公家巫女物語
三条西家(公家)の娘である愛娘は天真爛漫。すばしっこく、やんちゃ、お茶目で機転が利き、読み、書き、そろばんなどは、お茶の子さいさいである。その愛娘が、一女相伝とする「公家巫女」の称号を賜り、母親譲りの未来を見通す天賦の才を遺憾なく発揮して、徳川家康の長女亀姫を娶った奥平家とのご縁により、戦国時代、徳川幕府の治世を通して、太平の世を築くため、心血を注ぐのであった。
ご一読頂ければ幸いです。
巫女様物語
★ 物語の始まり
コンチキチン、コンチキチン、コンチキチン、祇園祭のお囃子が微かに聞こえて来る。町家や商家の軒先に、ヒオウギの花が飾られている。
二条城を発した牛車(八葉車)が、ゆっくりと三条西実条邸の正門に到着する。侍女が差し出す手をとって、公家巫女と春日局が降り立つ。正門の前で控えていた侍従が、邸内に案内する。玄関で、深紅の革華靴を、下足番が受け取る。上がり框を経て濡縁を通り、小堀遠州作であろうお庭が一望できる客間に通される。床の間には、竹斎読書図の掛軸が飾られ、杜若(かきつばた〓花言葉は、幸運は必ず訪れる)が活けられ、空薫の香りが満ちている。
公家巫女と春日局の装いは、飛鳥の壁画に描かれている様な、色彩豊かな羽織をまとい、腰紐には檜扇と、四季の乾燥花を入れた豪華な香り袋を下げている。
先日、春日局の称号を得るに際して尽力したのが、実条である。因みに、実条の父公国は、於福の育ての親であり、血族なのである。しかし、於福は無官で、御所に参内することは、前例のないことである。実条は、難色を示す声を押し切るかどうか、悩ましく思っていた。ところが、公家巫女に促され、やむを得ず於福を縁組して、三条西藤原福子として、参内を許されたのである。そして、後水尾天皇、中宮和子に拝謁して、「春日局」の称号を賜ることが出来たのである。今日は、そのお礼に訪れたのである。この日は、形通りの挨拶をして、二人そろって帰城したのである。
さて、京での滞在を終え、江戸に出立する前日のこと、三条西家の客間に、公家巫女の姿があった。三条西家の今の当主は実条である。公家巫女の称号を与えたのは、公時である。公家巫女の称号は、代々世襲とされ、娘へと引き継がれるのである。徳川幕府が、盤石となりつつあるこの時期に、時勢について語り合いたいと、実条が、公家巫女を呼び寄せたのである。というのも、これまで、公家巫女が、どの様な道程を歩んできたのかを、奥方や娘に聞かせることによって、公家としての神髄である、荘厳華麗を教えたかったのである。
静寂な中にも、水琴窟の音色と空薫のほのかな香りが漂っている。実条は公家巫女に、「何か奏でておじゃれ。」と言葉をかける。やおら、腰から横笛を取り出した公家巫女は、一女子相伝の音曲を奏でる。「見事でおじゃる。」と、実条が呟く。しばし、お茶と干菓子を楽しみ、寛いだところで、公家巫女は、これまでの暮らしぶりを問われるまま、時空を越えた壮大で、数奇に満ちた出来事を、語り始めるのであった。
★ 三河国作手郷
白波立つ、三河湾に注ぐ清流豊川の河口から、六キロメートルほどの左岸の階丘上に、吉田城がある。北西方向には、雁峰連峰が屏風の様に聳え、その山波が奥地まで途切れることなく続いている。その主峰である本宮山は、三河国砥鹿神社の奥宮が鎮座する霊峰である。
奥三河の玄関口に位置する富永荘郷ケ原(郷ケ原)には、石田村の新城古城や豊島村の野田城がある。その北西に位置する豊栄村に、小ぶりな臼子城がある。ここが作手郷への玄関口である。先ずは、本宮山と雁峰連峰の切れ間、和田峠を目指すのであるが、和田峠から流れ出す臼子川が行く手を阻む。急峻な九十九折の山道を上り詰めると、広々とした作手郷にたどり着く。作手郷は高原の里であり、どの方面からも、急な山道を上っていかなければならない。いわば、自然の地形に守られた要害にあるといえる。作手郷の周りは、丘状に隆起した丘陵地となっている。中央に緩やかな流れがある。その流れは、南北に分かれる。ここが、平地分水点である。南方への流れは、東三河の吉田城を経て三河湾に注ぐ。北方への流れは、西三河の岡崎城を経て三河湾に注ぐ。作手郷はまるで、水盆に水を浸したような地形をしており、周囲を遮るものがない。夜空を見上げれば、天の川の輝きが迫ってくる。このような得意の地形が、生物の多様性を生み出し、動植物の楽園となっている。正しく、東海の笑窪と言われる所以である。
作手郷には、泥炭から成る湿原があり、周りの水田には、白鳥の群れが飛来して、その排泄物が肥料となるのである。里人は、白鳥が飛来した場所に白鳥神社を建立して、自然の恩恵に感謝している。高原を取り囲む丘陵地は肥沃で、飼料、肥料、薪、炭、萱葺き屋根に用いる萱などを生み出す。暮らしに必要なものが身近な丘陵地にあり、建築用材を容易に手にすることができる資源の宝庫である。なだらかで広がりのある丘陵地は、馬や牛を飼育する放牧地に適している。冬は積雪があり寒いが、夏は冷涼であることから、牛馬の餌となる牧草が育ちやすい自然環境にある。これこそが、作手郷最大の強みであり、軍馬や農耕牛を飼育する敵地なのである。
一見、隔離された僻地のように思える作手郷であるが、浜名湖、三河湾にも近く、海の幸を容易に手にすることができる距離にある。こうした、地域特性によって、米福長者が繁栄し、戦国武将の作手奥平氏、作手菅沼氏が最強の軍団を組織することができたのである。
この時代は、雄大さや厳しい自然環境の山岳地に、霊力が潜んでいると信じられていた。畏敬の山岳そのものを御神体とみなし、神仏が宿り祖霊の住む場所として、尊び崇める山岳信仰が盛んであった。京において、公家はもとより民衆まで、熊野古道を通り、熊野三山を巡ることが流行していた。
さて、作手郷を取り囲む代表的な霊峰は、次のとおりである。
● 本宮山(七八九メートル)
作手郷の西南端に聳える霊峰である。山頂には砥鹿神社の奥宮があり、神官が常駐して御祈祷をしている。
● 雁峰連峰
須長雁峰(六八八メートル)、片山雁峰(六四四メートル)、徳定雁峰(六六六九メートル)
須長雁峰で、鳥居強右衛門勝商が、長篠城を無事脱出できたことを知らせる狼煙を上げた。
また、鈴木金七郎重正が、長篠・設楽原での戦死者を弔う狼煙を上げたのである。
● 御嶽山(六六四メートル)
木曽の御嶽山から分霊を頂き祀ったお山で、同じ名前では恐れ多いため、御嶽山と呼ぶようになった。近隣遠方から参拝する者が後を絶たず、布里往還、塩瀬往還という参拝のための古道が歴史を物語っている。
● 彦坊山(五三八メートル)
山頂に天狗が住んでいて、不心得者に罰を
与えると云われている。
● 竜頭山(七五二メートル)
このお山に霧がかかると雨が降る前兆とされている。山頂の洞穴には、守護神である虚空蔵菩薩と、オオタカの巣があり、近づくことすらできない信仰のお山である。
● 巴山(標高七一九メートル)
矢作川支流乙川、矢作川支流男川、豊川支流巴川の源とされる山頂に、白髭神社が鎮座している。この白髭神社の御神体が、三角柱である。三角柱には、平安後期の公家で、歌人の藤原俊成(千載和歌集の撰者)の歌が刻まれている。
・豊川 神代より わき出る水の 巴川 いくちよへぬと 知る人そなき
・男川 つるきたち 三河の水の みなもとの 巴山とは ここをいふなり
・矢作川 ともへ川 その水かみを 尋ぬれば 薄の零 萩のした露
この三角柱をもって、三河の地名の起源とされたと云われている。因みに、この巴山から、富士山を遠望することができる。
さて、駿河国(今川氏)と、甲斐国(武田氏)であるが、南と北に離れてはいるが、上洛するとなれば、立場は同じで、奥三河の勢力を無視できない。今は、勢力も弱く、立ち竦すくみしているが、横手から攻撃されたり、通過後に背後から攻撃されたならば、退路を断たれる恐れがあるからである。尾張国(織田氏)から上洛するとなれば、背後が手薄となる。いずれにしても、駿河、甲斐、京を結んだ三角陸域の要所に、奥三河があるということになる。ここを統治するのが、山家三方衆と呼ばれる作手奥平氏であり、作手菅沼氏で、菅沼氏は後に、田峯菅沼氏、長篠菅沼氏、野田菅沼氏へと、勢力を伸ばしていくのである。今川氏、武田氏、そして、織田氏が上洛するための鍵を握るのが、山家三方衆なのである。では、その実力であるが、作手奥平軍百五〇騎、田峯菅沼軍四〇騎、長篠菅沼軍三〇騎で、山家三方衆としては、二二〇騎となる。対して、武田軍の武田勝頼二〇〇騎、山県三郎兵衛三〇〇騎、真田源太左衛門二〇〇騎である。山家三方衆を、味方にできるか、敵にするかは、戦国初期の勢力図を書き換えるほど大きなことなのである。岡崎の家康も、今川軍、武田軍を迎え撃つための防波堤として、山家三方衆を、味方に付けることが、生き残っていくための、鍵であったのである。
★ 米福長者
戦国時代初頭の作手郷は、高度経済成長が始まろうとしていた。急激な人口増加、物流の活性化など、作手郷全体に勢いがあった。
さて、三河国に三大長者がいた。矢矧長者、宝飯長者、米福長者である。作手郷の米福長者は、中央部に位置する長者村に、土塁を巡らした広大な屋敷を構えていた。屋敷の庭先には鍛冶の守神金山神祠が安置されていた。屋敷の周りには、酒蔵、鍛冶屋、米蔵、使用人長屋などが立ち並び、村全体が、長者の一族郎党が暮らす集落なのである。
地蔵顔をした長者は、土豪である。護衛隊を持っているが、あくまでも防御のためであり、地侍(野武士)というよりも、どちらかといえば、商人なのである。長者は、酒蔵、鍛冶屋、軍馬や農耕牛の繁殖などに手腕を発揮し富を得て、大いに栄えていたのである。
★ 行き倒れの女人
待宵草のことを、この地方では月見草と呼ぶ。この月見草の花が開き始める、夜の帳が下りる頃のことである。大通りに面した長者の玄関口に、行き倒れの女人がいると、手代の小助が騒いでいる。直ぐに長者の耳に入り、見に行くと、女人が横たわっている。怪我はしていないようであるが、気を失っている。とっさのことではあるが、客間に運び込み素性を調べるため、奥方のお糸と娘のお駒を呼び寄せた。
二人は、泥にまみれた振袖と女袴をはらい、顔や手足を丁寧に拭き取って驚いた。透き通るような白肌である。腰まで伸びた綺麗な垂髪を、双髻結いにしている。年頃はまだ児女の面影を残すうら若き女人で、とんでもないべっぴん(美人)である。傍らにあった市女笠にお遍路杖、深紅の履物(革華靴)は見事なものである。腰には、香り袋、檜扇そして、西陣織の袋に入った横笛と、守り刀を挿している。その豪華さにただならぬものを感じたお糸は、村医に診てもらってはどうかと言う。すると長者はあわてふためいて、「村医の千両先生、アッ、いやそうではなく、道原先生を、連れてきておくれ。」と小助に言い付けた。急場のことで長者は混乱して、馬医である千両先生の名を口走ったのである。道原は、娘のお昌と咳き込みながら駆け付けて来る。道原は、女人を一目見みて、高貴な姫様だと察する。男の我が身では直診することは許されない。そこで、お昌に診察させるのであった。お昌の医術は、父の域に達しているが、道原は、まだまだと認めようとはしない。子離れできない道原先生なのである。さて、診たてはというと、凌ぐ衰弱して気を失ってはいるが、大事ないとの診たてである。「明日の朝往診する。」と言い残して去っていった。お糸とお駒が、付きっ切りで看病したかいあって、女人は、翌朝には床に起き上がれるようになった。女人は、布団に座ったまま動こうとはしない。寝起きが悪く、ボーとしている訳でもなさそうである。どうやら、髪をとかしたり、口を漱いだり、身支度など、全て侍女がやっていたようである。そこで、お糸とお駒が侍女役とあいなったわけである。顔濯ぎの桶とともに木賊が置かれている。これで歯を磨くのだそうだ。「誠に、面白きことよのう。」と囁く。
気が付いたとの知らせを受けて、道原とお昌が駆けつけて、処方したのが甘乳である。道原は、虚弱体質の者、病気の者、病気気味の者、体力が落ちている者や妊婦などに、滋養強壮のために、甘乳を飲ませるのである。特に、妊娠中や産後の日立ちに良いと評判になっていた。甘乳とは、牛乳をほのかに温め、生姜汁と麦芽糖を少々垂らした飲み物である。女人は、知らない者から、得体のしれない物を、口にすることは、万が一にもしないのであるが、何も口にしておらず、薬とのことであり、恐る恐る口にした。この牛乳は、モー子という名前の和牛から搾乳したものである。モー子は、和牛ながら、お乳をたんと出す。この時代、長者村は出産ラッシュで、牛乳が薬として処方されていたのである。モー子は、神社の境内で飼われており、長者村の共有物として、皆で大切に育てているのである。お乳をもらったお礼にと、牛舎には、稲わら、青草、干し草などが、山積みとなっている。疫病が蔓延した時、この長者村の被害は少なかったという。奥平氏も飲んでおり、初代貞俊が八十五歳、二代貞久が八十一歳、三代貞昌(定昌)が八十五歳と健康長寿だったのは、甘乳を飲んでいたからであると云われている。
それにしても、朝早くから、境内を我がもの顔で歩く雄鶏が、自分の出番とばかりに泣き叫び、騒々しいことこのうえない。長者は、頃合いをみて素性を聞くも、女人は答えようとはしなかった。世話になったと一言あっただけで、頭を下げようとはしない。しないのではなく、したことがない様子である。話にうなづいたり問いかけもない。目力のある聡明な顔立ち、衣装、持ち物、品格を備えた艶やかな身のこなしからして、高貴な女人なのであろう。
女人からすれば、会う者皆が、「そうだのん」「そうだらあ〜」「食べりん」「そうだに〜」などと早口でしゃべる。何を言っているのか分からない。縁側を速足で歩くなど騒々しい。女人は困惑している。ここで身分を明かせば、今川家に送り届けられるか、さもなくば、三条西家に戻され、母の実家である、禁裏呉服所の八文字屋にも迷惑が及ぶであろう。かといって、今川家に行けば、生きる目標のない人身御供さながらの暮らしがまっているのは間違いない。御免被りたい。しかしである、長者は、命を救ってくれた恩人である。立ち去るにしても、何もしないのは、礼儀に反する。せめての恩返しにと、横笛を奏でる。その音曲は雅で、一女子相伝、母から娘へと引き継がれるものであった。笛の音色に感じ入った温厚篤実な長者は、行く当てのなさそうな女人の身の上を案じて、十二所神社の宮司に相談する。駆けつけた宮司が素性を聞くと、そっと横笛を差し出した。宮司が手に取って見ると、横笛に、三条西家の家紋「八つ丁字車」が刻印されている。驚いた宮司が平服すると、女人は、長者が用意した和紙に、和歌をしたため、長者と宮司に下げ渡し、感謝の意を示したのであった。
落ち着きを取り戻した女人は、何気なく、床の間に目を移すと、真っ白なお花が活けてあることに気付く。長者に聞くと、カザグルマという草花だという。この山里には、心和む彩りがある。しかしである。女人にすれば、三河人は、大声でしかも早口で思ったことを、そのまま口にするようである。「何とも、野蛮な土地柄であるものじゃ。」と女人は思うのである。長者から、ここに留まってはどうかと言われて、どうしたものかと、考えあぐねている。
さて、長者の勧めもあり女人は、市女笠をして、村を見て回ることにした。長者は、幼女を道案内させることにした。笑うと生え変わるのか上の前歯が無い。少し前に、グラグラになったので指で押したら抜けたので、縁の下に投げ入れたそうだ。下の歯は屋根の上に投げると、新しい丈夫な歯が生えてくるのだと自慢げに言う。今まで、何をしていたのかホコリだらけの身なりである。しかし、顔立ちはキリッと引き締まり、目の奥にキラッと光るものを感じる。右手に持ったクマザサを揺らしつつ、歌を口ずさみながら前を歩いて行く。どうやら赤ん坊のあやし歌であろう。気になっていた、ササ揺らしは、単に遊んでいるのではなく、女人のために蜘蛛の巣を払っているようである。歌の合間には、村内の家族構成、犬、猫、牛、馬、山羊の名前や、昨日の夫婦喧嘩の有様まで、立て板に水のごとく、面白可笑しく話すのである。かと言って、幼女でありながら、人の悪口や嫌なことは言わない。頭の回転がすこぶる速く、聡明さを感じ取れる。
さてさて、この村はなんと賑やかなことか。朝早くから、朝餉の支度で、忙しく動き回る奥方の子供たちを起こす声が、家々から聞こえてくる。しばらくすると、棒切れを振り回し、喚きながら駆けていく子供たちに出くわす。庭の隅の山羊が口をもぐもぐ、反芻をしている。村中が、騒がしく活気づき、賑やかである。幼女が言うには、クワガタムシやカブトムシ、ガマガエルやウシガエル、イボカエルもいるという。農家では、人と牛とが、共寝しているそうである。花が多いことからミツバチの巣があり、蜂蜜を採ることもあるそうである。村が爆発的に成長していく前兆を感じとれる。少なからず、不安や苦難もあるのだろうが、それ以上に希望に満ち溢れている。村全体に勢いがある。
村を一巡して、神社に戻ると、「御馳走だに~」と言って出されたのが、朴葉餅であった。朴葉餅は、米粉を練った生地に餡子を入れて、朴葉で包み蒸籠で蒸すのである。朴葉を開くと、独特な香が広がって、とても素朴で美味しい。幼女が「クマザサで包んだ笹餅もうまいだに~。」と言って、食談義となった。さてさて、今一番大事なのは、身の安全と、人として必要とされているかどうかである。その日の夕方になって、離れ離れとなってしまった侍女のお松が、やっとの思いで長者屋敷にたどり着いた。すぐさま対面すると「姫様」と平伏するなり泣き出した。少しすると侍従の伝蔵もやって来た。あれだけいた従者は散り散りとなり、今は二人となってしまったのである。先ずは、自分を知る者が戻り、安堵といったところである。さて、お松の味付けで、濃口から、薄口になり、食欲も戻りつつあるが、赤味噌から白味噌になるには、まだ先になりそうである。早速、これまでの事情を文にしたため、京の実家の母に届けるようにと、伝蔵に託すのであった。因みに、母は、三条西家の側室で、正室との折り合いが悪く、娘と実家に戻り暮らしていたのである。女人の公家らしからぬ、市井に通じ、商いに造詣が深く、世情に通じた鋭い感覚は、ここから来ているのである。
★ お竹とお梅
お地蔵様顔の長者は、身元引受人のようであり、世話好きである。女人は、行く当てもなく熟慮の末、しばらく留まることにしたのである。喜んだ長者は、身の回りの世話をする付き人を紹介するという。先ほど、道案内をした幼女が気に入ったことを告げようとすると、控えていたのは、何と前歯のない幼女であった。幼女の名を聞くと「お竹」と名乗った。こうして、お竹は、作手郷で最初の侍女となったのである。お竹の父唱之介は、信玄の軍師で駒井高白斎に仕えていたのだが、信玄が父信虎を追放したことで嫌気がさす。そこで思い出したのが、鉱脈を探しているという山崎三郎左衛門高元が暮らしているという作手郷のことである。高元とは面識はないのだが、「作手郷は豊かで暮らしやすい山里である。」と言っていたことを思い出し、やって来たのである。そこで御縁あって、簪、白粉、口紅などを商う小間物屋の入り婿になったのである。今更ではあるが、武士の世界に未練はなく、今は、正眼寺境内のお助け処で、病気の者、戦いで負傷した者、看護が必要な者、身寄りのない子供などの面倒をみる、世話役をしているとのことである。
