ショクザイの構図~美人シングルマザーの遺言~ 後編
怪しげなバーで潜入調査を続けた鹿島は、そこで一人の心理学者沢木の存在を知る。摩耶や葛海だけでなく、ヤジドや牧瀬とも繋がる沢木に疑いの目を向ける鹿島だったが、一つの突破口とするべく、牧瀬の故郷福岡にも調査範囲を広げるのだった。
第6章 盗まれた過去
1
鹿島が福岡空港に到着したのは、午前八時半を回った頃だった。多くのビジネスマンが足早に立ち去る様子を遣り過ごし、鹿島は、空港の一画にあるインターネット・カフェに足を向けた。
滑走路が一望できる見晴らしの良い席に着くとすぐに、鹿島はパソコンを起動させた。
まず、二〇二〇年の五月に発生した牧瀬の自殺についての地元紙を徹底的に当たった。
鹿島の狙い通り、牧瀬の自殺は、地元紙の社会面を詳細な記事を伴って、しばらくの間、賑わせていた。警察は、事件性はないと発表したものの、地元記者による論説では、極めて事件性が高いと疑義を差し挟んでいる。
記事によれば、牧瀬保は、当時勃発していた暴力団抗争の犠牲者だともいう。牧瀬はかつて、抗争事件が最も頻発していた地区に住み、暴力団の抗争に反対していた市民グループ《穏やかな日常を取り戻す会》のメンバーの一人だった。そのため、暴力団に怨みを抱かれていた、と記事は訴える。
だが、その一方で、睡眠薬を用いての擬装自殺という方法は、暴力団の遣り方にはそぐわないし、牧瀬が会で暴力団と対峙していた時期から数年経っての自殺というのも不自然だ、と指摘されていた。
福岡の該当地区の暴力団抗争は、二〇一三年の秋に遡るという。それまでも限定的な小競り合いはあったようだが、この時を境に尖鋭化していき、組員同士の血みどろの抗争に発展していった。
そもそもは、繁華街ではなく、住宅地を含む郊外の再開発に絡んでの利権争いが発端だった。ところが、敵対勢力への互いの報復がエスカレートして、組員宅や関連店への襲撃、住宅街での発砲も始まった。
住民の間からは、警察への取り締まり強化が叫ばれた。その一方で、暴力団への牽制や警察との連携機能も持つ、自警団組織を要望する声が上がった。そこで、最も抗争の激しかった〝御海門地区〟で二〇一四年初頭に、有志住民から成る会が発足した。
《穏やかな日常を取り戻す会》は、当初は防犯カメラの設置や夜間の見回りを強化し、隔月での組員との〝対話〟活動を展開するなど、一定の抑止的な役割を果たしてきた。
ところが、抗争が激化するに従って抑止機能が低下し、やがて期待通りの活躍に翳りが生じていく。
抗争自体は二〇一七年の警察の強制介入で一掃されたが、それまでは市民の平和な暮らしが脅かされ、住民は不安に苛まれていた。そんな中、牧瀬は会の交渉役の一人として、暴力団の代理人などと顔を合わせていた過去を持つようだ。
確かに、交渉が縺れたり、交渉自体を快く思わない人間によって、命を狙われたとも考えられる。
だが、交渉に行き詰まる一方で、大いに悩んで精神を病み、職まで辞した。自分なりの責任の取り方として、死を選んだ……。そんな風にも考えられなくはない。
麻耶と牧瀬が別れた時期は、二〇一六年六月。《穏やかな日常を取り戻す会》が、ちょうど複雑な時期だとも思われる。牧瀬が交渉人故に、麻耶との関係が悪化した可能性もある。自分の正義を通した牧瀬が、麻耶を諦め切れなかったとしても、不思議はない。
しかし、警察の強制介入で抗争が集結した後、役目を終えた《穏やかな日常を取り戻す会》は解散した。会としては、四年ほどの活動だった。
更に、ネットに対する書き込みを当たった鹿島だったが、牧瀬の自殺は、暴力団による暗殺だという噂がしつこく躍っていた。牧瀬暗殺を切っ掛けに暴力団内部に衝突や亀裂が発生したともいう。中には、面白おかしく抗争自体を非難してみたり、牧瀬を中傷する内容もあった。しかし、主観的な論理の域を出ていないものがほとんどで、あくまでも噂と呼ぶに過ぎないものだった。
ここで、鹿島は深く考えてみた。
〝暴力団〟という言葉から、勝沼や三河の言及した葛海との関連は示唆できよう。葛海は、三、四年くらい前から東京で有名になる前に、地元福岡で暴力団との怪しげな繋がりを指摘されてもいる。三河によれば、二〇一〇年代後半くらいとのことで、時期的にも矛盾はない。
また、笹田が鹿島のチケットの行き先を見て「やっぱり福岡です」と叫んだのも、鹿島が葛海の身辺を調べての結果から導き出されたと考えたからだろう。
〝やっぱり〟とは、葛海の動きを探った警察も、福岡の地に行き着いた事実を、雄弁に物語っている。つまり、警察は、葛海が福岡の出身であり、しかも、暴力団との浅からぬ関係があったと把握している。
葛海と牧瀬に直接的な関係があるかは不明だが、暴力団を介しての何らかの繋がりは否定できない。
「〝ごかいもん〟ねえ……。取り敢えず、行ってみるか」
鹿島は地図を頭に叩き込むと、カフェを離れ、市営地下鉄へと向かった。
御海門地区は、福岡の市街地から東へ、かなり離れている。地下鉄とバスを乗り継いで一時間近く掛かった。
背の高いマンションが古びた家並と併存する町は、どことなく懐かしさを抱かせる。直線的な道路を一つ曲がると、小さな路地が民家の間に見え隠れし、真っ直ぐに伸びた街路樹の木陰に、こぢんまりとした昔ながらの公園がひっそりと佇む。
小洒落た高級レストランの隣に、萎れた暖簾の和菓子屋が存在感を放ち、近代的なスーパーの裏手に、重厚な甍を持つ寺院が連なる。ここは、新旧の世界が同居する不思議な町だった。
鹿島は通りに面した一軒の蕎麦屋に入った。《扇屋》という古びた看板からして、何年もここで商売を営む老舗だと分かる。会の有志を務めていた可能性もあるだろう。まだ昼の混雑には至っていないため、情報収集には持って来いと言えた。
かつ丼と盛り蕎麦のセットを注文すると、鹿島は、白々しく店主の老人へと話題を振った。
「この辺って、少し前くらいまで騒がしかったんですよね?」
「今じゃ、こげん静かになったばってん、ちょっと前は、大変やったばい」
鹿島の切り出しに、禿頭の店主は、厨房から身を乗り出して話を返した。六十前後の店主は、話し好きと見えた。調理をそっちのけで袖を大きく捲り、「何でもござれ」と身を構える。
「何でも、住宅街で銃撃戦があったそうですね?」
「そうやなあ。昼夜ば問わんでドンパチが始まったんで、誰もおちおちと寝てられんやったばい」
店主は、まるで自分の武勇伝を語るように、悲壮な過去を笑い飛ばした。逆に、当時の苦労が窺えるというものだ。
「あの人たちって、怖いんでしょう? 何をやってくるか、計り知れないというか」
「幾ら我々が依頼しようが、警察が取り締まろうが、あいつらは、やる時は平気で始めてしまう」
「我々? もしかして、《穏やかな日常を取り戻す会》の?」
店主は「まあ、そうばい」と少々自慢げに微笑んだ。
聞けば、《穏やかな日常を取り戻す会》の会長だったそうだ。鹿島は、当たった予測に幸運を感じつつ、店主の話に耳を傾けた。
「川向こうんショッピング・センターん開発利権ば巡って、組長がこん町に引っ越してきたとが、そもそもん始まりばい」
その日から、静かで落ち着いた閑静な住宅街が、秩序のない恐ろしい戦場へと化していった。住民は、出来上がった豪邸が物々しく、雰囲気の違う人たちが町の至る所に蔓延っている事態に、ある日ようやく気付く。「おかしいぞ」と思った時点では、もう既に手遅れで、町は暴力団の勢力に圧倒された後だった。
「子供ば大声で怒鳴ったり、荒っぽか運転ん車が跋扈したり、町中が慌ただしゅうなったね。大きか顔ばされて、秩序も何も、あったもんやなか。一度、向こうん倉庫で爆発があったっちゃん。爆弾ば仕込んどったんやろうって話も出たくらいさ」
その後、警察と相談を重ねて、何が最適な解決策かを探り、会を発足させるに至ったという。会は全体で、十五人程度。そのうち交渉に臨んだのが、会長初め、五、六人。メンバーは、体力・気力の限り戦ったという。
その一方で、一軒、また一軒と、町から去る人が相次いだ。転居はカネもかかるし面倒だが、危険な連中と関わり合いを持って、最悪、死んでしまっては、元も子もない。一時期は、住人の四割ほどが減ったと嘆く。
また、《扇屋》のような店舗は、暴力団員への対応に苦慮したともいう。無下に断ったり必要以上に親しくなったりすれば、それだけで様々な悪影響が出来しかねない。
町全体の不動産価値も下がるし、ここまで築き上げた町の良好な関係が崩壊するし、中には家族の絆がずたずたに裂かれた家もあったらしい。ともかく、町の人間は、厄介な種を裡懐に抱えてしまった。
「あっちん角ん新しかコンビニは、昔馴染みん床屋やったんだ。うちん隣にも、《喫茶TANIGUCHI》っていうオープンしたての美味か喫茶店があったばってん、致し方のう店ば畳んだっちゃん。皆連中が怖くて、どっかへおらんごつなったばい」
店主はもう厨房を出て、鹿島の隣の席に腰を下ろしていた。話に夢中になって、調理どころではないようだ。
「《扇屋》さんは怖くなかったんですか?」
「そりゃ、怖かったばい。ばってん、会ば維持せんといかんし、先代から引き継いだ土地ば離るうわけにもいかん……」
はははと、乾いた笑いが返ってきた。
「でも、よく交渉なんかできましたね。私なんか、とってもできやしない」
「うち一人じゃ、できんやったばい。会ん皆で、頑張ったちゃんな」
店主は、誇らしげに毛のない頭をパンパンと叩いた。
「別に、組事務所に文句ば言いに乗り込んだわけやなか。会議室んごた場所ば借って警察立会いん下、あっちん顧問弁護士やら代理人やらと、整然と話し合いばしたまでや」
鹿島は、〝顧問弁護士〟という言葉にピンと来た。葛海が顧問弁護士として暴力団の一翼を担っていたという考えは、飛躍し過ぎではないだろう。
だが、鹿島はすぐその考えを否定した。全国的に有名となった葛海の顔が、かつて反社会勢力に属していた男の顔と同じであれば、すぐに問題となる。それとも、過去の正体を隠すために、顔を整形でもしたのだろうか。
「その弁護士の名前は、憶えてらっしゃいますか?」
「いや、そこまではねえ。ただ、そん後、責任ば取らされて、追い出されたっちゃ話やったな。会ん解散後、三年ほど経った頃に、風ん噂で聞いたっちゃん」
「追い出された?」
鹿島には、追い出された暴力団の顧問弁護士と、先年一気にブレイクした葛海とが、やはり、重なる気がした。何らかの理由で福岡を放逐され、その後東京で再起を図ったというストーリーだ。
鹿島の反応と思考にも拘わらず、店主は続ける。
「たまにオブザーバー的に座りおる連中が騒ぎ立てもしたが、会合としては、特に危険は感じんやったばい。まさか、警察ん前で銃ばぶっ放すわけにもいかんけんね」
ここでいう〝オブザーバー〟が、組の若手の実働部隊だろう。謎の顧問弁護士の細かな指示により、交渉相手を直接威圧する仕事を仰せ付かっていたはずだ。
「ばってん、何か相手ん気に障るような発言ばした時は、後で、嫌がらしぇん電話が架かってきたり、銃弾入りん封筒が送られてきたこともあったばい」
「あの頃は、生きた心地がしませんでしたね」
小柄の奥方がかつ丼セットを持って、席までやって来た。当時を思い出してか、やや顔色が優れないようにも見える。
「会んメンバーにも、体育会系ん強面ん男ば入れたりして、相手に隙ば与えんような布陣で臨んだもんばい」
鹿島は、今度は〝体育会系〟という言葉に反応した。牧瀬が〝体育会系の礼儀正しい人〟だったと、麻耶の両親が言っていたのを思い出した。
「もしかして、牧瀬って人じゃないですか?」
「まあ、よくご存知ですね」
奥方は、なぜ知っているのかと、不思議そうな視線を鹿島に寄越した。
「一時期、自殺したとか、殺されたとか、話題になりましたからね」
「……ああ。あいつには、悪かことばしたな。こげん一連ん騒動に巻き込んだのが原因で、自殺してしもうたようなもんやけんね」
店主は、やや俯き加減で神妙な顔をした。特に暴力団員と揉めた記憶はないのに、よほど手に負えない相手と思っていたらしく、牧瀬に対する同情は頷ける。
「離婚されたと聞きましたけど、会が原因だったんですかね?」
「離婚? いや、あいつは、一度も結婚しとらんかったはずばい。何しぇ、こげん交渉に名ば連ねてもらうけん、若か妻子持ちは、候補から外したんや。逆に、結婚が決まったなら、会から抜けてもろうたし。なあ」
確信を持って頷く奥方を見た鹿島の思考が、一瞬、固まった。
牧瀬が結婚していない? 麻耶は牧瀬と結婚したと言っていたが、実は二人は同棲だけで、事実婚なのか。
最近は、役所に婚姻を届けないケースもあるから、二人もそういう特殊なパターンだった可能性もなくはない。
もしくは、麻耶との結婚を隠していたのか? それほどまでに、牧瀬は交渉に熱い情熱を懸けていたのだろうか?
それとも、麻耶の両親が「麻耶は結婚式を挙げていないんです」と言っていたのは、実際は麻耶が結婚していない事実を反映させた言葉だとは考えられまいか?
「いらっしゃい!」
ガラガラとドアが開いて、サラリーマン三人が店内に入ってきた。十一時を過ぎたため、昼食のピークが始まろうとしていた。
「じゃあ、ゆっくり食べていって下さいね」
奥方がちょこんと頭を下げ、急いでサラリーマンを迎え入れに走った。
「すまんな、年寄りん昔話ば聞いてもろうて」
店主も「よっこらしょ」と寂しそうに立ち上がり、厨房の中へと消えていった。
鹿島の頭はすっかり混乱し、唐突に終わった牧瀬の話題に、本来ならば旨いはずの蕎麦も、喉を単純に通っていくだけだった。
2
《扇屋》を出た鹿島は、混乱した頭を落ち着かせるために、付近を見て回った。
まず、暴力団抗争の元となった、川向こうのショッピング・センターに足を延ばした。
広い駐車場には多くの車が駐められ、たくさんの買い物客の流れが活況を呈している。テナントの大看板や〝安売り〟の幟が、購買意欲を誘う。
建設前は、土地のぐるりに鉄条網が張り巡らされ、怪しげな土建屋が暗躍した。時として、怒号が飛び交い、小競り合いから銃撃にまで及んだというから、今の平穏な時代が非常に有り難く感じられる。
鹿島は、護岸が固められた川の土手沿いに戻った。土手は遊歩道となっており、散歩や通勤・通学に多くの人たちが通行している。
振り返れば、住宅地が臨めるちょっとした高台になっていて、丘の上に拡がる住宅街の広さを実感できた。
抗争終結後、次第に人も戻ってきたようだから、県都のベッドタウンとして、再び発展を遂げていくだろう。二度と不穏な事態にはならないよう、祈りたくなる。
次に鹿島は、《扇屋》の店主に教えてもらった、一連の抗争の切っ掛けとなった旧組長宅跡を訪れた。緩やかな坂の途中の一画が今でも更地になっていて、ぽかんと空虚な空間が住宅街を占めているだけだ。
現在では、どんな様子だったかは知る術もないが、更地の面積からして、かなり広く感じられる。ここに城塞のような屋敷が建っていたと想像すると、住民にとって精神的に相当の負担があったと思う。
しかし、この空虚な空間こそ、粘り強く抵抗し続けた結果、安穏を取り戻した、住民にとっての勝利の証に他ならない。
それにしても、鹿島にはどうしても、暴力団の顧問弁護士が葛海でないとは、断定できなかった。逆に、葛海が先頭を切って暴力団の軍師的存在を買って出ただろうとさえ思う。警察の介入終結後にも、腹立たしく思っていた牧瀬を自殺に見せ掛けて殺害したのではないか。
ところが、殺害したことが噂となり、尾鰭が付いて脹らみ、組内部で対立が起こるなどしたため、福岡にいられなくなったとしたら……。
暴力団の顧問弁護士の福岡での〝活躍〟は、二〇一〇年代後半だ。葛海のブレイクした三、四年前という時期と矛盾しないし、整形手術を受けて相貌と名前を変えれば、暴力団幹部も気付かないだろう。
そのまま坂を上ると、煙突が聳える銭湯があった。今でも営業しているようだが、このご時世では、経営は厳しいだろう。これも昔からの町の遺産というわけか。黒く高い煙突を見上げながら、鹿島はふと思った。
その時、鹿島の耳に賑やかな声が届いた。銭湯の隣の幼稚園からだった。
顔を向けると《みみと幼稚園》と大きく看板が出ている。そうすると、この地区名〝御海門〟は、〝みみと〟と読むと思い至った。
だが、鹿島は、急激に鼓動が高まるのを感じた。看板の文字が生物のように動き、重要な意味を持って蠢き始めた。眩暈に似た感覚が呼び起こされ、それが一種のデジャヴュだと気付いた。
麻耶の実家の部屋にあった写真に、鹿島は、同じ看板を見付けていた。麻耶が先輩保育士と園児の横でVサインをしていた、あの写真だ。
つまり、麻耶が学生の頃にアルバイトをしていた幼稚園は、麻耶の元夫だと思われた牧瀬が関わった抗争事件現場の近くにあった。何らかの縁を感じて、鹿島は吸い込まれるように幼稚園へと足を向けた。
《みみと幼稚園》は生垣に囲まれていたが、広い敷地に解放感を覚えた。二階建ての建物は淡いピンクに塗られ、一階部分が教室に当てられていた。庭の遊具や砂場がきちんと整えられ、園の行き届いた管理と真摯な姿勢が伝わってくるようだ。
どうやら今日は終業式があったらしく、父兄に付き添われた園児たちが、待ちに待った夏休みの到来に、解放された声を嬉しそうに上げていた。幼稚園前の通りは、迎えに来た父兄たちの車が路肩に駐められ、道幅が狭くなっている。
先生に元気よく手を振る子、ここでもっと友達と遊びたいと泣く子、挨拶を交わす父兄を引っ張って早く帰ろうと勢い込む子。鹿島はそんな元気な園児の顔を見て、光司の元気な姿に重ね合せ、笑みを漏らした。
その時、狭くなった通りを、一台の赤い車がずんずんと近付いてくるのに気付いた。鹿島が危ないなと思うほど、車は減速もせずに幼稚園の前を、スピードを上げて通り抜けようとする。
しかし、運の悪いことに、園児の一人が車の陰から通りへ走り込む姿が見えた。それでも、車は何も気付かないように、真っ直ぐ進んでくる。
鹿島の体が瞬時に動いた。
車に気付いた母親が悲鳴を上げ、園児の名を叫んだ。
鹿島は、一瞬、間に合わないかと思った。このまま園児に手を差し伸べても、救えるか微妙なタイミングだった。
だが、次の瞬間、鹿島は何も考えずに大きくジャンプし、驚く園児を体ごとぎりぎり掻っ攫った。
体が回転して天地が引っ繰り返った。渦巻く風を頭上に感じながら、轟音を響かせた車の赤いシルエットが真横を通り過ぎた。足先が車のサイド・ミラーに接触して僅かに痛みを感じた。
鹿島はそのまま投げ出されて、向かいの家の門扉に激突した。今度は腰が路面に打ち付けられ、鈍痛が体中を襲った。衝撃で鉄製の門扉が歪んだ。
暴走車は停車せずに、ましてやブレーキすら掛けずに、その場を猛スピードで立ち去った。無我夢中で、ナンバーを見損ねたのは、痛恨のミスだった。
腕の中で、園児が火の点いたように泣き始めた。状況を把握できずに驚いているだけで、見たところ、怪我は一切なかった。
安堵した鹿島の許に、母親が蒼白な顔で走り寄ってきた。保育士や他の園児の父兄も、恐る恐る絶望の声を上げながら近寄ってくる。
「お子さんは大丈夫ですよ」
園児の無事な姿を確認して、母親は泣き叫ぶ我が子を叱り付けながら抱き締めた。辺りも、ほっと安堵するのが分かる。
