ショクザイの構図~美人シングルマザーの遺言~ 中編
自らの無実を証明するために奔走する鹿島だったが、死んだ摩耶のインドネシア人上司のルクマン、最近流行の人気弁護士葛海などが摩耶の死と関わりがあると睨んだ。そんな中、鹿島は、身の危険を冒してまでして、怪しげなバー《リンガ・リンガ》を発見する。
第4章 秘密の花園
1
翌日から、鹿島は、バー《リンガ・リンガ》への潜入調査を始めた。
赤坂の高級住宅街のマンションの地下にある一軒のバー《リンガ・リンガ》。地位も名誉もある大使館員が毎夜通い詰めるという、全く不可思議で怪しげな存在だ。
鹿島は、このバーには、一連の事件との強い繋がりがあると睨んでいた。もちろん、あのおかっぱ頭の大使館員も、何がしかの関わりを持つと信じていた。だが、まだ決め手がない。
今度は午後十時を過ぎた頃合いを見計らって、《リンガ・リンガ》のあるマンションの駐車場に、車を滑り込ませた。確実な安全のために、傷を負った自分の車ではなく、修理工場から借り受けた代車である。
鹿島がゆっくりと車を離れ、駐車場を出ようとした矢先、駐車場の入口に動きがあった。予定通り、堂々と風を切るように、見慣れた例の黒い公用車が現れた。鹿島は、内心、北叟笑みながら、気にせぬ風を装って、《リンガ・リンガ》の扉口へ向かう。
看板の発する紫の妖光を左頬に受けつつ、恐る恐る扉を開ける。開けた途端に、言い得ようもない仄甘い香りが鼻腔を刺激した。媚香の類かと勘繰ってしまう。
鹿島が香りに気を取られていると、前方の闇の中から、突然「いらっしゃいませ」と、静かな声が掛かった。
遠い宇宙から囁くような、しかし、心の端をぐいと掴むような、落ち着いた若い男性の声だった。
「初めてなんだけど、いいかな?」
会員制の敷居の高さを意識して、いつの間にか目の前に立っていた若い男に対した。男は長身で金髪だが、物腰は丁寧で威厳もある。白のシャツと黒皮のベストが、控えめな上品さを演出している。
「どうぞ。こちらへ」と、寡黙な男に促されるまま、鹿島は店の奥へと歩を進めた。
店内は押し並べて薄暗く、店のカラーの紫の光が、壁や足許の間接照明にポイントを添えている。天井は思った以上に高く、店の間口に比して奥行きも長く広く、ゆったりとしたイメージを持った。壁に掛かる絵画やちょっとしたオブジェも、洗練された美しさを感じさせる。華美ではないゆとりが、客の心地よさにマッチする。
数組の客が、ぼそぼそと囁いている声は漏れるが、全体的に静謐な空気が漂っている。微かに流れる柔らかなBGMが、安らぎと静けさを助長する。鹿島の好きな雰囲気だ。
「こちらになります。ごゆっくり、どうぞ」
若い男に案内されたのは、洒落たカウンター席だった。カウンター周りは、淡い紫の条光でぼーっと優しく浮かび上がっている。カウンターの奥には、数々のボトルや繊細なグラスと並んで、店のロゴ・マークのネオン・サインが、控え目に自己を主張する。
鹿島がスツールに腰を下ろすのとほぼ同時に、今度はカウンターの中から別の渋い声がした。
「お越し頂きまして、ありがとうございます」
バスの低音が心地よい声に目を遣ると、初老の男が口許に笑みを湛えて待っていた。正面で分けた半白に涼しげな目元、すーっと通った鼻筋と薄い唇が自信に満ちた知性を示している。その一方で、やや張ったエラと先端に残った顎鬚が、野性味を加えている。
皮のベストの胸元には、他の店員にはないロゴ・マークがさり気なく留められている。上の立場の人間なのかも知れない。
冷たいおしぼりと小洒落た突き出しを受け取ると、更に言葉が継げられた。
「何に致しましょうか?」
「お任せするよ。何か、今日の雰囲気に合ったカクテルでも」
「承知致しました」
初老の男は軽く頷くと、手際よい慣れた捌きで、何本かのボトルに手を伸ばして作業を始めた。
その時、鹿島は、例のおかっぱ頭が背後の通路を通り過ぎるのを感じた。熱心に毎夜通う状況から考えて、常連にのみ与えられた、隔絶された享楽の空間が、この闇の奥に用意されていると見ていい。
もはや、このバーに通い続けない限り、鹿島を闇の先には近付けさせぬ、排他的な壁を打ち破れないと実感した。何の躊躇もなく、おかっぱ頭はいそいそと、通路の先の奥の闇に消えて行った。
奥に何があるかに思いを寄せようとした鹿島の思考は、男の声で中断された。
「お待たせしました。マティーニでございます」
カクテル・グラスに満たされた透明な一杯が如何にもきりっと爽やかに見え、添えられた黄金色のオリーヴが軽妙なアクセントを与えてくれる。鹿島が爽やかに見えたのか、他の意図があってかは分からないが、鹿島は男の選択を気に入った。
端から常連の話題を出すのも危うく無粋なので、マティーニを口に運んでしばらく黙っていると、カウンター越しに話し掛けられた。
「お見掛けしないお顔ですが、今日は初めてでございますよね?」
遠慮がちな物言いだが、鋭い眼光が鹿島を滑らかに射て、警戒感が言葉の端々に覗いている。鹿島も、視線に澱まずに声を返した。
「ここに前からあったのは知ってたけど、会員制かと思って、近付けなかったんだ」
男は眼光を和らげて、顔を綻ばせた。ただ、警戒を完全に解いたわけではなさそうだ。
「さようですか。でも、うちは、決して会員制ではありません。ご近隣の方々にも、よくお越し頂いております」
「それを聞いて、安心したよ」
「ただ、ここにいらっしゃるお客様は、静かにお酒を楽しみたいと思ってらっしゃる方が多いので、あまり雰囲気を大事にされないお客様は、ご遠慮申し上げてはおります」
男は、自信に満ちた声で告げた。確かに、多くが酒のマナーを守る人間のようで、無様に悪酔いする客は見当たらない。周囲を見渡しても、カップルや一人で来る客が多いところも、単に酒を楽しめるからだと分かる。
「でも、勇気を出して入って正解だった。本当にいい雰囲気だし、オーナーの酒も旨い」
「ありがとうございます。これからも、どうぞご贔屓に」
否定しないところを見ると、このカウンターの男は、このバーのオーナーらしい。もしかすると、初めての客に対しては、このカウンターに座らせて、オーナー直々に、どれほどの人品骨柄かを品定めするのかも知れない。言わば、第一次面接といったところか。
ならば、是非とも印象を良くして、駒を順調に先へ進めるよう心掛けなければならない。いずれにしても、しばらくじっくりと腰を据えて対さねばと、肚を括った。
「さっき駐車場で、外国人の方をお見掛けしたんですが、結構、外国の人も多いんですか?」
「……そうですね。ここは場所柄、外国の方も多いですよ」
鹿島の背後で飲んでいる客の中にも、何人か、外国人の顔も見える。大使館員だけでなく、日本在住の商社マンなど、多くの外国人の常連もいるのだろう。如何にも上質な顧客といえよう。
その後も鹿島は、顎鬚のオーナーと、しばし取りとめのない話をして時間を過ごした。最近の景気から気候温暖化について、オーバーツーリズムの話題から昨今のアイドルの話に至るまで、思い出すままに話し続けた。
だが、そのどれもに、オーナーはそつなく、適切に話を返した。こうした店のオーナーとしては、広く浅い教養は、基本的な資質なのかも知れない。
鹿島が意を決して〝競馬〟か〝潮汐発電〟の話を振ってみようとした時だった。突然、鹿島のスマホがぶるぶると震え始めた。登録のない相手からだ。
鹿島は、オーナーに断わってから話を中断して、何だろうと、急ぎ外へ出た。震えたスマホを耳に当てると、相手は勝沼晋一だった。鹿島は、不意を受けた形となった。
「すみません、こんな遅くに」
「いえいえ。どうってことはありません。まだ我々の仕事は宵の口ですから。それより、どうしたんですか?」
腕時計は午前一時を回ったところだ。夢中になるうち、結構な時間を費やしてしまっていた。
「三橋の関係で、ちょっと気になる件がありまして。明日、会えますかね?」
勝沼の〝三橋〟という文言が、殊の外、胸に異様な刺激を与えた。
「いいですよ。午後一時くらいはどうですか? 場所はそちらにお任せします」
「分かりました。ええっと、……じゃあ、一時に上野不忍池の水上音楽堂の前で」
勝沼がいきなり会いたいとは、いったい何があったのだろう。しかも、三橋についてだ。三橋が言い遺した言葉でも思い出したのだろうか。
鹿島は、不吉な思いをどうしても振り払えなかった。事件進展についての重大事だと、期待が持てるものの、何かが鹿島の心の表を、不躾に撫でていく。
鹿島は、乱れる心を落ち着かせてから、《リンガ・リンガ》の表扉を開けようとした。まさにその時、扉は内側に勝手に開いて、中から出てくる人間と鉢合わせした。
ぶつかりこそしなかったが、鹿島は出てきた人間の顔を見て、収めた心が再び乱れるのを抑えられなかった。
中から出てきたのは、例の見覚えのあるおかっぱ頭の男だった。
男は、なぜか一人苛立って、鹿島の姿も見えていない。母国語でぶつぶつと、文句や愚痴を呟いている感じだ。脇目も振らず、どかどかと駐車場へ向かっていった。
時間は、いつもの帰路に就く時間の午前三時にはまだ早い。店側に粗相があって、怒って帰ったのか。あるいは、退っ引きならぬ連絡が入って、中座する事態に陥ったのか。
余りにも突然の出来事に、鹿島は扉口で、呆然と男を見送らざるを得なかった。おかっぱ頭の背を送る形で従いてきた先ほどの若い店の者も、ある意味、冷ややかな面差しで、叩頭するのみだ。
「どうしたんですか、今の人?」
若い男は鹿島に気付くと、嫌なものを見られたと言わんばかりに、眉を顰めた。しかし、あくまでも冷静な態度を崩そうとはしなかった。
「どうも申し訳ございません。特段、騒ぎ立てるほどでもございませんので」
ぼそりと言うと、男は、すーっと扉の奥へと引っ込んでいった。
鹿島は席に戻ると、今日はここまでと宣言して、オーナーに暇を告げた。
「また近いうちに、お越し下さい」
「明日、車を取りに来るよ」
オーナーの声に見送られて、鹿島は店を後にした。駐車場には、例の公用車はもう既になく、鹿島は置いてけぼりを食ったように感じた。それで、大通りまでの道を、ゆっくりと歩こうと思った。
振り仰げば、今日はいつになく夜空が広く、星が間近に感じられた。家並の上からそそり立つ長大な壁のように、宇宙が浮き立って見える。星は瞬きを強めながら、限りなく黒い布に濃密に散らばっている。まるで下界とは無縁のように、ただただ、絶対的な存在感を際立たせて。
鹿島の如きは、広い宇宙の微細な塵芥のようなものだと、思い知らされる。鹿島が命を懸けて取り組んでいる謎解きも、宇宙全体から見れば、些細で卑小な、無に等しいものなのかと、嘆かざるを得なかった。
「天は何をか知る。いわんや、人は何物も知らず、だな」
2
午後一時。鹿島は勝沼との約束通り、上野の不忍池の畔にある水上音楽堂の前にやって来た。
平日の昼間とはいえ、昼休みの会社員が多く通るし、池畔の遊歩路のベンチでお弁当を食べているOLも見受けられる。人ごみに紛れて密会するには、申し分ないと言えた。
「鹿島さん、こっちです」
鹿島が探し当てる前に、勝沼に背後から声を掛けられた。待ち切れなくなって声を掛けた感じだ。声に振り向くと、前と同じ青いTシャツとジーンズ姿の勝沼が立っていた。
「どこか、静かにできる店にでも入りましょう」
「それよりも、このまま歩きませんか? 今日は天気もいいし」
勝沼は、どこかおどおどして、落ち着かなかった。これから告げられる言葉の重要性を、なおさら思い知らされる。勝沼の視線があちらこちらに飛び、何か得体の知れないものに警戒しているようにも受け取れた。
鹿島は散策に同意し、二人は、そのまま不忍池の蓮池に沿って、歩き始めた。枝も蒼々と茂り、全体的に鮮やかに戦いでいる桜並木の築堤を、弁天堂方面へと向かう。それは、まるで、友人同士が再会を楽しむようにも見えたろう。
不忍池は、都会の中のほっとできる空間だ。周囲には様々なビル群が囲うように建ち、池畔散策やボートに乗る人々を上から見下ろしている。そろそろ夏も本番を迎え、隣の上野の山全体が蝉の声で埋め尽くされる日も近い。
しばらく無言のまま歩き続けたが、頃合い良しと思ったのか、弁天堂の手前で、勝沼がようやく口を開いた。
「実は、こんな物がうちに届きまして……」
勝沼がポケットから何かを取り出して、そそくさと鹿島に手渡した。住所と宛名だけが書かれた普通の茶封筒だった。軽いが、かさこそと音がする。
「これは何ですか、いったい?」
「昨日、溜まった郵便物の整理をしようと思ったら、間に紛れていたんです。投函の日付は、四日前です。早速、中身を見てくれませんか」
急かす勝沼の言葉に、慎重に封筒から中身を取り出すと、二枚の紙が入っていた。
一つは、○字にひらがなの〝み〟と書かれたメモ用紙。もう一つは、引き千切られたような紙片が一枚だった。
「○に〝み〟は、三橋のサインみたいなものです。台本やネタ帳にも同じ印をしていました」
「つまり、三橋さんが死の直前に、これを送ってきたと?」
「そうです。いったい何なのか、見当もつきません。どうやら、宅急便の切れ端なんですけど。でも、あいつの死と合せて考えると、きっと重要な意味を持つんでしょうね」
薄い印刷が、確かに宅急便の伝票の二片目だと物語っている。しかしながら、ほぼ三分の二の位置で激しく破り取られていて、初めの部分しか残っていない。
しかし、鹿島が目を凝らして残片に集中した時、体中に突然の衝撃波が走った。