なお、お竹の遊び友達に、お梅というどんぐり眼の幼女がいる。父治呂衛は、生田一族で、長者の護衛隊長をしているとのことである。お梅は、お竹が何をしているのか気になるらしく、よく遊びに来るようになった。お竹の一挙手一投足に、興味津々といったところである。長者の推挙もあり、お梅は、お竹と時を同じくして、侍女として女人に仕えることになったのである。その日から、二人は、侍女としての行儀作法から、読み書きそろばんは勿論のこと、朝倉家の家臣で富田勢源が創始した小太刀の修練など、寝る暇もないほど叩き込まれる。そこは、見込み通り聡明さと根性で、乾いた砂が水を吸うように吸収していった。二人はよき競争相手となり、切磋琢磨して、見事にその期待に応えいくのである。だか、時には学問に身が入らず、よそ事を考えたりすることもある。先日などは、馬大頭が空中浮揚して複眼をキョロキョロさせて、此方の様子をうかがっている。これに気付き、ソワソワすると、手のひらに柳の小枝で作った愛のムチが、ピシャリである。厳しいようであるが、「三つ子の魂百まで」という。
厳しい修練が終わると、二人が心待ちにしているのが、お茶で一服である。お茶は苦いので苦手である。お茶より米麹甘酒(大人は酒粕甘酒)が大好きである。飲み物もよいが一緒に出されるお菓子を心待ちにしている。これまで味わったことのない、落雁やかりん糖、心太など、とても甘く美味しい。厳しい修練も耐えられるのである。
ある日のこと、女人は二人に、スズムシかコオロギを飼うようにと、宿題を出した。二人はジャンケンポンで決めたようである。女人は、どこにいるのか。捕まえるにはどうしたらよいのか。室内で飼うには、どうしたらよいのか。餌は何か。美しい音を出させるにはどうしたらよいのか。など、自ら考え行動する実践学習をさせたのである。時がたち、女人としての素養を身に着けた二人に、香り袋、扇子、小太刀を与える。この後、童巫女・児女巫女となる二人が、二十八見聞衆の双璧となり、女人(公家巫女)の娘(娘巫女)の面倒をみる姉的な存在になっていくのである。
さて、応仁・文明の乱以降は、公家は、荘園からの収入が減り困窮していた。台頭する戦国大名と縁を結び、難局を乗り切るしかなかったのである。因みに、甲斐国武田信玄の継室三条の方は、三条公頼の次女である。また、駿河国今川家九代氏親の正室である寿珪尼は、中御門宣胤の娘である。寿珪尼は、今川家十代当主氏輝の家督争い(花倉の乱)で、義元を擁立したことから、義元の義母として実権を握り、駿河・遠江を動かす女大名と呼ばれた。なお、氏親の姉が正親町三条実望に嫁いでおり、その縁で、行き倒れの女人は、今川家に行くことになっていたのである。その途中、三河の国の白髭神社に、平安後期の公家で歌人の、藤原俊成の歌が刻まれている石碑があることを知り、遠回りをしたのである。しかし、道に迷って盗賊に襲われるも、やっとのことで、長者の玄関口まで来たところで、行き倒れとなったのである。女人の失踪は、三条西家も、今川家も、体裁を整えるだけで、騒ぎ立てることはしなかった。女人の母の実家である禁裏呉服所の八文字屋には、詳細をしたためた文が、伝蔵の手で届けられている。世間的には、女人の意向もあり、居場所は伏せられたのである。
★ 米福長者の心配ごと
長者は多忙である。特に難儀するのが、日和見である。酒米の種まき、田植え、収穫の予測から、大雨、大風、霜、雪の予測、病虫害の発生予測、風邪、赤痢、下痢、流行り病、慶事、祭祀、市況の動きから、商いの勘定、使用人の世話など、悩ましいことが山積しており、長者の心配ごとは尽きない。女人の聡明さ、優れた才覚を知ることになった長者は、迷うことなく、指南を願い出たのである。
女人は、長者の縋るような仕草に心を動かした。むげにはできない。こうして作手郷に来たことは、何かしら意味のあることかも知れない。作手郷に留まることが定めならばと、女人は、しばし、作手郷に留まってもよいと、長者に伝えたのである。女人は、長者の心配ごとを、的確なまでに言い当てるなど、天賦の才を遺憾なく発揮していくのであった。
この日は朝から、雲が重く垂れ込めている。こんな日は、書庫にて書物や、文に目を通すのである。物事の本質に迫る書籍が、京から続々と届くのであった。こうして、長者の勘定や、作手郷で暮らす里人の婚姻関係、家族構成、など、瞬く間に掌握していくのであった。
★ 産婆のおよねバァー
この日はなんだか慌ただしい。鍛冶屋の寅吉が、よねバァーの家に駆け込んだ。奥方のお島が産気づいたとのことである。確か、六番目の娘が生まれたとき、これが最後だといって「とめ」と名付けたと聞いていたが、一年もたたないうちに七人目である。それはそれで、お目出たいことである。お産は病ではない。何事もなく生まれてくるのが当たり前のことではあるが、油断禁物である。逆子やへその緒が絡みつき、難産となることもあり得る。経験豊富な、およねバァーの腕の見せ所である。ここでは誰も、およねバァーには頭が上がらない。何故ならば、およねバァーが取り上げた者ばかりであるからである。
作手郷は子沢山である。夕飯の時など、隣の家の子が紛れ込んでいても分からないし、気にしない。子供は村の宝なのである。他人の子供でも自分の子供同様に、褒めたり、叱ったりする。個々の家というよりも、村全体で育てるのが、作手郷の慣わしなのである。
★ 十二所神社と正眼寺
蔵書の宝庫である十二所神社に隣接しているのが、正眼寺である。この神社仏閣の伽藍は、どちらも長者が寄進したものである。正眼寺は、村中の子供達、特に親のいない子供や面倒を見る者がいないお年寄りに、施しをしたりしている。いわゆる、お助け処である。ここの世話役が、お竹の父唱之介である。唱之介は、よそ者を克服するため、風邪気味だと聞けば、様子を見に駆けつける。
また、よろず相談に応じ、丁寧に接することで信頼を得ている。見込みのある童、学問に関心のある童に、地面に棒で字や数字を書いて教える。その子供の、持って生まれた才能が開花するように、導きたいと願っているのである。
★ 三大吃驚料理
「今日は半殺しだぁ~。」と、何やら物騒な話し声がする。ハレの日や人寄せをした時の御馳走が、五平餅である。五平餅とは、半殺しにしたご飯を、串に貼り付けて囲炉裏の炭火で炙り、タレを塗ってもう一度炙る、
タレは、またしても赤味噌である。素朴ながら山里の御馳走なのである。さて、作手郷の三大吃驚料理といえば、
● イナゴの佃煮
宗和膳に見知らぬものがのっている。女人が、「これはなんじゃ」と聞くと「佃煮」とのこと。よく見ると姿かたちが見て取れる。噛むと甘味がするそうである。何とも気持ちが………。タンパク質の補給源として、山里では、一般的な食材とのことである。
イナゴやバッタは、稲を食する害虫ではあるが、栄養価満点なのだそうだ。女人はというと、青ざめて放心状態である。
● 笑いめし
薪や炭を届けてくれる爺やが、茸を届けてくれた。早速、澄まし汁と焚きこみご飯である。しばらくすると、厨房から掛けてきた侍女のお松が、笑いながら喋るのであるが、言葉にならない。女人もお竹、お梅も、口にしたところである。「何事じゃ」と言ったとたんに、何だか笑える。おかしい。もしかすると、はしゃぎ、笑い踊るという恐ろしい笑い茸ではないか。
大事なくてよかったが、火炎茸など猛毒をもつ茸もあると聞く。油断できない。侮るなかれである。後日、お詫びにと、松茸が届いた。これは、大歓迎である。
● ヘボめし
台所の方で、ギャ~という悲鳴が聞こえる。侍女のお松が、数日前に腹痛の男の子を親元の家までおぶっていった。すると、そのお礼にどうぞと、炊き込みご飯が届いたのである。台所でお松が蓋をとったところ、ご飯に黒豆のようなものが混じっている。目を凝らしてみると、ハエではないか。とっさに出た言葉が「ギャ~」である。
因みに、ハエではなく、ヘボ(地蜂)といって、山里の珍味だそうであるが、目を背けるばかりであった。
★ 雪洞
作手郷は、標高五三〇メートルの高原である。夏涼しいが冬の寒さは厳しく積雪地帯である。女人は寒がりではあるが、一番苦手なのは、思い出すだけでも気絶しそうになるゴキブリである。作手郷では、冬の寒さが厳しく越冬できないことから、ゴキブリに出会うことはないので一安心である。
さて、今年の冬は寒いとのことで、里人が代わる代わる炭と薪を持って来てくれる。お蔭さまで暖かく過ごしている。女人は、日中に花びらのような雪が舞っていたことは知っている。昨夜は遅くまで書物に目を通していたので、朝寝坊をしたが、庭先の方から、賑やかな声が聞こえてくる。障子を開けると、野原一面銀世界である。庭先でお竹とお梅が雪だるまを作っている。侍女のお松が、炭と真っ赤な南天の実を持っている。侍従の伝蔵が、大だるまに小だるまを乗せたところで、お竹とお梅が、炭の目と眉毛を付けて雪だるまの完成である。南天の赤実は白兎の目にする。一際大きな雪だるまは、小山のよにして、中を空洞にするのである。お竹とお梅にせがまれて伝蔵が作った雪洞である。今まで見たことがない。中には、手作りの祭壇に水神様が祀ってあり、意外や意外、暖かい。茣蓙を敷いて、焼餅と米粕甘酒を飲む。とても美味しい。乙女心がときめくひと時であった。
★ 作手巫女と童巫女誕生
十二所神社の宮司は、長者から、女人が作手郷に、留まる気があると聞いた。そこで、女人に、作手郷の巫女になってほしいと言上したのである。宮司なりに、女人のことを思ってのことであった。巫女とは、神楽を舞ったり、祈祷、占い、予言などをする神職である。長者としては、心配ごとの指南を受けられるので、とても心強く好都合である。
そんなこんなで、女人を手厚くもてなしたことから、周囲の者から勘違いされてしまった。詰まるところ、奥方の嫉妬を買うことになりそうになったということである。奥方の誤解を解くため、女人をいつまでも客間に長居させられない。そこで、神楽殿の新築を思い付いたのである。こうして、女人は作手巫女に、お竹とお梅は童巫女になったのである。
★ 神楽殿と北畠衆
長者は、神社境内に居住できる神楽殿を新築することを思い立ち、作手巫女の考えを伺うと、「心遣い、痛み入るでおじゃる。」とのことであった。先ずは、作手巫女に、神楽殿の有り様を指南願うことにした。作手巫女が示した神楽殿は、檜皮葺、奥座敷、中座敷、居間、従者の間、湯浴み所、厨房、文庫、薬庫、そして、玄関に水琴窟、庭には鹿威しを設けるのである。いわゆる数寄屋造りである。庭には菜園、薬草園を設ける。本殿を凌ぐことのないように、清楚で品格のある建屋であること。特にと、念押しがあったのは、神楽殿を普請する費用については、「わらわが、全てを賄うでおじゃる。」とのことであった。
長者は、作事(建築)と普請(土木)を、北畠衆の九兵衛、八兵衛、六衛門に任せることにした。早速、作手巫女との目通りを段取りするのだが、九兵衛は顎鬚をさすりながら、長者が媚び諂っている様に思えて、「巫女様など何者ぞ。ちょうける(ふざける)な。」と素っ気ない態度である。
さて、作手巫女に目通りするため、北畠衆が本殿前に集まった。しばらくすると、本殿から太鼓の音がして、平安王朝の世界から抜け出て来たような菩薩様(作手巫女)が、両脇に童巫女を伴って現れた。その優雅な姿に、一同は度肝を抜かれ、気が付けば地べたに平伏していた。作手巫女に言葉をかけられたが、舞い上がってしまい、皆、ただただ平伏するのみであった。これ以来、九兵衛を棟梁とする北畠衆は人が変わったように、やけに張り切りだした。
本格的な数寄屋造りや、水琴窟など見たことも聞いたこともない。新しいことに挑戦するのは、やる気、遣り甲斐が湧いてくるといって、寝る暇も惜しんで夢中で取り掛かかっている。また、自慢していた秘蔵の建築用材を惜しげもなく使うのである。この経験が、これから本格的に始まる城郭、城下町の普請に、活かされることになるのであるが、今は、誰も知らない。
強面で強情な、九兵衛なる者の奥方は、さぞや大変だろうと同情する作手巫女であった。しかし、人伝に聞こえてくるところによれば、九兵衛は、人前では亭主関白を気取っているが、奥方と二人きりともなれば、奥方に頭が上がらない。何故なら、資金のやりくり、一族の面倒、子育てなど、仕事以外のことはまるで駄目なのである。全て奥方が采配を振るっていて、首根っこを押さえられていると聞く。笑い話のようではあるが、それほど聡明な奥方を持った九兵衛は果報者である。今日も今日とて、寝食を忘れるほど情熱を持って、仕事をこなしているのである。
さて、完成した神楽殿は、作手巫女を納得させるに相応しいものであった。北畠衆の作手弁はともかく、その技能の高さ、働き方も気に入っている。そこで、作手巫女は、北畠衆を代表する三人に小太刀を渡し労った。この瞬間、北畠衆の運命が決まったのである。
近い将来、城郭と城下町を普請することを、予見した作手巫女は、九兵衛に、諸国の城郭、城下町を見て回るようにと命ずる。この時代、城郭を探るなど、機密情報の最たるもので、命に関わることである。心しなければならない。そこで、眺望できる小高い山から全貌を、また、近場では歩幅で距離を測る。その場で筆を持たず頭に記憶して、安全な所で書き付けるのである。よほど聡明でなければ出来ない芸当である。そうしなければ、物証をつかまれ言い逃れできず、拘束されて命を奪われる危険性があるからである。
九兵衛は、尾張国、美濃国、遠江国、駿河国、甲斐国、信濃国などを渡り歩き、三年の歳月を掛けて完成させた備忘録こそが、北畠衆の貴重な財産となり、今後の城郭と城下町の建築に大いに役立つことになるのである。
★ 御水垂川
長者村は高台にあることから、生活用水は井戸水に頼っている。水路が布設されていないこともあり、赤痢や下痢などの腹痛が発生し安いことは言うまでもない。深井戸から水を汲み上げるのは、かなり難儀なことである。水質が求められる酒造りなどは、井戸水を利用するのであるが、道具や建物などの洗浄に使う大量の水を確保することが難題となっていた。
長者は以前から、巴山と獅子ヶ森を水源とする巴湖から、導水出来ないものかと思案していた。しかし、長者村は、周囲を低地に囲まれて、小高くなっている。水は高いところから低いところに流れる。自然には逆からえない。これでは導水は無理である。困った長者は、作手巫女に指南を願うのであった。しばし考えた作手巫女が、和紙に描いたのが、低い所から高い所に水を導く工夫を取り入れた水路である。こんなことが出来るのか。神がかっている。
早速、北畠衆の出番と会いなった訳である。水路は、通りや脇道に巡らされ、長者の酒蔵と鍛冶屋に引き込まれている。水路の流末には水車小屋と溜池がある。溜池には、鯉、鮒、ドジョウ、タニシなどが育ち、食材となるのである。最後の一滴まで、無駄にしないように工夫されている。また、要所には、共同の洗い場が設けられ、女人衆が食器や野菜などを洗うのである。こうして、井戸端会議の舞台が整ったのである。喜んだ長者は、この水路を 御水垂川と名付けた。自然の力を逆手に取った、作手巫女の秘められた不思議な才覚を、知るこになったのである。
★ 救いの女人衆
さて、作手巫女は神楽殿に、菜園、薬草園、花園を作ったはいいが、言うは易しである。自ら、土いじりなどしない。どうするかと案じていたところ、日頃から、野菜や飾花の栽培、山菜や薬草の採取りをしながら、野花の鑑賞などに熱心な女人衆か、神楽殿のことを聞き付け、やって来たのである。菜園には、大根、里芋、かぶ、しょうが、しそなど日常野菜が植えられいるが、生育が悪いので、早速、作業を始める。なお、家康への贈答品となるお茄子については、予てから、珍しい野菜や果物を、上手に育てている徳農の家勝之介の噂を知り、お任せ状態といったとろである。作業が終われば、作手巫女が用意した、米麹甘酒とお団子を頂きながら、四方山話である。女人達は大らかで、垣隔てがない。知らないことがあれば、東屋という物知翁に聞いたり、書物から学んだりしている。作手巫女は、実践で鍛えた女人衆に教えられることが多い。
今日はお天気も良いということで、女人衆の進めもあり、作手巫女は、童巫女を伴ない、おにぎりを持って、摘み草に出かける。切り花に、また、食用になる野草を見て回りながら、香料にできるか。咳や風邪、発熱を抑える薬草がないか、探すのである。モグサ、ハルジオン、カタバミ、スイバ、ナズナ、ヤブニッケ、センブリ、松茸、マイタケ、タケノコ、山芋、山ワサビ、トウダイ、ゼンマイ、ワラビ、など、書物をみながら、あれこれ考えるのは実に楽しい。池や沢に住むどんきゅう(ドジョウ)、タニシ、そして、手が生えてカエルになりかけのたべらっこ(オタマジャクシ)、など、こんな生き物がいるのかと心を奪われ、貴重な時を過ごすのである。知らず知らずのうちに打ち解けた女人衆に、医者見習のお昌も加わり、野花を乾燥させた香り袋作りや、薬草を煎じた漢方薬作りなど、作手巫女のお手伝いをすることになるのであった。
この頃、京の母の実家八文字屋から続々と荷が届く。書物に生活費は勿論のこと、呉服から飾り物、そして忘れてはならないのが、待ちに待った白味噌である。こうして、神楽殿も徐々に、整っていくのであった。
★ 獅子ケ森の母と子
今日は朝から慌ただしい。お出かけの装いで悩んでいる。着替えのお手伝いは侍女のお松である。双髻結いが思うようにならず、振袖と女袴の組み合わせが気に入らないようである。この日、同行する童巫女のお竹も着替え中である。するとお竹の頭に、そよ風のいたずらか、アゲハ蝶が止まった。それまで、不機嫌であった作手巫女は、「可愛いよのう。」と言って、お竹に微笑む。こんなところで捕まってはならじとばかりに、アゲハ蝶は、隙を見て庭に向かって飛び去って行った。
さて、作手巫女は、長者屋敷の西方に聳える獅子ケ森の上空を飛び交う鷹が気になっていた。何でも、鷹を操る男の子がいると聞き、お竹と伝蔵を伴ない会いに出かけることにしたのである。獅子ケ森の裾野は、椿の花で覆われている。椿油をとるための椿林とのことである。
中腹に差し掛かったころで、猛犬が吠えながら、此方に向かってくる。作手巫女とお竹を守ろうと、伝蔵が身構える。聞こえはしないが、犬笛が鳴ったらしく、尾っぽを振っておとなしくなった。登り切った山頂付近に、巨岩を背にした庵がある。巨岩の頂上には、枝を四方に伸ばした老松があり、ここに降り注いだ雨水を、巨岩の空洞に導き、蓄えるように工夫されている。どうやら、水の心配はなさそうである。この庵を中心に要所要所に鋭い牙を持つ猛犬が配置されており、おいそれと庵に近づけない。また、庵の隣には、鳥小屋があり、数羽の鷹が飼われている。鷹は鷹笛で操り、狩りをしているようである。