「あなた、お怪我は?」
年長の保育士が鹿島を見て訊ねた。半分泣きそうな顔をして、何とも情けない顔をしている。
「多分、命には別条ないですよ」
母親の謝罪と礼意の嵐を受けている間も、言葉とは裏腹に、鹿島の全身は恐怖と安堵で細かに顫え続けていた。
子供がいてもお構いなしに、ブレーキも踏まない容赦のない車の突進は、鹿島に一の橋の交差点での恐怖を思い出させた。まさかとは思うが、鹿島を狙う同じ人間が福岡まで追い掛けてきたと考えたくはない。
その後、鹿島は園内で治療をしてもらった。腰や足先は軽度の打撲で済んだが、右の脹脛にちょっとした裂傷が生じていた。門扉に当たった時にできたのだろう。歩行に問題はなかったが、走ろうとすると痛みがあった。
「本当に申し訳ございませんでした」
治療を終えた鹿島に、園長が深々と頭を下げた。園長は五十歳前後で痩躯、頭髪は短く白髪交じり。白のブラウスが夏にぴったりだ。上品な物腰で、すっかり恐縮している。
「いやあ、何にしても、大事故にならなくてよかったですね」
それが鹿島の偽らざる気持ちだった。
ただ、麻耶の関わった幼稚園で起こった今回の〝轢き逃げ未遂事件〟は、鹿島に、今まで以上の因縁を感じさせた。
「見たところ、この辺りの方ではないようですが、観光でも?」
「まあ、ちょっと……」
鹿島は、この際、麻耶と関わりのあるこの幼稚園で、何か聞けないかという思いを強くしていた。しかも、この怪我で、園長は質問をよもや断れまいと判断した。
「実は、以前この幼稚園でバイトをしていた女性の件で、お訊ねしたい話がありまして」
園長は、鹿島を興信所の人間かと思ったようで、何を聞かれるのかと身構えた。余計な口を滑らせたと後悔している。
「……久保田麻耶さんという女性です。覚えていらっしゃいますか? 十五年くらい前の話になりますが」
記憶の糸を辿るまでもないほど早く、見るみるうちに園長の表情に嫌悪感が露わになっていった。鹿島には意外な反応だ。
「覚えていらっしゃいますね?」
「覚えているも何も、あの娘は、うちの幼稚園を潰し掛けたんです。その件でお越しなのでしょう?」
園長は吐き捨てるように言うと、薬箱をバタンと閉じた。忘れたい出来事を強引に掘り起こす、嫌な人間と縁を持ったと嘆いているようだ。
麻耶が〝幼稚園を潰し掛けた〟とは、いったいどういう意味なのだろうか? 穏やかではない発言が、鹿島の心にちくちく棘を刺す。
「もし、差し障りなければ、その時の話をお教え頂けますか?」
鹿島は、拒否しないでくれという意志を込めて、園長をきっと見た。
しばし間があった。だが、しばらくすると、園長は諦めたように、引き結んでいた口許を緩めた。鹿島に怪我を負わせただけに、逃れられないと判断したのだろう。
「……では、この際ですから、お話しさせて頂きましょう。実は、……あの娘がバイトで働いている時、あるお子さんを殺してしまったんです」
感情に流されて不適切な発言をした自分を恥じるように、園長は言葉を継いだ。
「……まあ、〝殺す〟という表現は適切ではないけれど。……でも過失で死なせたのは間違いないですわ」
鹿島は、麻耶の顔を思い描きながら、園長の神妙な言葉に耳を傾けた。
園長の話によると、《みみと幼稚園》は、当時まだ創設したばかりだった。園長が発起して五年目にして、ようやく認可を受け、やっと経営も軌道に乗ってきた矢先の出来事だった。
子供好きな麻耶が、春先から保育士のアルバイトを始め、もうすぐ夏休みを迎えるある日。保育室で乳児を遊ばせている時に、麻耶が居眠りをして誤嚥した乳児に気付かず、窒息死させたという。
もちろん、ベテランの保育士も常駐していたが、たまたま他の乳児から目を離せられなくなっていた隙に、誤嚥が発生した。気付いた保育士が慌てて処置をし、救急車を呼ぶなど適切な措置を行ったが、間に合わなかった。その間も麻耶は、ただ泣いてオロオロするばかりだったらしい。
その後、管理者である幼稚園側と麻耶が遺族により訴えられるも、麻耶は事故に対して一過的に心神喪失となり、責任は免れ、幼稚園が管理の問題から賠償金を支払う結果となった。
この事故を契機に「任せておけない」と、園児を引き上げる保護者が続出。園長は一人一人に対して、ひたすら頭を下げて誠意を示し、どうにか難局を打開した。
「その後しばらく、谷口さんのお宅へは、毎日、通いましたわ。本当に申し訳ない事態になったのは、事実ですからね。今も、命日にはお墓に行って、芳美ちゃんに手を合わせております」
園長は一転、悲しみの表情に変わっていた。事故以来、アルバイトは雇っていないと付け加えた顔付きは、淀んで昏かった。
麻耶の秘された過去を知り、鹿島は、鉄杭を脳天に受けたような、尋常でないショックを受けた。
子供好きな麻耶が、子供好き故に犯してしまった罪は、谷口芳美という女児の死の代償として、生涯拭えない傷跡を麻耶の心に残した。
鹿島は同時に、麻耶の最期の言葉〝よしみち〟の謎が分かった気がした。
最期の言葉は、自分のミスで死なせた谷口芳美、つまり、〝よしみち〟ゃんの名を呟いたものだったろう。
麻耶の心の奥深くに刻まれた後悔の念、カウンセリングに終生ずっと通い続けなければならなかった心の闇の正体の一つは、逃れられぬ自分への責任と、幼くして死した女児への鎮魂にあった。
心を患いながらも懸命に生きた麻耶を思って、鹿島は、死を看取った者の責務として、事件の早期解決を望む思いをより強くした。
「実は、久保田さんは、先日、お亡くなりになりました」
園長の表情が、更に沈み込み、死人のように見えた。視線を床と鹿島の交互に向ける。
「久保田さんは、死ぬまで自分の罪を悔いていました。恐らく、その一件だったのでしょうね」
心の裡から漏れ出た鹿島の言葉は、園長の頑なな心を揺す振ったようだった。複雑な思いを固い表情に乗せて、短く重い溜息を吐く。
「……そう。そうなんですね。彼女も苦しんでいたんですね」
それでも園長は、土気色の顔を鼓舞するように、鹿島に向けた。
「……ですが、あの娘の罪は、決して消えません。あの事故を切っ掛けに、谷口さんにも次から次に、不幸が襲ったんです。まるで、悪魔に魅入られたみたいに」
園長の特異な言い回しが、鹿島の背筋を竦ませた。これ以上のどんな不幸が、谷口家にあったというのだろう。
「奥さんたちと出掛けた海外旅行で、轢き逃げ事故に遭われて、奥さんが亡くなったんです」
突如として悪寒が全身を駆け巡り、急激に嫌な予感が鹿島の脳内を痺れさせた。
「海外旅行で? どちらで事故に?」
鹿島は、何かの間違いであってほしいと思いながら、園長に丁寧に訊ねた。
「確か、バリ島って言ってました。ディナーの帰り道、車の事故に巻き込まれて……」
鹿島は、面に感情を出さずに、心の中で大声を上げた。もうどうにかなってしまいそうだった。
バリ島はインドネシアにある。また現れ出でた符合に、鹿島は胸が苦しくなり、頭は混乱を極めた。
鹿島の心中を知らぬ園長は、更に続ける。
「それで帰国後、奥さんの昔からの夢だった喫茶店を、義理の弟さんと開いたら、今度は抗争事件で半年ちょっとで閉店になってしまうし……」
鹿島は、《扇屋》の隣に《喫茶TANIGUCHI》が存在した話を思い出した。《扇屋》の店主は抗争事件で、閉店を余儀なくされたと話してくれた。僅か一年足らずで閉店に追い込まれた喫茶店が、夫人の冥福を祈って開いたものだとするなら、これほど悲しい出来事はない。
「義理の弟さん? それって、誰ですか?」
「谷口さんの奥さんの妹さんのご主人で、その方の奥さんも一緒に事故で亡くなったらしいです。詳しくは分かりませんけど」
谷口家を襲った不幸がこれだけ重なると、故意のような感覚もある。もし、故意でなくても、よほど恨みに思うだろう。どうしてこんな災いに見舞われるのかと、世を嘆きたくもなる。
「……芳美ちゃんの事故、海外旅行での奥さんの事故、喫茶店の閉店ですか。大変だったんですね」
しかし、園長は、大きく顔を横に振った。谷口に同情する仕草にも見えた。
「しかも、まだあるんです。芳美ちゃんの事故から四年くらい経って、やっと産まれた赤ちゃんが産院からいなくなったって話を聞きました」
「いなくなった、ですって? 盗まれたのですか?」
「神隠しだって、その時は騒がれましたよ」
新生児が自分の足でどこかへ行くとは考えられない。考えられるケースとしては、看護師や第三者が誘拐や殺害を図るパターンだ。
いずれにしても、谷口家は結果的に、麻耶の過失死事故を切っ掛けに、〝悪魔に魅入られた〟如き不幸を味わった。その後の三つの事件の反復性や重要性から、やはり、故意が作用したとは、考えられないだろうか?
「その後、谷口さんは、どうされたんですか?」
「分かりません。失意のうちに、どこか別の土地に行かれたのかも……」
園長は、苦しさから逃れるためか、大きく天井を仰ぎ見た。
念のため、鹿島は、園長に谷口の写真があるかを訊ねた。しかし、返事は「もうない」という簡単なものだった。
確かに、遺族となった谷口家の写真を、加害者である幼稚園サイドが持つ必然性はない。また、事故の教訓を忘れない気持ちはあっても、事故自体を思い出したくない気持ちが勝るのも致し方ないのかも知れない。
「もしかしたら、その産院に行けば、何か残っているかも知れませんよ」
園長は、これ以上しつこく長引けば何を詮索されるか堪ったものではないと、鹿島を早く厄介払いにしようとした。産院の住所を告げると、強引に話を打ち切って立ち上がった。
「本当に本日は、ありがとうございました」
こうなると、鹿島もここから撤収せざるを得ない。突然の来訪と協力依頼の謝意を述べて立ち上がると、《みみと幼稚園》を早々に後にした。
麻耶の元夫とされる牧瀬の足跡を追ってやって来た福岡。この地で現れた新たな謎の連環に、鹿島は不可思議な思いを寄せ始めていた。
3
鹿島は、産院のある近郊の町へと行く道すがら、タクシーの中で、《みみと幼稚園》で仕入れた、新たに浮上した謎の一つ一つを、時系列的に考えてみた。
谷口家に起こった不幸は、どうやら麻耶による谷口芳美の過失死事故を嚆矢とするようだ。それは、二〇一〇年の夏だった。
二〇一四年の年末、谷口家に産まれた新生児が産院から行方不明となる。
二〇一五年の夏、気晴らしで訪れたバリ島で谷口夫人が轢き逃げに遭い、義理の弟の妻と共に死亡する。
二〇一七年の夏、抗争事件で煽りを受けた谷口家の喫茶店が、閉店の憂き目に遭う。
穿った見方をすれば、最初の芳美の事故を切っ掛けとして、三つの事件が誘発されたとも受け取れないだろうか。
芳美の死を受けても、子供を諦め切れなかった谷口夫妻は、四年越しで新たな命を授かった。しかし、その子が再び、何者かの手によって奪われる。
新生児の失踪事件に踏ん切りを付けるために気晴らしで訪れたバリ島で、谷口夫人が轢き逃げに遭い死亡する。
谷口氏は、死んだ夫人の夢だった喫茶店をどうにか開くものの、暴力団の抗争事件で、一年を待たずして閉店を余儀なくされる。
谷口家に起こった不幸の数々は、麻耶を初めとして、新生児の誘拐犯、インドネシアの轢き逃げ犯、暴力団(の顧問弁護士)によって引き起こされており、この構図は、東京における〝沢木黒幕説〟を中心とした一連の事件に、似通っている気もする。
葛海・ヤジド・麻耶の三者の思惑が沢木の仲介で達成され、沢木の手引きで三者が殺されたとする〝沢木黒幕説〟。
もし〝沢木=谷口〟ならば、東京の一連の事件と福岡の過去の出来事は、ちょうど裏返しのような関係にならないだろうか?
――谷口家が被った害意と、沢木から発せられた悪意。
つまり、それらは、〝沢木黒幕説〟で、今まで不明だった動機を詳らかにしている気がする。谷口家に起こった不幸な出来事に対する怨恨が、東京での三件の殺害の全てだったと……。
とするなら、沢木がターゲットとした三人――葛海・ヤジド・麻耶が、谷口家へ何らかの行為を及ぼしていなくてはならない。
すぐに、〝沢木=谷口〟〝麻耶=芳美死亡事件の加害者〟〝ヤジド=轢き逃げ犯〟〝葛海=暴力団の顧問弁護士〟という図式がぴったりと当て嵌まる(特に、轢き逃げ犯の特徴は、ヤジドの特徴と一致しているようだ)。だが、新生児の誘拐犯が誰になるかは、不明のままだ。
更に、沢木が復讐を考え、実行に移したにせよ、復讐の対象者がどのようにして沢木のコマとなったかも、分かってはいない。
鹿島が慎重な判断を下す前に、タクシーは一軒の古びた家の前に駐まった。
タクシー運転手は、間違いなく番地は合っているとだけ告げて立ち去った。門柱の楕円形の表札には、《宮本》と書かれている。しかし、患者の姿はおろか、住む人の気配すら感じられない。鹿島は訝しんで首を捻った。
苔生した石塀の向こう側には、重厚な佇まいの木造平屋の洋館が樹木に囲まれて建っている。門扉は閉ざされ、塀の上にちょこんと乗った横長の看板の褪色した文字が、ここが《宮本産院》であると微かに記しているに過ぎない。
鹿島は、それでも、閉ざされた門扉へ歩を進めた。ギーッと軋む音を上げて門を開け、狭い石敷きの道を奥へ進む。
建物の入口へ達すると、〝宮本産院〟と赤く大書された摺りガラスの嵌った木製の扉が待っていた。しかし、ノブには麻縄が何重にも掛けられ、「閉鎖中」の看板と共に、固く閉ざされていた。
致し方なく、鹿島は、更に建物を巡る敷石を回り込んで、お勝手と思しき戸口にまで進んだ。ここまで来ても、人の気配が感じられない。留守なのかと思いつつも、小さな呼び鈴を押してみる。
しばらくして、建物の遥か奥から僅かな音が上がり、人の気配が近付いてきた。在宅を安堵して待っていると、木製の扉の向こうで気配が止まり、鍵が開けられた。
「何か、御用とね?」
涼しげな白の紬と、風景を描き出した水色の帯に身を包んだ一人の老婆が、不思議そうに立っていた。結い上げた髪がすっきりと広い額を覆い、特徴的な鷲鼻にお窄ぼ口が小柄な体に似合っている。何とも古風な風情だ。
「ここが《宮本産院》と聞いてやって来たのですが」
「如何にも、宮本ばってん。産院は、何年も前に閉じたが」
鹿島の風体をじろじろと見て、出産間近の妻がいそうな既婚者だと判別しかねているようだ。それなら何をしに来たのかと、訝しく眉を顰める。
鹿島は、宮本の背に合わせて腰を屈め、丁寧に要件を切り出した。
「十年くらい前に、この産院で起こった〝新生児失踪事件〟についてお話を伺いたいんですが」
鹿島が《みみと幼稚園》の園長の紹介で来たと告げると、宮本は下唇を大きく突き出して、納得したように頷いた。
「探偵さんかね。……それにしたっちゃ、なして今頃なんかね? もうマスコミも騒がんくなって長かとに」
「実は、谷口さんの第一子の過失死についての調査の依頼があったもので、その一連の動きとして、第二子の失踪事件を調べさせてもらっています」
宮本は好奇心を刺激されたようで、目の中に不審の眼差しはなくなった。鹿島も、宮本の先入観を壊さないように、〝探偵さん〟に徹するようにした。
「入りんしゃい。まあ、ご要望に応えらるうかは、分からんけれどもね」
宮本は鹿島を元産院の待合室に招き入れた。
板敷きの待合室は、昔見た懐かしい雰囲気だった。埃だらけのスリッパに足を通すと、床がぎしぎしと音を立てる。数年前に廃業したというだけあって、気のせいか、空気が淀んでいるような感じだ。
久し振りに開けられたカーテンに、細かい塵が飛び交う。窓の鍵を開けて新鮮な空気を入れると、突然の来訪者に、待合室が戸惑っているようでもあった。
赤茶色の座席に腰を落として周囲を見上げる。染みのある天井の隅には蜘蛛の巣が張られ、蛍光灯も黄ばんだままだ。くすんだ壁の古い告知用のポスターや柱時計が寂しそうに見える。全体的に古くぼやけた印象を感じさせる。
しばらくして、宮本が盆を手に現れた。いそいそと客人に接する姿は、興味深い何かを期待しての態度だと分かる。二つ分のコップには麦茶がなみなみと注がれていた。
宮本も「よいしょ」と腰を下ろし、鹿島の正面に座った。すっと背を伸ばして座る着物姿には威厳があり、長年助産師を務めてきた矜恃と余裕すら感じさせる。
鹿島は、まずは遠慮がちなトーンで、宮本へ言葉を発した。
「こちらの産院から、新生児がいなくなったというのは、そもそも事実なんですか?」
「まあ、事実は事実ばいけど。当時は〝神隠し〟やなんて、マスコミが嫌に騒ぎ立てたけん、こっちとしては、甚だ迷惑やったわ」
宮本は、誰かに話したくて疼々していたらしい。催促してもいないのに、ぺらぺらと事件当時のあらましを喋繰り出した。
宮本の言葉によれば、谷口夫人が出産したのは、二〇一四年の一二月十九日。もうすぐクリスマスの頃合いで、夜半になってから雪もチラついたという。
当日の入院者は五組。出産後で数日後に退院の親子が二組、出産を控えた妊婦があと二組いた。宮本は助産師と看護師ら計四人の女性で忙しく世話をしていた。
谷口夫人は二人目ということもあって、比較的楽な出産だった。それでも、元気な男の子の産声を聞いた時は、夫共々、涙を流して喜び合った。
「そりゃ、元気な男ん子だったばい。ご両親とも手放しで喜んでらしたけんね」
鹿島は無理もないと思った。谷口夫妻は、麻耶による事故で心に大きな傷を負った。しかし、事故の傷も癒え、ようやく四年越しの子供を授かった心情は、察して余りある。喜びと感謝で大きく充たされていただろう。
「うちは当時も、最新鋭ん防犯システムなんぞなかった町医者ばい。よもや、あげん事件が起こるとは、想像もできんやったわ」
宮本は表情を一変させ、口許をぎゅっと引き結んだ。
出産翌々日の夜。谷口夫人の体調も回復してきたので、退院の目途も付いてきた矢先の出来事だった。保育室に寝かせてあった新生児がいないと気付いたのは、看護師の三度目の巡回の時だ。ドアや窓の鍵はしっかり掛けたらしいが、抉じ開けられた形跡はどこにもなかった。
宮本を初め、スタッフや谷口夫人、動ける妊婦までが総動員で産院内を捜し回った。騒動に気付いた隣家の住人も含めて周辺を捜し続けたが、結局、新生児は見付からなかった。
谷口夫人は泣き叫んで狂気を得たのかと思うほど心を乱し、やがて気を失った。連絡を受けてやって来た夫も、打ちのめされて絶望に沈んでいた。
警察にも届け出たが、逆に防犯意識の低さを指摘されただけで、思うような進展はなかったようだ。
ただ、一つだけ、気になる噂として、一人の若い女性の存在がピック・アップされた。女性は、秋口に近所に越してきたらしく、よく産院の近辺で目撃されていた。
「そん女が関わっとったちゅう話で、持ち切りやったばい。そん女が赤ん坊ば盗んだとね。うちゃ名前まで詳しゅうは知らんやったがね」
宮本は「詳しくは知らない」と言いつつも、谷口夫妻が噂の女性の家まで押し掛けて詰め寄った話とか、女性の夫に「自宅で産んだ」と強引に突っ撥ねられて追い返された話などを、滔々と語ってくれた。
「何回も押し掛けて問答するうちに、谷口さんの奥さんが過労で倒れたっちゃん。しばらく静養しとう間に、そん夫婦が逃げるごとおらんごつなったんや。所謂、夜逃げばい」
もし仮に、疑惑の女性が本当に新生児を誘拐するという罪を犯したのなら、その後、新生児と女性はどこに行ったのだろう。更に、一連の事件との関わりはあるのだろうか?