そこには、薄いが確かな字で〝松室運輸サー〟と印字されていた。
麻耶に爆弾を運んだ宅配便業者が《松室運輸サービス》だった。伝票が破かれて途中までしか確認できないが、ほぼ間違いなく《松室運輸サービス》だ。
しかも、刑事の三河によれば、《松室運輸サービス》は架空の業者で、爆殺犯が使用した名前だと判明している。鹿島の頭脳に、もくもくと雷雲が逆巻いた。もう少しで叫び出しそうだった。
「三橋さんは、これをどこで入手したのでしょうか?」
「絶対に、葛海さんの所でしょうね。いつもべったりしていた事実からいって、間違いないと、俺は睨んでます」
とするならば、葛海も、麻耶を爆弾で殺した犯人と繋がりがあると考えなければならない。葛海を事故に擬して殺害した可能性もあるし、麻耶が葛海を調べ上げていた理由とも関わりがあると見ていい。
「三橋さんは、なぜあなたに、これを送ってきたと思いますか?」
「分かりませんね。……ただ、何か、危険を、……その、……自分が殺されるのでは、という危機感を抱いていたからかも知れません」
三橋が、鹿島と同じように、葛海の死亡の件を嗅ぎ回ってこの紙片を見付けた。それで、この紙片が、葛海の死と関わりがあると考えた。しかも、自分の命の保証もない危険を察知したため、担保として、相方に〝証拠品〟を送っておいたと推察できる。
ただ、三橋がこの紙片と葛海の死、もしくは、自身の危険をどのようにして感じるように至ったのかは、分からないが。
「これはいったい、何なんでしょうか、鹿島さん?」
「三橋さんが見付けたこの不審な伝票が、ご自身の身に何かあった時の、犯人の動かぬ証拠になると思ったんでしょうね」
「少なくとも、これが三橋、もしくは、葛海さんの死に大きく関わっているのは、間違いありませんよね」
勝沼は大きな目をぎょろぎょろさせながら、自信を持って堂々と答えた。この紙片の意味を、深く考えての発言だろう。
「三橋さんは、そう考えたようですね。三橋さんは葛海さんの死に疑問を抱き、調査でもしていたのでしょ?」
「あいつ、途方に暮れてましたよ。『葛海さんは、絶対に殺されたんだ』と息巻いていましたから、自分で調査をしていてもおかしくありません」
勝沼は下唇を無念そうに噛んで、言葉を続けた。
三橋は、酔ったところを襲撃され、東京湾に死体が上がったと考えられる。そう思えば、鹿島も三橋と同じ末路を、決して辿らないと誰が言えようか。
「それにしても、俺がもっと早くこの郵便物に気付いていれば、あいつを死なせずに済んだんじゃないかって、全く悔しいですよ」
水面を吹く涼風に注意して、鹿島が紙片を掌に載せた時、残った伝票が重なり、もう一片あると気付いた。
そーっと伝票の二片目を捲ってみると、三片目が現れた。一片目にはカーボンがなく、二片目にカーボンが付いている仕様の伝票だったわけだ。
三片目には、手書きの字が書かれてあった。〝……トランアナン〟と読める。伝票の上から何かにメモ書きし、三片目にカーボンが写った状況が想像された。
「〝トランアナン〟? 何だこりゃ」
勝沼が鹿島の手許を覗き込んで、奇妙な声を上げた。
「何か思い当たる言葉でも?」
勝沼は既に足を止め、予期せぬ経緯から、頭脳がショートしそうなのだろう。恐怖と戦いつつも、懸命に首を横に振る。
「ただ、例の競走馬の話の後なんで、馬と関係があるかも。馬の名前とか……。それに、これは、三橋の字じゃありません。多分、葛海さんの筆跡にも似ていないと思います」
〝トランアナン〟という言葉が、本当に葛海が入手した競走馬の名前かどうかは、分からない。また、この筆跡が誰のものかも、現状では不明だ。葛海や三橋を殺した犯人の可能性もある。ただ、この発見が、非常に重大な証拠だとは分かる。
一方で、爆殺犯にとっても、この発見が致命傷でないとは言い切れない。むしろ、爆殺犯が残してしまった重大な証拠と言えまいか。これより先は、より慎重に行動する必要があろう。
「この件は、誰かに話しましたか?」
「いいえ。昨日の夜に見付けて、鹿島さんにまずお話ししようとしたんで、まだ誰にも」
「この件は、しばらくは誰にも話さないほうがよさそうですよ。警察にもね」
勝沼は、鹿島が超スクープ・ネタにしようと思って発言したとは、思っていないようだった。無論、警察を含め、この件が公になると、爆殺犯も漏れ知ってしまう可能性が高い。
「……それと、鹿島さん。もう一つ、あるんですが」
遠慮がちだったが、明らかに対価を求めた含意が込められた言葉に、鹿島は苦々しく応じた。
「実は、三橋が死ぬ直前に、俺に言っていた話を思い出しましてね」
鹿島は、勝沼の勿体振る態度に期待を懸けて、先を促した。
「事件との直接の関連があるかどうかは、分からないんですが、葛海さんが特定のサイトをよく見ていたと」
「サイトですか……。どんな?」
「伝言系サイトで、《ランダ》っていうそうです」
鹿島は《ランダ》と聞いて、すぐに琴線に引っ掛かった。しかも、極めて関連深い言葉だと思い至った。〝ランダ〟とは、インドネシアの聖獣バロンに敵対する魔女の名前だ。そう、また〝インドネシア〟絡みのキーワードである。
突拍子もない展開に、鹿島は胸の端をきつく刺されたような、不可思議な感覚に捉われた。かといって、葛海が、いかがわしい占いを推奨していたわけではないだろう。
それとも、葛海がこのサイトを利用して、暴力団と新手の詐欺紛いの商法でも始めたのか。名前を公表できない葛海の隠れ蓑として、このサイトを利用したのだろうか。
それにしても、葛海は、そのサイトでいったい何をしていたのか。〝伝言系〟というからには、必ず相手がいるはずだ。葛海個人のパソコンも押収されているから、警察も《ランダ》には注目するかも知れない。
鹿島も後で《ランダ》を開いて、どこか怪しい箇所がないかをチェックしなくてはならないと感じた。
二人の横を、幼子を連れた若い母親が歩いていった。子供は初めて桜の枝を見たのか、大きく上を見上げて手を伸ばしている。
この平和な社会の中にも、爆殺犯は小市民に紛れて、思いも寄らない場所に身を潜めている。どこで不意打ちを喰らうか知れたものではないし、最善の注意を払うに越したことはない。鹿島たちが、今こうしている様子を、桜の幹の陰から窺っているかも知れないのだ。
鹿島は三橋の遺した伝票の切れ端を、近くのコンビニでコピーすると、勝沼と別れた。勝沼には新たに三万円を握らせておいて、普段通りの生活をして、決して怪しまれないようにと、釘を刺しておいた。
勝沼と別れた途端に、鹿島の心に、吉村の顔が思い描かれた。吉村が鹿島の部屋を訪れて以来、十日ほど吉村とは音信が取れていない。鹿島への襲撃や三橋の殺害と続いて、果たして吉村がまだ無事だとは限らない。
不安が昂じて、拍動が大きくなる。流石に、会社には顔を出しているだろうと思い、退社の時間を狙って、直接行ってみようと思い立った。
《松室運輸サービス》にせよ、〝トランアナン〟にせよ、〝伝言サイト《ランダ》〟にせよ、事件はまさに、急展開しようとしている。この上、吉村が命を落としてしまっては、麻耶にも顔向けできないではないか。
鹿島が《鳥海システム》へ着いたのは、午後五時半を僅かに回った頃だった。《鳥海システム》の本社は、品川の一等地にある。日本の名立たる企業のビル群が林立する中に、負けず劣らず、近代的な黒のフォルムを誇示している。
大きな正面入口から入ると、全面ガラス張りの吹き抜けのロビーが待っていた。一角には、高級ホテルのようなソファ・セットや喫煙ルーム、会社製品のアピール・スペースなどが配される。退社の時間のために、多くの人々が吐き出されるように奥の戸口や、エレベーターから溢れ出てきている。
行き違いになったとは思わないが、吉村とアポイントメントを取らずに来た状況を後悔し始めた。このまま受付に赴いて、吉村を呼び出してもらおうかとも思った。
その時、鹿島は、聞き覚えのある声に呼び止められた。残念ながら吉村ではなく、麻耶の上司、ルクマン・アマロだった。
「……確か、鹿島サンでしたネ。先日はドウモ」
光沢のよいダーク・スーツにジュラルミン・ケースを提げ、二人の部下を従えている。これから帰宅なのだろうか。
「ルクマンさんは、お帰りですか?」
「ちょうど、帰宅する時間ですヨ。いつまでもだらだらと残業していても、効率よくありませんからネ」
てっきり部下と飲みにでも行くのかと思った。だが、ルクマンが特別な待遇で迎えられたVIPと思い至り、この二人の部下がSPだと考え直した。
「いつもこんな風に、部下の方と一緒なんですか?」
ルクマンは、「まあ、そうですね」と苦々しく笑んで、話題を変えた。
「鹿島さんコソ、どうされたんデスカ? 吉村サンでしたら、ここのところお休みですヨ。私も、最近会っていません」
吉村がしばらく休みだという意外な言葉に、鹿島は戸惑った。もしや手遅れなのかと、不吉な思いが沸き起こる。
「そうですか……。ちょっとあの方に用事があったんで、寄らせてもらったんですが」
「ソレハ、残念ですネ」
吉村の身の上を案じつつも、鹿島は、今回の訪問が無駄にならないように、この際、ルクマンにも諸々の質問をしてみようと考えた。
「そうしたら、ルクマンさんは、この後、お時間大丈夫ですか? ちょっとでいいんですが……」
ルクマンは、自分に振られた言葉に、不思議そうな顔を見せた。対応を刹那思案したようだが、肩を竦めてすぐ応じた。
「いいですヨ。この人たちには、先に帰ってもらいますから」
「それじゃあ、ちょっとご足労願います。そんなにお手間は取らせません」
3
SPを先に帰らせたルクマンは、《鳥海システム》近くのシティ・ホテルのロビーに鹿島を案内した。利用者で混んではいたが、吹き抜けの天井の下で奏でられるピアノの音が、耳に心地よい。たまに商談で使う場合もあるというから手慣れたもので、手際よくコーヒーを二杯、頼んでくれた。
「私ハ宗教的にお酒が駄目ですから、居酒屋というよりは、こういう所が落ち着きますネ」
適度に照明が落とされたロビーのソファには、多くの会社帰りや待ち合わせのビジネスマンが見受けられる。普段着の鹿島に不似合いな場所に思われ、やや肩身が狭くもある。
「さっきの部下の人たちとも、よくいらっしゃるんですか?」
「そうですネ。あの人たちモ、私に気を遣って、少なくとも私の前では、お酒は飲みません」
ルクマンは、仕事後の一杯を満喫するように、如何にも旨そうにコーヒーをごくりと飲んだ。
「ルクマンさん、あの方たちはあなたの部下というより、所謂SPなんですよね?」
それまで親しく接していたルクマンの態度が、きっと引き締められた。〝SP〟という言葉が、何を意味するかを理解した表情だ。
鹿島は話を一気に核心に近付けようとした。あくまでも冷静に努めつつ、覚悟を決めて語を継ぐ。
「失礼ですが、あなたが一昨年インドネシアから亡命してきた事実も知っています」
「知ってたんですネ……」
ルクマンは驚きと懼れを、半ば拮抗させた表情に漂わせた。
「かなりの大金で、《鳥海システム》に雇われたというのも」
急にルクマンの態度が落ち着かなくなった。鹿島を、SPのいない時に立ちはだかった卑怯な敵対者だと、感じたかも知れない。悪戯がバレた子供というよりは、脱税を看破された経営者に似ていた。
「……鹿島サン。あなたはいったい、何をしたいのですか?」
鹿島は居住まいを正し、警戒するルクマンの目を真正面から見据えた。動揺に顫える瞳が、非難をも映している。鹿島を、身柄を祖国へ送還しようと現れた役人のように捉えているのだろうか。
「私はあなたを追い詰めたり、告発したりしたいわけではないのです。ただ、真実が知りたいんです。久保田さんが殺された、あの爆殺事件に端を発する一連の事件の真実を」
ルクマンは、躊躇いと悲しみが綯交ぜになった表情を晒して、鹿島から視線を外した。息を荒げながら唇を舐め上げる。
「ご協力して頂けませんか。決してあなたにご迷惑は掛けません。知っている事実を、お話しして頂ければいいのです、正直に」
思い詰めた顔が懊悩を如実に表し、明らかに心が葛藤を繰り広げている。敵の軍門に降るを潔しとするか否か、話すべきか話さざるべきか。どちらが得策かを天秤に懸けている感じだ。
「私だって、久保田サンが死んだ真相を知りたいデス。前にも言ったでしょう、久保田サンは私共の希望だったと。そんな久保田サンがなぜ、殺されなければならなかったのか、理由を知りたいのデス」
「あなたが知っている、もしくは、何の気なしに見聞きした情報が、事件の真相に辿り着く鍵かも知れないんですよ」
鹿島は、更に心に揺さ振りを懸けるべく、効果を最大限に得るような口調で、亡命の核心に話を移した。
「あなたの故国インドネシアの、画期的潮汐発電の発表は、本来はあなたが行うはずだったのでしょう? あなたが開発してきたシステムだったのだから」
「……なぜ祖国を裏切ってまで、名誉を擲ってまで、安泰な生活を捨ててまで、亡命したかを訊ねているんですネ?」
ルクマンの表情には、自負心と諦めの翳が浮かんだ。心の中に鬱積していた複雑な思いを吐き出す決意をしたように見えた。
「日本人のあなたには分からないでしょうケド、インドネシアには、まだまだ電気の行き渡らない地域もあります。インフラが整備されていても、停電が頻発する場所も多いデス。幾ら政府が〝経済発展大国〟を叫んでも、そんな場所では、無縁な絵空事に過ぎません。自ずと、画然とした経済的・文化的格差が生じます」