庵に近ずくと、女人が出迎えている。こんな辺鄙な山奥にわざわざようこそといった感じで、作手巫女を庵内に招く。室内の調度品は綺麗に調えられ、品格を感じさせる。書物も多く、教養が備わっているようだ。特に目を引くのが、鷹狩の成果でもある、イノシシ、シカなどの毛皮が居間に敷かれていることだ。呉竹は、作手巫女が履く、深紅の革華靴に目が留まる。というのも、獣革を縫製することを生業にしいるからである。居間の囲炉裏に鉄鍋が掛けてある。囲炉裏端に座ると、女人は、「呉竹で御座います。これは息子の雷で御座います。」と名乗った。雷が宗和膳を運んでくる。御膳には竹を輪切りにした器に、赤色のクサイチゴと黄色のモミジイチゴに、心太を掛けて、器ごと冷水で冷やしてあり、とても美味しい。呉竹の繊細さが際立つ一品であった。鉄鍋の蓋をとると、餅鍋料理である。美味しさこのうえない。
呉竹の夫は、信玄に滅ぼされた諏訪氏大祝一族の政頼である。しかし、病がもとで亡くなり、奥方の呉竹は、息子の雷と二人暮らをしているとのことである。呉竹は、子育ては大変であることから始まり、家族が安心して暮らせる世の中が、来ることを願っているのだと話す。作手巫女が描く、太平の世の中にしたいという思いに、共感するのであった。
作手巫女は、雷に、「何か欲しいものはおじゃるか。」と訊ねると、「父上じゃ。」と、はにかんだ声で言った。すかさずお竹が、「子供じゃな。」と言ったが、歳にさほどの差があるわけではない。お竹の大人ぶった物言いが可笑しかった。鷹を操る技能を役立ててほしいという作手巫女の言葉に、呉竹は納得し、母子ともども、作手巫女に仕えることにしたのである。この雷が、のちに雷神と呼ばれる鷹操となり、二十八見聞衆を率いることになるのである。なお、革華靴などの革製品は、ここで縫製するのである。
★ 古戸の森の父と子
古戸の森に、野山を風のように駆け巡る男の子がいるとを聞き、気になる。今回は、お梅と伝蔵がお供をする。
古のころ、日本武尊が東国征伐で作手郷を通られた時に、綺麗な泉があり、お手を洗われ喉を潤したことから手洗所と呼ばれる村がある。ここを下っていくと、川辺に見事な柳が群生しており、日本武尊が、この柳で弓を作らせたことから弓木と呼ばれる村に出る。村のはずれに巴川と田代川の合流地点があり、ここを古戸という。この合流地点から田代川に添って、御嶽神社への参道が伸びている。この渓谷一帯には、田代本滝、帯屋滝、白滝、小林の三滝、弓木滝など大小無数の瀑布があり、霊域とされている。
巨木が生い茂る森の中腹に、樫の木の大木があり、その根元に、巻きつく様に建てられた丸太小屋がある。空地で子供が薪割をしている。声を掛けると、「始めまして」と頭を下げたが、何のことはない、弓木村に差し掛かったころから、此方の様子を伺っていたことを、作手巫女は知っている。小屋に入ると、囲炉裏があり囲炉裏端に案内される。すると男が、「源三郎でござる。これは息子の風でござる。」と名乗った。源三郎は山伏で、風と二人暮らしとのことである。源三郎は、妻を早くに亡くし、男の子を育てているという。男やもめで何のおもてなしもできないがと、前置きがあり、シイタケ、マイタケ、シメジが入った茸鍋料理でもてなしてくれた。ユリ根が入ったクズ湯など、人柄の分かる優しい味であった。
山伏は、艱難辛苦により、神から験力を得て、貧しき民の救済にその力を使う崇高な者である。寺々を拠り所として、村々に行者講を起こし、結び付けていく。掴んだ情報は、山の尾根をまっしぐらに駆け抜け、山伏から山伏へと受け渡して行く。山伏が修行して諸国を巡るときは、往来手形無しで関所を通過することができるのである。だが、志は高くとも、無宿人の様な生き方を、息子にもさせるのかと、行く末を心配して亡くなった妻の気持ちが痛いほど分かる。妻の無念の思いが、こみ上げてくる。息子には、別の生き方もあるのではないかと思い悩んでいた時期でもあった。
作手巫女が、風に、「何か欲しいものはおじゃるか。」と訊ねると、「母上じゃ。」と小さな声でいった。すかさず「子供じゃな。」とお梅が言った。お竹もお梅も、自分は一人前の大人だと思っているらしく、可笑しいことこの上ない。作手巫女の、山伏としての技能を役立ててほしいという言葉に、源三郎は納得し、父子ともども、作手巫女に仕えることにしたのである。
★ 雷と風
どんなに素晴らしい原石も、磨きを掛けなければ光らない。
予め伝えた時刻に、雷と風が作手巫女の従者となるため神楽殿にやってきた。子供だと侮っている童巫女のお竹とお梅が師匠となり、作手巫女から教わったように、行儀作法から、読み書きそろばんなど、丁寧に教えるのである、また、伝蔵からは剣術の修練など、寝る暇もないほど叩き込まれる。幼い雷と風は偏見もなく、師匠の言うことを理解しつつ、驚くべき速さで吸収していった。体力的には童巫女を遥かにしのいでおり、その期待に十分応えいく。
特に、雷と風は、鷹を操る山伏として、一人前に育て上げるのである。その師匠はといえば、呉竹と源三郎であり、後に、夫婦となるのである。そして、童巫女のお竹、お梅とともに、雷、風は、二十八見聞衆の四柱となるのである。
★ 縁結びの高元
豊川水系巴川が流れる谷底に川手村がある。この領主が山崎三郎左衛門高元である。ただ単に川魚が美味いだけで、ここに暮らしているわけではない。武田氏の意向を受けて、密かに雁峰山系に鉱脈を求めて探索しているのである。ここから、少し下流の大和田村に、彦坊山があり、その山麓が岩で覆われた空沢である。空沢には、水晶や銅の鉱脈があり、川筋の里人を使って、秘密裏に採掘している。隣村の弓木村では、良質な柳と竹が群生していることから、弓矢を生産している。周囲の高い峰には狼煙台があり、その番人をしている。野山を歩き回り、地理・地形に詳しく、諸国を巡る山伏(修験者)がもたらす情報を管理するなど、忙しくしているが、武士として、世に出る機会を伺っているのである。
さて、高元の父は、奥平村の隣村の坂口村の名主で、貞俊の父定家の妻の縁者である。そのよしみで高元を頼って、天授年間(一三七五年~一三八〇年)上野国甘楽郡奥平村から、貞俊が従者を従えて、やって来たのである。
貞俊と従者が通された居間には、囲炉裏がある。自在鉤には、ぼたん鍋が吊るされている。ヤマメと五平餅が、炭火で炙られており、居間全体に、食欲を誘う香りが漂っている。貞俊は上座を勧められ、「先ずは一献」と、湯呑茶碗が渡された。奥方のお朝が、お酒を注ぎ込んだ。従者も囲炉裏を囲む。お朝は、場を和ませることに長けている。知らぬ間に酒が注がれた。やっとかめ(久しぶり)で、同郷であり一族の者と、腹を割って話ができるとあって、高元は、これまで集めた、諸国の情勢や武将の動静を語る。貞俊とすれば、今は、天下国家を論ずるよりも、明日をどうするかである。聞けば、この作手郷には、土豪の長者がいて、治めているという。高元は、事前に、長者に奥平氏のことを話したところ、先ずは、甘泉寺の和尚に会ってほしいとのことであった。貞俊に、ことのいきさつを話した。貞俊は思った。長者の信頼を得ることが、奥平氏の活路を見いだすことになるのではないか。長者は護衛のための野武士を従えているが、手練れの者はいないようである。長者は、群雄割拠する乱世において、どのように自衛すればよいのか悩ましく、危機感をつのらせているようだ。我の出番が来たと意気込み、「願ってもないことでござる。」と快諾したのである。
★ 坂東武者見参
鴨ヶ谷村に鎮座する、甘泉寺の参道を覆う巨木群が、この寺の威厳を示すかのように、そそり立っている。予め、指定された刻限に、貞俊が参上する。待っていた小坊主に案内され、客間に通される。和尚が上座に座っているのは分かるが、何故か、高貴な女人(作手巫女)が横に座っている。貞俊は、胡坐座りにて浅礼する。和尚と女人からは言葉はなく、貞俊は、「奥平貞俊でござる。浅学菲才なれば、ご指南願いたい。」と言上して面を上げる。すると和尚が、「よう参られた。ゆるりとするがよろしかろう。」とのことであったが、女人(作手巫女)は何も語らず目も合わせない。お茶と干菓子が出たところで、和尚と四方山話など一通りの話をする。女人(作手巫女)は長者から、貞俊の人となりを見定めてほしいとの願いで、ここに居るのである。女人(作手巫女)は、人相学も学んでいる。貞俊の眉毛は、若いときは苦労するが、周りの人を魅了し、皆から尊敬される先導者となる。晩年に成功し、富と地位を得るという獅子眉をしている。女人(作手巫女)の横笛を目にした貞俊は、腰に差していた鉄扇を開き一曲所望したいと願う。すると、女人(作手巫女)は、平家物語を題材にした能楽「鞍馬天狗」を奏でる。それに合わせて、貞俊が鉄扇を広げて舞う。始めはぎごちなかったが、素人にしてはお見事というしかない。あの女人は、誰であったのか。貞俊は、キツネにつままれた気分で、甘泉寺を後にしたのである。
作手巫女は、貞俊を、媚び諂うことのない、胆力、知力に優れ、分をわきまえた文武両道に秀でた武士である。諸国を行脚しながら体得した、視野の広さを持った、将来の展望(夢)を描くことのできる、器量よしであるとみた。貞俊の見立てを、長者に告げる。和尚も、貞俊が気に入ったようで、「しばしの間、お寺の客人として、宿坊に身を寄せるがよろしかろう。」と言い渡した。
貞俊は武士であり、見識豊かで素養もある。長者は、護衛隊を鍛えてほしいと思い、隊を率いる生田治呂衛に会わせる。治呂衛は童巫女お梅の父である。護衛隊の居場所は、長者村を一望できる城山(標高五七〇メートル)にある。兵士の宿舎、物見櫓や馬場があり、山城を見立てた軍事訓練の場となっていた。
隊長の治呂衛は、馬場にいた。貞俊を見るなり挨拶もそこそこに、「お手並み拝見つかまつる。」と言うなり、乗馬を進める。貞俊は、「その前に、弓矢を所望」と言って、武器庫の弓矢を手に取ってみる。弓矢は、高元が納めているもので、申し分ない。傍にある武具は、手入れが行き届いていない。弓の弦を張り直し、馬場らしき広場を見渡す。隅のほうに、朴ノ木の老木がある。その幹に的の様な丸印を付ける。馬を見て回る。馬の毛並みは悪くないが、満足な調教がされていない。聞けば、作手馬と言って、ここが生産地で、長者の収入源になっているとのことである。目に着けたのが、皆が荒馬と思っている駿馬である。「この馬を拝借してよろしいか。」と言って、鐙に足を乗せる。皆は振り落とされると思いきや、見事な手綱裁きである。馬上で片肌脱ぐなり、サッと弓矢を手に取り、馬を走らせ矢を放った。すると見事に、朴ノ木の的を射た。これには、護衛隊全員が、拍手喝采である。日も暮れたところで、宿舎に入る。囲炉裏には、猪鍋が掛けてある。酒盛りをしながら、聞けば聞くほど、その武芸もさることながら、見識の高さに、一同恐れ入りつつ、惚れ込んだ。貞俊に酔心した治呂衛は、長者に、「隊長には、統率力のある貞俊が適任者である。」と申し出る。後に、生田氏は山崎氏と同様、奥平軍団の双璧を成すことになるのである。
長者は、貞俊の人柄なりを、作手巫女と和尚から聞いている。今川氏、武田氏など群雄割拠し、世の中が乱れる中で、護衛隊の拡充が急務となっている。そこで、貞俊に護衛隊を率いるようにと声が掛かったのである。待ってましたとばかりに貞俊は、高元に命じて脅威を感じさせない程度に、上野国から、志を持った者を呼び寄せた。この時、貞俊の父定家も作手郷にやって来るのである。貞俊が作手亀山城に拠点を移したとき、北の備えである川尻城を守っていたのが、定家である。治呂衛にも同様に動くよう命じ、清岳台などに住まわせるのであった。
★ お伊勢参りと御里帰り
伊勢神宮の斎王は、天皇家から遣わされた女子である。承久の乱以降、途絶えていた斎王であるが、幼いころ遊んだ皇女が伊勢斎宮に立ち寄るという。過日、皇女から招待の文が届いた。この時期になると、母の実家から三条西家に事の仔細をしたためた文が届けられている。時が熟して、三条西家から作手巫女に上京するよう文が届いたのである。作手巫女は、長者に、お伊勢参りに行くといって、お松を留守番役に、童巫女と伝蔵を伴なって、伊勢斎宮に立ち寄り、そして、上京するのであった。
童巫女にとっては、初めてのお伊勢であり、京の都である。見るものすべてが、新鮮で驚くばかりである。世の中の広さを知るのであった。上京した作手巫女達は、母の実家で過ごす。家族、身内に囲まれて安堵感が一気に押し寄せ、放心状態といったところである。アジサイの葉を、カタツムリがゆっくりと進む様子を、ぼんやりと見詰めている。すると、思い立ったように、好物の甘いものを口に運ぶのであった。念願の白味噌を飲んで生き返る。作手巫女はこうして活力を養うのである。童巫女はというと、伝蔵が護衛する中、店の手代の案内で京の町を見物して回るのであった。
★ 公家巫女誕生
信長は、自ら神となり、絶対君主を目指していた。秀吉は、武門の統領として、全てのものを手に入れ栄耀栄華を極めたが、万民を心底屈服させることは出来ないことを悟るのであった。どうしても大義名分が必要なのである。天正十三年(一五八五年)二条昭実と近衛信輔の間で起きた、関白相論に関与して、首尾よく正親町天皇から関白に任じられ、豊臣の姓を賜ったのである。こうすることで、朝廷から政治を委任されたことを、天下に示したのである。家康も、慶長八年(一六〇三年)朝廷から、征夷大将軍の宣下を受け、江戸に幕府を開いたのである。
公家政権に出来て、武家政権に出来ないものに官位がある。官位は、朝廷の勅許により授けられるもので、身分が正当化され、大義名分が保障される。江戸幕府が終焉を迎え、大政を朝廷に奉還するということは、日の本の根源が、朝廷にあることを示しているのである。
三条西家は、摂家ではない。しかし、大臣家として、極秘の任務が授けられている。世の中が乱れたとき、古代大和朝廷から脈々と続く、骨格、屋台骨を崩すことなく、乱世を終わらせ、太平の世を築くことに尽力することである。内乱も恐るべきことだが、鎌倉時代に、モンゴル帝国が来襲した文久の役と弘安の役など、外敵のことも、心しておかなければならないのである。時勢に流されることなく、時代を見据え長期的展望に立って、屋台骨を支えていく。これが、三条西家に与えられた使命である。
三条西家の居間にて、久しぶりに父公時と顔を合わせた愛娘である。娘の名を知るものは、家族などごく限られていた。愛娘は、聞かれるままに、行き倒れからのことを語る。聞き終えた公時は、目を閉じ黙ったまま、しばし時が過ぎる。
・三河国作手郷よのう。三角陸域に一手打つのは面白いよのう。
・米福長者、知らぬのう。
・上野国の奥平氏よのう。村上源氏の後裔赤松氏の一族でおじゃるか。出自は確かなようだのう。
・坂東武者貞俊よのう。海のものとも山のものとも知れぬが、時代が求める武将かどうか。気になるよのう。
・武将一族に入り込むホトトギスでいくか、それとも、付かず離れずの関係もあってもよいかのう。因みに、ホトトギスとは、ウグイスに托卵して自分の子を育てさせることを言う。
・ここは、愛娘の予知能力を秘めた、天賦の才を信じて差支えないのではないかのう。
静寂の部屋に鹿威しが響くと、熟慮していた公時は、意を決し、お抱え絵師を呼び寄せた。そして、愛娘の眉間に桜色で「八つ丁字車」の家紋を描かせた。花鈿である。父公時から愛娘に言い渡されたことは、
・花鈿を、一女相伝とする。
・娘の名を愛娘とし一女相伝とする。
・公家巫女の称号を、一女相伝とする。
・山城国三条宗近作の守り刀を授ける。
・愛娘を呼び出した時は、即刻上京すること。
これをもって、三条西家愛娘の証しとする。遠く離れていても、世代が変わっても、公家としての正道、荘厳華麗をもって、精進すべきと申し渡す。
聞き終えた愛娘は、三条宗近作の名刀千鳥丸を所望したいと申し出た。その意図を公時は知っていた。「やれやれ、我も驚くほどの、聡明な娘をもったものよのう。」と呟く。
この時、愛娘のお相手といえば、菊亭公行である。早速、公行を呼び寄せた。公行と愛娘は、幼いころの遊び友達で、期せずして結ばれることになったのである。
因みに、豊臣秀吉に関白職を進めたのは、公行の子孫の晴季で、晴季の御料人(正室)は、武田信虎の娘である。
さて、愛娘と公行は、三十三間堂を参拝する。千体仏の手前には、二十八部衆像が並び、内陣の左右の端には、風神像と雷神像が安置されている。愛娘は、これを見た瞬間、閃光が走ったかのように、強く心に残った。それから、今宮神社のあぶり餅を味わったり、香道や和歌を詠んだりして共に過ごし、楽しい日々を送った。半月が過ぎるころ、愛娘が三河国に旅立つため、挨拶に訪れたとき、父公時から、再度、日の本の百年後、二百年後は、如何にあるべきか。いずれにしても、屋台骨がしっかりとしていなければ、ぐらついてしまう。愛娘は、日の本の未来を描く能力を備えている。新しい世の中を描ける天賦の才がある。「心して天賦の才を活かし、使命を果たすでおじゃる。」と言って、見送るのであった。
★ 長者の運命
公家巫女となった愛娘は、数人の従者に守られて神楽殿に戻る。帰殿早速、長者へは、奥方の気に入る飾り物を多めにした土産物を、お松に届けさせた。長者は、作手巫女に何かあったことを直観する。そして、待ちに待っていたかのように、妻子を伴なって訪ねて来たのである。
これまで、武田軍の防波堤でもあった菅沼氏が、田峯村と長篠村に出ていったため、長者村がむき出し状態となり、挙句の果てには、軍資金を無心されていた。このままひれ伏して留まるか。活路を求めて旅立つか。その瀬戸際なのである。天下に聞こえし千軍万馬の猛者、武田氏、今川氏にどのように対峙すればよいのか。見当もつかない。文武といいながらも、武力がものをいう乱世である。長者が備える護衛隊など、赤子の手をひねるよりも容易い。また、隊長にした貞俊の力量を高く評価しつつも、日ごとに人望を慕って集まる者も多く、護衛隊そのものを掌握されてしまったようで、脅威を感じていることも確かである。
公家巫女は、空薫して香りが漂い、水琴窟の音色が時々聞こえる客間に、長者家族を通す。長者は、公家巫女の眉間に花鈿が描かれていることに気付く。作手巫女とは別人のごとくなった公家巫女に、改めて妻子は深々と平伏する。雪見障子が開き、児女巫女となったお竹とお梅が、抹茶と干菓子を長者と妻子の前に運び、浅礼して退室する。