「夜逃げば聞いて、奥さんの症状が悪化してからは、訴えようちゅう気力も失しぇようばい。初めん頃は、マスコミも興味本位で取り上げたばってん、そんうち暴力団ん抗争事件がひどうなって、いつん間にか忘れ去られてしもうたね」
五十年余の産院運営で、初めての経験だったと宮本は嘆く。この産科医不足の折柄でさえ、事件を契機に来院者は激減し、八年前に閉院するに至ったという。
「無理矢理にでもDNA鑑定さえできとりゃ、もしや、とも思うたけどね。ばってん、本人が取り下げたんで、致し方なか」
事件の白黒を着けておけば、自分の産院も潰れずに済んだと言いたげに、宮本は肩を大きく竦めた。
「その後、谷口さんは、どうされたんですか?」
《扇屋》店主は、喫茶店を畳むまでは地元にいたと言い、《みみと幼稚園》の園長は、その後は失意のうちにどこかへ行ったのだろうと推量した。宮本は知っているのだろうか?
「うんにゃ。失踪事件以後ん行方は知らんねえ。気の毒とは思うばってん、うちもそれどころではなかったけんね」
残念ながら、閉院の窮地に立たされた宮本が、その後の気の毒な夫妻に興味を持ち続けていたとは、やはり考えにくい。
鹿島は、苛立ちと失望を募らせつつ、最後の一手に望みを繋いだ。
「宮本さんは、谷口夫妻の写真か何か、お持ちではないですか?」
宮本はしばらく、古びた脳を懸命に働かせてくれた。それで、やや自身なさげに待つよう言い残して、母屋に引っ込んだ。
再び待合室に一人で残された鹿島は、宮本の話に靄々した思いが、湧き上がるのを堪え切れなかった。あくまでも可能性の問題だが、一つの不謹慎な可能性に思い至って、心が昏くなるように感じた。
過失死事件を起こした麻耶が、新生児の失踪事件も引き起こしたのではないか、という疑惑だ。
麻耶は過失死事件の直後、心神喪失状態にあった。長年の保育士の夢が絶たれた中で、谷口夫妻に対して謝罪の念を抱きながら、ずっと自身を苛み続けていたのだろう。
その後の生活の中で、精神状態が落ち着いたとはいえ、心のどこかで、激しい懺悔の思いが渦を巻いていた事実は疑いようがない。
そんな麻耶が転勤で福岡に戻って来た時、谷口夫妻に子供ができたと聞き及んだら、どう感じ、どう行動しただろうか?
麻耶としては、初めは、かつて自らが起こした過失死に報いて、責任を取らなくてはと思ったのかも知れない。そう思い始めると、それまで収束していた心神喪失状態が一気に触発され、突発的に〝誘拐〟に突き進んでしまったとは考えられまいか?
また、牧瀬は普段から麻耶に好意を抱いており、盗んだ新生児を匿い麻耶を救うべく、〝夫婦〟となったのではないか。だから、麻耶が結婚式を挙げていなかったり、簡単に〝離婚〟できたりしたのだろう。
《扇屋》店主の〝牧瀬未婚説〟にも応え得る新説に、鹿島は自ずと身震いをした。つまり、この新説に従えば、光司が谷口の子であり、更に進めれば、光司が沢木の子である可能性すらある。
麻耶が光司を慈しみ、ある意味、命を懸けて育ててきた理由が、自分が犯した罪の償いのため、という考えは、鹿島には信じ難く、あり得ないものだった。
鹿島がこの呪われた思いを、大きく首を横に振って追い払った時、パタパタと床音を立てて、宮本が奥から現れた。戻った宮本の手には、一枚の写真が握られている。
写真を手に取ると、生まれたばかりの赤子を抱く女性が大きく映し出されている。くしゃくしゃな顔をして泣く赤子を抱く表情には、子供を授かった嬉しさと感謝の気持ちが溢れていた。母親は、子供を慈しむような眼差しで見詰めている。
「谷口さんの奥さんですね」
「こん写真しか、見当たらんやったばい」
残念そうに呟く宮本に反して、鹿島は谷口夫人の横に映り込む一人の男性の影に、興奮した。
生まれてすぐの母親と赤子の真横に立つ男性は、どう考えても夫に違いない。つまり、この男が谷口本人になる。
だが、男性の表情は、写真の端に斜めに映り込んでいる状態から、うまく窺えない。ただ、〝沢木黒幕説〟を説明できるほど、沢木に似ていないようにも思える。写真の男性は、顎や首に肉が目立って付き、太っている。以後に続く不幸により激ヤセしたとも考えられるが、判断は下し難い。
鹿島は、沢木の正体がはっきり分かると期待していただけに、中途半端な結果に脱力感を否めなかった。
しかし、この出産直後の幸せそうな写真からは、以後の三人の悲惨な末路を窺い知れない。鹿島は胸に込み上げるものがあった。
「宮本さん、もしご存知なら、谷口さんのお墓の場所を教えて頂けませんか? 是非とも手を合わせていきたくなりました」
宮本は、また下唇を絞り出すように突き出して呟いた。
「……確か、柳川市の勝暁寺ちゅう所ばい。おらんごとなった赤ん坊は、死んだもんと諦めようって、葬式ば挙げたんや」
4
鹿島が柳川の勝暁寺を訪れたのは、翌日の朝だった。
鹿島は、昨晩、ホテルの部屋で一人悶々とした時を過ごした。
麻耶が谷口から奪った赤ん坊が光司なのかという問いが、何度も鹿島の思考を過った。その度に麻耶の端正な笑顔が横切って、鹿島の思考を遮っていく。時としてドアの外に異様な物影を感じ、それが麻耶の強い念のせいではないかと、戦慄しもした。
牧瀬は、麻耶とどこで知り合ったのだろうか? それも鹿島を悩ませた疑問の一つだ。もし、麻耶が罪を犯して誘拐に及んだ場合、なぜ牧瀬を頼ったのか。しかも、そんな非常事態に頼るほど、牧瀬を信頼していた理由は何か?
勝暁寺は、市街地から少々離れた山裾に、堂宇を拡げて建っていた。江戸時代半ばの創建という歴史が、本堂や山門に趣を添えている。
寺域の北側に位置する、さほど広くない墓地内では、谷口家の墓はすぐ見付かった。《みみと幼稚園》の園長が、谷口芳美の命日である二十一日頃に供えたと思われる仏花が、六日経った今日でも、まだ鮮やかに残っていたからだ。〝谷口家累代之墓〟の墓石の裏に、芳美のものと思われる戒名と〝平成二十二年七月二十一日〟の文字が刻まれている。
鹿島は、寺近くのコンビニエンス・ストアで購入した線香を供え、頭を深く垂れて手を合わせた。谷口家への追悼と、事件の早期解決を改めて願う。
麻耶の引き起こした谷口芳美死亡事故を嚆矢に、《宮本産院》で十年ほど前に起こった新生児失踪事件、インドネシアで発生した谷口夫人轢き逃げ事件、谷口家の夢だった喫茶店を閉店に追い込んだ暴力団抗争事件。それに、これら三つの出来事に関連・符合すると思われる、東京で起こったヤジド・葛海・麻耶の殺害事件が、互いに密接な関係にあると、鹿島は考えていた。
谷口=沢木の関係が明らかになれば、自ずと事件の謎は収束の方向で動くはずだ。当時失踪した新生児と現在の光司の年齢が一致するのも気になるところだ。しかし、鹿島は、ここまで事件調査が進捗する中でも、麻耶を信じたい気持ちも、少なからずあった。
鹿島の思い描いている麻耶像は、もはや、鹿島個人の思い出の中だけの美化された虚像に過ぎないのだろうか。
鹿島が目を開けると、人の気配を感じた。元来た通路の端に、やはり花と水桶を持った一人の女性が、鹿島の祈りを終えるのを待つように佇んでいた。
女性は長身で短髪、やや頬が扱けており、細い目に通った鼻、小さな口許が控えめな印象を与える。水玉模様の白いワンピースを着て、低めの赤いヒールが目を引く。
鹿島が会釈を返すと、女性はヒールの音を立ててゆっくりと近付いてきた。
鹿島がもう一度、谷口家の無念に思いを寄せようと墓を見上げていると、鹿島の真横でヒールの音が止まった。
ということは、この女性も谷口家の縁者か、幼稚園の関係者なのだろう。鹿島が脇へ避けると、女性は下に水桶を置いた。
「幼稚園の方ですか?」
鹿島の質問に、女性は不思議そうに眼差しを返した。どうやら鹿島こそ幼稚園の関係者と思っていたらしい。とすると、この女性は、谷口家の関係者なのだろうか? 谷口芳美の命日の前後に花を手向けに墓を訪れる人間は、いずれにせよ、事件を知る者だ。
「桜井博代と申します。久保田麻耶の知人、同級生です」
女性も、鹿島が事件の関係者だと認識したようで、初対面の鹿島に、澄んだ落ち着いた声で、麻耶の名を向けた。
意外な答に、今度は逆に鹿島が不思議な感覚を得た。どうにも、同級生の起こした事故で、被害者の墓に香華を手向ける理由が分からない。
「あなたは?」
「鹿島正健です。爆殺された久保田さんの最期を看取った者です」
博代は、鹿島の素性を知っても驚かなかった。それは、博代が麻耶の爆殺死を知っており、しかも、麻耶を看取った鹿島が、なぜ谷口家の墓へ辿り着けたかも理解しているからと考えられた。
鹿島は、現段階では不透明な、麻耶の福岡での深い事情を、博代が知っていると判断した。
「桜井さんは、どうしてこちらのお墓に花を?」
「鹿島さんもご存知だから、ここへいらっしゃったのでしょう? 麻耶が谷口さんにしてしまったことを」
博代は静かだが、今さら言うべくもないと、批判めいた眼差しを向けて鹿島に答えた。
確かに、谷口家の墓へ麻耶の知人が花を手向ける理由は、限られている。だが、その数少ない理由が問題なのだと鹿島は思い、返答を躊躇った。
博代は、手にした花束を墓前に供えながら囁き続ける。
「麻耶は私の掛け替えのない親友でした。その麻耶が犯した罪のために、谷口家がこれ以上ない迷惑を被ったのです。麻耶も亡き今、誰が谷口家を弔うというのでしょう?」
〝これ以上ない迷惑を被った〟という博代の言葉が、麻耶が過失死事故だけではなく、新生児失踪事件に大きく関わっていると、鹿島は直感した。
「あなたが仰っている〝罪〟とは、十五年前に久保田さんが誤って園児を死亡させた件ですか? それとも十年ほど前に起こった新生児失踪事件でしょうか?」
博代は一瞬、目を瞠って墓石に目を転じた。全てを悟ったように視線を伏せて黙す。
「いずれにしても、久保田さんの親友のあなたが花を手向ける理由が、私には分かりません。ただ親友だからといって、そこまで責任を感じるというのも、不自然な気がするのです。……お教え頂けませんか? 久保田さんや死んでいった人たちのためにも」
鹿島は、博代が谷口家の墓を訪れなければならなかった別の理由があると確信した。それを、博代本人の口から聞きたいとも思った。ここまで責任感のある博代なら、告白してくれると信じたかった。
新しい線香に火を点けると、博代は香台に丁寧に線香を置いた。祈りのため深く頭を垂れてから、緊張の面持ちで目を上げる。
博代は、ゆらゆらと立ち上る香煙を見詰めながら、しばし何かに思い耽っているようだった。鹿島に告白すべきか、逡巡しているようにも見える。鹿島も博代の思考を邪魔せぬように、漂う香煙を目で追うに留めた。
ややあって博代は面を上げ、重く秘めた気持ちを吐き出すように呟いた。博代の横顔には、一切の苦痛の色も浮かんでいなかった。吹っ切れたような爽やかささえ感じられる。
「あの新生児失踪事件の後、麻耶を匿ったと、兄から直接はっきり聞きました。……私は牧瀬保の妹です。私は、先日結婚して福岡から離れるので、ここに来ることもなかろうと、最後に立ち寄ったんです」
博代は、牧瀬保の妹だった。しかも博代は、麻耶が新生児失踪事件の直接の加害者であり、兄である牧瀬保が麻耶を匿ったとも証言した。
もし、谷口が復讐するとすれば、ヤジドに対して〝インドネシア〟の壁があって、復讐を断念せざるを得ないとしても、牧瀬保は確実に復讐の対象となっただろう。
鹿島の胸内では、絶望感が何度も漣の如く渦巻いた。今まで思い描いていた〝隣人・久保田麻耶〟の美麗で魅力的なイメージが崩れ去り、最後の砦であった光司の存在までが、脆くも空虚なお伽噺のように感じられた。
「……ということは、あなたが久保田さんと牧瀬さんを?」
「ええ。麻耶を兄に紹介したのは、私です。摩耶が大学の四年生の二〇一二年の春頃、過失死事件の痛みが癒されてきた後です」
親友思いの博代が、心の支えにでもなればと、兄を紹介したのかも知れない。
「牧瀬保さんは未婚だったと聞いていますが、久保田さんとの結婚を望まれたんでしょうか?」
「兄と麻耶はかなり親しくなりましたが、兄は、最後は拒みました。麻耶は結婚を望みましたけど……」
博代は、寂しさと懐かしさの混ざった眼差しを宙に向けた。
「二人は愛し合っていなかったんですか?」
麻耶にとって牧瀬とは、単なる頼りになる知人ではあっても、最後まで心を許し合うパートナーにはなれなかったのだろうか。
「兄は、麻耶を愛していたと思います。ですが、受け入れることを懼れたのです。自分が過去に犯した罪の大きさに苛まれて……」
博代は目を固く閉じて、自分の口から出した言葉の重さに後悔しているようにも見えた。麻耶が芳美に対して犯した罪のようなことを、牧瀬保も犯したとでも言っているようだった。
「兄は、それで殺されたのでしょうね」
しかも、その大きな罪が原因で殺されたとは、具体的には、どういう意味なのか? 牧瀬は暴力団に殺された疑惑が上がっている。
「暴力団に殺された原因が、お兄さんが過去に犯した罪にある、とでも?」
「かつての親友に殺されるだろうと、生前、兄は言っていました」
博代は、暴力団などとは一切の関わりがない、とでも言うように、鹿島の問いに答えなかった。しかも、牧瀬がその親友を裏切った報いを受けて殺されたような言い方だ。親友とは、いったい誰なのだろう。
鹿島は、次から次へと博代の口を衝く重大な言葉の洪水に、混乱を来していた。牧瀬保の親友とは誰で、犯した罪とは何なのか? しっかりとした説明が欲しかった。
鹿島があまりにも不審に満ちた顔を晒していたのだろう、博代は何の感情をも重ねずに、事実だけを淡々と続けた。
「……兄は昔、インドネシアで傭兵をしていました。反政府義勇軍に雇われていたと聞いています」
〝傭兵〟という言葉もさるものながら、〝インドネシア〟というキーワードに、鹿島は顫えを隠せなかった。胸の裡から湧き出てくるような悪寒が、どんどん体を顫えさせる。ヤジド、それにルクマンとアディの顔が瞬時に浮かんだ。
牧瀬が、傭兵仲間である親友に殺されたとは、直ちには承服しかねた。だが、強ち全くの出鱈目という気はしなかった。事件に関わったヤジドが、インドネシアの諜報機関所属だった経緯もあるし、傭兵の高い技術なら、自殺に偽装するのも容易だろう。
「そもそも、麻耶が潮汐発電に興味を持つようになったのは、兄の影響なんです。なんでも兄は、インドネシアで潮汐発電所の警護や建設にも携わったそうです」
保育士の道を絶たれた麻耶が潮汐発電開発の道に進むとは、その後の麻耶の人生を考えると、牧瀬保が如何に重要な存在だったかが分かる。
「詳しくは知りませんが、その後、義勇軍の分断を図った政府軍に内通し、盟友たちを裏切って殺してしまったそうです。傭兵仲間の親友はそのまま義勇軍に残留し、袂を分かちました。兄は、親友との血盟を反故にして、政府軍の犬に成り下がったとか」
博代は、兄の恥ずべき罪科をも、ただ淀みなく言い切った。
「義勇軍とは、反政府武装勢力のことですか?」
「恐らく。確か、アナン……」
「アナンタボガ」
鹿島は、絶望を口にしたように、不吉な思いに満たされた。
インドネシアの〝伝説の龍王〟を意味する言葉で、反政府武装勢力の名にも用いられており、特定の希少馬をも指す。もう、疑う余地のない確実な関わりが、鹿島を強く縛り付けた。
「よく、ご存知で。……兄は友と戦い、結局は惨敗を喫したといいます。敗北を機に傭兵稼業から足を洗い、帰国しました。麻耶に兄を紹介したのは、兄の帰国した直後です」
過失死事件を起こした麻耶と、親友を裏切って戦い敗れた牧瀬。心に傷を負った二人は、博代によって結び付けられた。
だが、二人は重なるべき運命になかった。そのせいか、麻耶は、過失死による心の傷から確実に快復できなかった。結果として、麻耶は再び、大きな過ちを犯してしまったと言えようか。
もし、牧瀬がこの時に麻耶を受け入れていれば、それ以上の不幸が谷口家を襲ったと、誰が断言できよう。
「あなた以外に、この谷口家の墓を詣でる人もいない、と仰いましたが、谷口さんがどこへ行かれたかは、ご存知ありませんか?」
《扇屋》店主、《みみと幼稚園》園長、《宮本産院》元助産婦の誰もが、口を揃えて、谷口の行方を知らないと答えた。
谷口は、世間に知られずにフェード・アウトしたように見える。復讐を果たすために、沢木に化すべく、故意に消えたのだろうか。
「失踪事件以後の話は、私には分かりません。ただ、谷口さんは、婿養子だったと聞いています。もしかしたら、実家にお戻りになったのかも知れません」
谷口が婿養子だとは初耳だが、博代は、逆に、谷口姉妹が共にインドネシアで事故死した件は、知らないようだ。
「谷口さんが義理の弟さんと、喫茶店を開いたとは聞いていませんか?」
博代は、首を左右に振って、〝否〟と応じた。
「ですけど、実は、その義理の弟が……兄の親友なんです。名前こそ存じませんが」
鹿島が極度に驚いて博代を見返した時、谷口家の墓石が突然、ハレーションを起こしたように、顫えた気がした。聞いてはいけない情報を手にしたために、谷口家の祖霊が憤ったのかと、刹那、訝った。
すぐに、また、ひゅんと音がし、次の瞬間、今度は墓石の角が細かく砕け散った。
鹿島は瞬時に危険を感じ、博代を庇って地面に伏せる。狙撃である。
背筋が強張り、汗が瞬く間に凍り付いた。
更に続けて、遠くで銃撃音があり、隣家の墓石で銃弾が跳ねた。
思いもかけない展開に、博代は死人のように蒼白な顔を晒し、ただただ頭を抱えて、恐怖に顔を歪めている。
「どこだ? 誰だ?」
鹿島は狼狽えつつも、墓石の陰から敵の居場所を見極めようと試みた。しかし、天に沸いた雲居の高みから狙い撃ちされるように、全く位置が掴めない。
ただ、高度な技術と執念で、鹿島を葬り去ろうという魂胆は明らかである。供えた花が大きく散った。
俄かに〝傭兵〟という言葉がまた、重要な意味を持ち始めたと悟った。更に〝インドネシア諜報機関〟という単語が明確に脳内で蠢き騒いでいる。
ひゅんという銃弾に加えて、誰かが叫びながら墓石の間を近付いてくるのが分かった。
「伏せていろ! 今、行く」
三河の部下、笹田だった。不躾だが、あのがっしりとした体躯が、これほど頼もしく思えたことはない。黒いスーツを墓石の苔に摺り付けながら応戦する様は、無敵の援軍の到来を感じさせた。
笹田は、予想通り鹿島を尾行して、わざわざ福岡までやって来ていた。《みみと幼稚園》前で鹿島が轢かれそうになった時から、特別な警戒を続けていたのかも知れない。
笹田は慎重に拳銃を掲げて、狙撃者の位置を特定しようとしている。撃つ角度からいって、狙撃地点は、一ブロックほど離れた、太陽を背にしたビルの屋上からのように、鹿島には思えた。
鹿島は、三度目の襲撃に身を晒しながら、細かく状況を分析し始めた。
今後、笹田の援護をもらいつつ、警察のバック・アップを受けられよう。だが、その場合は、これまで鹿島が得た情報を最大限、警察に渡さなければならなくなる。もちろん、沢木の件も同様で、警察は沢木に対して非常な関心を抱くだろう。
そうすれば、沢木も自然と警戒線を張り、むやみやたらに動かなくなる。ようやく姿を見せ始めた、沢木と共にいる義理の弟の存在も、闇の中に埋もれかねない。
では、このまま警察の前から逃亡犯のように消え去ることは可能だろうか? 事情を知る博代が、少なからず事の仔細を警察に伝えるはずだ。
だが、三河は〝鹿島の保護〟を名目に、ここぞとばかり鹿島を追跡するだろう。もし、沢木に逃げられれば、鹿島を犯人に仕立てて事件の幕引きを図るかも知れない。そうなれば、今までの努力も水の泡となるだけでなく、身の破滅である。少なくともここでの〝保護〟は避けたいところだ。
鹿島は、進退が極まった感じがし、近付きつつある笹田を睨んだ。
「無事か?」
「まさか、こんな場所で、あなたと再会できるとは、思いもしませんでしたよ」
「同感だ。何の因果か、警察には市民を悪から守る義務がある」
鹿島は、笹田の尤もらしい言葉に、嫌味と皮肉を感じた。あくまでも、この狙撃によって〝重要参考人〟である鹿島が命を落としては、話にならないだけなのだ。
「それより、銃撃者に心当たりはあるのか?」
「あるわけないでしょう」
鹿島は、反射的に突っ撥ねた。だが、鹿島の直感は、傭兵上りの、谷口の義理の弟が襲撃者だと、告げていた。
谷口家を襲った不幸は、谷口夫妻だけでなく、妻を奪われた義理の弟にも暗い影を落としていた。しかも、傭兵として袂を分かった牧瀬保本人が、谷口家の血を引く唯一の生き残り光司を盗み去ったと知った義理の弟が、谷口と共に復讐に及んだとしても、不思議はない。元傭兵としては、銃器の扱いや入手経路も問題ないのだから。
