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逆転世界はもうどうしようもない  作者: あああああ
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凪いだ水面に似た静謐

 

 ティアがかつて世話になっていたというメイドに呼ばれ、案の定その日の夜に女性を一人家まで連れて帰ってきた。


 世間のメイドに対するイメージを具現化したかのような、真っ黒のロングドレスに白いエプロンを着けた古典的服装。

 リアのような水色の髪とは違う、紺に似た深い青のルーズサイドテール。

 案外歳は近そうで、二十前後の顔つきだった。


 彼女は流れるような動作でカーテシーを行い、高い教養を見せつけ、傍らのティアを除いた俺たち三人を睥睨して言った。


「格式低き庶民の皆様、もといイーティアお嬢様の手足の方々。お初にお目にかかります、元セルペンス家メイドのセルウィタ・クーラでございます。頭を床に擦りつけ感涙に咽び泣いていただいても――」

「いっそ始末すればただの失踪で終わらせられるかしら」

「ここで働くことをお許しくださったこと、このセルウィタ、咽び泣いて感謝いたします」


 ティアの殺意に反応して頭を床に擦りつけた彼女。

 我らがリーダーは苦笑いだった。


「君に求めることは二つ。一つは、誠実であること。僕らを信頼しなくたっていいけど、言うべきことは言って、嘘を吐かないこと」

「かしこまりました」

「二つ目は、まあ、分かると思うけど……」


 ただ剣を振るうなら片手があれば十分だ。

 リアは抜き身のそれを振ってセルウィタの髪を一本だけ斬り飛ばした。


「ギルに手を出したら殺す」


 殺意が飛ぶ。

 三人とも、俺に細工したファトゥスを一度以上殺した有言実行の者である。

 ピンと張った糸に似た緊張が充満する。


 鈍いのか、神経が図太いのか、セルウィタはそれを特別気にした様子もなく立ち上がり、頷いた。


「かしこまりました。私めは元より庶民の鼻水垂れに持つ興味などありませんので、ご安心ください」

「今後余計なことを言うたびにあなたの給料は半分になるわ」

「心優しきイーティアお嬢様、平にご容赦を」

「あたしに媚びるのもやめなさい」


 随分クセの強いやつが入ってきたなぁ。

 ティアは深く溜息を吐いた。


「色々とごめんなさい。迷惑をかけると思うけれど、度が過ぎるようならその場で殺してしまっても構わないわ」

「そんなご無体な!?」

「それと、ギル。あとで膝枕」

「ちょっとだけな」


 疲れ切った要求だった。


「あ、あのお嬢様が男性にここまで慣れて……!? 三年前はお会いする機会が来るたびに緊張で吐いていたあのお嬢様が……!」

「給料半減よ」

「私めは事実を語ったまでにございます!」


 抗議の声には冷めた視線で返し、癒しを求めたティアがルナを抱きすくめる。

 されるがままのルナはどこか満足げに撫でまわされている。魅力を認めてもらえて嬉しいのだろうか。俺もあとでやろう。


「業務についてはティアから聞いてくれればいいから。さっき言った二つは順守してくれると嬉しいよ。じゃあ、解散」


 リアが強引に話を終わらせた。

 セルウィタは早速使用人らしく動くつもりのようで、保管されている食材やら掃除用具やらの確認を始めた。


 仕事帰りのギルベリタと、何故か自分の家に帰らなくなって久しいスクリータが帰宅してから少しあったものの、まあ特筆することもなく俺たちは夜を迎える。



 目が覚めた。

 毎日いつのまにか潜り込んでいるギルベリタが普段よりくっついていて寝苦しかったからだろう。

 随分暗い時間帯に起こされてしまったらしい。


 『憤怒』の適性が目覚めたあの夜を思い出しながら体を起こした。


 俺を苛む欲求はあの夜より幾らか弱い。

 だが、このままではいずれ同じ未来を辿る。


「妥協、か」


 部屋を出て、一息吐いた。


 ルナに言われた言葉がまだ刺さっている。

 仕方なしに諦めることが本当に正しい選択なのだろうか。


 水を飲む。

 うっすらとしか眠気を感じない。


 凪いだ水面に似た静謐が夜の聖都を包んでいる。

 窓の外を眺め、俺の呼吸だけが空気を揺らす。


「お兄ちゃん?」


 水面を割って、声がした。

 振り向けばギルベリタが――。


「お兄ちゃん!」


 突進を避けられずに押し倒された。

 我が妹はどうやら深夜でも元気いっぱいらしい、なんて軽口を叩けたなら良かった。


 深い夜は『悲哀』と『信頼』の時間だ。

 感傷的になり、こうして、涙を落とすことになる。


 ギルベリタは泣いていた。


「お願いだから、勝手にいなくならないで」

「ごめん」


 不安になったのだろうか。

 目が覚めて、ただ俺がいなかったというだけで。


 どう慰めればいいのか分からず、ただ謝った。

 必要な肉が付いただけのすらりと細い背を摩り、落ち着かせる。


「お兄ちゃん、お兄ちゃん……!」


 どうやらそれは逆効果だったらしい。

 必死に掴んで離さなくなった。

 胸元に額を擦りつけ、くぐもった声で何度も俺を呼んでいる。


 やりたいようにさせていると、少し経って、ようやく泣き声が聞こえなくなった。

 すんすんと鼻をすするギルベリタ。


 やがて、ぽつりと言った。


「……お母さんとお父さんのこと、何も聞かないの?」


 ずっと吐き出したかったのか。


 タイミングを窺っていたのが仇になったのだろう、ギルベリタは空っぽの家について聞かれたかったらしい。

 中々溜め込んでいる様子だった。


「もう、私たちだけになっちゃったんだよ」


 母さんは士官だった。

 リアを休ませている部屋は本来母さんの部屋で、そこに見覚えのない勲章だけが置いてあった。

 死んだのだろう。

 西方か、それとも北東か。

 ギルベリタの絶望はきっと、俺を失ったことだけが理由じゃない。


「父さんは母さんのことを愛してたからな。分かるよ、俺だって二人の子供なんだ」


 父さんは強い人じゃなかった。

 だから母さん以外との婚姻を拒めなかったが、本当に愛していたのは、母さんだけだった。


 だから。


「寂しかっただろう。母さんが帰ってこなくなって、父さんがいなくなって――怖かったか」


 母さんを失くした父さんがそのままでいられるとは思えない。

 俺が試験を受けに行って帰ってこなくなった、それがどれだけ二人を動揺させたか分からない。

 この家にギルベリタだけがいるということは、いずれにしろ父さんは耐えられなかったということだ。


 俺は二度と家族に会わない覚悟を決めるために一年くらい費やしたんだ。

 それも、心地の良いパーティーを見つけて。


 たった一人で残されることになったギルベリタは、何を思い、その『悲哀』と『恐怖』を獲得したのだろう。


「俺はいなくならない。ギルベリタの居場所だって、もうあるんだ」


 ギルベリタはスクリータとキサラによく懐いている。

 最初は俺を取り返すためだけの場所だったとしても、今では違う意味を持っているはずだ。


「もう、一人になりたくないの。……危ない仕事なんてやめようよ。私、またお兄ちゃんを奪われなきゃいけないの?」


 頷くことはできない。


 スクリータにも言ったんだ。

 俺は今の居場所を心底気に入っていて、失いたくないって。


「いつか、帰ってくるから。それまで待っていてくれ。俺は、ちゃんと帰ってくるからさ」


 ギルベリタは何も言わなかった。

 ただ薄明りにぼんやりと見えた輪郭を、また一つ雫が滴って。


 夜の水面に溶けた。


 


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