電力とは、国家の根幹を左右する重要なファクターであり、今や、電力なしでは文明生活を送れない。福島の原発事故以来、電力供給についての議論が盛んになったが、日本は非常に恵まれていると認識しなければならない。数多の島嶼に分布する広大国家インドネシアでは、民族問題とも絡んで、なおさら根深い問題だ。
「私は、不足の懼れのない広汎確実な電力供給を目指していたんデス。しかも、安全でクリーンで、二億八千万の国民が安心して等しく廉価な供給を受けられるシステムをネ」
ルクマンの眼差しが一転して、戸惑いのない燃える瞳に変わっていた。技術者の誇りと愛国心に火が点いたようだった。
「この全国潮汐発電計画が成功すれば、全国を普く充分な供給が約束され、国家の電力の四十パーセントを賄える計算でした。ただ、完成までに、もう少し時間が掛かるはずだったんデス」
「時間とは、どういう意味ですか?」
「潮汐発電とは、発電所開設の手順や立地条件に慎重を期さなければならないのデス。効率の良い潮流状態を調査するために、少なくとも数年単位で全国の候補地を選別していかねばナリマセン。それに、大規模な土地取得が必要不可欠ですから、地元の人たちとも交渉し、雇用や保障の問題も解決しなくてはならない。モチロン、潮の流れや未開発の自然に手を加えるのですから、あくまでも慎重・柔軟に対処する必要があります」
幾らクリーン・エネルギーだとはいえ、火力や原子力とはまた別の、手の掛かる課題があるようだ。我々の生活は、こうした課題の上に成り立つ脆弱な存在なのだろう。
「デスケレドモ、一方で、政府は一部の人間の利益に応ずるようになっていきました。とにかく早く目に見える利益を得たいと、自分たちの欲望と得票のために魂を売ったのですネ。その結果、この計画は、既得権益を失いたくない人たち、弱者を食い物にする者たちの蜜の味に成り下がったのデス」
ルクマンは、鹿島が政府の手先ででもあるかのように、ぎろっと一睨みしてから続けた。
「画期的な潮汐発電を開発したところで、それらは逆に人の生活を脅かすものに堕してしまいました。環境アセスメントも全くせず、潮流を止めかねない場所に平気で、無駄になり得る開発を無計画に行ったのデス。その結果、公共工事としては満足だったでしょうケド、貴重な生態系が崩れ、その漁場を糧としていた人たちは漁獲高が減り追い詰められた。発電所を作るために農地も奪われ、土地は踏み荒らされ、人々は苦しめられた……。一切、逆なんデスヨ。人々が幸福で便利になるための計画が、いつの間にか、潮汐発電開発ありきになり、多くの人々の生活は乱され、失われました。政府は私が幾ら訴えようが、聞く耳を持たなくなった。仕方なく、生きるために手段を選べない人たちが、憎しみを持って反政府武装勢力へと身を投じていく。結果として、私の開発が人々の暮らしを滅茶苦茶にしたんデス。しまいに、政府の一部の人間や同僚の中にすら、私が反政府組織に加担しているのではないかと言い出す始末。讒言を信じた人たちが、私を監視するようになりました。こうなったら、研究開発もあったものではない。私が自分の信じた研究を続ければ続けるほど、自分の首を絞める結果になったのデス。もはや、祖国でやるべきものはないと悟りましたヨ」
ルクマンは、そこまで一気に捲し立てた。興奮と後悔の念が、ゆらゆらと立ち上って見える。
「私の研究が誰かの役に立ってもらいたい。その気持ちは変わりませんでした。ソコデ、同じ潮汐発電を研究している世界の企業にアプローチしたんです。アメリカとかフランスの企業にも声を掛けましたが、冗談だと思ったのか、いい反応はありませんでした」
「その話に応じてくれたのが、日本の《鳥海システム》だったわけですね」
「その通りデス。腹立たしいので、今までのデータを全部ごっそり持ち去りました。元のシステムにちょっとした細工をして、正常に起動しないようにしてやるのも、忘れませんでしたがネ」
ルクマンは、くっくと忍び笑いをしてから、今度はソファの背に身を投げ出した。
「トコロガ、実際のところ、亡命したら終わり、というわけではありませんでした」
鹿島が意味深なルクマンの眼差しに対して先を続けるよう促すと、ルクマンは一口コーヒーを啜ってから話し出した。ここから先は、気の進まない話題のように思われた。
「……亡命して三ヶ月も経たないうちに、私や会社に、脅しの電話が入るようになったんデス。次第にエスカレートして、会社のデスクや我が家の書斎も荒らされましたし、襲われたこともあります」
祖国を裏切って情報を売ったと考えた人間は、奪われた貴重なデータを取り返すため、それに裏切った報いを受けさせるため、直接的な犯行に及んだ。
「犯人は、分かっているのですか?」
「残念ながら、故国の人間に疑いありません。名前や素性は知りませんが、左顎から頬に掛けて大きな傷のある、長身の男でした。政府の諜報組織の人間かも知れません」
ルクマンは、悔しそうに目を閉じて、襲われた時の恐怖を振り払うように、頭を左右に強く振った。
「そこでSPを付けるようになったと?」
「屈強なSPを付けてもらって以後は、直接的な攻撃はなくなりました」
話の範囲内では、《鳥海システム》側も私的な防御態勢を構えたものの、警察に届けるなどの公的な措置は取っていないようだ。これ以上は相手を刺激しないためか、自分たちに後ろめたい気持ちがあったからかは不明だが。
「ところで、ルクマンさん。初めて会った時、私に訊ねた言葉を覚えていますか?」
鹿島は溜飲の下げ切れぬ考えを、ルクマンにぶつけてみた。
ルクマンは、訝しがりながらも、記憶の糸を手繰り寄せているようだった。初めて会ったのは、麻耶の葬儀場である。
「『久保田サンは、何か、言い遺しませんでしたか?』という言葉です。私は、あなたのこの言葉に、ずっと引っ掛かりを覚えてきました。あなたはどういう根拠から、久保田さんが自身に言い遺した言葉があるとお考えになったのですか?」
鹿島は、単なる社交辞令や言い誤りの類ではないと、ずっと感じていた。むしろ、迂闊にも、つい発してしまった重大な核心だとさえ思う。
「さあ。そんなこと、言いましたかネ?」
「ルクマンさん」
鹿島の腹の底からの動ぜぬ声に、惚けていたルクマンはびくっと体を痙攣させた。心にまだ何かを隠している証左であろう。鹿島は優しいが拒めぬトーンでルクマンに迫った。
「もう、ここまで話したのなら、偽ることなく全てを聞かせてくれませんか、ルクマンさん?」
「……鹿島サン、あなたには、隠し事はできませんネ。いえ、どっちかというと、見透かされているという感じデスカ……」
ルクマンは白旗を挙げる意味で、大きく肩を竦めてみせた。鹿島が純粋に事件の解決を望んでいるだけで、告白を逆手に取って、自分の地位を危うくするものではないと判断したのだろう。
「白状しますヨ。このような言い方になるのを許してもらえれば、久保田サンが、私が持ってきた発電の重要なデータを……その……盗み出した可能性があったのデス」
鹿島は、電撃を浴びたように体中が痺れて動けなくなった。麻耶が重要機密を社外に持ち出したかも知れないとは。
ルクマンが上司として、麻耶に手術代を貸していたわけではない事実が浮かび上がる一方で、麻耶の美しい笑顔が、鹿島の心の中で溶け出していくようだった。
「データは小型チップに収められて、金庫の中に厳重に入れられていました。鍵とパスワードは、私と久保田サンしか知りませんでした。それがある時、チップごと紛失していると気付いたのデス。もちろん、彼女が盗んだと断定しているのではありませんヨ。久保田サンも否定しましたし。……ただ、状況的に見て、その可能性があったと言っているだけです。執拗な祖国の連中が、何かの手立てで金庫を開け得たとも考えられなくはないでしょうケド」
ルクマンの発言にも拘らず、慎重な言い回しが、未だ疑惑を払拭し切れていない心情を表している気がした。
「紛失に気付かれたのは、いつですか?」
「今から一月半ほど前でしょうか。しかしながら、幸いにも、チップのデータは詳細な部分までここにありますから、最悪の事態は免れましたケドネ」
ルクマンは得意げに、自分の蟀谷を人差し指で指し示した。
「そのチップを久保田さんが所持していると思った連中が、久保田さんにターゲットを変えて爆弾を送り付けたとは、考えられませんか?」
ルクマンは鹿島を蔑むような一瞥を投げると、再び肩を竦めてみせた。
「死ぬ時に自分の犯した罪を吐露するのが、人の情というものデショ? だから、もし久保田サンが本当に盗んでいたなら、告解するかと思ったのです。デモそうではなかった。〝よしみち〟でしたヨネ。つまり、久保田サンは、チップの件は知らなかったのだろうと思い直しました。それだけです」
ルクマンは、カップにまた口を着けて、おいしそうに残りのコーヒーを飲んだ。ようやく難儀な面接が終わったような晴れやかな表情だった。恐らく、誰かに心情を聞いてもらいたいと感じていたのだろう。
「鹿島サン、あなたといると、心の中まで覗かれているようで、チョット怖いですネ」
「〝執念〟と言って下さい。何せ、今は他にやるべき仕事がないもので」
鹿島も笑顔を見せて、ルクマンに応じた。
「吉村さんがいつ戻ってこられるかは、ご存知ありませんか?」
すっくと立ち上がり、強引に幕引きしようとするルクマンに、鹿島は声を上げた。
「もうそろそろ戻ってこないと、有給休暇を使い果たしてしまいますよ、きっと」
ルクマンは丁寧に鹿島に叩頭すると、伝票を引っ手繰って出口へ向かった。余計な情報まで喋ったと思ったからか、普段は見せぬ興奮した姿を不用意に見せた失態を後悔してか、ルクマンは落ち着きなく遠離っていく。
鹿島は後姿を見送りながらも、新たに入手した情報を既に一つ一つ吟味し始めていた。
4
ルクマンが亡命時に持ち出した機密データを、麻耶が盗み出した可能性があるという証言を得て、鹿島は焦りを隠せなかった。
ルクマンの周辺を調査した諜報機関が麻耶に目を付け、手術代に困る麻耶に接近してチップを盗ませ、貴重な機密であるチップと引き替えに手術代二千万円を渡したと考えるのは、鹿島には信じ難い説ではあった。しかし、無理がないようにも思われた。その後のインドネシア政府の画期的潮汐発電の発表は、あまりにもタイミングが良過ぎるではないか。
しかも、麻耶を口封じに爆殺できたという点でも、諜報機関の人間の仕業だとすれば、非常に容易な行為だったと言える。ルクマンを襲った〝左顎から頬に掛けて大きな傷のある長身の男〟が、麻耶爆殺の実行犯とも考えられなくもない。
更に〝顎傷の男〟自身も、警察の捜査などの切迫した事態を受けて、口封じに身内から〝殺害〟されたというシナリオも想定できるのではないか。ヤジド・タスリムという一等書記官の死が〝病死〟とされている点は、どうしても疑惑を払拭できない。こうなったら、死んだ一等書記官ヤジドが顎傷の男だと、充分に考えられる。
事態は一挙に国際化してきた。危惧した国際問題に陥らないように動くのは、至難の業と思われる。これ以上に調査を進めるには、どう行動したらいいのだろうか。
鹿島は取り敢えず、帰宅するとすぐにパソコンに向かい、件の二つの項目を調べた。
まずは、勝沼から聞いた伝言系サイト《ランダ》だ。今若者の間で流行っている出会い系サイトとは一線を画しているようで、名前や住所などを会員のサイトに登録すると、会員同士での会話や情報交換の場として活用できる、極めて健全なサイトらしい。「主に中高年者の利用率が高い」とある。
インドネシアの魔女の伝言板というコンセプトらしく、センスの悪いどぎついデザインとカラーリング以外は、特に問題はなさそうに見えた。麻耶爆殺犯が、何かの目的で情報を集めようとしているようにも、思えない。
このようなサイトを、どうして葛海がよく見ていたのかは不明だ。勝沼の思い込みかも知れないし、葛海の単なる趣味という場合もある。これでは、警察も《ランダ》に関しての捜査を進められない可能性が高い。
鹿島は、早々に《ランダ》を閉じて、次に、インドネシア大使館の公式ホーム・ページを開けた。
ネット上には、インドネシアの概略や大使館で開かれた催し物の紹介、ビザ取得の方法や日本との貿易・文化での繋がりなどが分かりやすく掲載されている。
当然ながら、大使館員全員の顔写真も出ていないし、些少なヒントも見当たらない。よって、大使館自体には、疑問を差し挟む余地もない。
次に、一般のユーザーがアップした写真を当たり始めた。年間に何度か開放されて行われるパーティーや懇親会など、インドネシア大使館内での催し物の際の賑やかな写真が目に付いた。
被災地を訪れた際の写真も出ていたが、大広間での立食パーティーや庭先での親睦会、ファッション・ショーやインドネシア語講座の様子など、内容は様々だ。
鹿島は一つ一つの写真を、ゆっくりと目を凝らして見ていった。写真の中に顕著なヒントが隠されている幸運を祈って。
すると、〝インドネシア大使館のイベントにて〟というタイトルのホーム・ページを見付けた。インドネシア舞踊のファンが作ったもので、かなり詳しい現地事情や写真・情報が載せられている。
写真には、壇上で招待客に演説する女性の姿があった。女性の右前方から撮った写真で、胸のネーム・プレートには〝ムラティ〟とある。更に女性の左後方には、職員の男が話を聞くように三人ほど佇立している。