また、手際のいい偽装自殺すら、元傭兵は容易に熟せたのではないか。牧瀬を自殺に見せ掛けて殺すのも朝飯前だろうし、牧瀬の暗殺を葛海の仕業として、暴力団に擦り付けようとしたのではないか。そのために葛海は福岡を追われる羽目になった。
更に穿った見方をするならば、元傭兵の諜報能力も捨てたものではないかも知れない。一の橋の交叉点や鹿島の福岡上陸だけでなく、元傭兵の目は、常に邪魔な鹿島に注がれていただろう。下手をすると、勝沼との接触に加え、《レストラン・アナンタボガ》や《リンガ・リンガ》の調査ですら逐一把握されていた可能性もある。
鹿島の全ての行動が、谷口の義理の弟に監視されていた可能性が高いとは、素人の注意なぞ、高が知れていると思い知らされた。プロには、鹿島の行動は手に取るように明らかだったわけだ。
次の瞬間、嫌な音がして隣の笹田が弾き飛ばされた。笹田は地面に投げ出され、血の噴き出る肩口を押さえて、苦しそうに悶えている。博代も血を見て、腰を抜かさんばかりに動転している。
「大丈夫ですか、しっかりして下さい」
鹿島が近付いてスーツを取り去ると、笹田の右肩から鮮血が滴り溢れてくる。素人目からも、弾は貫通していたが、かなりの重傷に見えた。歯を食い縛って、「痛い、痛い」と繰り返すばかりだ。
邪魔者がいなくなったとばかりに、狙撃者は、非力な鹿島を確実に謀殺しに近付いてくる。このまま墓石の陰に怯えて隠れていても、銃撃音の通報を聞いた警察が到着するまでには、難なく任務を達成されるだろう。鹿島は、顔面蒼白で意識が不確かな博代に、向き直った。
「いいですか? 明らかに敵の目標は、私です。だから、このまま逃走させてもらいますよ」
鹿島の言葉を聞くと、博代は暗殺者の手の中に置き去りにされるのは御免だと、大きく首を横に振った。
「大丈夫。私は、墓石の間を抜けて本堂と反対の方向に走っていきますから、あなたは敵が私を撃っている隙に、本堂へ走って下さい」
絶望に満ちた顔で博代は更に強く首を振る。だが、鹿島は、有無を言わせずに、手短に用件だけを伝えた。
「本堂に着いたら、住職さんか誰かに経緯を説明して、保護してもらって下さい。警察はすぐに来ますから、安心して」
鹿島の鉄の意志を見たからか、何を言っても無駄だと判断したからか、博代は今にも泣きそうな顔で懇願しつつも、微かな頷きを見せた。
「それと、この人は殺しても死にませんから、放っておいてあげましょう。ただ、これは貰っていきます。なあに、悪いことには使いませんよ」
鹿島は、内ポケットから笹田のスマホを取り出して、博代に掲げてみせた。
笹田は、痛みの狭間で若干の抵抗を試みようとした。だが、次から次へと突き上げる痛みに、抵抗は虚しく終わった。
もうしばらく笹田が持ち堪えると確信した鹿島は、しばし中断された狙撃が、いつ鹿島の頭上で始まるかを警戒しながら、隣の墓石の隙間からビルを仰ぎ見た。
狙撃者は、鹿島が次にどういう行動に出るか、分かっているはずだ。まだ狙撃地点を離れずに、今も、スコープの中心に鹿島の頭部を据えようと、待ち構えている。パトカーのサイレンは、まだ耳に届いてこない。
鹿島は決断を下した。最後に、立ち上がった博代を振り返って笑みを向けると、できるだけ姿勢を低めてダッシュした。目指すは、墓地奥の地蔵堂だ。
ほぼ同時に狙撃が再開され、銃弾の嵐が鹿島の行く手を襲った。墓石や敷石で弾ける銃弾を掻い潜って、走れるだけ走った。腿や肩を銃弾が掠っていき、じりっとした痛みが上がったが、それでも鹿島は走り続けた。
無理な運動で筋肉が悲鳴を上げたが、どうにか鹿島は、小さな地蔵堂の陰に飛び込んで、一旦は難を逃れた。肺と全身の筋肉がおかしな具合に収縮し、しばらくは動けそうになかった。
一発の銃弾が地蔵堂のトタン屋根に穴を空けたが、幸いにも、それ以後の狙撃は止んだ。覗くと、博代が懸命に本堂へ走り込んだのが見え、鹿島は取り敢えず、安堵した。
鹿島は息を整えつつ、地蔵堂を盾として、ゆっくり後退した。低い生垣と竹藪を潜り抜けると、寺裏の間道に出た。ここまで来てしまえば、狙撃者の攻撃はないと見ていい。遠くサイレンの音がし始め、もはや互いに、この地に留まる理由もなくなった。
鹿島は、汗と泥と血の滲んだシャツを気にしつつも、柳川を離れることにした。もう、福岡の地でやるべきものはないと判断し、次に東京で何をするかを、具体的に模索し始めた。
第7章 恩讐の果て
1
鹿島は勝暁寺を出た足で西鉄の柳川駅へ向かい、駅前の旅行代理店で、午後発の航空券と空港までの高速バスのチケットを購入した。
今頃は、勝暁寺で銃撃されたまま逃走した鹿島を追って、警察が動き始めただろう。即刻、福岡空港や博多駅に手配が及んだはずだ。
そこで、警察による足止めを避けるため、鹿島は佐賀空港の利用を選択し、しかも、航空券を入手するのに、偽名を使った。
柳川駅から佐賀空港へバスで走る間も、鹿島は、麻耶の親友だった桜井博代が口にした言葉を、何度も胸の中で反芻していた。
十年以上前に《宮本産院》で発生した新生児失踪事件は、麻耶が引き起こしたと、博代は言った。その上、博代の兄の牧瀬保が夫婦を装って、麻耶と盗んだ新生児を匿ったという。
鹿島にとって、覚悟していた事態とはいえ、やはり信じられない思いに、熱い胸が引き裂かれそうだった。
麻耶は、かつて自らが起こした谷口芳美過失死で著しい心的ショックを受け、谷口夫妻に子供ができたと聞き及び、突発的に犯罪を起こしてしまったと見ていい。
当時の摩耶の心境は測るべくもない。だが、恐らく、谷口家の新たな命を、今度こそ、自らの手で守ってみせようという思いが働いたのかも知れない。
一方で、牧瀬保は、妹に紹介された麻耶を、愛していたという。だが、麻耶が望んだにも拘わらず、実際には結婚には至らなかった。
それは、牧瀬が以前に犯した大きな罪故だそうだが、その罪とは、かつてインドネシアで傭兵をしていた際に、親友を裏切って多くの同志を死に至らしめた罪だという。
また現れた〝インドネシア〟というキーワード。しかも、牧瀬が傭兵として、反政府武装組織に所属していたと聞き、鹿島は驚きを隠せなかった。因縁めいた数々の事象が、一つずつ細かな結合を繰り返しては、本来の場所にぴったりと収まっていくような気さえした。
《アナンタボガ》はインドネシア政府が手を焼くテロ組織の一つで、牧瀬は政府の策に嵌って内通者となり、多くの血盟者を裏切った。その罪が牧瀬の心に、生涯に亘って大きく昏い陰を投げ掛け続けた。
《アナンタボガ》に政府軍が惨敗を喫した戦い(当時まだ政府軍の兵士だったヤジドの顔に大きく傷を残したのも、この時の戦闘だったかも知れない)を契機に、牧瀬は傭兵を辞して帰国。直後に麻耶を紹介されたわけだ。
牧瀬は、麻耶を愛することで、犯した裏切りの罪を忘れたかったのかも知れないし、その後《平穏な日常を取り戻す会》の仕事を請け負った理由も、後ろめたい思いが、強く影響を及ぼしていたからだと想像できる。
また、牧瀬保が自殺に偽装されて殺害された件も、舞い戻った元傭兵の親友に、仲間を裏切った報いを受けてだと、博代は話した。
牧瀬は、友の手によって殺される自らの死を、悔いただろうか? それとも、過去の裏切り行為による報いを、抵抗なく受け入れたのだろうか?
その舞い戻った親友こそ、谷口と共に喫茶店を開いた谷口の義理の弟だという。谷口は婿養子で、喫茶店の閉店後は実家に戻った可能性もある状況から、谷口の旧姓が沢木だとも考えられまいか。
谷口=沢木だと明らかになれば、元傭兵という肩書から、東京での今までの殺害事件だけでなく、鹿島の身に三度も襲い掛った魔の手が、沢木主導で義理の弟が直に手を下したと証明できる可能性がある。
空港の待合室の大画面テレビでは、沢木雅知が相変わらず、知的な口調で熱弁を揮っていた。コメンテーターとして、今朝方に起こった社会事件の背景に潜む心の闇を解説している。
この紳士然とした態度が、鹿島に取ってみれば、全てが嘘臭く感じられる。偽善の仮面を被った悪魔が、自分の名声に北叟笑んでいる感じがしてならない。
鹿島は、そんな沢木の化けの皮を早く剥がしてみたいと思う一方で、今さらながら、大きく膨らんでいる躊躇の気持ちも否められなかった。沢木の真の姿が暴露されれば、麻耶を初め、多くの人たちの秘された過去も白日の下に晒される結果になるからだ。鹿島の調査のせいで、他人に不快感を齎す結果になるのは、本意ではない。
しかしながら、事件の真相をこのまま埋もれさせるわけにはいかなかったし、ここまで積み上げてきた成果を無駄にもできないと、思い直す。
考えてみれば、麻耶が谷口芳美の名前を最期の言葉として鹿島に遺した理由も、誰にも伝えられなかった真実の叫びを託されたからではないのか。
それでも敵方は、卑怯で容赦ない遣り口で殺害を続けてきた。鹿島の許にも、直接的な狙撃という方法で攻撃を仕掛けた。今回、鹿島は、辛くも難を逃れたが、敵はすぐにでも次の手を打ってくるはずだ。そもそも、狙撃という方法自体に、敵の焦りが感じられる。
だからこそ、こちらが先手を打てれば、相手を更に追い詰められよう。そこに勝機も生まれてくるに違いない。
それでは、実際問題として、鹿島は次に何をすべきだろうか。
谷口の正体へと直接繋がり得るものは何かと考えると、やはり、谷口の義理の弟についてだろう。
しかし、元傭兵で牧瀬と同じ《アナンタボガ》に所属していたという以外、名前も相貌も不明な人物を探る術は、そう容易ではない。
ただ、インドネシアとの関係から、正体を浮き彫りにはできないだろうか。ヤジドや牧瀬が死に、アディにも近付けない状況下では、ルクマン以外に聞き質す人物はいないだろう。
鹿島は、ルクマンが最後の鍵を握っていると確信していた。ただ、前回は物別れになっているだけに、少々強引なアプローチが必要かも知れない。
羽田に無事に着いた鹿島は、その足で《鳥海システム》にタクシーを飛ばした。夕方の帰宅の時間には、間に合いそうだった。
ルクマンが政府の人間に反政府組織との内通を疑われた結果、亡命を決意した話は、本人の口から聞いた。
もし、ルクマンが、自身の研究に対する不信や不満から、政府に対して相当な反発を抱いており、本当に反政府組織と連携の動きを見せていたなら、反政府組織と少なからず接触していたとも考えられる。あの時の口調は、政府に対する激しい憤りすら感じられた。
とするならば、《アナンタボガ》に傭兵として属していた牧瀬の情報も、持ち合わせていないとも限らない。牧瀬に裏切られて大打撃を被ったのなら、なおさらであろう。
逆に、裏切らずに信念を通した谷口の義理の弟に、畏敬の念が払われていても、不思議はない。
《鳥海システム》に到着すると、鹿島は真っ先に受付へと向かった。受付嬢にルクマンに対する取次ぎを依頼する。
無論、アポなしの鹿島の願いは却下されるだろう。ルクマンはもう鹿島とは接触を持ちたくないはずだから。そのため、鹿島は《アナンタボガ》の件で至急話したい、と伝えるよう受付嬢に付け足した。
受付嬢は、麻耶がカウンセリング・ノートにメモ書きしたように、手許のメモに《アナンタボガ》と丁寧に書いてから、受話器を手に取った。
魔法の言葉である《アナンタボガ》が功を奏したようで、ルクマンは鹿島に自室まで来るよう渋々ながら許可した。受付嬢にルクマンの自室までの行き方を教えてもらい、その順路通りに進む。
高層階エレベーターで三十二階まで上り、秘書室とセキュリティーを通ると、大きな部屋に出た。扉には〝特別重役室〟とある。潮汐発電で故国に先を越されたとはいえ、課長の肩書が、既に、派手にランクアップしていると知って、鹿島は驚いた。
大理石敷きの広い部屋は、様々な調度や装飾品で埋められていた。棚や壁には式典の写真や開発計画の地図などが巡らされ、子供の背ほどある九谷焼の壺や、見事な観葉植物が部屋を豪華に飾っていた。インドネシアの聖獣バロンの可愛らしい置物も棚に置かれている。
彫りの深い大きな目のインドネシア人は、鹿島が戸口に現れると、やれやれといった風に重い腰を上げた。人払いは既にできているようで、SPの姿も見受けられない。
「あなたには、もう会う機会もないと思っていましたが。妙な単語をご存知ですネ、鹿島サン」
ルクマンは鹿島がソファに座ると、挨拶も省いて話を切り出した。
「もうちょっと、お話を聞いておいたほうがいいと思いましてね。〝特別重役〟さん」
ルクマンは、鹿島の皮肉を受け流すと、自分の豪勢な椅子にどっかと再び身を委ねた。
「《アナンタボガ》のことでしたっけ?」
緊張と苛立ちの籠った表情で、鹿島を睨み付ける。またしても、執拗な追及が始まるのかと、落ち着かない。
「簡単な質問を幾つか、お訊ねするだけです。あなたが《アナンタボガ》と呼ばれる反政府武装勢力と大きく関わっていた事実は分かっています」
ルクマンは下唇を突き出して、天井に視線を向けた。鹿島には、観念して関係を素直に認めたようにも見えた。
「あなたは確かに、純粋に潮汐発電システムを開発して、電力の安定的供給を目指していたのでしょう。でも、そこに政治的な介入が発生し、現地の人々を追い詰めていった。結果的に、政府に反発するグループが力を持つに至ったんですよね……」
「そうですヨ。その一つが《アナンタボガ》と呼ばれている集団です。主に政府の圧迫に為す術なく決起した、言わば、犠牲者ですネ」
ルクマンは開き直りとも取れる強い眼差しを、鹿島に寄越した。ルクマンの《アナンタボガ》に対する思いは同情的であり、一途だった。少なくとも好意を抱いているといっていい。
「あなたは、政府に対する不満という点では、彼らと一致していました。初めは擁護しただけに過ぎなかったけれども、そのうち、連携を深めるようになっていった。違いますか?」
ルクマンの燃えるような眼差しは、更に輝くようだった。「それの何が悪い」と訴えている。
「やがて、そうした関係が公になり、あなたは亡命を余儀なくされたのでしょう?」
鹿島の推測を聞くにつれて、ルクマンの鼻息が徐々に荒くなってきた。こうした興奮した態度からして、ルクマンと《アナンタボガ》の蜜月関係は、明らかだろう。
鹿島は、これ以上ルクマンを激昂させてもマイナスだと判断し、話題を変えてみた。
「……ところで、その《アナンタボガ》に日本人傭兵が所属していたと、知っていますか?」
「日本人……? あそこには各国から、傭兵が集められてましたからネ。日本人の傭兵がいたとしても、全く不思議はない」
「牧瀬保という傭兵がいた記憶は、ありますか?」
〝牧瀬保〟という言葉を聞いた時、ルクマンの瞳に冷ややかな彩りが纏わり付いたのを、鹿島は見逃さなかった。
「ご存知なんですね? 牧瀬保は、少なからず《アナンタボガ》に影響を及ぼした人物なんですが」
ルクマンは、鹿島に心の裡をこれ以上覗かれないように、静かに瞼を閉じた。気持ちを落ち着けようと努力しているようだった。
「……鹿島サン。前にも申し上げましたが、あなたと会うと、心の中を全部すっかり見られている気がして、怖いですヨ」
「もちろん、ご存知なんですね、牧瀬保を?」
ルクマンの瞳の奥の、最後のベールを剥ぐような視線を投げ掛けつつ、鹿島は質問を重ねた。ルクマンは視線を俯かせて最後まで抵抗したが、やがて静かに降伏の溜息を吐き出した。
「……マキセは、《アナンタボガ》にとって、まさに死神と言える存在でした」
静かに言葉を発しないと、怒りを制御できないといった有様だ。鹿島はそっと先を促した。
「……マキセは、いつの間にか、政府の犬に成り下がっていました。いつ、どうやって接触したのかまでは分かりませんが、《アナンタボガ》の内情から、次の軍事作戦の詳細まで、多くの情報を売り渡していたのデス」
機密情報の多くが政府に筒抜けだったとは、《アナンタボガ》にとって致命的な行動と言わざるを得ない。
「それで、多くの同志が失われたと?」
「夜間の急襲が待ち伏せされて、壊滅の危機に瀕した作戦もあったようデス」
無念を訴えるような眼差しが、ルクマンから放たれた。牧瀬に対する憎しみも、一緒に溢れている。
「もう一人、牧瀬と親友だった日本人がいたと、聞きましたが」
牧瀬の親友の記憶を甦らせたのか、ルクマンは一転、顔を輝かせた。
「その人のお蔭で、逆に偽情報をマキセに与えて、政府に大打撃を与えられたという話デス。その日本人は、まさに英雄でした……」
「その日本人の名前を、知っていますね?」
ここでルクマンは、再び言い淀んだ。だが、鹿島に嘘を吐いても無駄だと、すぐに投げ遣りに言葉を継いだ。
「ええ。よく知っています。……あなたもご存知ですヨ。……ヨシムラ ミチノブといいます。我が社の一員デス」
以前、麻耶の葬儀場で、同じ言葉を聞いていた。デジャヴのような感覚が、その事実の重要性を覆い隠し、鹿島の心を大きく乱していく。胸が鬱がり、眩暈が頭痛を引き起こす。割れるような痛みに、吐き気すら催してきた。
かつて《アナンタボガ》に所属し、牧瀬と袂を分かった日本人傭兵が吉村充伸だった。式場で麻耶の名を叫んで大芝居を打ったり、人懐っこいキャラクター自体が作為的なもので、にこやかな笑みの仮面を被った、戦闘マシンだったとは、驚愕に値する。いったい誰を信じたらいいのか、人間不信になりそうだ。
鹿島に協力する素振りを見せて疑心を抱かせず、挙句の果てに鹿島を狙撃するとは、何と恐ろしいことか。志のためならば、誰であろうと相手を騙し、空惚けて演技を徹底する。それも、傭兵時代に培った特殊な素養だろう。
「その後の政府軍の徹底掃討作戦で、《アナンタボガ》は大打撃を被りました。吉村サンは徹底抗戦を叫びましたが、もはや、組織にはかつての勢いはなく、契約期間の更新もできずに、失意のうちに帰国されました。もう、十二年も前の話です」
求心力を失った《アナンタボガ》は、軍事作戦を展開するというよりは、テロリズムを前面に出した闘争へと変換を迫られた。
「後に、私が進退に困って亡命を考えた時、真っ先に浮かんだのが、吉村サンでした。〝英雄〟の吉村サンなら、好意的だった私を受け入れてくれるだろう、とネ」
「それで、潮汐発電先進国のアメリカやフランスではなく、日本を選んだんですね」
「しかも、後発の《鳥海システム》は、ほぼ私の言いなりでした。そこで、吉村サンを雇ってもらい、言わば、私の私設警護官にしたんデス」
吉村が《鳥海システム》に入社した時期は、谷口と開いた喫茶店を畳んでから六年ほど後になる。
「あなたが襲撃されたのは、その後ですか?」
「そうですネ。でも、襲撃後は、会社が私の警護に複数のSPを付けてくれたので、吉村サンとは次第に疎遠になっていきました。吉村サンは、経理部に移りましたヨ」
ルクマンと疎遠になっていく一方で、吉村はこの時期、麻耶に接近した。一年ほど掛けて婚約に漕ぎ着けた形だ。
麻耶が部下になった後は、ルクマンは崇拝する吉村の求めに応じて、麻耶の会社での状況も逐一、吉村に報告していたとみていい。
そう考えると、吉村が麻耶へ接近したのも、何かしらの計画に基づいてだと、考えられる。無論、沢木の巧妙で周到な計画の一部である。
これまでの調査で判明、もしくは推察できる限りの事件の真相は、こうだ。
麻耶が奪った谷口家の一粒種を奪還するために、沢木こと谷口が計画を慎重に立案。同朋として共に妻を失った義理の弟の吉村を誘った。吉村は元傭兵として腕も立つし、復讐の実行役として最適であった。
初め、谷口家を不幸に陥れた各人――麻耶・牧瀬・ヤジド・葛海の四人を復讐のターゲットとするが、ヤジドは〝インドネシア〟の壁のため、取り敢えず、復讐の名簿から外さざるを得なかった。
吉村はまず、仇敵であり新生児失踪事件の共犯である牧瀬を屠ると、計画に基づいて麻耶に接近していくことになる。光司にもうまく近付いて手懐け、麻耶と婚約を交わす作戦だ。
復讐のためとはいえ、憎悪の対象である麻耶に接近して愛を勝ち得た吉村の心境は、どのようなものだったろう。殺された妻を愛していたからこそ、できた業であろうか。
ところが、吉村がルクマンの私設警護官になった後、ルクマン襲撃事件が発生する。襲撃を徹底的に調べ上げたところ、ルクマン襲撃が憎きヤジドの仕業だと判明する。沢木と吉村は狂喜乱舞して、転がり込んだヤジドとの再会の奇跡を称えただろう。
更に、ヤジドの動向を探った吉村は、ヤジドが《リンガ・リンガ》での違法賭博の常習者であると突き止めた。その情報は、すぐさま沢木に齎され、沢木本人が《リンガ・リンガ》の常連になることで、ヤジドに対する接近が可能となった。
そこで、計画に改めてヤジドの名を加え、残った麻耶・ヤジド・葛海の三人に、改めて復讐の魔の手を伸ばしていく。
既に三人に接近して親しくなっていた沢木と吉村は、勝沼の言及した《ランダ》という伝言サイトを設立・運営して、三人を自分の思いのままに背後から操ったのではないか?