一服したところで、先ず命の恩人である長者に、これまでの心遣いに、感謝の気持ちを伝える。次に、父が三条西家始祖公時であること。公家巫女の称号を与えられたこと。群雄割拠する戦国乱世が始まり、今川軍、武田軍、徳川軍、織田軍が上洛する街道の三角中域に、作手郷が位置していること。作手郷は、軍団を養える豊かな土地柄であること。作手郷を要塞化して、最強軍団をもって、対峙するか。同盟するか。家臣となるか。滅亡するか。その苦難の道を歩むことができる人物を、時代が求めているとのお話であった。
これほど、次元の高い話である。長者は、呆気にとられてしまう。長者も家族も戸惑うばかりであった。公家巫女が、ここまで包み隠さず話をされたのである。時代が求めているのは、悔しいが自分ではない。このまま、居座れば最悪の事態になってしまうことを痛感する。青息吐息の長者は、熟慮の末、公家巫女に、一族の運命を託すのであった。
★ 旅するチョウチョ(蝶)
神楽殿に植えたお花に、フジバカマがある。開花すると頻繁に蝶が、蜜を吸いにやって来る。翅の内側が白っぽく、前翅は黒色、後翅が褐色で透け通る水色の斑点が並んでいる。綺麗な蝶である。物知翁の東屋に聞くと、アサギマダラといって、北国から南国まで夢を乗せて旅をするとのことである。こんな蝶がいることを公家巫女は知らなかった。早速、矢立てを持ってきて模写するのであった。
★ 奥平氏の師匠
貞俊はこれまで、密かに慎重に護衛隊を掌握したものの、長者村のことは、女人(公家巫女)の手にあると言っても過言ではない。今後の進退を決めかねていた。貞俊は、女人が、神楽殿に帰ったと聞き、目通りを申し出る。神楽殿の空薫され香り漂う客間で、武者座りをして待っている。すると、襖が開き、児女巫女を伴なって、公家巫女が、上座に座る。下座の貞俊と後方に控える高元が平伏する。「奥平貞俊でござる。無骨者ゆえ世情に疎く、ご指南お願い申し上げる。」と言上する。すると、「三条西家当主公時の娘、公家巫女でおじゃる。甘泉寺以来よのう。よき武者振りをしておじゃる。」と、公家特有の人を食ったような物言いである。
武将として、作手郷を手に入れるためにやって来た貞俊である。誰もが認める最強の軍団を率いたいと野心を抱いている。されど、その先はどうしたらよいのか。道筋さえ見えてこないのである。そこで、公家巫女に指南を願い出たのである。間を置かず、雪見障子が開き、侍女のお松が、抹茶と干菓子を、児女巫女に渡して立ち去る。児女巫女が、公家巫女、貞俊、高元の前に差し出すのであった。
さて、公家巫女は、父三条西家始祖公時から、公家巫女の称号を与えられたこと。群雄割拠する戦国乱世の中で頭角を現した、今川軍、武田軍、徳川軍、織田軍の動静のこと。そして、今川氏、武田氏が上洛するそれぞれの街道の三角陸域に、作手郷が位置していること。この地の利を活かすか、見過ごすか。広く世の中を見渡せる見識と、力量が有るか無きか。このまま何もしないで、圧し潰されてしまうか。作手郷は、軍団を養える豊かな土地柄である。この作手郷を要塞化して、最強軍団をもって、今川氏、武田氏の全面に立つて応戦するか。横手から横戦するか、後方から追撃するか。押しつぶされてしまうか。同盟するか。家臣となるか。それとも、敗北の道を歩むのか。その苦難の道を歩むことができる人物を、時代が求めている。「お手前が、時代が求める選ばれし武者でおじゃる。この地の利を生かすも殺すもお手前しだいでおじゃる。」と指南したのである。この時、川尻城築城から始まる作手郷の要塞化の道程についても触れた。これには、貞俊といえども呆気にとらわれるばかりであった。義元は、公家好みであったが、貞俊は、坂東武者である。貞俊は、公家巫女の指南を受けて、公家の素養を身に着け、文武両道に優れた武士となるべく、全身全霊を持って切磋琢磨することを決意して、ここに誓うのであった。
すると、児女巫女が三方にのせた太刀を、公家巫女の前に置く。「父上からお手前に、三条宗近作の太刀千鳥丸を、遣わすとのことじゃ。」と公家巫女が言い渡す。すると、貞俊は、前に進み出て、両手を差し出し、うやうやしく浅礼して、公家巫女から、名刀千鳥丸を授かる。これにて、公家巫女は、奥平氏の師匠として、また、同志として伴に歩んで行くことになるのである。目通りが終わり、公家巫女は退席する間際に、「そうじゃ、長者一族については、こちらで計らうでおじゃる。」と貞俊に申し渡した。
★ 二十八見聞衆
この時代、武士の伝達手段は狼煙であるが、狼煙台に見張りの者を配置するなど、手間がかかる。遠方を見渡すことのできる場所は限られており、敵軍にも察知され安く、あまり有効とはいえない。勝負を大きく左右するのは、古今東西、情報を制することである。
武田軍の進撃は素早く、公家巫女は身の危険を感じていた。すると、相月村と寺木野村の白鳥神社の氏子総代鈴木家、加藤家の計らいにより、十二所神社から白鳥神社に神楽殿を移すことができたのである。さて、見聞衆とは、他国の世情、領主一族郎党の血縁・地縁、資金源と物資の流れ、里人の不平不満などを見聞きして、公家巫女に知らせるのである。井戸端会議は貴重な情報源である。些細なことでも洩らすことのないように、聞き耳を立てているのである。こうして、知り得た情報は、文にして、鷹の足に付けた筒に入れて飛ばす。鷹文である。文は、隠し文字で、一字で数通りの情報を伝達することができる。鷹を人目から隠すときは、山伏が背負う箱笈に入れて持ち運ぶ。山伏と鷹操を一体化して、機動力を最大限に高めて、一刻も早く情報を伝達するのである。見聞衆の本拠地は、獅子ケ森である。獅子ケ森が三河国の拠点となり得た理由は、天空が鮮やかに見渡せて、視界が広く遮るものがないことから、鷹が一直線に行きかうことができるからである。鷹には、三十三間堂に安置されている風神・雷神そして観音二十八部衆の名前が付けられている。つまり、二十八見聞衆とは、山伏と鷹操を一体化した諜報組織で、その統領が公家巫女なのである。
★ 娘巫女誕生
公家の中でも、近衛家、一条家、九条家、鷹司家、二条家の五家が摂家といって、大納言、右大臣、左大臣、摂政関白、大政体制大臣になる家柄で、朝廷唯物論者なのである。しかし、摂家でない三条西家は、大臣家であることから、時世を読み取る視野の広い、現実を直視する家風が備わっていた。
さて、お伊勢参りと、御里帰りを終えて神楽殿に帰った公家巫女は、時が来て、娘を授かった。三条西家と菊亭大納言の血を引く娘は、天真爛漫。すばしっこく、やんちゃ、お茶目で機転が利き、読み、書き、そろばんなどは、お茶の子さいさいである。未来を見通す天賦の才は、母公家巫女譲りである。
今日も朝から晴天なり。近所の子供たちと遊び回っている。桑の実を食べて、紫になった唇を見せあって大笑いする。ポックリ遊びは、竹の節を残し一寸(三センチメートル)ほどで輪切りにする。節の上部二か所に穴をあけ紐を通して両端を結ぶ。二個が一組で、足を乗せて紐を引っ張りながら歩き、小走りするのである。これが上手になれば、次は竹馬である。娘は、大人の背丈より高い竹馬に乗り、意気揚々である。水鉄砲に小鉄砲、弓矢は本気勝負である。時には、アマガエルのお尻に麦藁をさして息を吹き込むとお腹がポンポンに膨らむ。カエルにとっては迷惑の極みである。こうして、遊びは尽きない。この時の幼馴染が、娘を支える二十八見聞衆となっていくのである。
さて、この日は最悪で、畑を駆けずり回り、気が付けば、肥溜めにはまってしまった。お松が、タライに立たせて、頭から水を掛け、ゴシゴシと洗う。特に腰まで伸びた黒髪を洗うのは大変である。風邪をひかないように、米のとぎ汁で丁寧に洗う。お香で臭いを消すのであるが、それでもしばらくは臭いが消えない。
衣類は、洗濯しても臭いはとれない。お松がどうしましょうか。と公家巫女に尋ねると、捨てるようにとのこと。通りに出たところで、顔見知りに、それは何かと訊ねられ、捨てるのだと言うと、「任せるだに~」と言って持って行った。翌日、通りを歩く子供が着ているのを見て、お松は大いに驚いた。里人が着れるような衣ではない。臭いはあまり気にしないようで、もったいないと、喜んで着ているとのことであった。
娘は、見た目も、公家巫女が娘の頃にうり二つである。決定的に違うのは、娘は作手生まれの作手育ちということである。これが、母公家巫女には無く、娘の財産となるのである。
娘の自由時間は午前中のみである。午後になると、出で立ちも打って変わり、公家のお姫様そのものである。これから、公家としての立ち振る舞い。言葉遣いなどの礼儀作法や書道、香道、和歌に通じなければない。
今和歌集、源氏物語など、書物に目を通すのである。娘は、自らの立場を分かっていて、微動だにせず一心不乱に書物に目を通している。娘が七歳になると、自由気ままに遊びまわることはしなくなった。
娘巫女となった今、思うことは、母である公家巫女を見習い、側に使える児女巫女を姉と思い、一刻も早く、眉間に花鈿を頂き、公家巫女となることであった。
★ 川尻城築城 天授年間(一三八〇年頃)
今川氏、武田氏、徳川氏、織田氏などの武将が、上洛を果たすべく、勢いずくばかりである。乱世を生き抜くには、商いの道に秀でているだけでは生き残れない。飛ぶ鳥を落とす勢いの武田軍の進行を食い止めることはできない。このままでは、作手郷は押し潰されてしまう。この勢力に対抗できるのは長者では、心もとない。
護衛隊の訓練場である城山は、山城としての機能が既に整っている。そこで貞俊は、密かに北畠衆を呼び寄せる。そして、短期間のうちに城塞化していくのであった。
★ 長者との分かれ
長者は、土豪ではあるが、商人気質である。奥平氏は武人、戦士である。
公家巫女にとって、長者は、命の恩人であることは間違いない。そこで、京は禁裏呉服所八文字屋の実母に、長者の行く末を相談する。
すると、長者は商いに長けているので、呉服屋を開業してはどうかとのことであった。長者は、願ったり叶ったりと、感謝しながら下準備を始めるのである。そして、八文字屋の後押しもあり、岡崎の連尺通りに呉服屋を構えることができたのである。開店準備をしていた者から、準備万端整ったとの知らせを受けた公家巫女は、長者一族を田原坂峠で見送るのであった。
その後、長者は、公家巫女の期待に応えて、岡崎を代表する大店となり、三河国の経済を牽引していくのであった。
★ 作手亀山城築城 応永三十一年(一四二四年)
貞俊は、川尻城を築城しながら、清岳台に作手亀山城を築城するのであった。作手亀山城は、北側が切り立った土塀作りの要害堅固な山城である。特徴的なことは、南側の丘陵地を最大限に活かすため、城郭と馬場、放牧場を一体化していることである。軍馬、即ち、騎馬隊こそが、奥平氏の強さそのものである。駿馬を育て調教して、最強の軍団を率いて、乱世に挑むのである。また、作手亀山城には、西方に聳える文珠山に、出城である文珠山城を持っている。
また、清岳台に、家臣団の屋敷を配置した、御城下を普請する。この清岳台は、作手亀山城の北方に位置する田峰城・菅沼本城、東方に位置する長篠城・野田城、西方に位置する松平城・岡崎城の結節点ともいえる。歩く時代、交通の要所であったのである。
★ 拠り所と習い処
急激な人口増加などにより、正眼寺境内に設けた拠り所が手狭となった。公家巫女は、時を見て、世話役をしているお竹の父唱之介を招き、考えを聞く。唱之介は、身寄りの無い子供やお年寄り、怪我や病気で難儀している者が増えて、拠り処は手狭であることから、場所を移して、拡張できればということであった。
そこで、公家巫女は、御水垂川の流末に設けた、溜池を掘るとき出た残土で築いた平地に注目する。しかし、莫大な資金をどうするか考えあぐねていた。何処で知ったのか、小林村の米造なる徳林家が、資金調達に名乗り出て来たのである。公家巫女は、早速、米造を神楽殿に招き、小太刀を授ける。資金調達に目途が立ったことから、公家巫女は、唱之介と相談しながら全体像を図面に現わす。暮らしに難儀している者に配慮しながら、皆が納得できるまで練り直すのであった。
そして、たどり着いたのが、弱者の拠り所であり、健者の習い処とすることである。
習い処は、自給自足を肝に銘じ、午前中は学び、午後は、敷地内の田畑にて、汗を流すことを日課とするのである。特に、神楽殿から引き継ぐ菜園、薬草園、花園は、女衆と物知翁の東屋にお任せである。試し畑では、諸国の珍しい野菜を栽培したいが、種子を得るのが難しく、ここは、徳農家の勝之介にお任せである。更には、果樹園や、酒や味噌の醸造、鍛冶などの技術を身に着ける習い処としたいと、唱之介の夢は果てしなく、大風呂敷を広げるのであった。なお、敷地内には、軍馬と農耕牛馬の繁殖場と調教場が設けられた、大規模なものとなった。
米造に遅れじと、早々に北畠衆が、作事(建築)と普請(土木)に名乗りを上げたのである。
この習い処は、唱之介の人を育てるという理念を具体化するものであり、諸国から指導者を招聘する。この後、ここで育った優秀な人材が、奥平家を支えるとともに、作手郷の輝かしい資産となるのであった。
★ 山家三方衆
山家三方衆とは、作手奥平氏と、作手菅沼氏を発祥とする田峯菅沼氏、長篠菅沼氏をいう。
元亀元年(一五七〇年)信玄が奥三河の攻略を開始する。これにより山家三方衆は武田軍に従属することになった。この年、家康は姉川の戦いに参戦する。天正元年(一五七三年)奥平貞寄が、武田方に直参するに至り、奥平家の弱体化を恐れた貞勝は、夏山家但馬勝正に奥平を名乗らせ、奥平夏山家の祖とするのであった。
● 作手奥平氏の軍制
奥平氏は、村上源氏赤松則景の子氏行が、秩父氏の一族で児玉庄左衛門の婿となり、奥平を称したことに始まる。天授年間(一三七五年)上野国奥平郷から貞俊が従者を伴って、作手郷にやって来た、坂東武者である。作手亀山城主となり、作手菅沼氏とともに山家三方衆として、戦乱に身を投じていくのである。
奥平氏の軍制を、七族五老という。
【七族】
奥平久兵衛貞友(日近家)、奥平出雲貞信(和田家)、奥平与右衛門勝正(夏山家)、奥平周防勝次(萩家)、奥平治左衛門勝吉(田代家)、奥平右衛門義次(中金家)、奥平土佐定堆(雨山家)
【五老】
山崎善兵衛信宗、生田玄蕃、兵藤新左衛門勝吉、黒屋甚兵衛重成、夏目五郎左衛門治貞なお、貞昌(信昌)は、長篠・設楽原の戦いで、長篠城の城番として、籠城死守し、家康の長女亀姫を娶ったことにより、武運が開け、歴史の表舞台に躍り出て行くのである。
● 作手菅沼氏
美濃国守護職の土岐頼康が没すると、兄の康行が家督を継ぐ。兄康行に命じられた土岐満貞は、足利将軍義満の近習となり、満の字を賜り尾張守護職についた。しかし、明徳二年(一三九一年)におきた、明徳の乱の内野合戦において、武士の誇りを汚すことをしたとして、守護職を罷免された。身の危険を感じた満貞は、三河国作手郷の北西にある隠れ里に落ち延びる(隠遁)ことにした。何とか黒瀬村、善夫村そして、菅沼村にたどり着くのであるが、時の将軍義満の逆鱗に触れたのである。この辺りではまだ安心できない。もっと奥深い人知れない隠れ里はないかと、伝平という又鬼に道案内させる。比較的平坦な道を進むと、峠に差し掛かる。両脇の山筋の間に出来た谷筋が、一挙に落下している。この谷筋に添って伸びる九折の山道を降りて行くと、谷底にたどり着く。石積みをしなければ、建物を建てられないほど急峻である。麦、コンニャク、桑などが植えられ、同じ境遇の者が、落ち延びて暮らしているようである。巨木が生い茂ることから、ここを、木和田村と言うのである。
名主の世左衛門を訊ねると、予め縁者を通して、事の仔細をしたためた文により、住いなどが整い、用意万端といったところである。出迎えた世左衛門の娘お鈴が、身の回りのお世話をするのである。お鈴は美貌で教養もあり、いつしか二人の間に子ができて、木和田安達と名乗る。時を経て安達の子が上菅沼村の庄屋で河合家、原田家を頼り移り住み、菅沼古城を築城して、菅沼定直と名乗る。しばらくすると下菅沼村の庄屋で斎藤家、熊谷家を頼り、菅沼本城を築城するのである。作手菅沼一族は、奥三河に勢力を広げて行った。
● 田峯菅沼氏は、菅沼定信が文明二年(一四七〇年)に田峯城を築城する。
● 野田菅沼氏は、菅沼定則が永正五年(一五〇八年)に野田城を築城する。
● 長篠菅沼氏は、菅沼元成が永正五年(一五〇八年)に長篠城を築城する。
なお、野田城主の菅沼定則は、今川氏親の遠州攻略に協力しながら、松平清康の宇利城攻略にも協力する。また、孫の定盈は、松平元康に従う。その後、家康と信玄との戦いで、武田氏に寝返る菅沼一族もいたが、定盈は、野田城の戦いで捕虜になるも、一貫して、家康に組する。
家康の関東転封に従って移住し、この時、阿保藩を立藩する。その後、伊勢長嶋藩主、近江膳所藩主、丹波亀山藩主となる。
慶安元年(一六四八年)定盈の末裔である定美が、天領となった新城の陣屋に入城する。定美は有教館と名付けた郷学舎を設ける。特に、茶道に通じていた風流人で、入船の淵に桜を植えて桜淵と名付けるのであった。享年六十二歳であった。
◎ 井伊谷
永禄十一年(一五六八年)に家康が遠州攻めの事前工作として、菅沼定盈が同族のよしみで菅沼忠久を動かし、鈴木重時、近藤康用を抱き込んで、今川方から離反させた。これにより、曳馬城は、陥落して遠江侵攻の足掛かりとなった。永禄三年(一五六〇年)桶狭間の戦いで井伊直盛が戦死して、井伊谷は実質的に三人衆が治めていた。天正五年(一五三六年)井伊直盛と祐椿尼(新野親矩の妹)の娘次郎法師(直虎)が生まれた。因みに、奥平貞能が生まれたのは翌年の天文六年(一五三七年)である。
家康は、天正三年(一五七五年)になって直政に旧領の井伊谷を与え、三人衆を与力として附属さたのである。この後、奥平家と井伊家が、徳川家を支えていくことになるのである。
★ 餡餅の日
今日も、奥方衆は、熱心に井戸端会議である。そこへ、目にクマのある奥方が現れた。「どうしたのじゃ。」と聞くと、些細なことから言い合いになり、夫の肘が、奥方の左目を直撃して、クマが出来たとのことである。聞くうちに、奥方衆は自分のことに同化し、激昂しだした。
そういえば、朝起きて、気分がすぐれず、口数が少なければ、家中が暗いという。いつも笑顔で、笑っていなければいけないのか。妻として子育てから、ご飯の支度、そして家のやりくりだってちゃとやっている。時には、夫の手柄話に付き合い、すねたり、めげたり、妬みや嫉妬、愚痴も聞く。相槌を打たなければ怒り出す。妻であり子供の母親であり、家を切り盛りしている。だが、あんたの母親ではないのだ。これ以上男衆の増長、横暴を許す訳にはいかない。登城して、殿様、奥方様にお灸を据えてもらうことにした。この話が、他の奥方衆の間に、瞬く間に広がつたのである。この日、十月十二日は、作手奥平氏の始祖、貞俊の命日である。戦がない限り、家臣が揃って登城する慣わしである。