三か月ほど前に開催されたインドネシアの文化を紹介するイベントのようだが、鹿島の目は女性にではなく、奥に立つ一番右寄りの男性に注目した。
長身の男は後ろ手に組んで、恥ずかしげににこやかですらある。ところが、男の左頬を注視すると、鹿島が望んでいた傷があるではないか。色黒で若干の髯を蓄えていて区別しにくいが、確かに左顎に傷跡が見える。常識的見地から、複数の大使館員の左頬に大きな傷があるとは考え難い。
更に胸のプレートを見て、鹿島の心臓は上限を超えて心拍し始めた。男の名前が〝ヤジド〟だったのだ。求めていた回答が眼前に迫ったと分かった。
つまり、鹿島の狙い通り、インドネシア大使館に所属するこのヤジドこそが、亡命したルクマンを襲った張本人と考えて差し障りはないと思われる。
ヤジドが今月初め頃に〝病死〟として弔われている事実や《鳥海システム》からチップが紛失している事実を勘案すると、チップを入手する任務を終えたヤジドの口封じが図られた可能性が、やはりクローズ・アップされる。
鹿島は「うーん」と唸って、にこやかに微笑むヤジドを睨み付けた。笑顔の陰に、残忍な男の本性を見たようで、鹿島は何も信じられなくなりそうだった。
残念ながら、この一枚の他にネット上の写真にはヤジドが映る姿を見出せなかった。
それでも鹿島は、別のホーム・ページ写真にも細かく目を配り、ちょっとした囁きでも見逃すまいと必死だった。
大使館の窓辺に映る影や招待客のカバンのロゴ、会場を飾るガルーダの置物や白板に映し出されたプレゼンの文言に至るまで、細部に亘ってチェックを試みた。
その甲斐あってか、鹿島の前に大きなヒントが再び浮き上がってきた。ある報告書に載せられた昼食会の画像だ。
バイキング形式で色々なインドネシア料理が振る舞われている。ある者は美味しそうに舌鼓を打ち、ある招待客は同伴者と共に会話を楽しみ、また別の人間はシェフに止め処ない質問を浴びせている。
鹿島が注目したのは、多くの料理が並ぶ背後の壁に掲げられた横断幕だった。《インドネシア料理昼食会》と見えるタイトルの横の〝CATERING by〟に続けられた業者の名前に、激しい眩暈を感じずにはいられなかった。
ケータリングを請け負っていた業者の名前が《RESTAURANT ANANTABOGA》と記されていたのだ。
――レス……トラン・アナン……タボガ。
三橋が葛海の許から手に入れたと思われる《松室運輸サービス》の伝票片に書き込まれていた〝トランアナン〟の文字が、期せずして、インドネシア大使館との結び付きを証明するとは……。
麻耶の爆殺に端を発した一連の事件が、ここまで一つに繋がった事実に、眩暈から脳内の血の気が引き、高鳴る鼓動が体を引き倒すかと感じた。急激に喉が渇き、全身が火照り始める。
麻耶の爆殺に使用された宅配便の業者が《松室運輸サービス》という架空の業者であり、同じ《松室運輸サービス》の伝票片が葛海の許から回収された。その伝票片に書き込まれていた文字は、葛海が入手した競走馬の名前ではなく、インドネシア大使館でケータリングを担当する業者の一つ《レストラン・アナンタボガ》であった。
そのインドネシア大使館員で三週間ほど前に〝病死〟とされた一等書記官の名前がヤジドであり、ヤジドは《鳥海システム》から祖国インドネシアの潮汐発電に関わるチップを奪おうとしていた節がある。
祖国インドネシアから潮汐発電のデータを持ち出したのはルクマンという亡命者であり、ルクマンは爆殺された麻耶の上司でもある。しかも、麻耶にはチップを無断で持ち出す機会も動機もあった。
鹿島は、これ見よがしに並べられた事実の連なりに、事件解決の予感を覚えた。
しかしながら、幾つかの謎も残る。なぜ、葛海が《レストラン・アナンタボガ》を知り得たのか? 麻耶がどのような理由で葛海を調べていたのか?
葛海の死亡事件、ヤジドの病死、麻耶の〝よしみち〟という言葉、光司の手術代の出所、《リンガ・リンガ》の正体も全て、すーっと納得できる結果が出ているわけではない。
葛海と《レストラン・アナンタボガ》の接点がもう少しはっきりすれば、麻耶が葛海を調べていた答も、自ずと出てこよう。
今夜の《リンガ・リンガ》来店までに、もう一仕事を片付けられるだろうと思い立ったら、鹿島の行動は早かった。《レストラン・アナンタボガ》の所在地を確認し、午後七時半には店の奥まった席に着座していた。
《レストラン・アナンタボガ》は、渋谷の道玄坂にあった。東京在住のインドネシア人やインドネシア・フリークが集う店として著名らしい。この日は、インドネシア大使館のものらしい公用車も裏の駐車場に置かれていた。
外観の雰囲気は所謂〝隠れ家的〟な佇まいを見せ、ジャワ風な木造の建築物を彷彿とさせる。インドネシア国旗が翻る入口は、間接照明が店名看板を淡く照らし、凛々しい顔で羽根を広げる天馬の像が来店を誘っていた。
鹿島は早速コース料理を頼むと、清潔で比較的空いている席の周りを観察し始めた。公用車で訪れた大使館員の特定はできなかったが、数組のインドネシア人も食事を楽しんでいる。
男性合唱劇ケチャや仏教遺跡ボロブドゥールの写真が壁を埋めていたり、影絵芝居ワヤン・クリの人形がオブジェとして配されていたりと、インドネシア情緒に溢れている。微かな音楽は、ガムランの演奏音だと知れた。本当にバリ島辺りに来たような、神聖で厳かな雰囲気に包まれている。
鶏肉の揚料理アヤム・ゴレンや濃厚なスープの麺料理ミークワなどの食事を一通り楽しんでから、鹿島はシェフを呼び出した。ヤジドの死についての情報を、是非とも得たいところである。
シェフはインドネシア人の痩せた小柄の男だった。目が大きく鼻が丸い。髪がやや縮れていたが、耳が異様に大きく感じられた。大使館の昼食会の時に招待客に質問を受けていた男だ。
「非常に美味しかったよ」
「それはそれは、アリガトウゴザイマス」
シェフは満足そうに目を細めた。顔を動かすたびに、福耳が奇妙に揺れている。
「以前、世話になった、大使館のヤジドさんに教えてもらってね」
「ヤジドサンですか……。とても残念な結果になっちゃいまして」
シェフは一層、小さくなったように弔意を示した。
「そうだよね。ヤジドさんこの間、死んじゃったからね。……結構ここには、来てたんだよね?」
「ヤジドさんは常連でしたヨ。週に三回くらいは来ていましたから」
昔日のヤジドの思い出を探るように、シェフは唇を噛み締めた。人の命は呆気ないものだと、感じているのだろう。
「……あの日も、奥さんのバースデイ・パーティーがありましてネ。七月一日でしたか……。お仕事の仲間も三人ほどいらしてました。全部で七、八人だったかと」
「へえ、そうだったんだ」
懐かしさからか、シェフは鹿島の前の椅子に腰を下ろし、回想に耽った。ヤジドの生前の姿を思い返したのか、今度は寂しそうに目を細める。
「ヤジドサンは後から遅れてくるって言って、先にパーティーを始めてましたからネ」
鹿島が大きく頷きを返すと、シェフはゆっくりと続けた。
「そしたら、ずっと経っても来ないんです。そのうち仲間の人に連絡が入りまして、慌てて出て行かれました。結局パーティーは中止。それで二日後くらいに亡くなったって聞きまして。そりゃ、ショックでしたヨ」
「病死っていってたけど、心臓でも悪かったのかな?」
「そうは見えませんでしたけど。奥さんもあまりにも急で、わけが分からないと嘆いておいででした」
普段は病気と無縁な人間が突然死するとは、ますます怪しい香りが漂ってきたと、鹿島は、次のカードを切った。
「ところで、この人は、パーティーの時に来てたかな?」
鹿島がポケットから取り出したのは、死んだ葛海弁護士の写真だった。パソコンから取り出した宣材写真が、違和感を助長している。
「いいえ。存じ上げませんネ。どちら様デスカ?」
シェフは、写真の男が葛海だとは知らないらしい。葛海は、このレストランの常連ではないようだ。
「友人なんだけど、この人もヤジドさんにここを教えられてね。もしかしたら、この人だけパーティーに呼ばれてたら嫌だなって思って」
「大丈夫ですヨ。確かにこの人は、いらっしゃってませんから」
鹿島は、最後のコーヒーを頂戴すると、「また来るよ」と上機嫌で店を出た。
妻のバースデイ・パーティーにも現れずに、パーティーを中止させ、結局は死んでしまったとは、ヤジドの身に、よほどの緊急事態が起こったに違いない。むしろ〝急な病死〟というより殺害されたと考えたほうが、事態をよく表しているとすら思う。同僚の三人が慌ててどこかへ退出し、パーティーが中止になった事実は、生々しい限りだ。
鹿島は店を出てから、周辺の聞き込みも怠らなかった。
漫画喫茶のサンドイッチマン、居酒屋の呼び込み、ティッシュ配りの女性、路肩に座り込む女子高生にまで聞き込みを行った。
果たして同じ時刻に同じ場所にいたかは確信が持てなかったが、異国の長身の男が何か騒動を起こしていれば、少なくとも記憶の隅に残っているだろう。とにかく下手な鉄砲を数撃ってみた。
すると、路上でシルバーのアクセサリーを売っていた茶髪の若者の記憶に、ヤジドと思しき男の姿が残っていた。
「七月一日ねえ。……ああ、その人なら、別の奴に胸倉を掴まれて、あっちの駐車場のほうへ連れて行かれたよ。どうせまた、喧嘩だろ」
「この男で間違いないね?」
「多分ね。ここはそんなに明るくないけど、背が高くて、日本人じゃなかったから、覚えてるぜ」
壇上で佇立するヤジドの写真を見せたが、若者はあまり興味を示さずに、ただ淡々と告げるだけだ。この界隈では、喧嘩は日常茶飯事なのだろう。
「連れていった別の奴は、どんな感じだったのかい?」
「その外国人ほどじゃなかったけど、割と体格はよかったんじゃないかな」
鹿島は茶髪の男に礼を言うと、ヤジドが連れて行かれたという駐車場に向かった。
若者の証言から、ヤジドはパーティーに参加するべく、《レストラン・アナンタボガ》近くまで来ていたことになる。むしろ犯人は、レストラン近くでヤジドを待ち伏せしていた可能性が高い。
それにしても、ヤジドを連れていった人物とは、誰なのだろう。もしヤジドが諜報機関の人間だとすれば、そう易々と素人に害を加えられるわけはない。考えられるのは、いきなり背後から襲われたか、相当な実力のある同業者に狙われたかの、いずれかだろう。
鹿島は、近くの百円ショップで買った小さな懐中電灯を片手に、駐車場での探索を開始した。駐車場の路面、駐車券発券機の背後、排水溝の中など、脇目も振らず、どこかにヤジド殺害の痕跡が残されていないかを探し続けた。
もし、警察に怪しまれて職務質問されても「落としたコンタクトを探している」と答えれば問題ない。
だが、発生時期とのタイム・ラグが、証拠を掻き消している可能性は低くない。雨が流し、風が吹き飛ばしている事実は否めまい。犯人によって、意図的に証拠隠滅が図られている場合もある。もしくは、退出した同僚三人がヤジドの殺害現場へ急行し、ヤジドの不名誉な殺害を隠蔽したかも知れない。
しかし、証拠が失われているのではという考えは、杞憂に終わった。駐車場に巡らせてあるグリーンのフェンスの支柱の根元に、粘性の残る黒い付着物を発見した。
初めはオイルと見違えたが、辺りに飛び散った状態からも、三週間ほど経った血痕だと結論付けた。
《レストラン・アナンタボガ》で待ち伏せされ急襲されたヤジドは、抵抗もできずに、この駐車場で命を落とした。警察は、まだこの事情を掴んでいないだろう。否、麻耶爆殺事件が、ここまで広がっている事実すら、感知し得てはいまい。
鹿島は《リンガ・リンガ》への道すがら、もう一度しっかり事件を整理しようと思った。
データを根刮ぎ持って亡命したルクマンを襲い、データの入ったチップを奪い返そうとした人物。それは、頬の傷から見て、疑いなくヤジドである。
ヤジドは、恐らくインドネシア政府の諜報機関の人間であろう。直接《鳥海システム》に侵入したか、麻耶に指示してチップを持ち出させたかは不明だが、画期的な潮汐発電発表のタイミングから見て、ヤジドは《鳥海システム》側からデータを取り戻したと考えていい。
麻耶が殺された経緯を考えると、考えたくはないが、ヤジドが光司の手術代に困っていた麻耶に接近してチップを盗ませ、その口封じに麻耶を爆殺したとする説には説得力がある。
しかし、ヤジド自身は、麻耶が殺された日には、既に死んでいる。麻耶の死亡日がヤジドの葬儀の日である事実からも、ヤジドの背後には別の人物の存在が見え隠れする。初めからヤジドに麻耶爆殺の罪までを被せ、口を封じるつもりで、関わらせたとも考えられまいか。
ヤジドは麻耶爆殺以前に死んでいるが、妻の誕生パーティーの日に連れ去られて急死している状況からみても、ヤジド殺害説に疑問を差し挟む余地は少ないと思われる。
ところで、葛海は《レストラン・アナンタボガ》の存在をどこで知り得たのか。あるいは、勝沼の言うように、筆跡の違いから、葛海以外の第三者が伝票に店名を残してしまっただけなのか。そもそも、ヤジドがチップの件で麻耶と繋がっていると、葛海は、分かっていたのだろうか。
現時点では、ルクマンと葛海の間や葛海の死とインドネシアの諜報機関との間に直接的な関連性は見出せていないので、麻耶が葛海を調べていた理由が重要な鍵となってくるはずだ。
現れ出てきた様々なキーワードがどのような形で有機的に結び付き、一連の事件の真相を浮かび上がらせるのか。鹿島は未だ牴牾しい思いで、天を仰いだ。