例えば、沢木は「自分が成功したのも《ランダ》のお蔭だ」とでも吹聴して三人を導き、《ランダ》の主催者である正体を隠して、背後から信じ込ませ、操った。
門外漢の鹿島からすれば、心理学は、人間の心情を如何に汲み取るかという学問のような気がする。
逆を言えば、心理学を悪用して人間の心理をうまく突けば、所謂〝藁をも掴む〟心情を上手く逆手に取って、心を難なく操れるというわけである。
沢木が心理学者である点を考慮すると、その手法は容易く行われただろう。被害が後を絶たない「振り込め詐欺」も同様に、人間の心理を巧みに突く犯罪だ。
三人はいずれも、緊急性の欲求を持っていた。麻耶が光司の手術代、葛海が稀少馬種、ヤジドが潮汐発電の極秘データ。これら三人の欲求を叶えてやりさえすれば、三人は、本来は嘘臭いサイトであっても、頭から信じ込んだのだろう。
その後は、うまく口車に乗せて、指示通りに各人を操った。沢木の名を前面に出さずに、復讐が遂行されるのを待つだけである。
三人を抹殺した沢木は、邪魔な鹿島に警告を与えた上で、吉村に狙撃を命じた。運を味方にした鹿島を逃がした沢木は、焦りを覚えているはずで、次の一手が、緊急かつ最終の詰手となるだろう。
つまり、光司の奪還である。奪還は光司の手術成功後であり、鹿島が事件の真相に辿り着く前でなければならなかった。今が光司奪還の千歳一遇の、しかも最後のチャンスとなる。
吉村は鹿島の狙撃に失敗すると、踵を返して最終行動へ出たはずだ。今になって考えると、ルクマンの許へ来た時間は、タイム・ロスとも言える。こうなったら、一刻も早く光司の許に馳せ参じ、痛恨の結果を防がねばならない。
「ありがとうございました。あなたには、迷惑を掛けないつもりです」
鹿島は急ぎルクマンの許を退出すると、光司のいる中野区の小児病院へ急いだ。「間に合ってくれ」という叫びを胸の中に響かせると、鹿島は歯を食い縛って、怒りや焦りの交じった気持ちを懸命に抑えねばならなかった。
2
鹿島が小児病院に到着したのは、午後七時を回った頃合いだった。ちょうど面会時間が終わった直後だったが、鹿島は、疾風の如く病院の廊下を駆け抜けていった。
エレベーターを降りると、鹿島の肌に突き刺すような、ぴりぴりとした気配が襲い掛かった。ただならぬ緊迫した様子に心を乱しながらも、顔馴染みの看護師がいたので、声を掛けた。
「何かあったのですか?」
「ああ、鹿島さん。いったいどうすれば……」
涙と戸惑いを隠せずに、看護師はおろおろと狼狽えるばかりだ。自分のせいだと言わんばかりに、嗚咽を繰り返す。
不吉な予感を押さえつつも、看護師が恐る恐る指す病室に、鹿島は雪崩れ込んだ。
病室には、年配の医師と麻耶の両親が額を突き合わせていた。しかし、小難しい顔を歪ませているだけで、そこには光司の姿はなかった。事の重大性に嘆き合うようにも見える。医師と母親は、如何にも気まずい表情で、現れた鹿島を見返した。
「ちょっと席を開けた間に、光司君がいなくなってしまって……」
眼鏡を掛けた医師が応じたが、動揺のためか、声が極端に裏返っている。母親は、鹿島の顔を見ると一層泣きそうな顔をして、苦しそうな表情の父親の胸に顔を埋めた。
鹿島は後手を踏んだ自分に、苛立たしさを隠せなかった。
「トイレとか、ちょっと抜け出しただけとか、そういう可能性は?」
「もう小半時、皆で探しましたけど、どの棟にも見当たらなくて」
鹿島の首筋に、何か得体の知れない物が這い上がる感覚があった。ぞわぞわと直に神経を伝ってくる感じだ。
「防犯カメラには、何か映っていないんですか?」
「それが、……六時過ぎからの映像が、映っていないんです」
明らかに、意図的に誰かがカメラの映像を切断したのだ。恐らく、ここでそんな芸当のできる人物は、元傭兵の吉村以外にはいない。
鹿島は、狼狽する三人を尻目に、ベッドに近寄って手を差し入れた。
まだ何となく床が温かい。光司がベッドを離れてから、さして時間が経ってはいないようだ。
更に、両親たちを無視して、ベッドの周囲に遺留品がないかを探してみた。すると、ベッド脇のゴミ箱の中に、空の麻酔薬の瓶と注射器が落ちていた。器具の雑な扱いが、医療関係者ではない、素人の手を思わせる。
「吉村さんが、六時前くらいにお見舞いに来た時には、いたんですよ」
医師が深刻な眼差しで、絶望を声にした。
吉村は、カメラの映像を切った後、見舞いを装って病室に入った。隙を見計らって麻酔を使い、光司の意識を混濁させ、そのまま強引に運び去ったと思われる。
鹿島は、術後まだ二日しか経っていない光司の身を案じ、強く歯噛みした。
鹿島の不安は、最悪の形で出来した。十年前の〝新生児失踪事件〟の折も、かくも混乱していたのだろうと思わせた。
吉村が光司を伴って、どこへ消え失せたのかは、不明だ。しかしながら、これで吉村が遂に正体を現し、当初の目的を達成したと見るべきだ。
混乱に潰されそうな精神を鼓舞して廊下に出た鹿島は、光司を奪った吉村がどこへ消え失せたのかを、推測してみた。
吉村は必ず、沢木と連動している。しかも、光司を奪取するという当初の目的を達成したわけだから、間違いなく、この後は沢木と接触する。
ただ、沢木が今朝もテレビに出演しており、活動拠点が東京だという点を考慮すると、福岡には、わざわざ移らないと思われる。吉村が光司を奪ってから、わざわざ福岡へ蜻蛉返りするというのも、無理がありそうだ。
沢木が今のところ、最も警戒すべき相手は、沢木を調査して真相の近くまで辿り着いた鹿島である。仮に鹿島が、警察に沢木と吉村の関わりを話したとしても、確固たる証拠がない限り、著名人の笠を着た沢木へは、警察はむやみやたらに動けないだろう。
逆に、警察に踏み込まれたとしても、光司と一緒にいなければ問題はないと、沢木は見ているはずだ。ということは、沢木の自宅や都心の四箇所のカウンセリング・ルームに、光司を連れては行かない。
とすれば、吉村が確保したアジト的な場所に潜む他はない。では、それはどこか?
福岡から沢木が東京に移ってきた際、既にアジトを用意していたのだろうか?
沢木がいつ東京に出てきたかは不明だが、沢木がカウンセリング・ルームの一号店を調布に開設した時期が、二〇二〇年の一〇月というところは分かっている。
この時期前後の、関係者の動向を考え合わせてみると、吉村が牧瀬を自殺に偽装しての殺害が二〇二〇年の五月。直後に、葛海が福岡を追われたと思われる。
それで、沢木のカウンセリング・ルームの一号店開設が一〇月。前田医師の死亡が、翌年の四月。沢木の中野店の開設が五月。六月一〇日には摩耶が沢木のカウンセリングを受け始めている。
その後、二〇二三年の四月にルクマンの亡命。吉村の《鳥海システム》への私設警護官としての就職が五月から六月頃か。ルクマンが麻耶の上司となり、ヤジドがルクマンを襲撃するのが七月である。
更に、吉村が麻耶に近付いたのが、同じ七月頃。一一月頃からのテレビ出演によって、沢木も葛海も公に認知されていく。
もし、まだ無名の沢木と吉村が復讐のために市井に紛れ、臥薪嘗胆して時を待つとしたら、多くのアジトを構えはしなかったろう。資金的にももちろんだが、特に仇に対して目立つような行動を控えようとする心理が働くはずだ。
鹿島が出した結論は、光司を奪った吉村は、沢木が調布に初めて開いたカウンセリング・ルームの一号店に向かった、というものだ。
調布のカウンセリング・ルームとしては、表向きは、前田医師殺害後に閉鎖している。しかし、既に部屋の名義は沢木以外の者、恐らく吉村名義に変えられているだろうし、土地勘もあるだろうから、吉村が潜伏するには都合がいい。
新宿などのカウンセリング・ルーム以外にも、コメンテーターなどとして都心で活躍する沢木とも、互いに連絡や接触が容易だ。一朝、何か起こった時でさえ、早々に逃亡の手立てを講じられよう。近くには、調布飛行場もある。
しかしながら、沢木と吉村は、光司を奪ってから何をする気だろうか?