今日は快晴だ。奥方衆の鼻息は荒い。頭にタスキを掛けて、男衆の横暴ぶりを直訴するのである。何故か奥方衆だけでなく、これを聞き付けた里の女衆も、子供をおんぶしたり、手を引いて、片手には、大根や人参、鍋・オタマを持ち、打ち鳴らし後方に続いている。殿様、奥方様に会わせろと叫んでいる。門番からの知らせを受けた貞勝は、家臣の奥方衆のことだからと、正室(水野忠政の妹)に聞こうと呼び寄せた。すると、何と、タスキを占めているではないか。事の重大性に気付いた貞勝は、正室の横にいた公家巫女に近づくと、何やら指南されたらしく、陣太鼓を三回鳴らさせ、鉄扇を開き、高々と上げて、「皆の者大儀」と声を上げた。そして、すぐさま、お城の米蔵を開放してモチ米と小豆を運び出した。餡餅を振る舞うことで、常日頃の内助の功を労うのである。本丸広場に集まった、里の女衆と男衆も一緒になって、男衆が杵を振るい、女衆が餅の手を返す。ペッタン、ペッタン。お祭りの様な賑わいである。貞勝は、ここに集まっている全ての女衆が、おめかしをしているのに気付く。炊き出しをするかのように、大根や人参のみならず、鍋やオタマを持っている。「アッ、謀られた」という顔をして奥方に目をやった。
★ 義元が今川氏の当主となる 天文五年(一五三六年)
義元の母寿桂尼は、中御門大納言宣胤の娘である。武家である義元が、公家風の暮らしをしているのは、こうしたことからである。
★ 第二の拠点、額田亀穴城 永禄年間(一五五八年〜一五七〇年)
貞能は、作手亀山城から避難するための避難城の築城を模索していた。そして、滝山の山頂が適地と見定めて、額田亀穴城を築城することにした。
亀穴城は、作手郷から額田郷に続く山系の主峰滝山の尾根の北側に、三つの廓、東の廓に二つの掘切りを施した難攻不落の山城である。その麓には、主計屋敷、田代屋敷、西側に明見城、黒谷城という支城を配置するなど、奥平氏の第二の拠点である。既に、普請が、北畠衆の手により進められているのであった。
★ 石橋館の夜討 天文六年(一五三七年)
弾正久勝は、貞勝が若年であることから、粗暴な振る舞いをしていた。それが、謀反の動きありと噂されるようになった。これを察知した貞勝は、定雄に成敗するよう命じたのである。定雄は、石橋館を奇襲して、長槍で久勝と一族を打ち取ったのである。奥平家一族に起きた不幸な出来事であった。後に、公家巫女の進めもあり、石橋山慈昌院を建立して供養するのであった。
★ 丸根砦の戦い 永禄三年(一五六〇年)
家康は、義元の命により、山家三方衆の作手奥平氏、田峯菅沼氏、長篠菅沼氏と伴に、大高城へ兵糧を運び入れる役目を果たす。
そして、菅沼氏が去る中、奥平軍が残り、家康とともに、城将佐久間大学盛重が守る丸根砦を、火砲により落城させたのである。機知縦横の戦いぶりに義元は大いに喜び、家康に大高城の守備を任せたのである。
★ 桶狭間(田楽狭間)の戦い 永禄三年(一五六〇年)
この日は、体調が思わしくないため、義元は馬からズリコケそうになった。そこで、神輿で行軍している。蒸し暑いさなか、里人が酒や肴を持って出迎えている。気をよくした義元は、行軍を止めて、休憩することにした。床几に腰を掛けた義元の面前で、里人がひょっとこ踊りでもてなすと、義元の口からお歯黒が覘いた。この顛末を急報したのが、里人に紛れていた梁田政綱の手の者である。公家巫女も見聞衆からの鷹文により、状況を把握し、貞勝、貞能に知らせる。
因みに、信長の論功行賞は、意外なもので、義元の首を取った毛利伸介と服部子平太ではなく、義元の居場所を知らせた梁田政綱を、武勲第一とするのであった。海道一の弓取りといわれた義元は打ち取られたのである。享年四十一歳であった。
★ 人質交換 永禄五年(一五六二年)
家康は、今川館に置き去り状態であった、正室駿河御前、嫡男信康、長女亀姫を、上の郷城を守っていた鵜殿長照を打ちとり、その兄弟である氏長と氏次を捕らえて、人質交換を条件にして、無事に今川館から連れ出すことができたのである。
★ 姉川の戦い 元亀元年(一五七〇年)
信長の妹お市の方の嫁ぎ先、浅井長政が、朝倉義景に味方したという知らせが届く。織田軍が、浅井・朝倉連合軍と激突するが、挟み撃ちに合う。見聞衆のもたらした文により、これを知った徳川軍が、即座に駆け付け、浅井・朝倉連合軍を不意するのであった。
★ 見事な太刀裁き
武田軍が来襲するとの知らせを受けて、長者村から多くの者が、清岳台に移った。その時、酒杜氏の元太の娘お春が居ないのに気付き騒ぎ出す。逃げ遅れたのに相違ない。とっさに、公家巫女は馬を走らせ、元太が言っていた酒蔵に駆けつける。すると、武田軍の物見の兵に出くわす。兵は長槍を構えて、猪のように突進して来た。無双の構えで、穂先を紙一重でかわした公家巫女は、背中に挿した小太刀に手をやると、すれ違いざまに、抜き払った。あっという間のことで、その鮮やかなこと、このうえない。兵がドッと地べたに倒れ込んだ。峰打ちではあるが、ピクリともしない。さすがは、富田流免許皆伝の腕前である。後を追った伝蔵が、「お見事でござる。」と言って、おっちょかった。(恐ろしかった)と怯えているお春を馬に乗せる。公家巫女と、二頭立てにて、亀山城の元太のもとに、無事届けることができたのである。
★ 作手古宮城築城
奥平氏は、元亀元年(一五七〇年)武田氏に帰服する。そして、元亀二年(一五七一年)武田氏に屈したその証として人質を求められる。なおかつ、信玄は、元亀三年(一五七二年)馬場美濃守信春に命じて、大野原湿原に崛起した丘状の山に、古宮城を築城したのである。この古宮城は、全山を余すことなく地形に応じて土塁、郭が配置され、中央部の本丸を、大堀切により西本丸と東本丸に分断し、木橋で連絡する一部別郭式の平山城である。さらに、出城として、西側の本城山にあった古城を、塞ノ神城として改築する。難攻不落の名城も、天正元年(一五七三年)八月に、自焼落城する。
★ 三方原の合戦 天正元年(一五七三年)
浜松城の家康は、信玄を迎え撃つため、家臣の進言を聞かず、無謀にも籠城するどころか城から打って出る。案の定、野戦上手な信玄に成す(茄子?)術もなく、惨敗する。命からがら馬に跨り、浜松城に逃げ帰る途中、大川に阻まれた。深みにはまっては元も子もない。しかし、追手が直ぐそこまで近づいて来た。浅瀬はどこだ。右往左往しているとき、上空から鷹が飛んで来たかと思うと、少し上流でピーと泣きながら旋回している。誘われるまま行ってみると、探していた浅瀬である。ためらわず渡り終えて、前方の丘に立つ、山伏らしき者の腕に舞い降りる鷹の姿を見た。そういえば、奥平氏は鷹好きだったことを思い出した。後に家康は、この時の鷹が、見聞衆の風神であることを知るのである。
★ 武士の血杯
死中求活、不退転の決意、覚悟とはこのことである。
初代刈谷城主水野忠政の妹は、貞勝の正妻で貞能の母である。また、忠政の長女於大は、松平信忠の妻で家康の母である。言わば奥平氏と徳川氏は、血族である。故に貞勝は、徳川氏に組するか、武田に付くか思い悩み熟慮していたのである。奥平氏の命運を掛けて出した答えは、徳川でも武田でもなく、全方位で生き延びることである。言うことは容易いが、生半可なことでは、見破られて全滅しかねない。奥平家が、生き残りをかけて袂を分かち戦うことになったとしても、同族、ましてや、親子であっても、本気で戦わなければならない。悟られたら、奥平家は滅亡してしまう。根性を入れて戦う覚悟があるか、ないかである。
さて、巴山を水源とする巴湖は、急深である。水煙が漂う、湖畔にせりだしたところに、姉妹のような母娘が営んでいる茶屋がある。母楓と、娘紅葉である。行き交う旅人からそれとなく、世の中の動きをつかむのが務めで、見聞衆である。
湖畔に目を移すと、床几に腰を下ろした貞勝に、遅れてやってきた貞能が横に立つ。娘巫女がそっと近づき、差し伸べた盃を、床几横の切り株に置き清酒を注ぐ。すると貞勝が、親指に脇差を当て鮮血を一滴たらす。次に、貞能が垂らす。その盃を、貞勝が半分飲んで貞能に渡すと、残りを飲み干した。娘巫女が、盃を和紙に乗せ、小刀の背で細かく砕き、公家巫女に渡す。そして、湖上に散布すると同時に、つむじ風が湖水を舞き上げた。舞い上がった湖水が霧になり、七色に輝く虹がさした。公家巫女が、手にした横笛を吹く。親子であろうとも、敵方となったときは、奥平家の存亡を掛けて、戦うことを誓った血杯である。互いに背を向けて、虹が示す方向、即ち、貞勝は作手亀山城へ、貞能は額田亀穴城へと、苦難の道を歩き出すのであった。奥平氏親族郎党の運命を定める大きな出来事であった。
★ 野田城の戦い 天正元年(一五七三年)
信玄は病に侵されているが、勝ち戦が続いており、油断、緩みがあった。信玄は、音曲に造詣が深い。今の心理状態からすれば、笛の音色で誘い出せる。信玄は、まんまと笛の名手村松芳休に誘い出された。
そして、鳥居三左衛門(半四郎)に火縄銃で狙撃され、負傷した。信玄は上洛を諦め帰国の途についた。そして駒場にて、無念にも亡くなったのである。享年五十三歳であった。
★ 武田信玄死す
信玄の死を聞いた家康は、長篠城主菅沼正貞を調略して開城させた。武田軍は、浜松に帰城する家康を打つため、吉川街道筋の東西から鋏撃ちにすることにした。武田陣営にて、これを知った貞能はすぐさま、鷹文にて、徳川軍に通報する。家康は、吉川村の渓谷を横切り、浜松に無事帰城することができた。貞能は、家康に通報した裏切り者の疑いで、玖老勢村の武田陣中に招喚される。厳しく詰問されるが、頑として、身に覚えがないと主張する。しかし、人質を出すことを約束させられた。
貞勝は、義元の大高城への兵糧運びを手伝うが、義元が打ち取られると、しばらく静観してから、家康へ転任する。元亀二年(一五七一年)武田軍が三河に進行すると、貞勝は、またしても、武田氏に服属する。しかし、天正元年(一五七三年)に、貞能と貞昌など家中の大半が徳川氏に再属するが、貞勝と常勝など少数が武田氏に留まる。
その後、貞勝は、長篠の戦いで、武田軍に属するも、目だった働きも無い(しない)ままに、菅沼一族とともに、所領を放棄して、甲斐に移住する。武田氏の滅亡により甲斐から戻り、貞能の許しを得て、額田郷に隠棲する。奥平家四代当主として、お家存亡をかけた生き残りに、見事その役割を果たし、天寿を全うしたのである。享年八十三歳であった。
★ 作手亀山城からの脱出
ここに至っては成すすべも無く、天正元年(一五七三年)八月二十日亀山城から脱出する準備が始まった。
危険を察知した公家巫女は、兵士以外の女子供、年寄り、身体不自由な者が足手まといにならないように気を遣う。その準備は、既に始まっていた。問題は、避難する亀穴城まで、険しい山道を歩いて、脱出出来るかどうかである。そこで、前々から、皆の足の大きさを、測ることから始めており、丈夫な革華靴を、呉竹が用意するのである。
避難する時の出で立ちであるが、革華靴に、女袴で羽織を纏い、小枝などで頭に怪我をしないように、頭巾を着用させる。また、小物を入れる袋を下げさせる。背負った袋には、衣類を入れる。これは、矢を防ぐ狙いもある。歩けない赤子は軍役のない男衆がおぶって行く。避難経路の要所に、見聞衆を配置するなど、綿密に、秘密裏に避難させたのである。
しばらくして、作手亀山城に、古宮城の城番目付初鹿野伝右衛門が、人質を催促してきた。この時、浜松城から援軍を送ったので、直ぐさま亀山城から撤去しろとの軍令が届く。奥平氏は、武田氏から徳川氏に帰参していたので、避難城である額田亀穴城を目指して、亀山城から脱出するのであった。留守をしていた父貞勝は、貞能が独断専行したと表向き大いに激怒してみせる。これが策略だと見破られては元も子もない。血杯の契り通り、直ちに、次男常勝と助次定包(二代貞久の七男)と伴に、武田軍五〇余人を率いて、貞能・貞昌一行を追撃するのであった。
★ 石堂ケ根の戦い
天正元年(一五七三年)武田軍の古宮城に在する甘利晴吉四〇〇余人も、貞勝に合流して、貞能・貞昌の一行を追撃する。須山村を越えて尾根伝いに額田亀穴城を目指すが、石堂ケ根で追いつかれ戦いが始まる。
貞能は、作手亀山城を撤去するとき、夏山家の奥平但馬勝正に、古宮城の後方に潜伏して、此方からの合図で、古宮城周辺の小屋を焼き払い、発砲するよう命じておいた。これを武田軍は、古宮城が城攻めにあっていると勘違いして、退却する。こうして、奥平軍は何とか無事に額田亀穴城にたどり着くことが出来たのである。
★ 額田亀穴城・田原坂合戦
天正元年(一五七三年)難攻不落、鉄壁と言われる隘険な額田亀穴城を目がけて、武田軍五〇〇〇余人が城下の万足平に押し寄せてきた。馬のいななぎ、蹄の音が山麓から木霊してくる。
しばらくすると岡崎から徳川援軍が間近に迫っていることを知り、奥平軍は、滝山を一気に駆け下る。そして、万足平で徳川援軍も加わり乱戦となった。しばらくすると、形勢不利とみて敗走する武田軍を、田原坂まで押し返し三度戦って武田軍を退けた。
★ 古宮城の戦い
天正元年(一五七三年)武田軍が亀穴城に攻め入る前日に、浜松の徳川軍が作手郷に着陣して、古宮城を攻撃する。武田軍は敢え無く宇津木城(見代城)に敗退する。徳川軍が宇津木城に迫ると、直ぐさま大和田城に退去する。更に追撃すると、島田城に逃げ込む。あまりの勢いに、島田城の城将菅沼定常は、田峯城に逃げ込む。田峯城主菅沼定直は、信州に逃れようとしたが、家臣に説得され奥平家の家臣となる。和田出雲は作手郷をでて、武田氏に従属する。雨山の阿知波修理定直は、奥平氏に臣属する。こうして、奥平氏は、奥三河一帯の平定に成功する。早速、貞能は貞昌を伴い、浜松城にて家康に謁見し、援助に感謝するのであった。
★ 長篠城の城番となる 天正元年(一五七三年)九月十六日
家康は、貞能の類いまれなる武者ぶりを気に入り、貞能を、直参にして浜松に住むよう命じる。貞昌を、長篠城の城番となる。貞能は、晩年は、太閤秀吉に招じられ宿老老臣の仲間となったのである。
★ 奥平氏に悲劇が襲う
武田氏から徳川氏に帰服した代償は大きく、武田陣営に人質となっていた奥平信昌の弟仙千代(十三歳)、奥平定置の娘で貞昌の許嫁於フウ(十六歳)、奥平勝次の次男虎之助(十六歳)が、鳳来寺山表参道の門谷にある金剛堂前などで処刑された。勝頼の激怒は凄まじく、警護は固く、間を入れず処刑されたのである。公家巫女は、静観するのみであった。必要以上に事を起こせば、貞昌と於フウの関係が微妙であり、根も葉もない噂話で、奥平氏の運命を大きく左右しかねないからである。貞昌は、亀穴城の広間で家臣と軍議をしていた。そこへ、「人質処刑」との訃報が入った。それを知った貞昌は、とっさに脇差を抜き、握り、そして抜きはらった。「アッ」という家臣が目にしたのは、握った手から滴り落ちる鮮血であった。「この思い決して忘るまじ」と絶句するのであった。奥平家に、憂いと喪失感が漂う。
★ 北畠衆のお弓
公家巫女は、奥平氏が大きく飛躍する時が来たことを悟る。新地にて、城郭と城下町を築き上げることになる。そのためには、綿密な調査が必要となるであろう。早速、北畠衆を召しだす。神楽殿の前に、むさくるしい大男衆の前列に少女がいる。長い黒髪を一つ結びして、男の様な成りをしている。腰に袋を下げ、手には馬用鞭を持っている。この娘が、北畠衆の統領であることを知る。公家巫女とは初対面であった。少女の名前は、お弓と言った。何でも、家に代々伝わる備忘録を見て育ったことから、諸国の城郭、神社仏閣、城下町などの巨大建造物の作事や、普請の様子を見て回っていたとのことである。ひと癖もふた癖もありそうな、猛者連中を束ねる秘訣を聞くと、「しっかり褒めて、しっかり叱る。母の心で接することじゃ。」と事も無げに言う。「普請の出来不出来は、孫子の代まで伝わる。普請は、損得勘定だけでやるものではない。心意気をもって大儀を忘れず貫くことじゃ。」娘なのに人生を悟ったような、大人びた物言いがとても可笑しい。何を思ったのか、持っていた馬用鞭を地面に叩きつけた。大男達がビク付くのを見てクスッと笑ってしまった。腰に下げた袋の中身を聞くと、王将の駒が入っているという。頑張った者に、その場で渡すのだそうだ。武士も、戦功があれば恩賞がある。頑張った者が褒美を欲しがるのは当たり前であり、恥ずべきことではない。この王将が溜まると給金の他に、特別給金がもらえる仕組みなのだという。怠け者には馬用鞭がお尻目がけて飛ぶ。事がうまく運ばず、お尻を向ける者もいる。そんな時には、ピシャリ程度で、あくまでも母心なのである。何とも聡明な娘であろうか。
公家巫女は、お弓を見ながら、娘巫女に何やら耳打ちをする。公家巫女は、お弓を手招きして、娘巫女と伴に、神楽殿の中に入っていった。皆の衆には、しばし待つようにとのことで、お茶と落雁が振る舞われた。時が過ぎ、現れたお弓を見て、一同びっくり仰天である。振袖に女袴。髪は双髻結いをしている。母が美形であることから、すこぶるめんこい(可愛い)のである。あまりの変わりように、今更ながら、驚いたのである。急なことで、衣類は、娘巫女のものをあつらえたのである。公家巫女は改めて、一同の面前で、お弓に小太刀を授ける。ここに、お弓は、見聞衆となったのである。因みに、お弓率いる北畠衆は、奥平氏の国替えに従って、城郭や城下町の作事・普請に、その力を遺憾なく発揮していくことになるのである。
奥三河を統治するための拠点はどこが望ましいか。富永荘郷ケ原(郷ケ原)は相応しいかどうか。城郭と城下町を普請するには、利便性と不便性を知らなければならない。公家巫女は、お弓に、密かに調査するようにと、命じた。海のものとも山のものともわからない大規模な作事・普請である。お弓は、本領発揮の場を得たと、胸を躍らせるのであった。
★ 長篠・設楽原の戦い 天正三年(一五七五年)
尾張に潜入している見聞衆からの鷹文によると、信長が妙なことを口走っているという。それは、大量の丸太を集められるか、近従に耳打ちをしているそうである。些細な情報であるが、公家巫女は見落とさなかった。丸太を、いつ。どこで。何に使うのか。時を同じくして、前代未聞、大量の武器弾薬が動いている。武田軍と織田・徳川連合軍が激突する場所を推測すると、設楽原付近ではないかと察しがつく。しかし、雁峰山麓やこの周辺には、草刈り場が広がっているだけで、使えるような立木はなく、調達は無理である。公家巫女は、「合戦近し、丸太の調達が先手必勝成り。熟慮するでおじゃる」と、貞能に指南する。これを見た貞能は、今こそ山の民の出番であることを悟る。作手郷に限らず額田郷の木こり衆を集めて、近傍の山々の立木調査を開始して、伐採から搬出する方法を詰めるのであった。