5
鹿島は午後十時過ぎに、バー《リンガ・リンガ》に到着した。
インドネシア大使館の例の公用車は既に到着済みだった。だが、頭の中は、まだもやもやとした霞が懸かったままで、各事象の整理整頓が不徹底だった。
麻耶の爆殺やヤジドの〝殺害〟に関して見え隠れする影は、鹿島の直感では、インドネシアの諜報機関と何らかの関わりのある人物だ。
少なくとも鹿島は、例のおかっぱ頭の大使館員が、事件の事情を熟知していると見ている。本人が実行犯でないにせよだ。
だが、これからの調査でも、直接インドネシア大使館内を探るわけにはいかない。とすれば、唯一の突破口と思われるのが、おかっぱ頭が毎夜決まって訪れる、この《リンガ・リンガ》であろう。常連の〝秘密の花園〟へ入りさえすれば、おかっぱ頭の素性も探り得ると、鹿島は確信を持っていた。
けれども、今のところ《リンガ・リンガ》のぶ厚い壁に阻まれて、調査を進捗できかねているのが現状だ。何度か、顎鬚のオーナーに誘い水を出したり、さり気なく覗いてみたりして、店の奥の存在を嗅ぎ出そうとしたが、オーナーはその都度、決まって惚けて、話を躱してしまう。
ただ、故意に過ぎても怪しまれ、これまでの努力を水泡に帰させても困る。ひたすら辛抱強く、その時が訪れるのを待つしかないと、長期戦を覚悟していた。
複雑な思いを抱えたまま、鹿島は今夜も《リンガ・リンガ》の重厚な扉を潜った。オーナーとの会話や媚香の匂いにももう慣れたが、闇奥に隠れる〝秘密の花園〟を想像するだけで、心が昂ぶり落ち着かなくなってくる。
いつものカウンター席にて一人マティーニで喉を潤していても、今夜は今一つ味が冴えなかった。
通い始めて日は浅いが、この感覚は初めてだった。作るオーナーの心に迷いが生じたわけではないだろうから、きっと鹿島の心身が疲れているせいだと思った。そういえば、ここへ通うようになってから、ロクに睡眠を摂っていない。
麻耶の爆殺事件から、ひたすら事件を追い続けて命を狙われ、無職に成り果て、睡眠不足で突っ走ってきた。具体的に体調が悪いわけではなかったが、事件の進捗が思い通りにいかないストレスが溜まっているのだろう。
店に着いてから三十分ほど。鹿島が物思いに耽っていると、背後に動きがあった。闇へと続く通路から、誰かが出てきたのだ。
鹿島が眼差しを振ると、あのおかっぱ頭が、前回の憤りようとは違った、ゆっくりとした足取りで歩いていくではないか。時間はまだ午後十一時前。恐らく小一時間も滞在していないと思われる。
鹿島はおかっぱ頭の異例ともいえる行動に、緊張が一挙に高まった。店外へ向かうおかっぱ頭に全神経を注ぎながらも、オーナーに悟られないように、グラスをテーブルに置いた。
「悪いけど、今日は、これくらいにしておくよ。家で仕事を片付けなくちゃならない」
「さようですか。心配事があると美味しいお酒も不味くなりますからね。またお越し下さい。お待ちしております」
祈るような気持ちで精算を済ませ、鹿島は席を立った。先んじたおかっぱ頭に追い付きたいと逸る心を制しつつ、できる限り落ち着いて、怪しまれないように出口へ進む。
重い扉が閉まるや一転、鹿島は走って駐車場へ急いだ。
おかっぱ頭は、例の公用車で駐車場をちょうど滑り出ていくところだった。「しまった」と焦った鹿島は、全速力でマンションの外に飛び出した。公用車は一路、赤坂の表通りを目指して走っていく。
ところが、おかしなことに、公用車は二十メートルほど先の塀の辺りで、テール・ランプを灯して減速し、道端に停車した。
追い掛けた鹿島を見咎められたかと思い、急いで隣のマンションの壁際に身を潜めた。汗が一気に吹き出し、酔いもすっかり飛んでいた。
曲がり角から恐る恐る様子を窺うと、おかっぱ頭は外へ出て車体に体を凭せ掛け、やや苛々した感じでタバコに火を点けた。どうやら鹿島には気付いていない。
だが、なぜ、おかっぱ頭は、このような不可思議な行動を取ったのだろうか。戸外で誰かを待っているようにも見える。しばらく身を隠して、これから起こる出来事を待ってみようと鹿島は思った。
しばらくすると、店のあるマンションの中から、一人の男がこつこつとこちらに近付く気配がした。鹿島は更に息を潜め、男が目の前を通り過ぎるのを見守った。
鹿島は街灯の下に一瞬ちらっと晒された男の顔を見て、異常な拍動を重ねると同時に、ぬめりとした不穏な塊が心の中に入り込むのを禁じ得なかった。
白いものが目立つ頭髪、細い目に銀縁の眼鏡を掛け、鼻が尖り唇は薄い。背が高く特に痩せた印象を与える体躯には、ベージュのスーツが似合っている。紳士然とした雰囲気を持つ落ち着いた初老の男だった。
記憶に間違いがなければ、最近テレビ等で露出著しい心理学者、確か沢木雅知といった。どこの本屋でも新著の山が喧伝され、テレビでもよく見掛ける。葛海に続いて、またしても著名人が現れた恰好だ。
この沢木という男は、葛海のように歯に衣着せぬ発言はしないものの、知的でぼそっと的確な指摘をする。葛海がワイルドな印象なのに対し、五十代後半にも拘わらず、上品で美男、謙虚で真面目なところが、特に女性からの支持を得ているらしい。
この状況で、沢木がここに現れた理由は、さほど多くはあるまい。たまたまこのマンションに住んでいて、用事で出掛けるという言い訳は、如何にも不自然だ。おかっぱ頭と共に《リンガ・リンガ》の最奥部にいて、わざわざ時間差を付けて出てきたと考えるほうが妥当だ。
鹿島はそのまま惹き付けられるように体を動かし、沢木の影を追って、這う蜘蛛のように音を立てずに移動を始めた。電柱や樹木の陰を伝い、隣のマンションの生垣や駐車場の中を通って、会話が聞こえる位置まで接近を試みる。
鹿島の前を通過した沢木は、真っ直ぐおかっぱ頭に近付いていた。沢木の立てる微かな足音に気付くと、おかっぱ頭は待ち侘びたようにタバコを足許に捨てた。
「待たせたな、アディ」
「本当ですヨ。今日は一発目から〝アン・プラン〟を取って、結構、調子よかったのに」
「悪かったな。今度しっかり儲けさせてやるから」
アディと呼ばれたおかっぱ頭は、軽く肩を聳やかした。
鹿島は〝アン・プラン〟という言葉に聞き覚えがあった。ギャンブル・ルーレットにおける〝一目賭け〟つまり、0~36の数字のうち一つだけを当てる、配当が一番良い当て方である。沢木の〝儲けさせてやる〟という言葉も、ルーレットを暗示する台詞だ。
日本ではカジノが禁止されている現状や一国の大使館員が毎夜通う状況からみて、まず間違いなく、バー《リンガ・リンガ》の闇の奥では、違法カジノが行われていると見ていい。
やはり、沢木は、世間の風評とは逆に、おかっぱ頭との繋がりから極めて怪しい人物だと、鹿島は断じた。事情から考えても、極めて怪しい密接な関係であるのは明白だ。沢木もインドネシア諜報部と関わりがあるのだろうか?
「それにしても、あのヤジドの事件以来、久しく見掛けませんでしたヨネ。それで、急に現れたと思ったら、今度は来てくれなんて、慌ただしい限りデスネ」
「まあ、ここのところ、出版記念講演にカウンセリングと慌ただしくてね。寝る間も惜しいよ」
二人は話しながら車の両サイドに分かれた。すぐにこの場から移動するようだ。
「ナルホド。忙しい先生ともなると、大変デスネエ」
「特に最近は、葬式続きで忙しかったしな。ただ、カモのヤジドがいなくなって、寂しい限りだが」
公用車に乗り込む際、不謹慎な笑みを見せた沢木に、鹿島は不快感を覚えた。麻耶の葬儀を思い出したためだが、麻耶の両親や吉村の気持ちを踏み躙るような態度に思えて、どうにも許せない気持ちが湧き上がった。
公用車は再び発進し、赤坂の大通りへ向かってスピードを上げた。鹿島を顧みる暇さえないほど、あっという間に姿が小さくなり、すぐに消えてしまった。
強引な誘いに応じるほど二人は親しいようだが、鹿島は二人がどこへ行ったのか気になった。新たな事件が起きなければいいとも思った。
アディと沢木の腹立たしい会話を心で反芻しているうちに、突然、鹿島の脳裏にふーっと新鮮な記憶が蘇った。以前にも沢木の顔を近くで見掛けた記憶だ。
心理学書の上梓をしたようだから、本屋で顔写真入りの書物でも見掛けただけかと思った。だが、どうしても違和感がある。言わば、動く沢木の肖像を、テレビでなく至近で捉えたような記憶だった。
鹿島は、すぐにその回答を見出せた。沢木も、麻耶の葬儀の折に来場していた。面を伏せ気味だったため印象が薄かったのだが、間違いなく焼香をしていた沢木の姿が記憶の襞の奥に刻まれていた。特に誰と会話を交わすでもなく、焼香をし終えると逃げるように退散していった記憶がある。葬儀の話題が鹿島の琴線に触れたようだ。
なぜ、沢木が麻耶の葬儀に来ていたのか。沢木と麻耶はどのような関係なのか? 鹿島は、新たな疑惑に心が乱された。
沢木本人が言及した〝カウンセリング〟という言葉から、麻耶が沢木の許にカウンセリングに行っていた可能性もあるし、葛海の時と同じように、何らかの理由から沢木の動向をチェックしていたとも考えられる。
違法カジノを通してアディと知り合いだった沢木は、死んだヤジドと麻耶双方に通ずる人物だった。しかも、沢木とアディ、更には死んだヤジドの間には、共に違法賭博の常習者で共通の犯罪心理や背徳意識が働いて、仲間としての感覚が強く作用したらしい。〝カモのヤジドがいなくなって寂しい〟と言うからには、まるで、友人のような間柄だったようにも聞こえる。
沢木がどこで麻耶と出会ったのかは、今のところ不明だ。麻耶がこの違法カジノに入り浸っていたという情報はない。その事実の見極めが、事件進展の一つの鍵なのかも知れない。
いや、それだけではない。鹿島は、もう一つの沢木の映像にも心当たりを付けた。心当たりを付けると同時に、頭頂から足先までが痺れて動きを拒んだ。
先日、吉村の家で見た葛海死亡の番組で、〝追悼〟と称したコーナーに、葛海と肩を並べてクイズに答える沢木の姿があった。冗談を言っては大口を開けて笑う葛海悠介の横で、惚けた口調で親しげに応ずる沢木雅知。同年代の〝知的なおじさんキャラ〟として、バラエティー番組等でこれからブームになるはずだったと解説していた。
それでは、渦中の葛海と沢木が知人同士であった事実は、どのように解釈したらいいのか? 沢木を介して、麻耶とヤジドと葛海がしっかりと組み合ったような印象である。
一連の事件に、本当に沢木が強く関わってくるのか。それとも、違法賭博で懐を肥やす、単に世間を欺くだけの悪徳心理学者に過ぎないのだろうか。
鹿島は、沢木雅知なる心理学者が、無性に気になり始めた。これはもはや、偶然ではないのでは? そんな強烈な思いが、鹿島を捕えて離さなかった。
第5章 彷徨える心理学者
1
鹿島は次の日、午後に手術を控えた光司の許へ、車を走らせていた。
手術自体の心配は、さほどしていなかった。むしろ、母親を失った衝撃が光司をどれほど圧迫しているか、精神的に光司を追い込んでいないかが、気掛かりだった。
病室で激しく泣きじゃくった光司と別れて以来ずっと会っていなかったので、鹿島は大いに心配していた。心配しながら、調査に没頭するあまりに、病室を訪ねて遣れなかった自分を責めてもいた。
麻耶の両親や吉村が、心細く消え入りそうな光司の心を、支えてやっているだろう。だが鹿島は、自分が負った責任の一端を果たさねばならないと、痛切に感じて止まなかった。
けれども、調査が進むに連れ、麻耶の隠された新たな一面――光司の手術代のために、ルクマンが持ち出した潮汐発電のデータを麻耶が盗んで諜報員のヤジドに渡した可能性も否定できない――を考えないわけにはいかなくなった。
このまま調査を進めて得られた真相がどのようなものであれ、仮に麻耶が深く犯罪に関わっているとしても、事実は事実として受け入れなければならないはずだ。
できるだけ早い事件の真相究明が、関わった人間への慰めであり、麻耶への唯一の鎮魂でもある、と鹿島は考えていた。
いずれ光司の心の裡で、自分なりに咀嚼し克服しなければならない時期もやって来る。その苦しみを乗り越えてこそ、麻耶の望んだ人間になれるのだと信じたかった。
ただ、隠された真実を暴いた鹿島を、光司から生涯に亘って恨まれるのは致し方ないとしても、光司が自分の母親を恨みに思って生きて欲しくはなかった。
鹿島はもの寂しい思いで車を降りた。いつもの通り駐車場から白亜の病棟に向かう間、思考を事件の内容に集中させてみる。思いも見なかった方向に、事件が屈曲し始めた感があった。
新たに浮上した疑惑が、沢木雅知の存在だ。死んだ麻耶・葛海・ヤジドのそれぞれに沢木が関係している事実は、見逃せない。
どのような関係性かははっきりとはしていないが、沢木と麻耶との繋がりは確実である。沢木が公に、麻耶の葬儀に、わざわざ現れた行動からしても、疑いはない。
また、沢木と葛海の繋がりはテレビ番組等での共演という形で確認済みであり、沢木とヤジドは、賭博仲間であるアディを介して面識があった。
葛海が本当にヤジドのパーティー会場を知っていたのか、麻耶がどうして葛海の詳細を調べ上げていたかの答は、未だ深い闇の中だ。しかし、沢木を探っていけば、事件との関連性が自ずと浮かび上がってくるのではないかと、鹿島は見ていた。
もし本当に、光司の手術代のために、麻耶がヤジドの要請に応じて潮汐発電の極秘データを盗んでいたとしたら、沢木はどう絡んでくるのか?