幾ら吉村と気心が知れる仲になっているとはいえ、新生児ならまだしも、小学生の光司の意志を否定するような行動はできない。騙し続ける遣り方にも限度はあるし、洗脳するには危険を伴う。麻耶が犯した真実を告げて、強引に受け入れさせる方法も得策とは言えない。
鹿島が混乱を余所に思いを巡らせていると、背後から声が掛かった。憂いに満ちて昏い顔をした、麻耶の父親だった。
だが、鹿島には、その表情から、光司が攫われた悲しみや動揺とは違う、何かもっと深刻な影を読み取った。次は、何が鹿島を打ちのめすのだろうか。
「どうされました? 何か、気掛かりな点でも? 何かお気付きになられたのなら、仰ってみて下さい。お役に立てると思いますよ」
「……はい。……このような事態になってから申し上げるのは、その……大変に心苦しいのですが」
なお言い淀む父親を、鹿島は辛抱強く待った。込み上がる思いを、自らの口から述べてもらいたかった。近くの椅子を勧めて、並んで座る。
「……恐らく、光司の命は、無事だろうと思います」
孫が誘拐されたにも拘わらず、他人事のように呟く麻耶の父親に、鹿島は違和感を否めない。
「私も、光司の身には害が及ばないだろう、と感じるのですが。なぜ、そう思われるのですか?」
麻耶の父親は、一層、口を堅く閉ざす。鹿島は、なぜか、心拍が極端に上がるのを禁じ得なかった。
「……実は、かつて、麻耶から私だけに、打ち明けられた話があるんです」
訥々と発せられた父親の言葉に、鹿島は、寒気が足元から群れとなって飛び立つような感覚を得た。
「麻耶が福岡転勤時に犯した事件なんです……」
言うべき時を得て、父親の肩の力が急激に抜けていくのが分かった。鹿島は、父親の言葉を重く受け止めたが、決して驚いたり戸惑ったりはしなかった。
父親も、鹿島の反応が意外なものだったのだろう。軽く頭を頷かせて、更に緊張を解いた。
「鹿島さん、知ってらっしゃったんですね。娘の過去を」
「……はい。存じ上げておりました。事件を色々な角度から調べていくうちに、久保田さんの過去を覗く結果になりました……。しかも、今回の一連の事件が、そうした久保田さんの過去に、端を発しているとも承知しています」
父親は、「そうだったんですね」と繰り返し、鉛色の息を重く吐き出した。
病室の中からの、麻耶の母親の嘆きと医師の狼狽える声が、まだ交錯する声を聞きながら、鹿島は問うた。
「久保田さんから告白を受けたのは、いつ頃なんですか?」
「……光司を一緒に匿った牧瀬君が、不審死を遂げた直後です。二〇二〇年の五月だったと記憶しています。直前に何度か連絡があったそうです。『俺は親友に殺されるだろう』と」
この話は、柳川の勝暁寺で桜井博代から聞いた証言と一致する。もちろん、〝親友〟とは、吉村だと分かっている。
「誰に殺されると、仰ってましたか?」
「麻耶は、その時は、誰にかとは言いませんでした。……ただ、二〇二四年の六月になって、こう言っていました……」
二〇二四年六月といえば、摩耶と吉村が婚約を決める一月ほど前に当たる。
「……その、……吉村さんが、牧瀬君を殺したんだろう、と」
鹿島は、顫えた鼓膜の律動を信じかね、呼吸をするのも忘れて愕然とした。
かつて自らが愛した牧瀬を殺したと知りながら、麻耶は吉村との婚約を受け入れたのか。むしろ、吉村の牧瀬殺害を確信したのを契機に、婚約したようにさえ見える。麻耶が自分の犯した罪の償いのために、吉村の思いに身を任せたとでもいうのか……。
もしそうなら、麻耶は、吉村が何者かを知っていて、吉村が、何が目的で近付いてきたのかも分かっていたわけだ。麻耶本人が、殺される可能性すら、得心していたとでもいうのだろうか。
「吉村さんが、誰かと話すのを、たまたま聞いて、確信を得たそうです」
父娘で、過去に犯した罪の大きさを意識しながら、現在のような結末になる予想を胸に抱きながら、懺悔のまま生きてきたのか。鹿島は胸が沸騰して、頭が爆発しそうになった。
「どのような内容だったのでしょう?」
「詳しくは忘れましたが、『牧瀬のように偽装もできる』とか、『サイトを通して互いを脅させて追い詰める』とか、『最後は殺すよう指示すればいい』というような内容だったと聞きました」
鹿島はすぐに、勝沼が言っていたあの伝言サイト《ランダ》を思い出した。
親しくなった麻耶・葛海・ヤジドの三人それぞれに、事前にパスワードさえ教えておけば、他の一般利用者との選別もできるし、サイトの運営上、怪しまれもしない。秘密裡に計画を進めるには、打って付けの方法だろう。
ルクマンの許でも考えたように、沢木は《ランダ》を使って、具体的に指示を出し、三人を囲い込み、信じ込ませ、言葉巧みに操った。
また、物品の受け渡しには、例の《松室運輸サービス》の偽伝票を使い、吉村が宅配業者を装って、直接各人に届ける方法が取られた。
手許に残った伝票片を廃棄するよう指示もあったはずだ。ただ、怪しんだ三橋が葛海のゴミ箱から例の紙片を拾ったために、鹿島に尻尾を掴まれる羽目になった。
鹿島は、伝票の上から〝……トランアナン……〟と誤ってメモ書きした人物は、吉村だったのではと推理した。恐らく、吉村は、ヤジドが確実に現れる場所を特定して、喜び勇んでメモに及んだ。そのメモの下の伝票がたまたま、葛海宛の伝票に用いられてしまうという失態を犯した、とも。
しかし、緊急性のある各人の欲求――麻耶が光司の手術代の二千万円、葛海が渇望していた禁輸の稀少馬種(の購入証明書)、ヤジドが潮汐発電の極秘データ――を叶えてやっただけでは、サイトを信じたとしても、互いに殺し合うよう仕向ける結果にはならない。
そこで、沢木は次の手を打つ。
〝欲しいもの〟を手に入れさせたら、次の段階では、当人たちの〝嫌がるもの〟を与えるのだ。つまり、それが、〝互いを脅させて追い詰める〟である。
確かに、人には、触れられたくはない過去が、一つや二つはある。ましてや、その過去が、身を滅ぼしかねない重大事であれば、どうなるだろう。鹿島は肌が粟を抱くのを禁じ得ず、全身が硬直したまま、動けなくなった。
沢木や吉村は、知られたくない、暴露されたくない過去で、まず三人を脅迫した。例えば、ヤジドには違法賭博を嗅ぎ付けた敵対国の凄腕の暗殺者を、摩耶には新生児失踪事件の真相を探った悪徳記者を、葛海には命を付け狙うヤクザを名乗ったと想像できる。
その不安と恐怖たるや、尋常ではなかっただろう。そうなれば、流れ上、再びサイトに頼る結果となる。そこで、沢木が最終的に殺人指示を出す。しかも、サイトを使うことで、自分が誰から誰のために命じられているかは、伏せられる恰好となる。
究極に追い詰められた人間は、どんなに無茶な難題でも、救いの手を差し伸べられると、それに応じるものだ。特に、露見したら社会的に全てを失う立場の人間は、藁にも縋る思いで従うだろう。
「〇〇を殺せば、あなたが助かる」などと言われれば、たとえ、普段から殺人自体を忌避・否定していても、指示に従う他に、自分が生き延びる道がないと錯覚する。これまた、弱い人間の心理を突く、絶妙な方法だ。
つまり、この場合、摩耶に対しては、Aのデータをここに送信せよ、葛海に対しては、Bのデータをここに送信せよと、それぞれに指示を出す。
Aのデータとは、葛海殺害依頼のデータで、Bにはヤジド殺害依頼のデータが入っていた。当然ながら、それらの送信先は、それぞれヤジドと摩耶のスマホだった。
それぞれの送信データは、内容の秘匿性保持のため、最終連絡先の人物以外は、中身を見られないようになっており、送信内容も、各人の手許に残らないように、自動消去されるよう、工夫されていたと考えられる。
送信データの詳細としては、Aのデータでは、葛海が久し振りの休みで青梅に釣りに行くので、崖から突き落とせと命じた。
Bのデータでは、ヤジドが妻の誕生日パーティーを《レストラン・アナンタボガ》で開くので、近くの駐車場で待ち伏せして襲撃しろと命じた。ただし、麻耶一人では失敗する可能性も高かったので、麻耶に悟られぬように、吉村がヤジドを急襲して駐車場まで引き摺っていった可能性は高い。
一方、摩耶の殺害に関しては、葛海もヤジドも計画通りに殺された後になるので、沢木自身が、一人だけ生き残った麻耶の部屋に爆弾を送り付けて殺害に及び、最後のケリを付けた……。
こうして、沢木と吉村の復讐は完結した。鹿島が隣人の誼で介入しなければ、一連の死と麻耶の爆殺の因果関係も、世間は気付かないままだった。恐らく、警察もそれぞれを個別の案件として終結させただろう。
それにしても、信じていた男性が、かつて自分の愛した人間を殺した張本人で、人殺しの協議を密かに企んでいると知った時の麻耶の気持ちは、如何ばかりだったろう。
鹿島は、麻耶の犯した業の深さを再認識すると同時に、沢木と吉村の恐るべき執念を感じずにはいられなかった。
「私はね、鹿島さん」麻耶の父親は、思い詰めた表情を崩さずに、鹿島に囁いた。
「光司にとって、一番いい結論は何なのかと、思う時があります」
静かな声ではあったが、重く意味のある言葉だった。鹿島はびくっと体が、大仰に反応した。
「このまま光司を、谷口さんたちにお返しするという方法も、その一つに数えられるのではないかとさえ、思います。光司さえ幸せだと感じてもらえるのなら、それもいいのではないか、と」
鹿島は、現時点では、何が正解なのか、光司にとって何が幸せなのか、はっきりした答は見出せていなかった。複雑で微妙な問題にきちんとした解答を下すには、相当な時間が掛かるだろう。
「……私が言えることは、光司との絆は、既にあなたたちにある、という点です。仮に谷口家が正当だと訴えようが、彼らは既に、多くの無理筋を冒しています。光司には何の咎も責任もない。第一、光司が、残る選択肢を望んでいるでしょう」
父親の瞳の奥で、細やかな感情が波を打った。希望を繋いだようにも見えた。
「どんな経緯があるにせよ、愛していた母親が、自分のせいで死んだと知ったら、光司は、それこそ、生涯に亘る傷を負うでしょう。それは、絶対に避けなければならない」
曖昧な感覚を抱きながらも、鹿島は諭す言葉を連ねた。自分でもどうしたらいいのかが分からなかったが、心の中の感情や蟠りを、素直に吐き出した。
「そうですね……」
麻耶の父親は、ぽつりとまた囁いた。それから、鹿島に対して、深々と頭を垂れた。
「鹿島さん。どうか、お願いです。光司を助けてやって下さい」
父親の切願に、鹿島は、反射的に大きく頷いた。
「私も、できる限りの努力は、してみます」
3
鹿島は、看護師たちの警察への通報を確認すると、黙って病院を出た。それから、一旦、自宅へ戻って色々な身支度や段取りを整え、一路、調布へと車を走らせた。
これから向かう先は、まさに危険な臭いで満ちている。相手は百戦錬磨の元傭兵の強者であり、光司という人質もいる。武力差・技術差・体力差は否めまい。
はっきり言って、効果的な作戦はない。仮にあっても、素人考えの方法が功を奏すとは思えない。
だが、何もせずにじっとしているのは、性に合わない。とにかく、体を動かせば、何かの閃きもあるだろう。警察だけに任せておくのも覚束ないし、大体が腹立たしい。鹿島自らの手で、この最大の危地を脱出せねば、摩耶への義務を果たしたとは言えない。鹿島は、意地のようなものも感じていた。
時は真夜中を過ぎ、七月二十八日となった。
調布の旧カウンセリング・ルームは、駅から十分ほどの住宅街の中に、溶け込むようにしてあった。
丸みを帯びた白い三階建ての小ざっぱりとしたビルで、一階部分は、現在も歯科医院がテナントとして入っている。旧カウンセリング・ルームは二階と三階に当たるが、遮光用のカーテンか板が巡らされているらしく、窓からの光の漏れは見当たらない。
住宅街の夜の闇に紛れて、全く生活音や気配が伝わってこない。光司は今頃、どこか別の場所に囚われていないだろうか。鹿島は自分の推理が誤っているのかと、刹那、不安になった。
しかし、通常は無人の住居に、突然、人の気配が起こるほうが不自然である。少なくとも、これからしばらくの間、ここに秘密裏に潜伏するからには、絶対に気配を悟られてはならない。
闇の世界に生きてきた傭兵上りの吉村なら、静かに、かつ密やかに、息を殺して闇の中に身を置く所作を獲得しているはずだ。
むしろ、鹿島なり警察なりに備えて、トラップの一つでも用意している可能性は高い。ここは、迂闊に近付けば、命を落としかねない危険な領域なのかも知れない。少なくとも赤外線センサーの網の目の中で、どっしりと待ち構えていると思われる。
ただ、ひっそりと隠れておきたい場所で銃撃戦を展開して、安穏たる居場所を奪われたくないのも確かだ。とすれば、戸外でいきなり襲撃するというよりは、内部に踏み込んでからの勝負となろうか。
鹿島は車で一旦、通り過ぎ、百メートルほど離れた路肩に駐車した。渋谷の百円ショップで購入した懐中電灯を手に、車を降りる。
用心と慎重は期すとしても、躊躇いや戸惑いは全く感じなかった。ただ、次に打つ手が見当たらずに、焦燥感が増していく。
それにしても、麻耶はこのような結果を予期していたのだろうか。心の迷いから自らの手で犯してしまった罪を巡って、谷口家が思いも寄らぬ反攻に転じ、麻耶自らも死を得るなどとは。更に、〝一人息子〟として慈悲深く育てた光司が、運命の狭間にかくも翻弄されようとは。
鹿島は次第に、ここまで深く関わり続けてきた自らの行為が、虚しく終わるのではないかと、不安に掻き立てられもした。焦燥感が虚脱感に変わらぬように、気を引き締める。
まず鹿島は、建物の裏手に回り込んだ。どこから突破・侵入するにせよ、全体像の把握は、必要不可欠な作業だった。もう吉村に気付かれていると確信しながらも、一歩一歩をゆっくりと運ぶ。
角を曲がったところで、鹿島は、見覚えのある白い車、しかもフロント部分が少々凹んでいるRV車を発見した。紛れもなく、一の橋交叉点で鹿島を襲ったRV車だ。
急いで路肩に駐めたようで、車体が斜めになっている。急ブレーキを掛けて停まった痕もある。
内部を窺うが、誰もいない。代わりに、エンジンが直前に切られて冷える音がカチカチと聞こえた。光司を乗せた吉村が、数分前にここへ到着した確たる証拠だった。
鹿島は興奮と恐怖で、改めて顫えが湧き上がった。プロの殺し屋に対峙する気分は、決して爽快ではない。
その時、鹿島のスマホが、ブルブルと突如、震え始めた。恐る恐る手に取ると、意外な相手に、鹿島は不信感を募らせた。
「鹿島さん。ご機嫌は如何ですか?」
相手は吉村だった。やはり、吉村は、鹿島の動きを的確に捉えていた。もちろん、偶然や気紛れで、鹿島に連絡を取ってきたわけではない。
とはいえ、鹿島は、大胆な吉村の意図がはっきりとは読めずに、声を詰まらせた。
「本当に、あなたには参りましたね。こそこそ調べて人を惑わせた挙句、こちらの警告も無視して、するりと逃げる。放ってはおけない存在になってしまいましたよ」
応ぜぬ鹿島に、吉村は言葉を続ける。協力者として接した声音と、さして変わらないようにも感じられた。
「こちらこそ、福岡での豪勢なプレゼントには、参ったと言わざるを得ない」
「きっと、それでもまだご不満でしょう? 是非とも、我が家へご招待したいと思いまして、連絡させて頂きました」
「あんたの家は、大田区のマンションじゃなかったのか?」
「あそこは、亡き妻との思い出の場所です。血で汚すようなマネはしたくない」
吉村は恐らく、自宅で鹿島を容易に殺せたのだろう。しかし、鹿島は、吉村の感情の機微に助けられ、あの場面でも〝するりと逃げ〟果せた。
「ともあれ、鹿島さん。光司君の無事も確認したいでしょう?」
鹿島は、吉村の声に狡猾で陰湿な響きを感じ取った。
「光司は、どこにいる!」
「光司君は僕の傍らにおりますよ。無事かどうかは、鹿島さん、あなたの目で直接、確認したほうがいいですね」
沢木や吉村の計画からいって、確認するまでもなく、光司は絶対に無事だ。にも拘らず吉村の〝招待〟を受け入れれば、鹿島としては、それは、敵の手に自ら落ち行くものだ。何の策もなく進めば、そこには無残な死が待っているだろう。
だが、ここで、光司を見捨ててこの場から逃亡すれば、あの世で麻耶にも顔向けできないばかりか、後世の笑いものとして恥を晒してしまう。光司にだって、生涯、軽蔑されるに違いない。ただ手を拱いているだけで、敵の内懐へ入り込まなければ、次の展開も望めない。
決して自棄を起こしてはいないが、明確な勝利のシナリオが描けているわけでもない。勝算は極めて不透明だが、鹿島は肚を括った。
「……分かった。どうすればいい?」
「物分りがいいですね、鹿島さん。それでは、裏手の階段を二階へ上がって来て下さい。そこにドアがあります」
二階へ上る階段は、まさに、死刑台の十三階段だった。一歩一歩に、今生への未練が刻み付けられる。だが、不思議と後悔はなかった。
隣家の爆発現場に足を踏み入れた時から、この瞬間は定められていたのだろう。鹿島の頭の中には、諦めというより、確かな感触があった。
二階に着くと、言われた通り、踊り場に面して鉄製のドアが一つあった。天井の防犯カメラの赤い点滅を一睨みしてから、ドア・ノブを握る。
ドアは手前に、すーっと音もなく開いた。
ドアの内側は暗く、やはり何の気配も感じられなかった。懐中電灯を翳しつつ、一歩を進めると同時に、全神経を動員して、先の闇に潜む危険を察知しようと試みた。
ドアの中は、勝手口のようだった。かつては従業員が出入りしたのだろう。鹿島が靴のまま摺り足で進むと、靴裏が薄い絨毯を感じた。右手の指先が靴棚を辿り、ざらっとした埃を吸い付ける。
懐中電灯の先の闇に目を凝らすが、鹿島に向けられたレーザーサイトの赤い点は、今のところ、ない。異様な機械音や油圧音も聞こえないし、邪悪な眼差しも感じない。
だが、吉村の悪意に満ちた眼差しは、単に閉じられているだけで、常に鹿島を捉えている。今にも罠の中に陥ろうとする小さく愚かな獲物を、どう調理するかを、研ぎ澄ました五感で愉しんでいるはずだ。
入った小部屋の中には、やはり誰もいないようだった。端寄りに小振りのテーブルと椅子が片付けられている以外は、特に怪しむべき個所はない。
懐中電灯に照らされたテーブル上には、幾つかの紙束が無造作に散らばっている。丸い電光が示す紙束には、確かに《松室運輸サービス》の文字が見て取れた。大量の偽伝票からして、麻耶爆殺を初めとした殺人の嫌疑は、吉村にも掛かるだろう。
鹿島は更に慎重に歩を進めた。一つ目の小部屋を抜けると、ドアの先にもう一つ広めの部屋が連なっていた。従業員の休憩室か待機室だった部屋だろう。ここも壁際まで調度類が寄せられて、今は使われていないと物語っている。
次の戸口を通ると、左右に延びる廊下に出た。右に曲がれば、カウンセリング・ルームの受付や表玄関に出られるはずだ。逆に左は、診療室や三階への階段があると見ていい。
鹿島は、建物の構造上、吉村は三階の一室で待ち受けていると判断し、廊下を左折した。
厳重に閉ざされた幾つかの診療室の前を通ってしばらく行くと、廊下はまた一枚の扉で行き止まりになっていた。扉は僅かに開いており、鹿島は身構えた。
恐らく三階はプライベートな空間なのだろう。間違いなく、この先に吉村と光司がいると、鹿島の直感が囁いている。鹿島は、意を決して扉を抜けた。
懐中電灯を投げ掛けると、暗闇の中にぼーっと浮かび上がった光景は、上階へと続く木製の階段だった。一歩ごとに軋む階段を丁寧に昇っていくに連れ、自ずと緊張感が増していく。
昇り切った階段の先に続く廊下の突き当たりに、また扉があった。その扉の隙間からは、何と、光が漏れており、確実に人の気配がした。
鹿島は最後に、もう一度、自分に問い掛けた。ここへ辿り着いた結果は、果たして神の見えざる手による運命だったのか。それとも、鹿島自身の勝手な思い込みによる身の破滅に過ぎないのか、と。
鹿島は、その問いに答を出せなかった。
ただ、鹿島はいよいよ身を固くして、最後の扉の前に堂々と進んだ。
最後の扉を抜けると、眩い光の中に、冷房の効いた、大き目の部屋が広がっていた。窓は、やはり、ベニヤ板で塞がれている。
だが、内装は多少の家具や日用品が運び込まれていて、生活するには問題なさそうに見えた。少なくとも、急拵えで詰め込んだというよりは、計画的に生活を準備したようだ。
中央には、白いベッドカバーに覆われた天蓋付きのベッドが置かれてある。ふっくらとした布団の中に、幸せそうな寝顔をして、光司が微かな寝息を立てて横たわっている。
取り敢えずは、光司の安否が確認できて、鹿島は肩から重荷の一つを下ろせた。
「鹿島さん、ようこそ。初めまして、と言ったほうがいいのかな」