さて、雁峰山麓の豊栄村から片山村にかけて竹林がある。竹は丸太より軽く、運搬が容易で兵士の消耗が少なくて済む。丸太と竹の併用を思い付く。貞能は、丸太の調達の可能性について文にまとめて、家康に言上する。調達するには、野田城の城主菅沼定盈、新城古城と臼子城主の菅沼正継、杉山端城主の菅沼定氏の協力が必要になることも書き添える。そして、この城主の奥方や侍女に、白粉、紅、簪、椿油、香り袋などを送り届けるのである。こうした地道なことの繰り返しで、機運が高まり協力体制が整うのである。後に、信昌(貞昌)が新城本城主となったおりに、大いに役立つことになるのである。しばらくして、家康から貞能に丸太の調達を問われると、「準備万端整ってござる。」と言ってのけるのであった。「見込んだ通り出来る男よのう。」家康は、人を見る目に狂いのないことを自画自賛するのであった。
四代貞勝は、五代貞能に永禄四年(一五六一年)に家督を譲る。このころは、今川氏に従っていたが、武田軍の脅威にさらされるようになっていた。貞能は貞昌を伴なって、額田郷宮崎村の亀穴城を拠点とすべく移り住むのであった。
尾張、岡崎方面の鷹操からもたらされる文によれば、かつて聞いたことがないほどの鉄砲、弾薬の量が動いているとのことである。戦いがまじかに迫っていることを察知した公家巫女は、戦場となるであろ設楽原の民家に嫁いでいる見聞衆に、村ごと避難するように、名主を説得することを、命じたのである。五月下旬のことであり、田圃には稲が育っており、さほどの危機感はなく、名主は、里人を説得するのに難儀したが、最後は、命あっての物種であると、従ったのである。名主は先ず、女子、子供、年寄りを組ごとに避難させた後に、残った全員を避難させたのである。避難する所は、竹広から東方にある出沢村の奥地で、小屋久保といって水場もあり、近くの草鹿山(浅間山)へ登れば、戦況が一望できる所である。長期戦を見込んで食料はもちろん鍋や茶碗などを持って、村ごと避難したのである。
しばらくすると、家康から、丸太を調達するようにと命が下る。雁峰山麓の片山村から臼子村にかけて、杭用の末口二寸、長さ十三尺と、横木用の末口三寸、長さ二〇尺の丸太と竹を所定の場所に積み上げさせておく。これを行軍してくる兵士が二人掛かりで、連吾川の川辺まで運ぶのである。天正三年(一五七五年)五月十七日の夕刻前に三万八〇〇〇余の織田・徳川連合軍が設楽原に着陣する。
● 長篠城籠城戦
貞昌(信昌)は、天正三年(一五七五年)二月十八日家康から長篠城の城番に任じられる。五月十一日から戦国史上に名高い、長篠・設楽原の戦いが同月二十一日まで繰り広げられるのである。長篠城は、寒狭川と大野川に挟まれた断崖絶壁の要害にある。
武田軍に包囲され、長篠城の兵糧も底をつきかけていた。火縄銃の有効射程距離の二〇〇メートルを避けた上空から、鷹が落した包みを拾った足軽が、貞昌に差し出す。貞昌が、包みを開けると干肉が現れた。直ぐに籠城兵に配るように命ずる。ふと包み紙を見ると、何か書いてある。籠城兵に宛てた妻子からの寄せ書ききである。それを見た籠城兵は、干肉を口にしたまま嗚咽しながら、頑張らねばと奮起するのであった。特に、「父上がんばれ」の息子の文字を見た強右衛門は、顔面を硬直させていた。全て、公家巫女が見聞衆に命じて行っていることである。
信昌と勝頼とは決定的な違いがあった。それは、父の存在と父への思いである。信昌は父貞能の後ろ盾を得ている。勝頼は、父信玄は亡くなっている。母は諏訪御料人であることから、当初は諏訪家を継ぎ、高遠城主諏訪四郎勝頼と名乗っていた。信玄亡き後、武田家を相続して、武田四郎勝頼となった。家臣の多くは、勝頼は諏訪氏とみなし、正当な当主として認めていないのである。勝頼は、戦いに勝って父を超え、正当な当主として威厳を示したいという、焦りがあった。信玄から仕える老臣の意見もそこそこに、大勝負に出たのである。名立たる家臣は、内心名誉ある死に場所を得たりと、ほくそ笑むのであった。
公家巫女から貞昌への文には、長篠城を名だたる武将が注目している。奥平軍は、籠城すれど刃を交えていない。武将は刃を交えて
戦うのが本分である。刃を交えることなく、ここで出過ぎてはことを仕損じる。手柄を独り占めするような事態にならないように心するでおじゃる。との指南であった。いかなる時も周囲に気を配れとの戒めであった。
貞昌は、右足を左腿の上にのせる。右手を左手で包むように握る。顎を引き頭を前後左右に傾かないようにする。姿勢をただし呼吸を調え、雑念を消して、無の境地を会得するまで無心になる。一人静かに熟慮する。家康そして信長に、共に戦っている臨場感を与えるにはどうしたらよいのか。熟慮の末、救援使として、強右衛門を岡崎城に走らせたのである。事前の連絡もなく、ボロ着れを纏った足軽ふぜいが名乗っても、大手門を通すことはない。それも、家康に目通りなどと、たわけたことを言う奴だと、門番が呆れていると、「勝商(強右衛門)か。無事でなにより。」と言って手招きされる。何と、待ち受けていたのは貞能である。強右衛門は、貞能を介して家康に目通りを許され、無事に役目を果たしたのである。因みに、貞能は、家康の母於大の方を通して親族にあたり、徳川家臣団も敬意を払う武将であった。貞能は、長篠城一帯の地形を熟慮しており、家康に願い出て、酒井忠次の鳶ヶ巣山砦の奇襲隊に属し大いに戦う。貞能はこれを最後に、隠居するのであった。隠居しても、奥平家の行く末を思い、主君である家康や、信長、秀吉などに、信昌(貞昌)が、必要以上に警戒されないように、評判・信望が失墜しないように、心を砕くのであった。これが正しく、親心というものである。時がたち、天正十八年(一五九〇年)小田原遠征の秀吉が、額田郷長沢村に逗留した時に、貞能を召し出して、長篠・設楽原の戦話を所望された。貞能は、話し上手でその人柄を気に入られ、上洛を促される。上洛後は美作守に叙任され、秀吉の相伴として二千石を賜る。慶長三年(一五九八年)奥平家五代当主としての役目を終え、伏見にて波乱の人生に幕を下ろした。享年六十二歳であった。
さて、救援使を務めた強右衛門は、足が鳴子に触れて、見つかり捕獲される。勝頼は、戦場をうろつく怪しい者を捕らえたと聞き、すぐさま見分する。ざんばら髪で、ふんどしが露わな、みすぼらしいなりをしている。よく見ると鼻水を垂らしているではないか。これは、武田軍を欺く強右衛門の名演技であることを見破る者はいない。「こ奴、何者ぞ。」と勝頼が聞くと、「貞昌が家康のもとに遣わした足軽でござる。」と言う。勝頼は、何だ足軽かと、強右衛門を見た目だけで、見下したのである。さればこ奴を、長篠城内から見通しの良いところで、磔にすれば、武田軍の士気は上がり、奥平軍の士気は下がるであろう。そうだ、良いことを思い付いた。「岡崎からの援軍は来ない。待っても無駄じゃ。」と叫べば、見逃すばかりか、望み通りの恩賞を遣わすと、揺さぶりを掛けてきた。強右衛門は熟慮した。これに屈すれば、裏切り者の汚名を着せられ生き恥をさらす。誠のことを叫び、武士として本懐を遂げる。それとも、何もせず犬死するか。だか強右衛門は、長篠城を脱出した時から、覚悟は決まっていた。強右衛門は、「あい分かったでござる。恩賞頼みまする。」と頭を下げた。
すぐさま、長篠城からよく見える所に、磔台に括われた強右衛門の姿がさらけ出された。息を大きく吸って、対岸の城中に向かい大声で、「殿様〜 皆の衆〜 強右衛門でござる〜 援軍は〜 来る! もう少しの辛抱ぞ! 勝頼、武田軍など何者ぞ! 援軍来る〜 」と叫んだ刹那。長槍が強右衛門の脇腹を貫く。カッと体中が熱くなる。口が開かず声が出ない。何も見えなくなる。意識が遠のく中、帰りを待つ妻と息子の顔、そして母の顔が…………。
貞昌以下城中の者が「勝商(強右衛門)〜」と叫ぶ。号泣、勝頼、武田軍を罵倒する声が飛び交う。貞昌も、「勝頼、許さじ!」と叫ぶ。この時、勝頼は、自分の愚かさにやっと気付く。それは、強右衛門に武士として、最高の檜舞台を与えてしまったことである。奥平軍の士気は上がり、武田軍の士気が下がることになってしまったことは、言うまでもない。してやられた。勝頼は、強右衛門をそして奥平家臣団を侮っていたのである。家康が、奥平軍を認めるのは軍事力だけではない。奥平軍は、貞昌以下足軽まで、素養を身に着けているのである。切羽詰まった時でさえも、機転を働かせる知力、胆力が身に備わっているのである。これこそ、公家巫女が長年に渡り育ててきた賜物なのでる。
後世のことであるが、忠明が始祖となった奥平松平家であるが、強右衛門の忠義を忘れることなく、鳥居家十三代商次を家老として優遇するのである。強右衛門の墓所は、新城有海の新昌寺と、作手郷鴨ケ谷村の甘泉寺にある。享年三十六歳であった。
● 設楽原に銃声響く
さて、強右衛門のこともあるが、これで一件落着ではない。戦は、これからである。貞昌は、織田・徳川連合軍が間近に迫っていると聞き、家康に援軍派遣のお礼を言上するため、答礼使を選ぶことにしたのである。しかし、首尾よく脱出出来たとしても、答礼した時点で、任務終了である。参戦したくとも戦いは始まっており、徳川軍の後方にいるだけで、居場所がないのである。戦いが終わっても、無情にも忘れ去られる運命を背負うことになるであろうことは、歴然である。それを承知で声を上げる者は誰もいない。だが、この答礼使こそ、家康が貞昌という武将を高く評価する所以である。満を持して、真面目を絵にかいたような武士鈴木金七郎重正が名乗り出る。同月十八日弾正山の本陣に家康着陣の知らせが届く。早速、答礼使として金七郎を派遣する。しかし、強右衛門のこともあり、一段と包囲網が厳重になった長篠城包囲網を、かいくぐり無事脱出する。そして、家康に会い、答礼使としての役目を終えたのである。
設楽原での戦いは、長篠城を包囲している武田軍一万五〇〇〇に対し、織田・徳川連合軍三万八〇〇〇で対峙するのである。極楽寺山の信長本陣での軍議によって、奇襲隊が長篠城の背後に回り込み、鳶ヶ巣山砦への奇襲を行い、連吾川に押し出すことになった。連吾川の右岸に、騎馬隊を防ぐための馬防柵を、二〇〇〇メートルの長さに、帯状に三筋設ける。三〇〇〇挺を持つ鉄砲隊を、三列に編成する。そして、一筋目の馬防柵の内側に、一列目の鉄砲隊が銃撃し打ち終われば、すぐさま二列目と入れ替わり打つ。二列目が打ち終われば、すぐさま三列目と入れ替わり打つのである。仮に、一筋目の馬防柵が突破されれば、二筋目の馬防柵の隙間から内側に回り込み、反転攻撃するのである。この時、信長と家康は、奇妙な光景を目にする。信玄から仕えていた名だたる武将が、怯えることなく、というよりも、勝頼を見限り、死に場所を得たりと突進してくるように思えたのである。
五月二十一日午前五時ころから始まった戦いも、午後一時ころには武田軍が総崩れとなり、勝頼が敗走する。織田・徳川連合軍は、すかさず、追撃体制に入った。長篠城の貞昌以下籠城兵も、城門を開き追撃を始める。
強右衛門の壮絶な最後を知った公家巫女は、家康が、強右衛門の妻子を召しだすであろうことを予見して、何度も繰り返し、立ち振る舞いを教える。戦いを終えた家康は、すぐさま、強右衛門の妻子を召し出す。足軽の妻子が、見事な立ち振る舞いで、挨拶するのを目の当たりにして、「あやつ(貞昌)は、文武両道に優れし強者よのう」と呟く。
さて、金七郎であるが。愚直で生真面目、口が重く手柄めいたことを一切言わない。主君の命に従い役目を無事果たしたにもかかわらず、孤立しているようだと、信昌の耳に入る。そこで、公家巫女に指南を求めると、「日の目を見ない忠臣をみす置くことは、武門の名折れでおじゃる。人の上に立つ者の心得は、礼節でおじゃる。武士としの本分が立つように、特命を授けることでおじゃる。」とのことであった。そこで、信昌は、戦場となった長篠城や連吾川が一望できる、須長雁峰山(六八八メートル)の裏側に日向洞がある。ここに居を構え、そして、敵味方なく戦死した者を弔うことを命じた。金七郎は「あい分かったでござる。」と言って、信昌の元を去った。この時から、金七郎は、毎日欠かさず、須長雁峰山に出向き、日の出とともに、戦地に向かい、深々と三度拝礼して、狼煙を上げるのである。新城本城にいる信昌は、狼煙をみて、金七郎が達者でいることを嬉しく思うのであった。金七郎のことは、奥平家の子孫に語り継がれて行くのである。こうして、金七郎は、日向洞に大田代村を開き、鈴木家の始祖となった。なお、奥平家はこの忠臣のことを忘れず、忠明が作手亀山城に凱旋したとき、召しだし二〇〇石を与えて、これまでの辛労辛苦を労うのであった。
戦いが終わり、信長は、来密坂に貞昌を召し出し、戦功として、福岡一文字の太刀を授ける。また、信長の一字を与え、信昌と名乗るように命じた。この太刀は後に、信昌が長篠一文字と名を変えたのである。西郷隆盛が一時所持していたという名刀である。家康からは、大般若長光の太刀と、長女亀姫を嫁がせるとのことであった。これほどの太刀が恩賞になったのは、貞昌が、三条宗近作の名刀千鳥丸を所持していると聞きおよび、茶地なものでは、後世の笑いぐさになるということで、特に、配慮されたものである。この二刀は、紛れもなく国宝である。
★ 新城本城築城
貞昌は、長篠・設楽原の戦功により作手、田峯、長篠、吉良、遠江の刑部の新地を賜った。その際に家康から、長篠城は堅固な城ではあるが、要害な地にあるため城下町を築くには、狭隘で不便な場所である。適地を探すがよかろう。と言われていた。主君家康の長女亀姫を娶るのに相応しい、城郭と城下町がを作事・普請しなければならない。家臣も増えて武家屋敷を配置しなければならない。更に鉄砲・刀剣調達師、鍛冶屋、具足師、軍馬調教師、施薬院などの敷地も確保しなければならない。これらの条件を満たし、城下町を縄張りするには、何処が良いのか。
新城古城一帯の、富永荘郷ケ原(郷ケ原)は、別所街道と伊奈街道、挙母街道が交わる交通の要衝である。信州方面の物資を馬の背に乗せて郷ケ原まで運び、郷ケ原で川船に積み替えて豊川を下り豊橋方面に運ぶ。豊川上流の最後の船着き場で、陸運と河運の結節点という地の利を得た将来性のある土地柄である。城郭、城下町を普請する適地は、奥三河の玄関口であり、豊川の水運と伊奈街道の陸運が入れ替わる要衝である郷ケ原において、他にない。予てから、公家巫女から指南されていたことである。
新城本城は、豊川、下川、幽玄川を遠巻きの水堀として最大限に利用する。そして、土塁や空堀に加えて、臼子川、庚申川、幽玄川、田町川、半場川を、自然の水堀として活かし、本丸を囲むように二の丸と三の丸を配置した平城である。また、一朝有事に備え、機動力を高めるため、新城本城の周囲に家臣の屋敷を配置する。また、伊奈街道に「鍵の手」を要所に設けるなど、守りに強い防御体制を整える。武士のための城下町としてではなく、物流を盛んにするため、船着き場を整え、伊奈街道を三頭だての馬車や荷車が行きかえるようにする。また馬の止め置き場や行商人の宿場を整える。人心の拠り所である神社仏閣の配置のみならず、水路を隅々まで巡らせ、暮らしやすい快適な町割りを目指す。特に、亀姫が安心して子育て出来るように、学び処を設けるなど余念がない。郷ケ原には、奥平一族郎党は言うに及ばず、作手郷と額田郷で追従する者たちが、移り住むのである。後に言う「雁峰越し」である。片田舎でしかなかった郷ケ原が、瞬く間に、城下町としての体裁を整え、生まれ変わっていくのである。ここに、山湊馬浪といわれるほど賑わう新城の礎ができたのである。
さて、長篠城であるが、敵の手に落ちないように廃却する。新城本城の普請の短縮にもなることから、長篠城の櫓門などを移築して再利用するのである。こうして、翌年天正四年(一五七六年)九月新城本城が完成する。亀姫の輿入れであるが、大戦の後だけに、治安不安定なことを心配する家康の心中を察して、七月には秘密裏に郷ケ原に入ったのである。この任に当たったのは言うまでもなく、見聞衆の風神と雷神である。公家巫女は、信昌に、家康に最大限の誠意を表すことが、この後、奥平家の存亡に繋がるほど、重きことになる。肝に銘ずるようにと指南する。そこで信昌は、新城本城が竣工するまで、豊川の対岸で新城本城と城下町が一望できる腕扱山(標高一二八メートル)に、姫御殿を新築して、亀姫を出迎えることにした。その傍らには、公家巫女の神楽殿を配置して、万全の体制で望むのであった。
また、同時に耳聞衆の本拠地も、獅子ケ森から腕扱山の背後にそびえる風切山(標高三五七メートル)に移した。腕扱山の眼下には滔滔と流れる清流豊川がある。この豊川と腕扱山の山麓を別所街道が走っている。また豊川の岸辺には、山桜の巨木が点在している。川舟からしか見られない蜂の巣岩なる奇岩があり、風光明媚な景勝地である。まるで戦いの世から抜け出たような穏やかな気持ちにさせられる。この自然環境が、亀姫の心を癒してくれるであろうことを、信昌は願っているのである。
時が来て、亀姫を出迎えたのは、公家巫女と娘巫女、児女巫女そして、亀姫の乳母となるべく育てられたお菊に侍女たちである。亀姫は、公家巫女を始め出迎えた者の身なり、そして、真新しい姫御殿の玄関に設けられた水琴窟の音色や、居間の空薫、庭に設えた鹿威しなど、公家巫女から侍女にいたるまで身のこなしや話し言葉も武家とは違う。公家そのものであり、気に入ったのである。
亀姫はまだ十七歳、娘巫女も同じ年で甘いものが大好きである。早速、米麹甘酒を飲んで自然と顔がほころぶ。遅い昼食をとって、物見櫓に登る。新城本城の普請の様子が一望できる。まだ望遠鏡が無い時代である。娘巫女が両手を出して、人差指と中指に親指をあてて、両手を重ねて筒のようにする。その筒を見たい処に定めて覘くと、遠くのものがよく見える。亀姫は、「あれ、まぁ~。」と声を上げ、城郭や城下町の普請の様子を見守るのである。そして、公家巫女に母の面影を見て、少しずつ心を開くのである。亀姫と娘巫女そしてお菊は、三姉妹のように過ごすのであった。
信昌は。亀姫のことが気になるが、無事に姫御殿で過ごしていることを知り、安堵する。 戦後処理で最も頭の痛いのが論功行賞である。これは、当主の専権事項である。誤ると不平不満などから、内部崩壊しかねない。戦場となった青田や畑が荒れた保障、巻き添えとなった者がいないか、いたらその者や家族への保障、馬防柵に用いた用材の保障だけに限らず、戦死者を敵味方なく、丁重に葬るよう名主に伝えるなど、戦後処理は山積みである。一時避難していた小屋久保から、竹広に帰った里人は、村の復興と同時に、勝敗の別なく戦死した武将を、戦死地に埋葬する。武将以外の一六〇〇〇人余の戦死者を葬るため、大小の穴を掘り、戦死者の多かった武田軍を、大塚に、織田・徳川連合軍の戦死者を小塚に埋めて弔ったのである。後に、この塚を、誰言うことなく信玄塚と呼ぶようになった。この信玄塚を築いてまもなく、大量の蜂が発生して、通行人や里人は難儀した。これは武田軍の亡霊が成仏できず、さまよっているためだと信じた里人は、燃え盛る長さ三メートル、直径八十センチメートルの大松明を抱えて、鉦や太鼓のお囃子にのって、八の字を描くように振り回す「火おんどり」を行って供養するのである。