麻耶と沢木の接点として考えられる可能性は、沢木が言及した〝カウンセリング〟という言葉だ。麻耶が沢木の許にカウンセリングに通っていたかどうかは、光司に聞けば分かるだろう。
ネット検索によれば、沢木は人気を博する以前から、心理学の知識を活かして、東京西郊の調布で女性専門の心理カウンセリング・ルームを開設していた。
やがて口コミで噂が広まり、都心に進出。この数年で、新宿や六本木などに四店を構える人気店に急成長した。自著の執筆がマスコミで取り上げられるようになると、バラエティー番組を中心に出演依頼が増えていった。
鹿島の見た限り、麻耶がカウンセリングを必要としていたとは思えない。それでも、心の奥に人に言えぬ闇を抱え込んでいた可能性を否定できはしない。そんな闇が、事件の引き金になったと想像できないだろうか。
光司の病室には、吉村の姿はなかったが、麻耶の母親がいた。午後からの手術に際して、光司を元気付けに訪れたようだ。光司の顔色を見る限り、調子はよさそうだった。
「調子はどうだい?」
「……うん。ちょっと不安です。でも、これで元気になれれば、おじいちゃんにもおばあちゃんにも、心配を掛けないで済むから、頑張ります」
思いの外、光司は元気だった。前回は突然の悲しみに心が乱れ、どのように現実を受け入れるのかが分からなかったのだろう。
だが今は、自分が向かうべき事柄を弁えているように見えた。大きな手術を控えても、極めて冷静に自らを客観視できている。鹿島が同じ立場なら、これほどしっかりとした対応ができたかは分からない。
「きっと、大丈夫。母さんが見守っていてくれるから」
「光司は偉いな。もちろん、大丈夫さ。手術に打ち克って、元気になろうぜ」
しばらくは、昨日やって来たクラスの友人たちの話に花が咲いた。応援の寄書きや千羽鶴を見せてくれ、三人で他愛もない話題に終始した。
これで、麻耶に関する事象に言葉が及んでも問題ないと確信した鹿島は、さり気ない風を装って、さらりと言葉を継いだ。
「ところで、光司。お母さんが、医者に通っていたって聞いたことあるかい?」
「お医者さんですか? ……分からないです」
唐突な質問に、光司は面喰った風に口を尖らせた。期待を空振りで終わらせたと思った時、麻耶の母親が口を挟んだ。
「そういえば、ほら、光ちゃん、そこの抽斗にノートがあったじゃない?」
祖母の皺ぶいた指先が動き、窓辺のチェストを指した。光司も納得顔で反応して手を伸ばし、抽斗から一冊のノートを取り出した。
「麻耶がここに忘れていったんですよ」
「はい、これです、先生!」
鹿島は差し出されたノートを受け取った。A4判サイズの白いノートで、表紙に赤字で《沢木メンタル・ルーム カウンセリング・ノート》と記されている。
これで、鹿島の推察通り、麻耶と沢木の接点がはっきりした。麻耶は精神的な不安を抱え、それを解決しようと沢木の許に通い、カウンセリングを受けていた。
ということは、沢木は麻耶の心の中を、職業柄、容易に覗ける立場にあった。しかも、遣り方次第では、沢木の思う方向に、麻耶の気持ちを誘導できた可能性も否定できない。弱い麻耶の心の奥底に侵入して、犯罪を実践させようと思えば、沢木になら可能だったとも言えるかも知れない。
閲覧の許可を得た鹿島は、顫える指でパラパラとページを捲ってみた。
細かな文字でカウンセラーとの遣り取りが書かれてある。詳しくは読まなかったが、恐らく自分の心の中にある様々な思いを文字にして表そうとする療法の一つなのだろう。
カウンセリングを開始したのは、二〇二一年の六月十日。《新たに通う先生は、どのような先生だろう? 前田先生のように優しいか、ちょっと心配》とか、《急な予約も大丈夫と言われ、少し安心した》など、麻耶の些細な心の内側が垣間見える言葉も連なっていた。
〝新たに通う先生〟という言葉から、この時が二人の初対面だったと言えよう。麻耶はどのようにして沢木を知り得たのだろうか? その後、およそ四年に亘って、摩耶と沢木のカウンセリング関係は続いている。
最後の診療日付は、麻耶が爆殺される十日前の六月二十三日だ。麻耶が葛海を調べていたのが、六月二十八日から七月一日であり、最後の診療日以降に、何か麻耶の心に変化があったと見るべきか。
鹿島は一通り斜め読みを終え、ぱたっとノートを閉じた。このノートからは、ただ、治療に専念する麻耶の姿勢は窺えたものの、麻耶の心の闇を示すような文言は見当たらなかった。
では、これから先、どのように調査を続けるべきか? 鹿島は、思いを馳せようとして、ふと視線をノートに落とした。
その時、鹿島の視線に、奇妙なサインとも取れる文字が飛び込んできた。
裏表紙の上部に、比較的大きな麻耶の字でメモ書きされた言葉があった。何重もグルグルと円で文字を囲んである。読んで鹿島は、呼吸も忘れて大きく目を瞠った。
――〝アナンタボガ〟
死んだヤジドが常連だったインドネシア・レストラン、《アナンタボガ》の名だ。葛海も、この名を知っていた可能性もある。なぜ、麻耶までがこの名を知っていたのだろう? しかも、〝重要箇所〟と強調するように、幾重にも〇で囲っている。
鹿島の視界が目まぐるしく回り、頭が爆発しそうだった。
「これは、何のことだか、知ってますか?」
「〝アナンタボガ〟? 何のことですか? こちらがお伺いしたいくらいです」
麻耶の母親は、見たことも聞いたこともない言葉に、首を捻るばかりだ。
「この前、私が行った、インドネシア・レストランの名前なんです。光司も聞いた覚えはないかい?」
「ううん。入院前にも行ってないし、母さんが行ってきた、とも聞いてません。特に、手術の日取りが決まってからは、母さん、毎日会社が終わったらすぐに来てくれたから、行っている時間もなかったと思います」
光司は、不可思議な言葉を払い除けるように、大きく首を振った。だが、思い出したように、一言付け足した。
「でも、そこへ行ってたかどうかは分かりませんけど、七月一日だけは、来なかったです」
「七月一日だけかい?」
しかし、鹿島の言葉は麻耶の母親によって、封じられた。
「鹿島さん、それが、どうかしたのですか? 何か事件に関わりのある重大事だとでも?」
麻耶の母親は、娘の仇を見るように身を乗り出して、鹿島を見据えた。かつて吉村が心配したように、これ以上この事件に携わると危険だ、と戒められているように感じられた。
「分かりません。ただ、不思議な呪文のような言葉だと思いまして」
鹿島は、もしかしたら、カウンセリングで有効な、自信が湧いてくる不思議な言葉かも知れないと、二人を誤魔化した。母親はそれでも納得いかない様子で、眉間に皺を入れて不審そうに唇を歪めた。
光司のほうは、これから行われる手術にも有用なのではと、〝アナンタボガ〟という言葉をぼそぼそと繰り返して、笑みを見せた。光司が少しでも勇気を持ってくれたのは、何よりもありがたかった。
光司をもう一度強く励ましてから、手術の成功を祈りつつ、鹿島は病院を後にした。
鹿島は自宅に戻るとすぐに、不思議なレストラン名〝アナンタボガ〟を、今さらながら、ネット検索してみた。
葛海の伝票にどうしてこの店名が記されてあったのか、ヤジドがこの店を通じて何を知っているのかという点ばかりを注視して、そもそもの意味になぜ言及しなかったのかが、不思議なくらいだった。
検索結果は、鹿島が全く予期せぬものだった。
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①インドネシア、ジャワ島の神話に伝わるドラゴン。伝統演劇である影絵芝居ワヤン・クリにも登場し、龍族の王とされる。
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鹿島は少々がっかりした。自分の店に強くてカッコいい名を付ける行為は、特段問題にするには及ばない。
ただ、レストランの入口にあったのは、天馬の像であって、龍の像ではなかった。一方で、語を強調するほど〇で囲った麻耶の意図が読めないとも思った。鹿島は次の意味へ目を移した。
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②インドネシアのジャワ島・スラウェシ島を中心として活動する、反政府武装勢力の名称。主に国際的テロ組織との繋がりを標榜し、政府施設などの破壊を行っている。創設者や現トップの名など、詳細は不明だが、近年、テロ組織として勢力を伸ばしているらしい。組織名の根拠は、神話に伝わるドラゴン(①参照)とされる。
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ルクマンが繋がりを疑われて亡命するに至ったのが、インドネシアの反政府武装勢力だった。これも、強く恐ろしい象徴として選ばれたのだろう。
問題は、このレストランが、反政府武装勢力と繋がりがあるか否かだろう。関わりがあるとするなら、インドネシア政府の諜報機関の人間が常連だという意味が解せない。
それとも、単に〝アナンタボガ〟が、日本でいうところの〝天狗〟や〝ヤマタノオロチ〟のように、一般的によく使われる名称に過ぎないのだろうか。鹿島は不安に駆られながら、第三の意味に意識を集中させた。
*
③インドネシアのカリマンタン・ジャワ・スマトラの一部に棲息する少産の野生馬。元々が少産の上に、植民地時代に軍馬として徴用され、個体数が激減した。インドネシアは、バタクやスンバなどの様々なポニー種が有名だが、このアナンタボガ種は、アジア中部産のアハルテケとアラブ種の系統を引く特殊な馬だという。優美なシルエットに強靭なスタミナを誇り、何よりも特徴的なのは黄金に見紛うメタリックな河原毛の毛色である。「豪快に飛ぶように走る」と称えられたことから、神話伝説に登場する龍王(①参照)から名付けられた。現在では個体数が数十頭で、ワシントン条約の対象となり、政府の保護下で禁輸措置と人工繁殖が行われている。
*
鹿島の背筋を爽快感が走り抜けた。
レストランの正面入口にあった天馬の像は、まさしく〝豪快に飛ぶように走る〟と言われる、このアナンタボガ種の誇張された雄姿だったのだ。
だが、この説明によれば、アナンタボガ種が禁輸だと指摘されている。競走馬として葛海が輸入した(もしくは輸入予定)と考えれば、その仲介を行った人物が、検閲されずに密輸を実行できる大使館の人間で、それがヤジドだと解釈もできる。
しかしながら、葛海とヤジドの接点は今のところ見出されてはいない。ヤジドが常連の《レストラン・アナンタボガ》に葛海は訪れていないし、その形跡もない。
もし、葛海とヤジドの接点に、沢木がいたなら、どうだろうか。葛海とヤジドが互いを知らないとしても、二人を知る沢木が何がしかの仲介をしさえすれば、矛盾なく説明はできそうだ。
「いや、待てよ」と鹿島は独り言ちた。
同様に、麻耶と葛海、麻耶とヤジドの間にも、沢木が介入する余地はあるはずだ。
光司の手術代が必要な麻耶は、極秘チップを盗み出せる立場にあった。
禁輸の競走馬を入手したい葛海は、二千万円を融通できる経済力があった。
極秘チップを回収したいヤジドは、禁輸の競走馬を密かに入手できるルートを持っていた。
それでも、それらの中心に、沢木雅知が隠れて糸を引いていると考えるのは、早計だ。
もし仮に、沢木が各人を殺していたとしても、沢木がなぜ犯行に及んだかの動機が不明だ。各人の間でトラブルが発生し、沢木が口封じのために凶行を繰り返したのだろうか。
そもそも、なぜ沢木が三人と接触し、〝仲介の労〟を取らねばならなかったのかも、不可解となる。
少なくとも、鹿島の手の中には、沢木主犯説を裏付けるだけの証拠が一切ない。各人と関係があったからと言って、もちろん、沢木が犯人に結び付くとは限らない。
鹿島は、次の一手が甚だ重要な一手になると感じ、一層の慎重を期そうと心を戒めるのだった。
2
鹿島の心は激しく乱れていた。一つは、沢木が一連の事件の影に潜む黒幕ではないかという可能性から。もう一つは、光司が奇しくも言った「麻耶が七月一日には病院に来ていない」という台詞からだ。
七月一日の夜は、鹿島の調査によれば、ヤジドが《レストラン・アナンタボガ》近くの駐車場で殺害された日だ。残念ながら、麻耶にはヤジド殺害を否定するだけのアリバイがない。
ただ、アリバイがないだけで、麻耶にはヤジドを殺害するだけの動機も技術もない。ましてや、麻耶は潮汐発電の極秘チップを盗んでヤジドに渡した可能性すらある。
例えばヤジドが麻耶を脅したとか、沢木が麻耶にヤジド殺害を強要したといった、麻耶がヤジドを殺すだけの必然的な理由がない現状では、麻耶をヤジド殺しの犯人と決め付けるには無理がある。
しかし、鹿島は、麻耶への疑念を完全に払拭できなかった。少なくとも、麻耶が沢木の〝計画〟のコマとして機能していたと考えるほうが、無理なく説明できる気がしてならなかった。
無論、死した麻耶に確認は取れない。だが、麻耶が鹿島に遺した最期の言葉〝よしみち〟が象徴的に事件の本質を物語っているのは、想像がつく。
ここは、コマとしての麻耶・葛海・ヤジドよりも、本丸と思しき沢木を徹底的に調査すべきだ。鹿島の直感が、そう明確に告げていた。
鹿島は地元の本屋に足を寄せ、店頭に溢れる沢木の新著書の一冊を手に取った。後ろに掲載されている〝作者紹介〟のページに目を遣る。
*
【沢木 雅知】
一九六六年生まれ。二〇二〇年上京し、一〇月に東京・調布にカウンセリング・ルームを開設する。翌年に上梓した著書『みんなで幸せになる心理学』(精巧社刊)がベストセラーとなり、一躍有名に。カウンセリング・ルームも増設し、都内に計四店舗を構えるまでになる。その他の著書に『みんなで幸せになる心理学Ⅱ』(同)『女性に役立つ心理学』(モルト・ブックス刊)などがある。
*
白黒の〝作者近影〟に写る沢木が、誇らかに微笑んでいる。白い頭髪、細い目に銀縁眼鏡、尖った鼻と薄い唇。全体的に細い印象は与えるが、知的な紳士と言うに相応しい風貌だ。
ところが、鹿島は違和感を禁じ得なかった。
沢木が活躍するのは、二〇二〇年に東京にやって来てからで、それ以前の経歴には全く触れられていない。別の書籍を見ても、やはり、東京以前の痕跡が出て来ない。まるで過去を探られまいと工作しているようにも感じられる。これは、考え過ぎだろうか?