光司の枕元に腰を落とした、紳士然とした初老の男から声が上がった。勝ち誇ったような、確信に満ちた声の主は、グレーの上等なスーツに身を包んだ沢木雅知である。
《リンガ・リンガ》の前以外では、初めて対面する鹿島だったが、沢木を以前から直接知っているような錯覚を得た。調査を進めるたびに、沢木の相貌が念頭から離れなくなったし、麻耶たちの無念を思って沢木を憎んできたからだ。
「沢木……貴様」
鹿島は、ようやく目の前に捉えた主犯の男に対して、腹立たしさを募らせた。
沢木の細長いシルエットは、テレビ画面で見る知的な風貌と変わらないが、細い目の奥から、輝きに満ちた満足そうな笑みが漏れている。
ベッド脇のクラブ・チェアには、ラフなグリーンのポロシャツ姿の吉村もいた。如何にも寛いで、もはや憂いなど一切ないようだ。安心し切っているのか、丸腰のようにも見える。素人の鹿島相手に、もう全力を傾ける必要はないと、高を括っているのだろうか。
鹿島は二人をぎろっと睨み据え、敵愾心を剥き出しにして低く唸った。
「光司は、無事なんだろうな」
「もちろんだ。何せ、谷口家の一粒種だからね」
沢木は「全てを知っているよな」と言わんばかりに、笑みを含んだ表情を鹿島にぶつけた。
「しかしながら、鹿島さん、よく、ここまで来られたものだな。全く見事な想像力という他ない」
沢木は大きく頭を振って、わざとらしい謙遜を振り撒いた。余裕の表情に、激しい苛立ちを感じる。鹿島は拳を強く握り締め、抵抗の一言を口にした。
「あんたたちの非道には、感服したよ。自分たちの目的のためなら、手段を選ばないとは」
「何とでも言うがいいさ。我々は、当初の目論見を完全に達成した」
満足そうな眼差しが強められ、光司を舐めるように見下ろした。光司の髪を優しく、愛おしく撫で上げる。
「この時を、どれほど待っただろうか。我が子を手に抱き戻す瞬間を」
沢木の声は、鹿島に自分たちの勝利を宣告するように聞こえた。声には風格と自信が満ちており、何も懼れるものなどない、といった余裕が溢れている。
沢木の目には、光るものが煌めいていた。長年来の目的を遂げた達成感が、涙を迸らせている。吉村も、感慨深げに光司を見下ろしている。
「これで、我々が味わった理不尽への復讐は遂げられた。我が娘、芳美を死に追い遣り、この慎吾を奪った久保田麻耶、それに、慎吾を共に匿った牧瀬保、我々の愛する妻を殺したヤジド、更に亡き妻の夢だった喫茶店をも潰し去った青木靖。この四人への復讐をね」
沢木の言う〝慎吾〟とは、《宮本産院》から盗まれた後に〝光司〟と名付けられた新生児を指し、〝青木靖〟とは、改名する前の、福岡時代の〝葛海悠介〟の名前であろう。
「全く、あんたには、すっかり騙されたよ。英雄気取りの元傭兵にしては、あんたは相当な役者だ」
「お褒めに与り、光栄ですよ。ですが、こんな芝居なぞ、取るに足らないものでしたよ、鹿島さん」
吉村は、まんざらでもない表情を浮かべて、顎を一撫でした。
「我々が計画を開始するに当たり、最も警戒し、最も心を砕いた場面は、青木を籠絡する時だった。奴は、我々と同じくらいずる賢く慎重で、疑り深かったからな」
沢木と吉村が復讐を誓ってから初めて行動を開始したのが、青木への接近だった。青木の性格と環境を考えた時、籠絡するには手強い相手と映ったのかも知れない。
「奴の唯一の隙は、競馬好きという点だった。むしろ、競馬が唯一の楽しみと言えた。ヤクザと連んで、色々やっていたから、結構なストレスがあったのだろうな。まあ、羽振りよく、威勢よくやっていたって、実際には孤独だったわけだ」
「心の隙間に入り込んで、うまく操ったのか」
「初めは警戒していたが、吉村君に競馬場で声を掛け続けて貰い、負けた時、ちょっと融通してやったら、すぐに〝競馬友達〟になったそうだよ」
沢木は、吉村をちらっと見て、ふふっと、皮肉めいた笑みを口の端に上せた。もしかしたら、沢木仕込みの心理学を応用した結果なのかも知れない。
「それから、最高にして最大のターゲット、久保田麻耶のいる東京へ青木を移す必要があった。吉村君が牧瀬を殺し、その罪を青木に着せるという一石二鳥の行為を成し遂げたのも、そのためだ。そうとも知らずに、もう、奴は吉村君を頼るしかなくなっていた。ヤクザに命を狙われるように仕向けてやったしね」
他に友人と言える人間を持たなかった青木は、シナリオ通り、吉村を頼って福岡を離れざるを得なかった。それが計画の一環だとは、青木は、知る由もなかった。
「東京に逃れてきたあいつに、僕は整形と改名を勧めました。あいつは喜んで、命の恩人である僕の助言に従いましたよ。よほどヤクザが恐ろしかったんでしょうね」
吉村は得意気に言うと、興奮気味に何度か頷きを見せた。
整形をして〝過去の青木〟を捨てさせ、〝新しい葛海〟を作り上げれば、警察に対しては、過去における復讐の証拠が見えなくなると、沢木と吉村は考えたのかも知れない。
福岡から青木を、麻耶のいる東京へと誘き出した沢木と吉村は、ルクマン襲撃によって、もう一人のターゲットであるヤジドも、日本にいると察知した。二人にとっては、まさに天恵であり、奇跡的な出来事だった。
ここで改めて、沢木は、この三人に対する復讐のプランを練り直す。静かな足音を立てつつ、ゆっくりと、確実に、三人を追い詰めていくために。
似た教養人として、テレビの収録で葛海と偽りの友情を育む。ルクマンからの情報や吉村が調べ上げたデータを元に、違法賭博の常連となるべく《リンガ・リンガ》に通い詰める。慎吾の奪還に向けて布石を置くために、素知らぬ振りをして摩耶と婚約を果たす。
慎重かつ大胆な一手を、次から次へと打っていき接近を果たすと、今度は三人の緊急的な欲求を聞き出して、叶えてやるからと、遂に《ランダ》の存在を明かす。
後は、真綿で首を締め上げるように、囲い込み、信じ込ませ、言葉巧みに操り、じわじわと、復讐を成し遂げていった……。
「長い時を掛けて一歩ずつ進むのは、苛立ったし、苦痛だった。だが、苦労して遂げた時の達成感・充実感は、何物にも代え難い。それでも久保田は、ヤジド殺害に最後まで抵抗しやがった。だが、手術費用の回収をちらつかせたら、結局は同意してくれたがね」
葛海から送信されたデータの中身を見た摩耶は、初め、ヤジド殺害を拒否した。だが、自分が同じように送信したデータも、誰かの殺害を指示する内容だったのではと悩んだに違いない。
葛海の繁忙さから具体的な殺人指示は、未定だったと思われる。だから、沢木は、吉村が葛海の予定を特定するまでに、摩耶に対して、手術費用の回収を仄めかして督促(脅迫)を繰り返した。
その結果、摩耶は殺害を同意せざるを得なくなった。更に、沢木は、摩耶に直接、確定した葛海の殺害手順を教え、ヤジドに殺害決行の指示を、再度送信させた。そうやって、摩耶が後戻りできないように雁字搦めにしたわけだ。
麻耶が葛海の行動の詳細をメモしていたのは、この時の沢木からの葛海情報を、手許にあった手帳に書き取っていたからだろう。
沢木は、意味のない苦労話を面白がったが、そのまま続けた。
「特に、諜報機関所属のプロであるヤジドが、ずぶの素人の久保田に止めを刺された時ほど、愉快だったことはない」
不意を突かれたヤジドは、吉村に半殺しにされたまま、例の駐車場に連れて来られた。摩耶は、あとは、死に掛けたヤジドに向かって、指示通りに刃物を突き刺せばよかった。
「これで妻も、妻の腹の中にいた我が子も、成仏できましょう」
吉村の声に、鹿島は震えが走った。ヤジドに轢き殺された吉村の妻の腹の中には、もう一つの命が宿っていたのか。昏い感情の奥底には、まだ計り知れない憎悪の火が燻っている。
麻耶の犯した罪も、谷口家の不幸も、哀しき災いの連鎖であるのは間違いない。沢木や吉村の執拗な復讐劇も、哀しみを気晴らすだけのもので、一時的な心の慰めになったとしても、心に負った傷を癒すには至らない。
哀しみは虚しさしか、齎さない。愚かな大人のせいで、光司だけが辛い目に遭うばかりだ。
「あんたは、久保田さんが全てを知った上で、婚約にまで応じたと知っているのか?」
吉村との婚約には、全てを知った麻耶の懺悔の気持ちが込められていたと、鹿島は確信していた。もし、谷口家の復讐のために自らの命が絶たれようとも、受け入れる覚悟があった、と。
「あの女が、どういう考えを持っていたのかは、知りたくもないですね」
吉村は死者を冒涜するように、喉の奥から声を漏らして嗤った。
鹿島は、吉村の無礼で挑発的な態度に、血液と胃液が沸騰する思いがした。格闘技もマスターしているであろう元傭兵に、無謀にも掴み掛ろうかと、瞬時に身構えた。
しかし、ここで、不意を突いて襲撃したとしても、戦闘のプロである元傭兵相手には、勝機が見出せまい。
ここは自重して辛抱するしかない。今、この状況下で、これ以上の危険を冒しても、好転するとは思えない。
鹿島は断腸の思いで、怒りの焔を鎮めようと努めた。いつまで時を待てば、〝その時〟がやって来るのだろうか。
「さて、鹿島さん。あなたにできる活躍は、ここで全て終わったようだ。せっかく知り合いになれたのに、残念だな」
心にもない台詞を沢木が言い終わらないうちに、吉村が一歩前に出た。吉村が懐から取り出したサヴァイヴァル・ナイフが、ぎらっと怪しく光る。
「だが、ここでは処分しかねるので、これからしばらく、吉村君とのドライブに付き合ってもらおう」
鹿島は、ここでタイム・アップになったと感じた。もう少し早く手を打っていたなら、違った展開になっていただろうと、今更ながら後悔する。ただ、光司の行く末だけが心残りだ。
喉が無性に渇き、唇が異様に乾いている。助けを呼ぶにも、声が正常に出そうにない。無情にも、終焉の時が、本当に近付いているようだ。
「さあ、これで全てが報われる」
沢木が呵呵と大きく笑った。それは、今までの呪縛と労苦から解放される喜びを表しているようであった。
鹿島は、光司の許を離れるに際して、麻耶の父親が囁いたように、光司に取って何が幸せなのかを思った。もし、沢木と吉村が光司を本当に幸せにしてくれるのなら、それでもいいのではないか、とさえ感じた。
最後の一瞥を向けた光司の寝顔は、まさに幸せそうに見えた。例えば、何の憂いもなく、母親の胸の中に抱かれるような、そんな安らかな寝顔だった。
しかし、その寝顔ですら、光司が望んでのものではないはずだ。安らかな寝顔も、現実を知らなければこそであり、夢の中にしか安住の地を得られないようでは、もちろん、幸せだとは言えない。
鹿島は気弱な考えを放棄して、自分を信ずるしかないと、言い聞かせた。
「それでは、よい旅立ちを」
抵抗したい気持ちを堪えて、沢木の哄笑を背に、鹿島はそのまま部屋を出ざるを得なかった。
4
吉村に促されるまま、木製の階段を無言で降り、二階に到る。吉村は猫のように足音を立てずに背後を追うが、鹿島への殺意が、びんびんと伝わってくる。
鹿島は、その時が近付いてくるのを、体で感じた。これから先がどうなるのかは、考えたくはなかった。廊下から休憩室の暗闇に進みながら、吉村に声を掛ける。
「光司は、どうなるんだ?」
吉村は「もう、うんざりだ」とでも言いたげに、わざとらしい息を吐いた。
「鹿島さん。赤の他人のあなたが心配する必要は、これっぽっちもありませんが、最期に教えておいて上げましょう。既に僕と慎吾は、正式に親子なんです。あの女が死ぬ前に、婚姻届を届け出済みですからね」
意外な答に、鹿島は麻耶の覚悟を改めて感じた。
吉村の素性や魂胆の全てを知りながら、結婚に応じて吉村を受け入れた覚悟は、麻耶の激しい懺悔の裏返しである。それと同時に、光司を愛する一人の〝母親〟として、意志を貫こうとする気概をも感じさせる。
しかし、それらの思惑とは別のところで、光司の人生が弄ばれている気がしてならない。実際には、麻耶が生まれたばかりの光司を盗み出さなければ、光司も違う幸せな人生を送っていたかも知れないのだが。
光司だけは、必ず幸せにならなければならない、と鹿島は切に願った。
「これだけは、是非とも、約束してくれ。光司を幸せにすると」
「あなたに言われずとも、二人の父親が、きちんとした愛情を以て育てていきますよ。それが、本当の親の責務というものです」
鹿島は、ほんの少しだけ、ほっと心を落ち着けた。鹿島自身が最悪の道を辿るにせよ、これ以上、光司を不幸にしてはならない。
だが、これから以降が勝負の時だ。高鳴る心臓をできるだけ制御しつつ、最後の望みに懸けるべく、慎重に進む。
吉村の投げ掛ける光芒が足許を照らす中、鹿島は勝手口から続く小部屋に戻ってきた。
テーブル上の《松室運輸サービス》の偽伝票を横目に、鹿島は玄関に追い遣られた。玄関を出れば、吉村の誘導に従って、本当に死地への旅路が始まってしまう。
「冥途の土産に、あと一つ教えて貰いたい」
口から発せられるままに、鹿島が問うた。何を言うかは分かっていたが、うまく要領を得られるかは、甚だ疑問だった。
吉村は無言で、答えない。しかし、無言がOKの印だと思い、背筋に太刀風を意識しつつ、構わず続けた。
「どうして、あんたら二人は、夫婦揃ってインドネシアなんかに行ったんだ?」
床を擦り行く吉村の微かな足音が止まり、背中を押す力が、僅かに乱れた気がした。
吉村が最も悔いている生涯の恥は、脆弱な殻の下から容易く現れた。うまい具合に、吉村の内懐を刺激できたようだ。ここぞとばかりに、刺激を強める。
「インドネシアに行かなければ、愛する奥さんも、轢かれて死んだり、しなかっただろう?」
言い終わる前に、吉村は、乱暴に鹿島の髪を毟り千切らんばかりに、後ろに引き倒していた。頭皮と首の筋肉が悲鳴を上げ、瞬時に床に叩き付けられた。何本もの髪の毛が吉村の手の中に残った模様だ。
「黙れ! お前の知ったことか!」
まるで今までの吉村とは別人であり、これがこの男の本性だと、大いに悟った。
吉村の手にしたサヴァイヴァル・ナイフが、闇の中で妖しく光り、鹿島の喉元を正確に捉えているのが分かる。今この状況下で動けば、鹿島の命がすぐ果てるだろう。
沢木と吉村のインドネシア渡航の真の理由は、はっきりとは分からない。推測するに、吉村の反政府組織との接触が主目的だったと、鹿島は見ていた。
政府の攻勢によって弱体化した《アナンタボガ》は、テロ行為へと主軸を移して生き残りを図った。だが、かつて英雄と褒め称えられた吉村は、それが我慢ならなかった。
そのために、現在の《アナンタボガ》の主導者に対して、気晴らし旅行を兼ねて、変節の見直しを迫りに訪ねたのだろう。吉村本人は、うまくいくと高を括っていた。
しかしながら、もう過去の存在である吉村の勧告を快く思わない、テロ主導のリーダーによって、当局に密告された。その結果として、諜報員ヤジドの襲撃を受けたのではないか。この時のヤジドの顎傷は、しっかりと目撃者の記憶に刻まれたことになる。
いずれにせよ、吉村の心は、鹿島の一言によって、大きく揺らいでいた。愛する妻を結果的に殺された、かつて冒した自らの失態は、いまだに大きな傷となって、吉村を悔い蝕んでいる。
吉村の臭い息が、鼻先から漏れてくる。
「今度、その件に触れてみろ。その場で命はないと思え!」
「悪かった。もう言わない」
どうせすぐに閉じる命だが、少しでも長生きはしたいだろう、とでも言いたげだ。暗闇の中の燃える眼差しが、メドゥーサの眼光よろしく、鹿島を今にも殺そうと見据えているようだ。
「静かにドアを開けろ。ゆっくりだ」
鼻息を荒げながら、吉村が命じた。もう、鹿島を殺害の対象者としか見なくなったようで、言葉には、今までの謙虚さは皆無となった。
ドアを支えにしてどうにか立ち上がった鹿島は、手探りでノブに触れ、そっと回した。
僅かに開いたドアの隙間からは、月光に照らされた階段と階段の踊り場が、森閑と見えた。闇の中にいた分、外の景色が一層明るく感じられる。
鹿島の背後から、吉村が外を窺う。鹿島が警察に尾行されて、この建物が幾重にも包囲されてはいないかと確認している。
実際、鹿島は警察に追われる身であり、警察が鹿島を信ずるには値しないと踏んでいるだろう。
じっくりと耳を凝らしてみても、深夜の住宅街は静まり返っていた。民家の甍が月光に黒鈍く反射し、野良犬の遠吠えだけが、夜の斑に粘っこく解けていく。
「よし。ゆっくり降りろ」
鹿島が吉村の言に従って、踊り場から階段に進み出た。吉村も、鹿島のすぐ後ろにぴたりとくっ付くように、するりと出た。
鹿島が階段を一歩、降りた瞬間だった。鹿島の頭上を何かが、ひゅん、と掠め飛んだ。
刹那、勝暁寺の狙撃が思い起こされ、反射的に身を低くした。
次いで、後ろに密着していたはずの吉村の体が、ドアに向かって吹き飛ばされた。
後ろを振り返ろうとした鹿島の体は、バランスを崩し、肩から階段を転げ落ちた。階段を回転しながら落ちていく中で、鹿島の頭上を更に何発かの銃弾が通過した。
階段に体中を打ち付けながら落ち、一階の床に叩き付けられた。ほぼ同時に、階段の上から耳を劈く銃声が降り注ぎ、周囲の壁や床のあらゆるものが撃ち砕かれた。吉村の反撃だった。
吉村は狂ったように叫び声を発し、全てを呪詛しているように見えた。突然の展開に、まだ死を覚悟できていないように、必死の抵抗を試みる。
鹿島は寸でのところで身を隠した。体中が転倒による打撲で疼くものの、銃撃による死を免れた。
辺りは、瞬時に、血腥さと硝煙の臭いで支配された。
ほぼ同時に、建物の三階にも動きがあった。警察の特殊部隊による突入である。塞がれた窓が割られる破壊音や、パンパンと乾いた銃声が、深夜の住宅街に木霊する。
鹿島は、銃声が聞こえる度に、光司の身の安全を危惧した。安易な行動が、最悪の事態を招いたのではないかと、体が顫えた。光司が流れ弾に斃れたり、自棄を起こした沢木が光司を道連れに死んだりしないか、それだけを危惧した。
もし、光司の身に何かあれば、鹿島も、沢木や吉村と同類に成り果てるような気がした。警察に光司の命を売ったのと何ら変わらない、極悪人である。
「こっちへ来い」
その時、鹿島は、強引な力で引き摺られ、一台の車輛の陰に退避させられた。三河だった。
「これで、万事うまくいく。被害を最小限に抑えられそうだ」
三河は、鹿島に借りを作ったのが気に食わないのか、下手人だと思い込んでいた鹿島と顔を合わせるのが嫌なのか、いつも以上に威圧感を放っていた。
「こんな深夜に、住宅街でドンパチやったら、被害はなくても、かなりの非難は避けられないな」
三河は、集まってきた野次馬を一瞥してから、フンと鼻を鳴らして横を向いた。
実は、鹿島は一旦、自宅へ戻った時、笹田のスマホを使って、三河に直接電話を掛けていた。それで、今までの調査結果を簡単に教え、これから敵陣に乗り込むと伝えた。
初め三河は、勝暁寺での経緯から鹿島を責めて、真面目に取り合わなかった。それでも、鹿島は、「信じたくはないだろうが、信じることになる」と捨て台詞を吐いて電話を一度そこで切った。すると、目論見通り、高速を降りた辺りで、幾つか裏を取った三河から電話が掛かってきた。
そこで、アジトの場所や状況を詳らかにし、アジト内では誰も殺害されないだろうとの予測を述べた。また、人質状態の光司は、それでも、しばらくは安全だと付け加えた。
三河は、アジトの中に入ったらすぐに、笹田のスマホを通話状態にし、内部の状況を知らせろと主張した。そうすれば、会話内容が分からずとも、電話付近の人の気配で状態を把握できるわけだった。
鹿島はドアを潜ると、言われた通りにスマホを通話状態にして、小部屋の棚の端に置いておいた。これで鹿島が連れられて外に出るタイミングが明確になり、狙撃部隊に吉村の殺害を的確に指示できたという。
すぐに、吉村の動きもなくなった。狙撃部隊の任務が成就したのかと思い、車の陰からそーっと首を伸ばしてみた。
三階部分の破壊された何箇所もの窓から明かりが漏れ、数人の襲撃部隊が部屋内部で捜索を続けている様子が分かった。基本的には静寂が戻ったようにも窺える。
罅割れた音が、レシーバーから途切れ途切れに聞こえてくる。もはや、緊迫した状況は収束した印象があった。
「……三階は制圧成功。……被疑者と……姿は見当たりませ……」
鹿島は、光司の元気な姿を思い起こすのと同時に、あれほどの狭い部屋の中で、二人の姿が消え失せるわけはないと、レシーバーの声を怪しんだ。
その時、住宅街の静寂を吹き飛ばす閃光と轟音が、落雷の如く周囲を包んだ。
同時に、地を割る如き震動が足元から突き上がり、衝撃が同心円状に激しく広がった。
三階部分は火柱に貫かれ、内側から弾け飛んでいた。柱や壁が歪み、メラメラと赤黒い焔と濃灰色の煙が、夜目にもはっきりと視認できた。