今日も、朝焼けから郷愁漂う夕焼けまで、信昌は、新城本城、城下町の普請に、そして、他国の世情を伝えるおびただしい文に目を通すなど、激務をこなしていた。
★ 亀姫様
天正元年(一五七三年)八月家康から、長女亀姫を貞昌に嫁がせるとの誓書が届いた。亀姫が輿入れしたのが天正四年(一五七六年)であるが、三年後には、母築山御前と兄元康が、父家康の命により処刑されたという、何とも痛ましくも悍ましい出来事が起こる。それは天正七年(一五七九年)のこと、信長に、築山御前と信康が武田家に内通しているとの徳姫からの訴状が届き、信長から家康に、二人の処刑を要求される。家康は身を切る思いで、家臣に命じて佐鳴湖畔で築山御前を手にかけ、二保城(天竜)で信康を自害させる。これを知った、亀姫の心理状態は最悪となった。
信昌は、主君の娘を娶った者として、背筋が凍りつく思いをした。人の振り見て我が振り直せという。明日は我が身か。痛烈なる教訓となったのである。戦場は常に命がけであるが、信昌は、帰城するに先駆けて、亀姫への手土産を、終生決して忘れることはなかった。
亀姫の祖父は、駿河国持船城主関口氏純で祖母は義元の妹である。父家康が今川氏から独立したため、その責めにより、永禄五年(一五六二年)駿府屋形町の屋敷にて切腹する。しばらくして、義元の妹でもある祖母も体調を崩して亡くなる。亀姫が生まれたのが永禄三年(一五六〇年)であるから、氏純は、二年近く孫娘を抱きながら、幸せな生涯を願い「幸」と呼んで可愛がっていたという。
家康は、この前年に丸根砦の戦いに参戦している。そしてこの年、義元が桶狭間で休息中に信長の奇襲で戦死すると、岡崎城に帰城して、母駿河御前(築山御前)、兄元康、亀姫は置き去り状態となった。永禄五年(一五六二年)に、織田軍と徳川軍が同盟(清州同盟)を結ぶに至り、関口親永はその責めを負い切腹となったのである。
・永禄十年(一五六七年)兄の信康が信長の娘徳姫と祝言する。
・元亀元年(一五七〇年)母駿河御前、兄元康、亀姫はやっと、岡崎城に入城を許される。駿河御前は、岡崎来住総持寺の近くの築山で暮らすことになり、築山御前と呼ばれるようになった。
・家康が、居城を岡崎城から浜松城へ移す。
・天正七年(一五七九年)徳姫が築山御前と信康の弾劾文を信長におくる。
・佐鳴湖畔の小藪村にて八月築山御前が、九月には信康が二俣城で切腹させられる。亀姫は、衝撃的な体験をしたのである。
亀姫は、三河人気質ともいえる、せっかちで融通が利かず怒りっぽく頑固者、愚直で垂直志向の家康家臣を快く思っていなかった。家康家臣にしてみれば、築山御前親子は、さんざん苦労を舐めさせられた今川氏一門である。頭なぞ下げるものかというのが、本心であっても仕方のないことであった。
★ 亀姫の乳母お菊
亀姫は、信昌に嫁ぐことを、一方的に決められ、まるで、戦利品のような扱いに、屈辱的な気持ちを抱いていた。天正四年(一五七六年)七月、信昌に嫁ぐ亀姫の精神状態は不安定そのものである。心の底から笑ったこともなく、いつも憂鬱である。見知らぬ郷ケ原という片田舎の信昌に嫁ぐのである。その心境はいかばかりか。家康が愛でる亀姫を、御慰めして心を開くことができるかどうかは、奥平家にとっては合戦と同様、お家の大事である。また、亀姫に随行する侍女や側近とも、和やかに接することができるかどうか。頭の痛いことである。そこで、公家巫女は、亀姫の乳母を選ぶことを、信昌に指南する。
亀姫の乳母は、単に乳を与えるだけではない。奥平家の子息・息女の人格形成に最も関わる時期に、お乳を与えるのである。子育てを通して、育ての母となるのである。その大役に相応しい女人は、聡明だけでは務まらない。
・健康で、底抜けに明るい人柄であること。
・子供に好かれる容姿で、子供好きであること。
・目上の者でも媚び諂うことのない、強い信念があること。
・頑な心を和ませ、かゆいところに手が届くような、真心を持って接することができること。
・亀姫に生涯に渡り寄り添うことができること。
公家巫女は、奥平家家臣を問わず適齢期の娘で、乳母に相応しい女性を選び出し、四〜五人と接見する。得意なるものを問うと、学問、琴、笛、手踊りなど、どの娘も甲乙付け難い。気になったのは、お菊という娘である。娘の父親は、酷い肩こりとのこと。そこで、血行をよくし疲れを癒すため、指圧・お灸を日常的に行っているという。天真爛漫の性格で、笑顔がとてもよい。乳母をお菊に絞り込み、武家の行儀作法のみならず公家としての素養を授けることにする。また、鍼灸を深く学ばせるため、曲直瀬道が著した啓廸集を渡す。お菊は、公家巫女の期待に答えて、寝る暇も惜しんで学ぶのであった。公家巫女が、「お菊の生きがいは、なんでおじゃる。」と問えば、「亀姫様です。」と答えるほど。全身全霊で仕えることになるのである。因みに、お菊の夫は、亀姫の護衛隊長として、子供は亀姫の子息のお小姓、息女の側近侍女として、終生お仕えすることになるのである。
お菊は、亀姫の声や、肌の感じ雰囲気から心労が鬱積しているように感じる。見知らぬ土地柄で不安な様子である。岡崎からの亀姫付きの侍女に訊ねると、肩こり、頭痛などで気分がすぐれないとのことである。許しを請うて、桶にお湯を入れて持ってこさせ、手を温めてから、亀姫の手のひらの指圧を試みた。気分も和らぎ、お菊を気に入り、乳母というよりも側近として、側に置くのであった。
★ 九八郎とお幸
さて、亀姫は、暇に任せて、物見櫓に登って遠見をしていると、入船から川船に揺られて此方に渡ってくる者がいる。両手で筒を作り覗いてみると、供の者を従えた若武者である。
信昌は、多忙を極めているが、亀姫のことが気になってしょうがない。亀姫はというと、岡崎を立つとき、父家康に、「田舎者の荒くれ者には嫁ぎたくない。」と駄々を捏ねる。すると家康は「会ってみれば分かる。」と微笑むのみであった。傍らで母築山御前は、娘の気持ちが痛いほど分かるのだが、黙って見守るしかなかった。亀姫は、事前に公家巫女から、信昌の人柄を聞いていた。特に心に残ったことは、人質となり、処刑されたものを思う、脇差事件のことである。しかし、長篠城を守り切った、鬼の様な形相をした、田舎者としか思えないのである。戦うことしか能のない無骨者で、ぞんざいな扱いをされるのではないかと心配している。やって来るであろう信昌を待つ亀姫は、立ったり座ったり、気ぜわしい。婚礼前であるから、わらわが上座か信昌殿が上座か。立ったまま気持ちが揺れ動くのであった。側近の侍女が、「姫様、落ち着かれなされませ。」と言ったとたん、「御免」の声と同時に、亀姫が背にした襖が開く音がする。亀姫は振り向きざまに「誰じゃ。」と言いかけて驚いた。顔立ちはといえば、鍛え抜かれた身体とは掛け離れた美形である。涼やかな立ち振る舞いと優しい眼差し、穏やかな語り口である。そして、甘い香がほのかに漂う。
予想外の出来事で気が動転して、その場にへたり込んでしまった。「よくぞ参られた。信昌である。」と、下座で武者座りの信昌が浅礼する。亀姫は、「父上様が言っていたのはこのことであったか。」と、嬉しさが込み上げて来た。亀姫の一目ぼれである。侍女が、「姫様」と、お止めする間もなく、亀姫は、挨拶も忘れ立ち上がるや否や、信昌に近づき左手を出させた。左の手の平に刀傷がある。これが、公家巫女が言っていた刀傷か。一族郎党を思う、心根優しい信昌の証しなのでる。「憎らしい男じゃ。わらわの心を奪うとは。」と思った瞬間、触れていた手をとられ、信昌が亀姫を引き寄せた。亀姫は、「アッ」と声を上げる間もなく、貞昌の逞しい胸の中にいた。
築山御前の気質を受け継ぐ亀姫である。容姿端麗なのは言うまでもない。信昌に「わらわ一人だけを慕ってほしいのじゃ。」という。こうしたい。こうありたいという意志が強く、勝ち気で天真爛漫な亀姫を信昌は気に入った。子犬の様な可愛らしい声で、訴える亀姫に一目惚れし、気が付けば抱き寄せていたのである。お菊と岡崎からの侍女は、隣の部屋に移りつつ、目配せして、「お殿様、今宵、お泊り〜。」と殿中に告げるのであった。夕餉の支度など、厨房は大忙しとなった。信昌は、誰に対しても偏見を持たない。家族のこと。家臣のこと。武将のこと。戦場でのこと。領土統治のことなど。亀姫が知りたかったこと。だれも教えてくれなかったことを包み隠さず話してくれる。亀姫は、夢中で喋り、夢中で聞くうちに、祖父が「幸」と名付けたかったと側近の者が言っていたことを思い出す。信昌の幼名が「九八郎」であることを知り、亀姫はとっさに、幼名は「幸」であると言ってしまった。そして、二人でいる時は、幼名で呼び合う仲になったのである。
なお、駿河御前(築山殿)には、姉妹の様に接していた、氏親の娘吉良御前(お田鶴の方)がいた。幼名を亀姫という。二人は、築山殿に娘が生まれたら亀姫に、吉良御前に娘が生まれたら鶴姫と名付けることを約束していたのである。永禄三年(一五六〇年)亀姫が生まれた年に、吉良御前が引馬城主となる。信長は、永禄五年(一五六二年)叔母のおつやの方を岩村城主遠山景任に嫁がせるが、元亀三年(一五七二年)景任が病死したため女城主となる。戦国時代は、血縁という安全保障が張り巡らされていたのである。
「公家巫女とは如何に。」と亀姫が尋ねると「神のみに仕える者ぞ。」とそっと耳元で囁く。話のさなかにもピュと草笛の音がする。信昌が厠に立つことが何度かあった。常在戦場である。各方面からの夥しい情報がもたらされる。片時も気を抜けない。気を抜けば命取りとなるのである。いつしか、部屋の雪洞の明かりが消える。時が流れ、夜空がしらじらして、雄鶏が鳴き出す前に、信昌は、腕枕をはずし亀姫の寝顔を見詰めながら部屋を後にする。二人にとって、忘れがたい夜となったのである。しばらくして、家康から豪華な嫁入り道具が、新城本城に届いた。この日、娘巫女が、三条西家からの文により、児女巫女と侍従の伝蔵を伴なって上京した。さて、出沢村は、馬場信房(信春)戦死地である。この近くに鮎滝という名所があり、笠網漁という特別な漁法で捕
えた、若鮎・子持鮎を、名主の娘お近によって届けられた。早速お菊が、七輪を用意して炭を起こす。皆は、こんなに暑い日に七輪かと、不思議がる。でも、鮎は、焼きたてが最高に美味しいのじゃと言って、鮎の尾とひれに化粧塩を付けて、鮎の塩焼きである。これには、亀姫も大満足であった。
因みに、側室のことであるが、家康十九人、信長六人、秀吉二十人というこの時代にあって、信昌は、生涯側室を置くことはなかったのである。中むずましく、天正八年(一五七七年)新城本城で、家昌(下野国宇都宮初代藩主)、家治(上野国長根藩主)、忠政(美濃国加納藩主)、忠明(播磨国姫路藩主)、幸姫(武蔵国騎西藩主大久保忠常正室)を産み育てた。長女の名は、亀姫の幼名をとの信昌の意向で、幸姫と名付られたのである。
さて、天文十一年(一五四二年)のこと、家康の母於大の方が、鳳来寺に籠って子が授かるようにと祈願すると、満願の日、枕元に峯薬師がたち「十二神将のうちの真達羅大将を世継ぎとして授ける」とのお告げがあった。そして、十二月二十六日、寅年の寅の日の寅の刻に竹千代(家康)を出産したのである。このことを、公家巫女から聞いた亀姫は、鳳来寺に祈願のため詣でることにした。鳳来寺山には、ブッポウソウ(仏法僧)と鳴く、コノハズクが生息していた。公家巫女も亀姫も、鳴き声を、是非聞いてみたいものだと楽しみにしている。
お出かけは、牛車(八葉車)である。鳳来寺までは、大小幾つもの川を渡ることになる。牛はそれぞれの場所で調達することができる。しかし、牛車はそうはいかない、事前に、北畠衆に用意させたのが、組み立て式の牛車である。市女笠の侍女を従えて門谷に来た時、亀姫は、信昌が言っていたことを思い出した。勝頼が人質としていた仙千代(仙丸)、虎之助、於フウの処刑地が、門谷の金剛堂前付近であると聞いた。亀姫は、墓碑があれば、手を合わせたいと言う。しかし、祈願の目的を思うと、いぶかる者もいたが、公家巫女の口添えもあり、手を合わせ冥福を祈ったのである。出迎えた門谷の名主から、子守神社を案内され、参拝する。いよいよ、参道を登り始めるのであるが、大人数で騒がしく、ブッポウソウの出番もなく、どこかに隠れてしまい、声を聞くことは出来なかった。そして、鳳来寺に詣でて、祈願を終え、無事に帰城したのである。このことを知った信昌が礼をいうと、「奥平家の正室として当然のことじゃ。」と、立場をわきまえた広い心に関心もし、惚れ直した信昌であった。夏も終わりに近づき、川上村からウナギの献上があった。亀姫が、好物の蒲焼を口元に運ぶと、吐き気をもよおす。お菊が、「姫様、まさか」と言って両手の指を折って数えてみる。亀姫の耳元に近づき、「腕扱山では」と囁く。亀姫はそっとお腹に手を当てた。早速、亀姫は、「信昌殿は最高の殿方じゃ。父上様よりもじゃ」とのろけとも受け取れるような文を、父家康に送ったのである。仲睦まじいことを、父家康に示すことも、正室としての役目であることを心得ているのである。門谷の子守神社と鳳来寺への祈願の甲斐もあって嫡男を授かった。不思議なこともあるもので、京から戻った娘巫女も、お菊も、同じ年に子供を授かったのである。産後は体を労わるため、湯谷温泉郷に湯あみに出かけることを進められる。泉質も肌に合い、川魚料理は、季節ごとに工夫され、見た目も味も申し分ない。特に、温泉に入りながら眺める板敷川の風情がとても気に入っている。
亀姫は、公家巫女の進めもあって、腕扱山の姫御殿から、子供が生まれると旗を揚げる。出陣のときも旗を上げ、戦勝祈願をする。凱旋の時は、一際大きな旗を上げて、御城下に知らせるのである。亀姫は、長男が生まれた二年後、二男が生まれる年に、母と兄を亡くしたのである。亀姫は身も心も、衰弱しきっている。信昌は、献身的に支える。お菊も、食べ物に気を使い、綺麗な切り花を活けたりして、気分転換を図っているのである。貞昌は、亀姫の心痛を気遣いながら、共に冥福を祈るばかりである。それを察した公家巫女は、供養寺を開基して弔うこと指南する。心しなければいけないのは、信長の知るところとなれば、あらぬ疑いを掛けられかねない。そこで、新城本城の北方を防御するため、軍事上必要であること。長篠・設楽原の戦いの戦死者を、供養するため、亀姫が開祖となり建立したのが、大善寺である。なお、秘密裏に、御本尊の背後に設けた隠し間に、母築山御前、兄信康の位牌を安置して、供養するのであった。少しでも亀姫の心が晴れればと願うばかりである。
秋も深まったころ、遠江にお祭りなど、求めに応じて、子守歌や暮らしの中で口遊む民謡などを、上手に歌って聞かせる、四姉妹がいることを知る。梅乃が歌を、田乃が琴を、千乃が三味線を、秋乃が舞をするのである。
公家巫女がこれを聞きつけ、亀姫に話すと、嫡男家昌の端午の節句に「ぜひ聞きたいものじゃのう」という。遠江は、長篠城での戦功により拝領した領国であるが、駿河国主義元は亡くなっても、氏真は今だ健在である。あらぬ疑いを持たれぬように、父家康に願い出て、「よきに計らえ」との許しを得て、招いたのである。家中の者が見守る中、歌声が響き渡る。亀姫は、母築山御前が歌ってくれた子守歌を彷彿させるような歌声に聞き惚れた。宴が終わって、四姉妹は亀姫の前に召し出された。梅乃は、乳母のお菊が抱く可愛い若君を拝見すると、即興で歌い始める。若君の健やかな成長を願う亀姫の母心を歌ったもので、聞くもの皆、拍手喝采である。これが御縁となり、姫御殿での内輪の宴に招かれるようになった。四姉妹は、いつも四季のお土産を携えてやって来る。この時期のお土産は、果実は小ぶりであるが甘味の強い「白羽こうじ」という柑橘で、皆喜んで口にしたのである。
天正十八年(一五九〇年)秀吉によって家康が関東に移封されると、信昌が上野国宮崎三万石の大名としてお国替えとなり、十五年
間慣れ親しんだ新城本城を去るのである。因みに、亀姫は、寛永二年(一六二五年)幸せな日々をおくった腕扱山の姫御殿のことを思い出しながら、美濃加納城にて生涯を終えた。享年六十六歳であった。信昌が慶長二十年(一六一五年)に亡くなっているので、十年の間一人で奥平家を見守っていたのである。最後まで寄り添ったのはお菊にほかならない。亀姫の菩提寺は、美濃国加納の光國寺である。三河国新城の大善寺にある、亀姫の五輪塔は、亀姫の没後に、四男忠明が母の供養のために建立したものである。
★ 天目山の戦い
勝頼は、日川渓谷を登り棲雲寺に落ち延びる。しかし、織田軍に包囲され、家臣十一人と伴に自刃する。ここに、武田氏は滅亡したのである。享年三十六歳であった。
★ 本能寺の変 天正十年(一五八二年)
安土城にいた光秀は、信長に家康の饗宴役を解かれ、毛利軍と交戦中の秀吉の援軍を命じられる。そして、丹波亀山城から柴野の陣を発した時、「敵は本能寺にあり。」と家臣に告げて、本能寺の信長を奇襲するのであった。覇王と呼ばれた信長は、人間五十年 天下のうちをくらぶれば 夢幻の如くなり、一度生を得て 滅せぬものの あるべきか、これを菩提の種と忠ひ定めざらんは、口惜しかりき次第ぞ と言い残した。享年四十九歳であった。
★ 伊賀越え
安土城で、家康は信長の盛大な歓迎の宴を受けた。そして、信長に勧められて堺の町を見物中に、信長が光秀に討たれたことを、見聞衆から知らされる。驚き慌てるが、見知らぬ土地で、従者も少なく、弔い合戦も出来ない。武士として、主君信長の後を追って自決する道もあるが、「いや、ここは得意の逃げるが勝ちじゃ。」と、意を決する。すぐさま、伊賀国を越えて船で、三河国に戻る経路をたどることにする。そして、鹿伏兎を越えて、伊勢白子に出る間道にある音聞峠に来た時のことである。落ち武者狩りが、大岩に身を潜めて待ち伏せていたのである。火縄銃の引き金に人差指を当てたその瞬間、鷹の鋭い爪が、落ち武者狩りを襲った。見聞衆の風神である。家康はまたしても鷹に救われ、九死に一生を得たのである。
★ 山崎の戦い 天正十年(一五八二年)
信長の死を知った秀吉は、備中高松城から驚く速さで、京に到着した。後に言う、中国大返しである。そして、京の山崎から勝龍寺城一帯で秀吉軍と光秀軍が激突する。戦況不利とみて光秀は敗走する。失意の中、伏見を目指し小栗栖峠を通ったところで、落ち武者狩りにて絶命する。信長を討ってから、わずか十一日目のことである。享年五十五歳であった。
後日、清州城にて、織田家の継嗣問題や所領配分を話し合う。ここで、秀吉と勝家の対立が避けられないことになったのである。
★ 賤ケ岳の戦い 天正十一年(一五八三年)
勝家の本陣は、内中尾山にある。秀吉は本陣を木の本に置く。勝家方の佐久間盛政軍が、余吾湖付近で野営しているところを、秀吉軍
が総攻撃をかける。敗退する勝家軍を追撃して、逃げ込んだ北ノ庄城を包囲する。これまでと観念した勝家は、天下一の美人とうたわれたお市の方とともに、自決の道を選んだ。しかし、三人の娘は、勝家が不憫に思い、富永新六郎に託し、秀吉のもとに届けさせたのである。この三姉妹は、浅井長政とお市の方の姉妹である。後に、茶々は秀吉の側室、お初は京極高次の正室、お江は秀忠の正室となるのである。