「東京以前は、特に目立った活躍はしてないから、掲載する意味がない」と出版社に願い出たのかも知れないが、出身地や心理学者になった経緯も何一つ出てこない状況は、不思議に思えた。
更に鹿島は、自宅に戻ると、もう一度パソコンと向き合った。しかし、やはり同じような経歴が、判を押したように出てくるだけだ。たまに、カウンセリング・ルーム開設についての説明が追加される程度で、変わり映えがしない。
カウンセリング・ルームは現在、新宿・六本木・品川・中野の四ヵ所。沢木自身が籍を置く本店は中野で、どうやら初めに開設した調布は、中野店開設後に、既に閉じているようだ。
そこで鹿島は、〝中野区 カウンセリング〟と言葉を入れて検索をしてみた。
すると、冒頭には〝沢木〟の名は出て来ずに、別の名前が堂々と現れた。
――〝前田利雄〟〝前田カウンセリング〟〝前田先生〟……
説明によれば、前田利雄なる人物は、五十年以上に亘って、中野で心理カウンセラー、メンタル・トレーナーとして活躍してきた心理学者だそうだ。国内の心理学会でも重きを置いてきたが、四年ほど前に、惜しくも他界したという。享年七十八。
検索の筆頭に出てくる結果からしても、実績があり、よほど皆に愛されていたに違いない。言わば、沢木は、前田の後釜として、空白になった中野区のカウンセリングの席を確保したと言えようか。
麻耶のノートにあった〝前田先生〟は、この前田を指しており、〝新しい先生〟は、まさに、後釜としての沢木のポジションを意味していた。
ところが、しばらく前田を調べていると、気になる言葉に出くわすようになった。
――〝前田医師が焼死〟〝前田邸が全焼〟〝痛恨の焼死、前田先生逝く〟
前田の死が、通常死ではなく〝焼死〟だとは。当時の記事によると、自宅が失火して、逃げ遅れた前田が焼け死んだという。不審火の可能性もあったが、結局、原因は分からず仕舞いだったらしい。
不審火の可能性を残して焼死した前田と、沢木の開設の間に何らかの関連はあるのだろうか?
前田の焼死は、二〇二一年四月十六日。沢木の中野店開設は、翌月の二十七日。更に麻耶が沢木の許へ通い始めたのが、ノートによれば六月十日。鹿島には、この時系列に意図的な作意が見え隠れしてならない。
気のせいかも知れないが、沢木のカウンセリング・ルームの開設箇所が、麻耶の自宅近くの中野と、勤務する《鳥海システム》のある品川に存在するのも、果たして偶然だろうかと、勘繰りたくもなる。
つまり、沢木が麻耶に近付くために、前田を殺し、自分が前田の後釜になるよう工作したという疑惑だ。もしそうなら、〝心理学者〟という肩書を得てまで思いを成し遂げようとする一念は、凄まじい限りである。
しかしながら、鹿島には、殺人を犯してまで、沢木が中野に店を構えたり、麻耶へ接近したりする理由が思い付かない。
麻耶は、光司や両親にさえ通院を知られないように、理由や時期は不明ながら、前田の許へとカウンセリングに訪れるようになる。更に、前田の死の直後に、沢木のカウンセリング・ルーム開設に伴ってすぐに移っている。
この事実から、麻耶が心の裡にある〝何か〟に恐れを抱き、息子にも秘密で、必死で治療を続けていたと、鹿島は感じた。長年来、自らの心に巣食う〝何か〟を少しでも早く除去したいと切に願っていたのかも知れない。
麻耶はいったい、何を恐れていたのだろうか。そこから、沢木が麻耶へ接近する理由が見えてこないだろうか?
麻耶本人が亡き今、麻耶の心の裡を知る人間はいない。肉親にも話せなかった出来事なだけに、麻耶が心に仕舞い込んでいたと見て差し障りない。
しかし、麻耶が心の中を話せたと思われる唯一の人物が、婚約者の吉村充伸である。婚約を果たした吉村なら、麻耶が最も恐れていた心の裡の引っ掛かりを、吉村に吐露していたとしても不思議はない。むしろ、その引っ掛かりを受け入れてくれる人間と結ばれたいと思うのも、また人の情ではないか。
ところで、吉村は無事なのだろうか。昨日《鳥海システム》を訪れた際には、ルクマンが吉村の長期休暇に言及した。麻耶を失ってから、事務手続きや心の整理に時間が懸かっているのだろう。
だが、鹿島への攻撃や三橋の不審死のような危険に晒されていないか、非常に心配していた。光司の手術前にも姿を見せず、スマホも通じない現状からも、不安がどんどん大きくなっていく。
鹿島は、再び吉村のマンションを訪ねてみようとした。もし無事なら、鹿島が去った後で光司の許に立ち寄ったかも知れないし、最悪の場合、マンションの部屋で〝何か〟を発見できる可能性もある。
鹿島は嫌な予感に苛まれながら、車を飛ばした。もし、吉村が自宅の中で殺害されていたら、これ以上ないほど間近で、一連の殺人犯の息遣いを聞く結果になるだろう。
吉村の部屋の前に立った鹿島は、ドアの内部に意識を集中して、祈るような思いでインターフォンを押した。
しばらくすると、中から反応があった。鹿島は取り敢えず安堵すると同時に、吉村が今までどうしていたのかが気になった。
ドアが開くと、懐かしい吉村の顔が覗いた。
「鹿島さん、いきなり、どうしたんですか?」
吉村はスーツを脱いだばかりのようで、緩めた襟元に、ネクタイはまだ残したままだった。細い目を大きく見開いて、とても慌てた風に鹿島を見た。
「ご無沙汰してます。突然でご迷惑とは思いましたが、ちょっと寄らせてもらいました」
だが、急な訪問だったにも拘らず、吉村は嫌な顔もせずに、鹿島を招き入れた。
「結構、長い休暇をお取りになっていたそうですね」
「実家とか、親戚とかに、色々しなくちゃいけない件がありましてね」
バツの悪そうな顔をしながら、吉村は頭を掻いた。やはり、麻耶との婚約解消の説明や手続に、奔走していたと知って、鹿島も悪いことを聞いたと反省した。
「そんなお忙しい時に、申し訳ありません」
「いえいえ。今し方、光司君の病院と買い物をして、ちょうど戻って来たところです。鹿島さんと入れ違いだったみたいですね」
「今頃は、もう手術も終盤でしょう。これで光司も元気になってくれますよ」
吉村も光司の許へ行っていたと知って、鹿島も嬉しくなった。やはり吉村は、麻耶の一粒種の光司を心から慈しんでいるのだろう。
「結局、光司君の手術代は、誰が出してくれたのか、分からず仕舞いでしたね」
吉村は、テーブルに広げた買い物袋を、ささっと手早く片付けながら言った。
麻耶の両親も、上司のルクマンも、手術費用の二千万円を出した形跡はない。麻耶が死んだ今となっては、二千万円の入手経路もまだ判然とせず、想像に任せるしかない。
鹿島の推理では、光司の手術代の二千万円は、葛海が出してやったと考えられた。
互いの需要と供給を補完する立場にあった三人は、自分だけでは決して解決できない問題を、沢木がコマにすることで、無事にクリアできた。無論、各自が沢木のコマになっていたという自覚はないはずで、うまい具合に沢木に操られていた可能性は高い。
つまり、ヤジドが欲していた潮汐発電に関する極秘チップを、唯一、持ち出せる立場にあった麻耶が、盗み出してやった。
葛海が欲していた稀少な名馬アナンタボガ種を、無検閲という特殊ルートを使ってヤジドが密輸してやった。
麻耶が息子光司のために必要だった二千万円の手術費用を、カリスマ弁護士で売れっ子の葛海が捻出してやった。
沢木がなぜ、どのようにして三人を選び、各々と接触し、各人を抹殺せねばならなかったのか。その理由が不明なものの、鹿島は、〝沢木黒幕説〟が有効な、かつ唯一の正解だと感じていた。
「吉村さんは、久保田さんがカウンセリング・ルームに通われていた事実を、ご存知でしょう?」
リビングを片付け終わった吉村は、鹿島の言葉に一瞬、ぴたっと動きを止めた。なぜその話を鹿島が知り得たのかといった、不思議な表情を見せる。
鹿島は、吉村の表情で確信を持った。麻耶との間に秘めていた、麻耶の心の中の〝核心〟を吉村が知っていると。
吉村も驚きを前面に上せたが、すぐに観念したように肩を落とした。手近のソファに体をどさっと投げ出す。
「……知っていました。麻耶さん、結構、頻繁に通っていましたよ」
麻耶も、婚約者の吉村には心を開いていた。吉村には悪いが、少しでも多くの話を聞きたいと思った。
「失礼ですが、カウンセリングを受けるほど、久保田さんは何を悩まれていたのでしょうか?」
吉村はむすっとした表情を微かに浮かべた。だが、自分の義務だと思ったのか、さほど抵抗も見せずに、ぼつりと口を開けた。
「……実は、前のご主人のことでした」
意外な答に、鹿島の全身がきゅっと萎縮した。唇を一舐めする。
麻耶の両親によれば、男性は、麻耶が福岡配属の、二〇一四年に電撃結婚し、光司を儲けた相手だ。二〇一六年には、結婚生活に行き違いが生じて離婚していた。まだ麻耶が、吉村と婚約する八年以上も前の話だ。
「麻耶さんが東京に戻ってから、前のご主人――確か、牧瀬保とかいう名前でした――が、縒りを戻したいと言ってきたらしいのです」
「それで、久保田さんは、何と?」
「でも、麻耶さんも迷惑だと断ったんです。結構、引っ切り無しに迫られたって言ってました」
麻耶の性格からも、〝後戻り〟をしてまで、もう一度、縒りを戻そうとはしなかったろう。光司と二人で生きていくと決めてからは、麻耶も首を縦に振るはずもない。
「それで悩んで、カウンセリングに?」
「そうです。地元の前田先生といってましたかね。有名なお医者さんだそうで」
前田の話は、麻耶の手記とも一致する。心の負担がかなり重なった結果と見ていい。
ただ、麻耶はストーカー問題として警察に訴えるよりも、心の裡に抱えてのカウンセリングを選んだ。
「記憶が正しければ、その後もしばしば、牧瀬さんから連絡があったようですけど、無視していたそうです。そうしたら、その、……自殺されたらしいのです」
鹿島は、吉村の苦しそうな顔を見て、聞いたことを後悔した。訊ねてはいけない過去を、わざわざ穿り返した感じがした。
それにしても、よりにもよって自殺とは……。
「麻耶さん、相当なショックを受けたようです。理由はどうであれ、自分のせいで、関わった人が死んでしまったと。……二〇二〇年の五月だから、僕たちが逢う三年以上も前ですね。僕に打ち明けてくれた時も、結構、辛そうに話していましたよ」
麻耶が、前田が死んだ後も、沢木の許へ通わなければならなかった理由は、過去に受けたショックが、元夫牧瀬の自殺という相当に根深い事件の故だった。
光司の父親の特異な死は、光司にも両親にも伏せたかったに違いない。問題を一人で抱えて、定期的なカウンセリングが必要なほど悪化したわけだ。
「すみません。失礼な質問でした」
吉村は寂しそうに否定すると、逆に、心配そうな眼差しを鹿島に送った。
「……鹿島さん。あなたまだ、事件を追っているのでしょう? 危険はないのですか?」
鹿島は、一の橋の交差点での一件に憤りを感じつつ答えた。
「危険とは、いつも隣同士です。色々と大変ですけどね」
「麻耶さんのカウンセリングが、何か事件と関わりがある、とでも?」
「まだ、はっきりしたところまでは分かりません。でも、久保田さんの以前の主治医、前田先生と仰いましたよね――が、不審な火災で亡くなってるんです」
吉村は、眉を険しくして口を尖らせた。よくそこまで調べたと、感服しているようだった。
「これから先、どうするつもりですか?」
「そうですね。……取り敢えずは、その前田先生の件を見ていきたいと思います」
とは言ったものの、鹿島は実際には、どうすべきか悩んでいた。
前田の死の調査を本当に進めるか、牧瀬の事件に当たるべきか、それとも沢木の素性を掘り下げてみるか。何が事件解決にとって最も適切な方法かも分からない。
「鹿島さん、もう言っても無駄でしょうけど、くれぐれも無理はしないで下さいね」
「吉村さんも周囲に気を配って、注意するに如くはないですよ」
吉村は、神妙な顔付きで頷きを返した。鹿島のせいで危険を共有している状況を、苦々しく感じているようにも見える。全く気の毒な限りで、恐縮ではあるが、事件の解決には、もう一歩も引けない所までやって来た。言わば、やるかやられるかの世界だ。
どことなく緊張した部屋の雰囲気を破ったのは、一本の電話の音だった。
吉村がスマホに手を伸ばすと、吉村の顔は一気に破顔し、喜びの声に満ち溢れた。声のトーンが今までの圧し塞いだものとは打って変わって、跳ね飛んでいる感じがした。
「やりましたよ、鹿島さん!」
電話は光司の手術成功を知らせる、麻耶の母親からの一報だった。吉村は大きな声を上げ、力を込めて鹿島をハグした。吉村の目からは、既に光る筋が流れていた。次第に昂じて、初めて会った葬儀場での号泣に負けるとも劣らない声で、おいおいと喜びを爆発させた。
鹿島も感極まって貰い泣きした。嗚咽こそしなかったが、心がうち顫えて止まらなかった。早く光司本人の顔を見て、「よくやった」と褒めてやりたかった。麻耶が生きていたらさぞや嬉しかっただろうと、ただそれだけが残念でならなかった。
しばらくして、吉村の部屋を退去した鹿島は、興奮の余韻を噛み締めながらも、胸の奥に溜まった靄々としたものを除くべく、大きく呼気を吐き出した。
「さあ、今度はこっちが勝負の時だ」
3
七月二十六日、鹿島は早朝から行動を起こした。昨晩中じっくり考えに考えを重ねて、吉村から聞いた麻耶の元夫であった牧瀬保の自殺についての調査を始めようと決めた。
まずは福岡の地に行き、牧瀬の身に何が起こったのか、調べようと思った。諸々の事情から鑑みて、鹿島には牧瀬の行動が、どうにも不自然に感じられた。
麻耶が離婚後も死ぬまで、精神的な圧迫を受け続けてきた牧瀬に、鹿島は不思議な感覚を得ていた。光司の親権を巡って争っていたわけでもなく、慰謝料などの関係も滞りなく、言わば円満な離婚だったと、麻耶の両親も言っていた。
もちろん、人間の心の複雑さは理解できるし、環境によっても心情は変化する。ところが、執拗なほどに復縁を迫っていたという吉村の話とは、どことなく整合性が感じられない。
また、麻耶が牧瀬に対して長い間、頑なにずっと手を打たなかったのも、麻耶の性格上かなり解せないし、牧瀬が自殺したのも唐突過ぎる気がする。
福岡時代の麻耶と牧瀬の間に何かあったのだろうか?
