だったなどと信じてくれないのですよ。まったく、それに本当は内臓料理だけでなく肉や魚料理もお好きで、放っておくと鍋の中身を全部平らげてしまう食いしん坊だということも、誰一人として信じてくれません」


 思わずアリスティドは真顔になった。聖女をはじめ大聖堂の人々への贅沢奢侈(ぜいたくしゃし)こそ禁じられたままだが、たくさん食べることは解禁された。そのおかげでアリスティドはデート名目であちこちに出掛けては美食を味わい、大聖堂で出される麦粥を大陸一美味なる麦粥にすべく励んだことは事実だからだ。


 おかげで修道女たちは妙に体格がよく、途中から進路変更して騎士になることも珍しくなくなった。


 とはいえ、食いしん坊聖女と言われつづけるのも威厳にかかわるため、アリスティドは話題を変える。


「西の大陸には『魔女』がいると聞きました。何百年と生きる魔術の使い手で、女性なのに男性と交わることなく、自然と子を産むそうです」

「まるで『聖女(あなた)』のよう、とお思いですか?」

「もしかすると、同じような存在なのかもしれません。しかし、西の大陸は遠く、滅多に交流もありません。『魔女』の噂も真実ではない可能性さえ十分ありえます」

「それでもいつか、あなたが望めば会える日も来ることでしょう。惜しむらくは、そのときはきっと私が同席できないことです。まあ仕方ありません、その使命は孫やひ孫へ託しましょう」


 アリスティドは、ご冗談を、と言いたかったが、堪える。


 十数年前、聖堂長を亡くしたとき、すでにアリスティドは薄々気付いていた。古馴染みの親しい人々は皆いなくなり、アリスティドは独り時間の流れに取り残されていくのだ、と。


 しかし、五十年前とは違い、今のアリスティドの周囲にはたくさんの友人知人がいた。クラウディアの娘や孫たちもそうだし、新たな聖堂長や個性豊かな女司祭たち、それに毎年いろいろな事情を抱えてやってくる修道女たちもすぐに打ち解けられるようになっているのだから——アリスティドが毎日誰かと『デート』するくらいに。


 だから、別れを惜しむことはあっても、その場に留まることはない。


「五十年、お疲れ様でした。あなたとの『デート』は、本当に楽しくて待ち遠しいものでした」

「ふふっ、いつからデートの意味にお気付きで?」

「ずっと前から。これでも修道女たちとおしゃべりすることは多いのです」


 『気の合う間柄での外出』は、いつでも楽しかった。だが、クラウディアとの『デート』だけは、別だった。そのことを口に出すことは憚られ、クラウディアもまた決して一線を越えることなく、五十年。


 この先、クラウディアがいなくなってもアリスティドの記憶には愛(・)がしかと刻まれている。


「私も、あなたとのデートをいつも楽しみにしておりましたとも。叶うならばずっとそばに、一緒にいたいと埒もないことを考えてしまうほどに。でも、夢はいずれ醒めるもの、恋はいずれ破れるものです」


 老婆となった騎士はアリスティドの足元に片膝を突き、手を取ってキスをする。


 万物流転の理に背くことなく、時の流れはクラウディアを老いさせた。


 それでも、アリスティドの手の甲にそっと写された口紅は赤く、愛も恋も知らぬはずの聖女の胸を高鳴らせる。


「騎士として、クラウディア・フォンテーヌとして、あなたに至上の愛を捧げましょう。二人だけの秘密ですよ?」


 老騎士は去り、聖女は変わらず祈りを捧げる。


 ただ、聖女の歌う声は、祈りのためだけではなくなっていた。




☆




 新聖女大聖堂の周辺にある白亜の神学校に通う女学生たちは、授業終了のチャイムのあとに聞こえてくる歌声にいつも耳を澄ませている。


「あら、聖女様の歌声だわ」

「本当、とっても綺麗。でもなんだか、胸がドキドキする」

「そう? 私は温かい気持ちになるわ」


 もうとっくの昔に、聖堂長以下大聖堂の女性たちは結婚を祝福される身となっている。


 大陸各地へ嫁ぎ、聖女の祈りがどこまで行き渡っているかを報告してくる彼女たちは、幸せを知らせる手紙を聖女へ送っていた。


(了)

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