★ 小牧・長久手の戦い
天正十二年(一五八四年)小牧山の家康は、犬山城の秀吉とにらみ合いを続けていた。そして。小牧と田楽で対峙した。思慮深い大垣城主池田恒興が、手薄となっている岡崎城を奇襲してはどうかと進言する。
この謀は、見聞衆の知るところとなり、直
ちに家康にもたらされた。家康は即座に池田隊を追撃して、長久手の岐阜岳で打ち破った。秀吉がやって来たころには、家康は小幡城に入城しており戦いは終結した。因みに、この戦いであおりを食ったのが、長久手の戦いの緒戦となった日進岩崎城の戦いで、池田隊により丹羽氏重が守る岩崎城は落城したのである。
★ 小田原城攻め 天正十八年(一五九〇年)
家康は、秀吉に先鋒を勝って出る。最後まで徹底交戦したのが、韮山城主氏規である。これを、家康が説得して開城させる。こうして、北条家は滅亡したのである。
★ 家康江戸城入り
秀吉は、小田原城攻めで戦功抜群の家康に、関東八国と近江、伊勢など二百四十万石を与える。これは、家康を関東に封じ込めるという意図があったのである。家康は、天正十八年(一五九〇年)秀吉の命で江戸城に入った。
★ 上野国宮崎 天正十八年(一五九〇年)
家康の関東国替えに従い、信昌は、上野国甘楽郡宮崎三万石を拝領する。
★ 太陽の子秀吉死す 慶長三年(一五九八年)
天文六年(一五三七年)生まれの尾張国中村の木下弥右衛門の子、日吉丸(秀吉)は、寧々に看取られ、伏見城にて波乱の生涯を閉じる。享年六二歳であった。
「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことも 夢のまた夢」という辞世の句を残す。
★ 関ヶ原の合戦
慶長五年(一六〇〇年)家康は桃配山に本陣を置き、信昌を前備とする。物見の者があわただしく本陣に出入りしている。戦国乱世で優位な者に付くのが生き残るための常套手段である。小早川秀秋とて例外ではない。天下分け目の大戦の勝敗を、この若武者が握っている。傍観を決め込んではいるが、石田三成陣営から、出陣の軍令が届くも、決断出来ずにいる。「どうしたものかのう。」甲冑の中を冷汗が流れる。このままでは、時を逸する。信昌は家康に駆け寄り、合戦に連れ歩く愛鷹「陣仏」に目配せする。家康は、賺さず見聞衆の鷹操を召し出した。
秀秋は、本陣の床几に腰をおろし、放心状態である。その刹那、上空でキーキッキッキツと鋭く甲高い声がする。秀秋の黒目に鷹の姿が映った次の瞬間、秀秋目がけて、鷹が急降下したのである。そして、傍にあった鎧櫃の上に止まった。射撃手が狙いを定めると、床几から転げ落ちた秀秋が「撃つな!」と甲高い声で叫んだ。鷹の足に付けられた布帯に、葵の御紋がある。そういえば以前、家康様に謁見したとき見た愛鷹「陣仏」だと気づく。とっさに、「頭が高い!」と叫び、何故か、一同、陣仏に向かって平服した。家康様は激怒なさっておられる。このままでは小早川家は滅亡。稲葉正成の助言もあり、腹は決まった。秀秋自ら先頭に立ち、松尾山を掛け下り、西軍の大谷吉継の陣を目がけて突進していったのである。
こうして家康は、関ヶ原の戦いで勝利する。
そして、京の統治、朝廷公家の監視、西国大名の監視、五畿内、近江丹波播磨八か国を総括して、帰還する。この時、京都所司代を設けて、信昌を初代所司代に任命したのである。信昌は、公家巫女の指南により、所司代としてその役目を恙なく勤め上げたのである。
★ 美濃国加納十万石 慶長六年(一六〇一年)
信昌は、関ヶ原の戦いの戦功により、小幡三万石から美濃国加納十万石に転封する。★ 作手亀山城に凱旋 慶長七年(一六〇二年)~慶長十五年(一六一〇年)
信昌の四男忠明は、天正十六年(一五八八年)家康の養子となり、松平清匡と名乗る。文禄元年(一五九二年)上野国中根七〇〇〇石、慶長四年(一五九九年)秀忠から忠の一字を賜り忠明と名乗る。慶長七年(一六〇二年)九月三河国作手藩一万七〇〇〇石を拝領する。作手藩主として、久々に奥平のお殿様が作手亀山城に凱旋するのである。天正元年(一五七三年)から慶長七年(一六〇二年)にわたり、城主のいない状態であったが、村中総出でお掃除をして、お出迎えするのである。皆が見守る中、駿馬にまたがった忠明が姿を現わすと、最高潮となりお祭り騒ぎである。
本丸の広場に里人も集まり、設えた臼と杵で、男衆と女衆が調子を合わせて餅をつく。そうか、今日は「夫婦円満、餡餅の日か。」、忠明はサッと鉄扇を開き、高々と差し上げて「皆の者大儀」と声を上げる。そして、旧功を賞して鈴木金七郎重正に二〇〇石を与えたのである。なお、空城となっていた作手亀山城を生田彦右衛門が守っおり、その労に報いるため太刀を授けるのであった。そして、凱旋を記念して、作手亀山城と清岳台の御城下が一望できる文珠山城の郭に、水郷の里に相応しいブナの木を手植えしたのである。
★ 千姫誕生 慶長二年(一五九七年)
父は二代将軍秀忠、母は浅井長政の三女小督(秀頼の母淀殿は実姉)である。慶長八年(一六〇三年)わずか七歳で秀頼の正室となる。千姫は、叔母である淀殿に大切に育てられた。慶長二〇年(一六一五年)大坂夏の陣で、燃え盛る大阪城から救出される。この時、秀頼と側室の娘で、千姫とは十二歳年下の奈阿姫が処刑されることを知り、養女として引き取り育てるのであった。
★ 家康将軍宣下 慶長八年(一六〇三年)
家康は、後陽成天皇により征夷大将軍に任じられる。この後二六十五年間続く江戸幕府を開くのである。元和二年(一六一六年)狸おやじ家康は、駿府城にて死去する。享年七十五歳であった。
先に行く あとに残るも 同じこと 連れてゆけぬを わかれぞと思う
嬉やと 再び醒めて 一眠り 浮世の夢は 暁の空
という辞世の句を残す。
★ 家光誕生 慶長九年(一六〇四年)
家光は、千姫の七歳年下の弟である。元和九年(一六二三年)将軍宣下を受けたとき、「我、生まれながらの将軍ぞ。」と言って、天下に将軍の権威を誇示したのである。
★ 春日局
明智光秀の家臣斎藤利三、娘で於福は、慶長九年(一六〇四年)に乳母を命じられる。慶長十年(一六〇五年)秀忠が征夷大将軍に任じられる。
さて、於福であるが、母方の実家は、美濃国清水城主稲葉重通で、伯父にあたることからその養女となり、親戚の三条西公明に養育される。このことにより、書道、歌道、香道などの素養を身に付けたのである。
その縁で、小早川秀秋の家臣稲葉正成の継妻となる。公家巫女は、於福が、家光の乳母になりたいと願っていることを知る。於福の生い立ちを調べると血族であることがわかり、接見する。二人は、同じ目をしており、意気投合するのであった。寛永六年(一六二九年)於福は、家光の天然痘祈願のため伊勢神宮に参拝して、その足で上洛し御所への昇殿を申し出る。しかし、無官の身分では昇殿できない。三条西実条と養子縁組により、後水尾天皇、中宮徳川和子に拝謁して、春日局の称号を賜る。家光の母崇源院(小督)が亡くなると、春日局は、家光の側室探しに東奔西走するのである。
春日局は、将軍の世継ぎを絶やさないようにと願う。千姫は、将軍家の安寧を願う。公家巫女は、差別のない太平の世の中を願うのである。一見すると、三人の方向性が違っているように思えるが、徳川幕府の安寧という点で、一致しているのである。物事に表と裏があるように、幕府の中枢機能として、公儀を司る幕閣と、将軍家を支える大奥を置き、幕政の二元化によって、御政道を行うというものである。時には、幕閣に勝る大奥と言われるのは、このことである。因みに、幕政を陰で支えた天海大僧正(明智光秀説あり)に対し、天下国家、物事の本質について論戦に及び「参り申した。」と言わしめたのは、公家巫女ただ一人であった。
★ 大阪冬の陣 慶長十九年(一六一四年)
大阪冬の陣は、徳川方と豊臣方との戦いである。本丸への大筒の砲弾がものをいい、和議を結ぶことになった。その条件のひとつであるお堀の埋め立てにあたって、忠明は、家康から埋め立て奉行に任じられ、見事に務めを果たすのであった。
戦後、忠明は摂津大阪藩十万石を拝領して、街の復興に当たった。これより二年前から、安井道頓なる者が自然の川を運河として掘削を始めていた。これに着目した忠明は、この堀川を「道頓堀」と命名して、復興の象徴としたのである。このことが大阪の街の礎となったのである。
★ 千姫救出とお虎
大坂夏の陣が始まった、慶長二〇年(一六一五年)淀殿と秀頼から、千姫の助命嘆願の文が家康のもとにもたらされた。家康が、総攻撃に待ったを掛けていたのは、この時を待っていたからである。公家巫女は、前もって、見聞衆の中でも、女人一番の力持ち、お虎を千姫の侍女として送り込んでいた。燃え盛る大阪城から脱出する時が来た。お虎は早速、千姫を作務衣に着替えさせ、刺し子で作った頭巾と羽織で全身を被い、「よいしょ」と千姫を背負う。上空で羽ばたく鷹を見上げながら、津和野城主板崎直盛が先導する中、お虎は、背負った千姫に「千姫様、しばし御辛抱ですぞ。」と励ましながら、ひたすら走る。大阪城から脱出して、徳川本陣の家康のもとに、たどり着く。お虎は、放心状態で、小刻みに震えている千姫を抱きかかえながら、左手で背中を摩る。右手は、千姫が握ったまま離そうとしない。家康が言葉を掛けても、直視することはなかった。千姫も、乱世の犠牲者なのである。千姫は、お虎を手放そうとはしなかった。側近の侍女として、亀姫とお菊と同様、千姫に、終生寄り添うことになるのである。家康は、孫娘千姫を救出するも、千姫は心を閉ざすばかりである。家康は、十万石の化粧料を千姫に与えるが、千姫は苦悩する。可愛がってくれる祖父家康と、身内を駒のように扱う家康に不信感を抱くのであった。公家巫女は、そんな千姫の心を癒すため、香道を進めるのであった。その後、千姫は、元和二年(一六一六年)桑名藩主本多忠政の嫡男忠刻に嫁ぐ。そして、三代将軍家光の三男綱重と暮らし、綱重を養子にする。家光の嫡男家綱が四代将軍の時代には、大奥の最高顧問として権威を持ち、公家巫女と、差別のない太平の世を築くため、心を砕くのであった。それが、幕閣にも大きな影響力を持つことになったのである。天樹院(千姫)は江戸竹橋御殿で生涯を終えた。享年六十九歳であった。
★ おわりに
● 作手郷の公家巫女
家康は、天正十八年(一五九〇年)太田道灌が築城した江戸城に家臣団を伴ない入城する。城内の紅葉山には、江戸城を鎮守する日枝神社が鎮座していた。この横に神楽殿を新築して公家巫女の住いとする。日枝神社と神楽殿は、於福が乳母として入城する頃に、江戸城増築に伴い永田町に移す。これが平河天満宮である。公家巫女は於福と共に大奥入りするのであった。
幕府は、十三代将軍家定の御台所として、今和泉領主島津忠剛の娘で、従兄の薩摩藩主島津斉彬の養女となった篤姫を、輿入させる。(二十二歳で輿入れ・夫婦生活二年ほど)家定は、お菓子作りが得意であった。というよりも、自ら調理をするのは、毒殺を恐れたからでもある。この日は、篤姫が持参した黒砂糖を用いて、カステラを作るなど仲睦まじい夫婦であった。
家定の後継として、紀州藩主の家茂が十四代将軍となり、公武合体政策が進められる。文久二年(一八六二年)に、朝廷から仁孝天皇の第八皇女和宮(十六歳で輿入れ・夫婦生活四年ほど)が、家茂の御台所として輿入れする。
篤姫と和宮は、十二歳差の嫁姑の関係である。篤姫は、島津藩主の娘ではなく、家臣で
今和泉領主の娘である。豪快な薩摩おごじょである。和宮は、仁孝天皇の第八皇女で、姫様の中の姫様。箱入り娘の中の箱入り娘。正しく、大和撫子である。馬が合うはずがない。
慶応二年(一八六六年)第二次長州征討のため大阪城にいた家茂は病のため亡くなり、亡骸が江戸城に戻った。その時、和宮は、家茂の側近から西陣の織物を手渡される。討伐の前日、家茂は、お土産は何がよいか、と訊ねたが、和宮が何も欲しがらないので、「では、西陣の織物を、土産にするので待つがよい。」と言って、討伐に出かけたのである。和宮は頬をつたわる涙をそっと拭うのであった。
今まで、疎遠ではあったが、同じ境遇の静寛院宮(和宮)を見かねた天璋院(篤姫)は、慰めるため部屋に招いたのである。和宮は、姑様の心遣いであり、渋々と従うのであった。部屋に面したお庭には焚火がしてあり、侍女達が忙しくしている。薩摩芋を熾火に入れている。美味しそうな臭いが立ち込めてきたら、直ぐに受け皿に取り上げる。その受け皿を部屋に運ぶため、丸顔でふっくらした侍女が、濡縁の踏み石(下駄脱ぎ)に足を上げた瞬間「プッ」と音を立てた。年輩侍女がすかさず、「これ、はしたない。まだ食べてもないのに。」というと、平伏したままの侍女が、「あまりの美味しい臭いに、お腹の虫が鳴いたのです。悪いのはお腹の虫です。」と言った途端、また「プッ」である。側にいた目上の侍女が「これ、どすこい」と叱る。すると、「私は、どすこいではありません。お里です。」これには、さすがの天璋院も笑いを堪え切れず、大笑いである。しかし、肝心な静寛院宮(和宮)は、訳が分からずキョトンとしている。直ぐさま公家巫女が近づき、耳元で囁くと、小袖で口を覆いクスと笑われた。ピーンと張り詰めた空気が、一変して、笑いの渦に包まれた。反目的だった二人の関係が、雪解けした瞬間である。後日、お里は、天璋院から、沢山のご褒美を賜った。お里が喜んだご褒美とは、言わずもがなである。
これ以来、天璋院(篤姫)と静寛院宮(和宮)は打ち解け、二人三脚で徳川家及び慶喜の助命と江戸を戦火に巻き込まないように動くのであった。慶応三年(一八六七年)大政奉還、慶応四年(一八六八年)には、かつて、和宮の許嫁であった有栖川宮熾仁が、戊辰戦争で東征大総督となり、官軍を率いて江戸城に入ったのである。そして、天璋院(篤姫)と家定の母本寿院は一橋邸に、静寛院宮(和宮)と家茂の母実成院は、清水邸に落ち着くのであった。
公家巫女は、一千人ともいわれる奥女中の御殿下がりについて、苦心するのであった。幸いにも、奥女中は、大奥で培ってきた、お茶やお花の腕前は超一流である。そこで、嫁入り前の習い所を開くと、大いに繁盛したのである。
その後、公家巫女は、世の中のあらゆる差別と偏見のない、誰もが幸せに暮らせる太平の世を目指すその一環として、東京女学校や博愛社(日本赤十字社)の設立に全身全霊で取り組むのであった。また、日本人の心に脈々と受け継がれているものに四季への感性がある。香道は人間の五感のなかでも、繊細な感性が求められる千余年にわたる歴史が生み出した芸道である。日本人の心を絶やさぬように、香道の発展に尽力するのであった。
● 作手奥平宗家
数正が秀吉に出奔したことにより、徳川の軍制が流失する危機に直面した。それを補うため、武田氏に臣従したことのある信昌が大きく貢献したのである。天正十八年(一五九〇年)徳川家が関東に国替えとなり、上野国宮崎三万石を拝領する。
慶長五年(一六〇〇年)関ヶ原の戦いに参戦する。その後、京都所司代を務める。無事務めを成し得たのは、三条西家との関係と、公家巫女の指南のお蔭で、公家文化の素養を知らず知らずのうちに備えられたからである。翌年上野小幡藩三万石から美濃国加納藩十万石に、宇都宮藩十万石、豊前国中津藩十万石に転付する。
なお、中津藩の藩校は、進脩館という。奥平家は、蘭学への造詣が深く、藩医の前野良沢、杉田玄白の解体新書を刊行する援助をしたり、蘭日辞書の編纂に尽力している。藩士の福沢諭吉は、慶応義塾を創設する。
今でも、中津の奥平神社では、毎年五月に奥平家家臣の子孫が会し、長篠籠城を偲んで「たにし祭り」を催して、長篠城を死守した当時を偲んでいるのである。
● 奥平松平家
父信昌と母亀姫の四男忠明は、家康の養子となる。慶長七年に作手亀山城主となる。大坂冬の陣・夏の陣の戦功により初代の摂津大阪藩主として十万石を拝領する。運河を道頓堀と名付けるなど、今の大阪の礎を築くのであった。
三代将軍家光の時代には彦根藩主井伊掃部守直孝とともに幕政の枢機(大政参与・大老)
に参画する。寛永十六年播磨国姫路十八万石の城主となり西国探題となる。正保元年(一六四四年)江戸藩邸にて死去する。墓所は高野山中性院にある。家光は三日間江戸市内の歌舞伎音曲を禁止した。享年六十一歳であった。
● 作手菅沼氏
奥三河の作手菅沼氏は、野田菅沼氏、田峯
菅沼氏、長篠菅沼氏、に分流しながら、その勢力を広げた。野田城主の菅沼定則は、今川氏親の遠州攻略に協力しながら松平清康の宇利城攻略にも協力する。孫の定盈は松平元康に従う。その後、家康と信玄との戦いで、武田に寝返る菅沼一族もいたが、定盈は野田城の戦いで捕虜になるも一貫して家康に組する。家康の関東転封に従って移住し、この時、阿保藩を立藩する。その後伊勢長嶋藩主、近江膳所藩主、丹波亀山藩主となる。慶安元年(一六四八年)定盈の末裔である定美が天領となった新城の陣屋に入城する。定美は有教館と名付けた郷学舎を設ける。茶道にも通じていた風流人で、入船一帯に桜を植えて、桜淵と名づける。享年六十二歳であった。
「春姫道中」や「名古屋城本丸御殿復元活動」の中心的メンバーであった夢童先生は、生まれも育ちも京都です。父親が国文学者の野間光辰氏で、その影響もあってか、尾張藩に造詣が深く、国宝第一号に指定されていた名古屋城の現状を知って、ほってはおけないと立ち上がったと聞いております。当時の名古屋は、「尾張名古屋は城で持つ」と論ずる政財界人は数多いものの、「白い街」と揶揄されるなど、文化の分野で、足踏み状態で、出口が見つからないような状況であったかと思います。金鯱は光れども、街の魅力をどのように発信すればよいのか。ましてや、名古屋城本丸御殿の復元は、消失前の設計図、障壁画や記録写真など膨大な品々が残っていることから、その気になれば復元は可能なのでしょうが、膨大な再建費用の調達、市民の理解など、諸問題が山積しており、立ちすくみの状態だったと聞いております。閉塞感から抜け出すためには、先ずは、市民の理解を得ること。そのためには、目に見える情報発信が必要であると感じたそうです。そこで、初代名古屋藩主徳川義直に、初代紀伊和歌山藩主浅野幸長の娘春姫様がお輿入れをする様子を再現した「春姫道中」を企画したそうです。こうしたことが、本丸御殿復元活動の気運を高め、結果として本丸御殿の再建という偉業に大きく貢献したことは周知のとおりです。その後も意欲は衰えず、愛・地球博では、世界の子どもが描く三万点の絵画の展示など、次世代を担う子供たちの育成に東奔西走しておられました。どこからこんなにパワーが湧いてくるのか不思議であり、時を動かす人であったと、つくづく思い知りました。改めて女性活躍社会の一助になればと願っているところです。
ご一読頂いた方々に感謝申し上げます。