鹿島は全身を強張らせ、最悪の事態が引き起こされたと知った。
「しまった!」
三河の悲痛な声が空疎に響く。
しかし、鹿島は、不安の的中よりも違和感が先行して、立ち上がった。
これほど用意周到なプランを、長年月を掛けて立て、ようやく手に入れた谷口家の一粒種を、いとも簡単に手放すようなマネは、取らないのではないか。
吉村の綿密なトラップが作動して、警察が突入する直前で察知され、逃走を許したとも考えられる。吉村の狙撃後の無茶苦茶な反撃も、沢木逃走の時間稼ぎでは、とさえ思った。
鹿島は、三河の切迫した声を振り切って、建物に走り寄った。警官の隙を突き、三階の残骸や窓ガラスの欠片を踏み締めて、階段を一気に駆け上がる。
階段の踊り場には、無残に血に塗れた吉村の骸が横たわっていた。かっと見開かれた元傭兵の眦が、虚しく宙空を見詰めている。鹿島は哀れみさえ覚えず、ドアを潜った。
二階部分は、爆破による影響はさほどないようだったが、酸鼻と動揺に満ちていた。叫びと嗚咽が混淆し、多くの同僚が爆死した衝撃が、火薬の臭いに交じって伝わってくる。三階は、ほぼ一掃され、壊滅の状態だろう。
小部屋を抜けて休憩室へ行く間にも、混乱は広がりを見せていた。命を落とさなかったとしても、かなりの傷を負った隊員が担がれて運び出され、必死の治療を受けている姿も見える。どうにか爆破を免れた何人かの特殊部隊員も、項垂れてその場に座り込んでいる。違法に侵入した鹿島を見ても、誰一人として誰何・叱責する者もいないほど、現場は混乱・消沈していた。
廊下へと出た。上階へ繋がる階段には、既に火が回っていた。消火を命ずる怨声と、再度の爆発を危惧して退避を促す怒声が錯綜する。
これほどの焔が逆巻く混沌の中を、沢木と光司は本当に逃れたのだろうか。もし、沢木と光司が無事に逃れたのであれば、どこへ行ったのだろう。
だが、鹿島がふと目を止めたのは、別の一点だった。
「どうした? 何かあったのか?」
追い付いた三河の質問を無視して、鹿島は、廊下に出た診療室の扉前に、素早く駆け寄った。
診療室の一室の扉が、僅かに開いている。爆発の影響で開いたのかとも思ったが、他の部屋はびくともせずに、固く口を閉ざしたままだ。
三河は、訝しむ鹿島の肩を、ぐいっとしっかり抑え込んで訊ねた。
「ここに逃げたのか?」
「分かりません。でも、さっきまでは、しっかり閉まっていました」
慎重な沢木が、脱出口の手立てを施さないまま、アジトに立て籠もろうとはしないだろう。爆破させたのは、あくまでも自分たちが死んだと思わせる偽装で、警察が死体を探している間に、自分たちは逃げ果せようという計画だ。
鹿島は、応援を手配しようとする三河をスルーして、ずかずかと部屋へ入った。
診療室と思われた部屋は、物置のような場所だった。様々な調度品や雑貨品が、この部屋にわざとらしく詰め込まれたように置かれている。
爆発の影響か、棚や積み上げられたダンボールの一部が、互いに重なり合って崩れ倒れているだけで、人の気配はない。
だが、鹿島は、確信を得た。沢木は、まだ意識のない光司を抱え上げて、ここを急いで移動した、と。
沢木が逃げる際に、わざと周囲の荷物を倒して脱出口を塞いだと結論を下した鹿島は、崩れた段ボールの山を、一つずつ取り除き始めた。三河も、鹿島の行動の意味を理解したようで、何人かの応援隊員と共に、段ボールに手を掛ける。
類焼の危険を顧みず作業を続けると、段ボールの山の下から、小さな階段口が現れた。埃の積もった階段に、真新しい靴跡が残っているのも分かる。
「階段か。全く、用意のいい奴だ」
肩で息をする三河を振り切って、鹿島は更に階段を降りて行った。〝原状の維持〟などとは言っていられない。
階段を降り切ると、また倉庫のような場所に出た。降りてきた深さからいって、もう、ここは、地下のレベルだと分かる。つまり、一階の歯科医院の真裏を通る形で、脱出用の〝秘密の階段〟が隠されていた。
ここは調度や雑貨ではなく、僅かに工具類が置かれている程度で、どちらかというと、伽藍としていた。むしろ、何かがここへ置かれていたと分かる。
更に先へ向かって、新しい轍の跡がしっかりと付いており、排気ガスの臭いもまだ残っていた。間違いなく、沢木が光司を連れて、車で窮地を脱したと見ていい。用意周到な策に、鹿島も舌を巻いた。
「どうやら、戦時中に造られた防空壕らしいな」
三河の視線に振り仰ぐと、赤褐色の煉瓦造りのアーチ状の天井が頑丈に聳え、軽自動車の幅くらいのトンネルが、深い闇の奥へと続いている。
調布飛行場との関係から、市内の各所へと結ばれた防空トンネルの一つだろう。戦後、ほとんどの防空壕は埋められたが、こうして密かに残る箇所も存在していた。
鹿島が懐中電灯の光の中に、一台のバイクが立て掛けられているのを見付けた。キーも差しっ放しだし、万が一の時のための、吉村用の非常用脱出ツールだと思われた。整備も上々だと推測される。メーターも、燃料計が満タンを指している。
鹿島は何の疑いも抱かずに、バイクを引き出して、瞬時に跨った。キーを回してエンジンを掛ける。
狭い倉庫の中に、エンジン音が轟いた。耳を聾する爆音が、全ての動きを、一瞬だけ止めた。
「鹿島、何をする!」
三河が叫んだが無駄だった。制止する特殊部隊員の脇を擦り抜けた鹿島は、アクセルを全開にして、狭く続く防空トンネルの中を必死に走った。鼓膜が破れそうなくらい大きい爆音にも、鹿島は、怯みはしなかった。
この先にどんなトラップや真実が待っていようと、もはや、戻る気はない。今は、ただ、光司の無事を信じて、突き進むしかない。
「待ってろよ。決着を付けてやるぜ」
5
鹿島がバイクで走り始めてから、数分が経った。
だが、なおもトンネルは高低の動きこそあれ、ほぼ真っ直ぐに進んでいた。もう、多摩川の下を潜って、川崎市側へ出た頃合いだ。
鹿島は、ヘッド・ライトに照らされる向こうの闇にも気配を集中させて走った。残された吉村仕込みのトラップにも意識を割かなければならなかったためだが、ひたすら前へ前へとバイクを走らせ続けた。
吉村が死んだ今、敵方の戦力は極端に減じ、抵抗する意志は、もはやないと思われる。沢木は、何とかしてこの場を逃れ切り、息子と二人で、平凡だが平穏な暮らしを望んでいるはずだ。
こうなったからには、沢木は全ての地位を擲たざるを得ず、後は、光司を糧に、日本の領土の片隅で、ひっそりと生きていくしかなくなった。
だからこそ、ここで離されては、行方が完全に分からなくなる可能性がある。用心の才に長けた沢木は、この対岸の脱出口にも、拠点を確保していると見ていい。恐らく他人目に触れぬように、カムフラージュされた家か山林に行き当たるだろう。
しかし、トンネル幅ぎりぎりの軽乗用車に比べて、このバイクなら、壁との接触を懼れずに、フル・スロットルで突っ走れる利点はある。できる限り速度を上げて、追い付きたいところだ。
鹿島に焦りはなかったが、複雑な思いを抱えた心は、一連の事件がどんな決着を見るかの見極めができなかった。
沢木と光司は、まだ互いの面識がない状態だ。再度、初めから絆の構築を図るには、結構な努力と時間が掛かる。しかも、相手は光司の〝母親〟を爆殺した凶悪犯だ。
光司が如何に大人びて、物分りがいい子供だとしても、自分の数奇な生い立ちを、すぐに素直に受け止めるには、かなりの無理が生じよう。
強引に説得しても光司の心が離れるし、心理学的な洗脳を試みても心に深く傷が残る。沢木は、そうした重大な問題を完全にクリアするための手段を、持ち合わせているのだろうか。
鹿島が重い思考の中に耽溺していた隙に、突然、トンネルが終わった。
後悔の念が一瞬にして広がり、同時に右肩に激痛が走った。
急ブレーキを掛けたが間に合わず、バランスを崩して、バイクごと横倒しに転回した。
バイクの転倒音や床が抉れる音が乱れ飛び、今度は背中や膝に、別の種類の痛みが襲い掛かる。
忽ちにして、静寂が訪れた。バイクのエンジンはもう停止し、カラカラとしたベアリングの音も、やがて止まった。
全身を燃えるような痛みに包まれて、鹿島はすぐには起き上がれなかった。
どうやら肩の激痛は、銃撃を受けたからだと知れた。呼吸をする度に、きりきりと激痛が体中を苛んでいく。相当な出血も伴っているのが、肩を広がる温かさで分かる。
消え入りそうな意識を鼓舞させつつ、ここはどこだろうかと、目を僅かに開けて、次の展開に備えた。
そこは、広いホールのような場所だった。見える範囲には、染みの多い高い天井、固く踏み締められた広い土間、使い古した木のテーブルと、その上に放置された、様々な小物類、壁際に置かれた観葉植物、それに今しがた入って来たと思われる防空トンネルの開口部があった。
防空トンネルからの脱出口とするために、直線上に位置する廃屋を買い取って工事を施したと分かる。トンネルの開口部は、特大な登り窯を彷彿とさせ、ホールの端には外へ繋がる重厚な門扉も窺える。
ホールのただ中に、窓から漏れる月光に照らされて、白い軽乗用車が一台、駐められている。
痛みに悶えながらも、ようやく上半身を起こす。右肩は赤黒い血に濡れ、もはや痛み以外の感覚がない。
垂らした利き腕の指先から血が滴り落ちている。銃弾は貫通しているようだが、腕は使い物になりそうにない。
「もう止めないかね、鹿島さん」
ホールに沢木の声が唐突に響いた。怒りと苛立ちが、びんびんと周囲の壁を鋭く叩いている。
「どうして、放っておいてくれないのか、我々親子のことを?」
声の方角に視線を向けると、警戒心と敵対心を剥き出しにして、沢木が佇立していた。手にした拳銃が、今度はしっかりと鹿島の眉間を捉えて離さない。
「……単純な親子間の問題だったら、ここまで執拗にならないさ」
言葉を発する度に、肩から全身に、痛みの波状攻撃が襲ってくる。滝のように流れる脂汗が、もう、止まりそうもない。
それでも鹿島は、渾身の力を込めて、その場に立ち上がった。悶絶する痛みや立ち眩みに負けぬよう、歯と唇を噛み締めて、懸命に堪える。
ここで時間稼ぎができれば、警察の後続部隊も、すぐ立ち現れるだろう。それも、さほど長い時間ではないだろうが、そこまで体が保つか、自信がない。
「どんなに複雑な親子関係でも、口出しされたくない場合もある」
沢木は一歩、近付いた。拳銃に掛ける指に、少しずつ力が込められていく。
沢木とて、馬鹿ではない。ここは即刻、鹿島を斃して窮地を脱する方法がベターな遣り方だ。警察の追撃の前に、行方を晦ませたほうがいいに決まっている。
汗が目に流れ込んで、視界を遮った。瞬く間にも、いつ引鉄が引かれるか、知れたものではない。
「最期に、言っておく。……もう慎吾のことは、心配には及ばない。だから、安んじて、あの世へ行くがいい」
鹿島は、沢木の口の端が嗜虐に歪むのを見た。銃口を見返しつつ、覚悟を決める。
「もういいよ!」
僅かだが、はっきりとした意志を持つ通る声が、ホールに響いた。
「光司……」
二人が振り返った先に、力を振り絞って立ち上がった、パジャマ姿の光司の痛々しい姿があった。車のドアに縋り付いて、如何にも苦しそうだ。
「まだ寝ていなさい。君は、大事な体なのだよ」
沢木の声にも拘わらず、光司は一歩ゆっくり前に出てきた。全ての動きが、光司の一挙手一投足に封じられる。
「……吉村さんは、どこにいるの?」
踊り場に横たわっていた吉村の骸を思い出して、鹿島は嫌悪感を覚えた。沢木も無念そうに口を真一文字に結んだ。
誰の回答も得られないからか、光司は悲しそうな表情を重ねた。この状況から判断して、自分の立場を弁えたような表情にも、鹿島には見えた。
「……もう、僕のために、人が殺し合うのは止めて欲しいんだ」
鹿島の思考が一瞬、止まった。光司の口から発せられた意外な言葉が、鹿島自身を強く縛り付けた。
なぜ光司は、一連の殺人事件が、自分を取り巻く環境下で繰り広げられたと知っているのだろう。
つまり、沢木と吉村の計画が存在し、その最終的な狙いが光司の奪還にあると、現時点で本当に認識しているのだろうか。
その不審は、沢木にとっても同様のようで、刹那、鹿島をちらと見た。まさに、光司の言わんとする意味を測りかねているようだった。
「……まさか。光司、……何を知っているんだ?」
鹿島は、体中の痛みや沢木の銃口など忘れて、光司を凝視した。
光司は、ふーっと重々しく吐息を出すと、鹿島にも沢木にも視線を投げ掛けられないように、俯き加減に呟いた。
「……母さんから、全てを聞いたんだ。六月三十日の朝だよ。……僕が、母さんの本当の子供じゃないことや、本当の両親は〝谷口さん〟だっていう話もね」
光司は全てを知らされていた……。聞かされて鹿島は、体が無残に切り裂かれるような衝撃を受けた。
病を得て友人とも離れ、病を克服せねばならなかった上に、自分に突き付けられた人格否定とも取れる、麻耶からの無情の告解。
光司の小さな胸には、一生ずっと消えぬ、見えざる無数の傷が深く刻まれたはずだ。自分の過酷な運命に押し潰されそうになっただろう。
光司にとって、麻耶の告解は非常に辛く、受け入れ難かったに違いない。自分が麻耶の本当の子ではなく、沢木という心理学者の子であるという事実は、光司の病が悪化する恐れも、心が崩壊する危険性もあったはずだ。
しかし、光司は、今まで、普段と何ら変わらぬ様子で、健気に振る舞ってきた。麻耶が爆殺されても、麻耶の死を受け止めた。麻耶の覚悟と同様の強い意志が、光司の幼い双肩に負われている証左でもあろうか。
六月三十日の朝といえば、麻耶が爆殺される直前、麻耶がヤジドを襲撃する前日だ。もしかすると、麻耶が吉村との婚姻届を提出した当日かも知れない。
そう考えると、麻耶は抗えぬ運命に自分の死を予感し、懺悔の気持ち全てを諭すように〝息子〟に告解したのだろう。真実の吐露が、光司を巻き込んでしまった罪を犯した自分への罰であり、人として許されざる行為だったと。
「だけど、僕は母さんの子だよ。でも……谷口さんの子でもあるんだ」
「慎吾……」
沢木の瞳は涙で溢れていた。既に銃口は下を向いており、鹿島の命を狙ってはいなかった。大きく腕を拡げて、改めて我が子を腕に抱こうとする。
光司も麻酔明けの頼りない体調を物ともせずに、涙を滲ませて近寄ってくる。光司を拉致した張本人の許へと。
鹿島は、眼前の光景を複雑な思いで見詰めた。麻耶は沢木を復讐の鬼へと駆り立て、沢木は復讐のために麻耶を殺した。その狭間で翻弄された光司の苛烈な運命を思うと、悲しみを通り越した強い哀しみを覚えざるを得ない。この後、二人をどう考えたらいいのか、まだいい案も思い描けていなかった。
十年の歳月を掛けて、ようやく相分かり合える父子の絆。それは、沢木が人生の全てを掛けて求めていた、唯一無二のものだった。しかし、この絆を取り返すためには、あまりにも大きな代償を払ったと、感じているだろう。
その時、轟音と共に、大きく沢木の体が後ろに仰け反った。
「……し、慎吾……」
沢木は、最期に息子の名を呟くと、そのまま仰向けに倒れていった。光司が差し出した指先は虚しく空を切り、胸を朱に染めたまま、沢木は力なく床に投げ出された。
「父さん!」
光司の悲痛な叫びが、ホールに轟いた。
ほぼ同時にドアが突破され、数人の突入班が群れ入ってきた。
光司は沢木の許に呆然と頽れ、確かめられなかった絆の込められた指先に、そっと触れた。号泣こそしなかったが、涙の筋は、もう止まらなかった。
沢木の瞳孔はもう完全に開き、光司を見詰めてはいなかった。果たして、本当の息子の魂の叫びを、沢木は聞いただろうか。それに、この結果こそが、運命に弄ばれた者たちの末路だったというのか。
鹿島は、ぞろぞろと突入してくる隊員たちには構わずに、光司の許へ少しずつ近寄った。そのまま、本当の父親に決して受け入れられなかった光司の胸を、代わりにしっかりと抱き留めてやった。
微かに顫える小さな全身が、鹿島の心の堰をいつ破るかは、時間の問題だった。
ただ、鹿島は、これで本当に良かったのかと自問し、昏い気持ちを更に重くした。
終 章 贖罪と慈愛の果て
強い日差しの中を、微風が穏やかに頬を撫でていき、仄かな草いきれが鼻腔に懐かしさを運ぶ。
子供たちは元気よく賑やかな歓声を上げて、疲れもせずに緑の大地を走り回っている。
鹿島は、久し振りに、心安らかなひと時を過ごしていた。まだ右肩のギブスは取れないが、もう体の痛みはほとんどなく、通常の生活には支障ないくらいに戻ってきていた。
ただ、心にはまだ、大きな穴がぽっかり空いたままになっていた。事件解決に奔走したエネルギーと事件の衝撃が、如何に大きなものだったかを、今更ながら、肌で強く感じるのだった。
一方、当事者の光司はもう、些細な蟠りも鬱屈した表情も見せずに、新しい友達の輪の中にしっかり溶け込んで、楽しそうに大声を上げている。二月前の入院生活からは、考えられない光景だ。
手術も無事に終え、驚異的な回復を見せた光司は、八月半ばには退院を果たし、麻耶の両親に引き取られた。二学期から新しい小学校に転入したが、持ち前の明るさと賢さで、瞬く間にクラスの人気者になったという。
「でも、こうやって光司の元気な姿を見ていると、これでよかったんだなって気にもなりますよ」
鹿島の本心だった。何はともあれ、何の罪科のない光司が幸せになってくれることこそが、何よりの慰めだった。光司の幸せを一番に望んでいた麻耶もようやく、泉下で安堵しているだろう。
「鹿島さんには、お礼の言いようもありません」
鹿島の隣でベンチに腰掛け、光司の元気な姿を目で追っていた麻耶の父親が、静かに呟いた。以前の、傷心と絶望に満ちた眼差しは消え、幸せに溢れた表情が喜びに包まれている。
確かに、鹿島の行動によって、様々な人たちを傷付けたのは事実である。麻耶の過去が暴かれ、沢木や吉村の、人間の心に巣食う悪意を露呈させたに過ぎないのかも知れない。
しかしながら、鹿島の行動のお蔭で、沢木の計画を挫いて光司を救い、事件の全容解明を成し遂げたのもまた、事実だ。無念にも死んだ麻耶の心を、解放したとも言えるのではないか。
「もしかしたら、私は、久保田さんの遺志に動かされていたんでしょうかね?」
「案外、そうなのかも知れません。あの娘は遺した光司を救ってくれと、あなたを導いたんですよ」
父親は、ほほほと小さく笑って、飛び跳ねる光司に視線を戻した。
麻耶は美しく聡明な女性であり、光司を慈しんで懸命に育ててきた。それも、自らが犯した罪の裏返しであり、自分の罪を償うためにも、光司の幸せを切に望んだ。自分の罪を贖えるチャンスを得て、沢木の計画に進んで参加もし、自らの命と交換に光司の幸せを託したようにも見える。贖罪と慈愛に生きた麻耶は、結果的に、見事に光司に幸せを齎した。
ところで、後日、三河から聞いた話によると、沢木と吉村が犯した罪については、沢木が葛海・三橋の殺害教唆に加えて、麻耶爆殺と光司の拉致指示、吉村が葛海と三橋の殺害並びに光司の拉致などであったが、どれもが被疑者死亡により、結局は不起訴とされた。
吉村の牧瀬や前田医師の殺害の件は、本件とは切り離されて、捜査もされなかったし、ヤジドの殺害やアディの違法賭博については、〝主権国家インドネシア〟の壁によって、捜査自体が及ばなかった。
ただ、違法賭博営業の罪で、《リンガ・リンガ》のオーナーだけは逮捕された。その結果、賭博名簿が回収され、政治家や芸能人に飛び火する可能性はあると、三河は肩を竦めた。
また、勝暁寺で吉村の狙撃を受けた笹田は、重傷だったにも拘わらず、八月の半ばから元気に職務に復帰しているという。何とも逞しい限りである。
「鹿島さん、あなたの罪は、今回、捜査協力を頂きましたので、不問にして上げました」
三河が恩着せがましく、ぶっきら棒に呟いたのを思い出して、鹿島は苦笑いを禁じ得なかった。
結局、鹿島が犯人ではなく、冤罪寸前にまで追い詰めた状況を棚に上げて、今回の事件を自分の手柄のように扱った三河が、一番の得をしたのかも知れない。
何はともあれ、もう、三河との縁も、これで切れただろう。後は、次の縁を求めて、再就職活動を始めなければならない。
「私は、分からないんですよ。麻耶は、いったい何を遺したのでしょうかね?」
麻耶の父親は、青空を見上げて、独り言のように囁いた。
鹿島も釣られて見上げた青空に、白い雲が涼しげに流れていく。
麻耶が遺したもの……。
贖罪と慈愛の果てに麻耶が遺したかったものは、光司の明るい笑顔だったと信じたい。
鹿島は、「これでよかったんだ」と心の中で繰り返し呟いた。なぜか、麻耶に対する義務を果たしたような気分で、鹿島は、あの魅力的な麻耶の笑顔を、大空に思い描いた。
了
最後まで読んで頂き、ありがとうございました。次回作も、お楽しみに。