麻耶の両親によれば、麻耶が《鳥海システム》入社と同時に福岡へ配属となったのは、二〇一三年四月。麻耶が福岡の大学にいた経緯から、会社側が判断した配属先だった。一年も経たないうちに麻耶は牧瀬と結婚し、その年の年末には光司を儲けた。
ところが、幸せな生活も束の間、互いの忙しい生活から行き違いが生じ、二〇一六年六月には離婚が成立した。半年後の二〇一七年一月には、離婚を考慮したのか、麻耶に東京本社への転勤が言い渡されている。
麻耶が福岡にいた時期は、二〇〇九年四月から二〇一七年一月までの八年弱。大学卒業後の一時期を除いて、ほぼずっと福岡にいた形になる。両親も触れてはいないが、牧瀬と大学時代からの付き合いだったと考えれば、思い立って急に結婚したわけではないと分かる。
牧瀬の自殺事件は、東京にこそ詳細が流れなかったが、地元の福岡では、少なからず人々の耳目を集めただろう。
当時の報道によると、牧瀬は自室で大量の睡眠薬を飲んで、自らの命を絶ったという。遺書はなかったが、直近になって職場を辞めるほど悩んでいたらしく、特に事件性はないとして、警察は自殺と断定した。
牧瀬の自殺発生から五年少々という歳月は、人々の記憶を如何ほど忘却へと追い遣ったかは定かでないが、鹿島を満足させてくれる結果を齎すに違いない。
モノレールの羽田空港駅改札を抜け、順路を追って出発ロビーに通じるエスカレーターを辿る。まだ朝六時だというのに、ビジネスや観光に向かう多くの人々が周囲に湧き返り、どことなく慌ただしい。
出発ロビーには、既に出発の案内を告げるアナウンスが次から次へと流れ、自分が空港の只中にいると教えてくれる。今日は天気も良好、遅発便もない。
パソコンで昨夜予約した座席のQRコード・シートを、もぞもぞとポケットから取り出す。そのまま、セキュリティー・チェックに足を向ける。
その時、ざわめきを縫うように鹿島の名が聞こえ、後ろから誰かに呼び止められた。吉村にも言わずに来たので、誰だろうと訝しんで振り返る。
そこには、腰を必要以上に低くした、三河の憎むべき顔があった。もう一人の若い笹田と二人だ。突然の出来事に、脳内が注意を呼び掛け、体中が緊張を帯び始めた。
「これはこれは、三河さん。珍しい場所で会いますね」
鹿島が言葉を言い終えないうちに、笹田が躊躇なく、ずいっと近くに寄ってきた。
鹿島が不意を衝かれた隙に、笹田は「失礼」とだけ言って、たった今、出したばかりのシートを、鹿島の手からさっと取り上げた。
「やっぱり福岡です」
何も動けずに相手に失態を許した鹿島は憤慨して、そのままシートを引っ手繰り返した。
「何なんですか、あなたは」
笹田は、鹿島の非難を受けても、三河に似た鋭い視線を挑戦的に鹿島に浴びせるだけだ。これだけでも、鹿島を尾行してきた理由が分かろうというものだ。
「福岡には何をしに、お出掛けですか?」
続けざまに、三河の質問が飛んだ。上を向いた鼻、垂れた頬、捲れた唇のそれぞれが、無礼なまでに鹿島の心を逆撫でする。警戒警報が胸の中を騒ぎ立てていく。
「観光です。あなたのお蔭で、暇ができたものでね」
鹿島の皮肉に熱り立つ笹田を制しつつ、三河はぎろっと上目遣いで睨み付けるだけに留めた。それでも威圧感は甚だしく、鹿島は寒気を覚えた。
「今日は何のご用ですか、三河さん?」
「ご旅行前に申し訳ないですが、ちょっと、よろしいですかな?」
三河の慇懃で柔らかな物腰から発せられる遠慮がちな言葉が、上辺だけの、掛け値なしで強引な常套句だと、鹿島は知っていた。否定や拒絶のできない、翻意させられぬ言葉として、強制力を発揮する。鹿島は、飛行機をキャンセルする可能性も含めて、三河に追従する他なかった。
三人はチェックイン・カウンターを離れて、比較的人の少ない団体カウンターの待合席までやって来た。ここは、まだ早朝の時間帯なら、人の目を気にせず問答できそうだ。
鹿島を端の一席に座らせると、三河も隣に「よいしょ」と腰を落とした。笹田は辺りを睥睨するように仁王立ちで耳を傾けている。
「先日は、色々とありがとうございましたな。失礼な話もさせて頂きましたが、鹿島さんが久保田麻耶さん爆殺の犯人でない事実は、はっきりしました。お蔭さまでこちらも、事件の進展がありましたよ」
「そうですか。お役に立てて、嬉しいですね」
低姿勢のオンパレードが、続く言葉を一層危惧させる。三河の言葉の一つ一つは、ボディー・ブローのように後で効いてくる。
「ところで、あなたもご覧になったと思いますが、被害者の久保田麻耶さんの手帳は、ご存知ですよね? 手帳の中に、葛海悠介の事細かな予定が書き込まれていた、アレです」
麻耶の実家で見た、分厚い黒革の手帳だ。六月二十八日から七月一日までの四日間に、葛海の名前が集中していた。
どうせ、麻耶の両親や吉村辺りから聴取したのだろうと思いながら、鹿島は素直に認めた。
「ええ。ご両親の許可を得て、見させて頂きました」
「そこで、ちょっとばかり、葛海悠介の周囲を調べたんですよ。もしかしたら、大変な事件に発展するんじゃないかと思いましてね。何せ、被害者の久保田さんが何の目的で詳細を調べていたかが、分からないもので」
鹿島も、その件については、分からなかった。麻耶が何のために、葛海の詳細な予定を調べ上げていたのかをはっきりさせれば、事件を容易に解決に導けると、鹿島は感じていた。肩を竦めて同意する。
「そうしたら、葛海が男から脅迫されていた、という話を聞きましてねえ」
きっと、葛海を慕う者の中からの不確かな情報だろう。警察にとってみれば、喉から手の出るほど欲しかった証言だ。葛海を脅迫していた相手が誰かを断定して、事件を、真相とは程遠い、金銭トラブルの果ての殺人に仕立て上げたいのか。
「葛海がかつて、暴力団と繋がって悪さをしていた、という妙な噂もあります。葛海の地元福岡で、二〇一〇年代後半くらいのことらしいですが」
勝沼が触れた、葛海の噂と同じだ。きっと、仲間内では暗黙の事実として存在していた噂なのかも知れない。
「例えば、ですよ、鹿島さん。こんな推理は如何でしょう?」
三河は、ちらっと笹田を見上げて視線を交わしてから、決して上品とは言えない視線を、鹿島に戻した。
「ある女がいて、その女は多額のカネを必要としていたが、中々用立てられなかった。それを見兼ねた愛人の男が、葛海の〝過去の汚点〟を探し出し、葛海を脅迫した……」
今度は鹿島が、三河が何を言わんとするかを察知した。それで、不届きな刑事を糾弾しようと声を荒げて制しようとした。しかし、三河の野太い大声が更に大きくなって、鹿島の訴えを容易に退けた。少し離れた席のビジネスマンが不審な眼差しを傾ける。
「……見事カネをせしめた二人は更に味を占め、脅迫がエスカレート。言い争いの末に、遂には葛海を殺してしまう。それで、葛海の腹心だった三橋が、金蔓を失った復讐のために、女に爆弾を送り付けた。三橋は工業高校の出身で、爆弾を作る技術を持っていたようですからな。どうです、私の推理は?」
麻耶と組んだ鹿島の犯行にしようという三河の魂胆は、相変わらず、愚かしいという以外ない。
「どうせ、私が脅迫や殺人を犯したと言いたいのでしょう? 全くのヘボ推理に、呆れて言葉も出ませんね」
「いえいえ、私は、鹿島さん、あなたが犯人だとは、一言も言ってませんよ」
三河は、また笹田と見交わして、ふふっと、謙遜した嘲笑を浮かべた。だが、言葉とは裏腹に、鹿島を拘束しに来たのは目に見えている。どのタイミングで警察署へしょっ引くかを、計っているだけだろう。
前回の三河による〝鹿島爆殺犯説〟の推理も外れ、今回は大幅修正してきた挙句に、この有様だ。冤罪を縫うが如き綱渡りは、もう金輪際、御免である。
「葛海さんが死亡したのは六月三十日の七時前後。確か、青梅市の山中だと聞いています」
三河は大きく頷きを返して、余裕に満ちた表情で先を促した。
「ということは、もし私が葛海さんを殺したのだとすれば、その時間帯に、青梅にいなければなりません」
「アリバイでもあるのですかな?」
そんなことなら既に手を尽くしているといった風に、三河は自信を見せた。血眼で鹿島と麻耶の周囲を探ってアリバイが出てこなかったのだから、アリバイはないと確信しているのだろう。
「もちろんです。六月三十日なら、仕事は休みでしたが、朝方のゴミ出しの際に、玄関で住人の小谷さんと会っています。葛海さんの死亡推定時刻と同じころの、午前七時頃でした。当日は、燃やすゴミの日でしたよ。因みに、中野から青梅の山中までは、どんなに頑張っても、二時間は掛かるでしょう?」
小谷とは、三十日の朝に、小谷の家でゴキブリが出て大変だったと話したので、虫嫌いの小谷は、鹿島との会話を絶対に覚えているはずだ。
その旨を伝えると、三河は極端に嫌な顔を晒して、眉を引き攣らせた。意外な展開に、明らかに不愉快になっている。笹田に裏の確認を取らせるべく、顎で指示を出すと、笹田はスマホでどこかへ指示を繋いだ。
小谷は麻耶爆殺の五日後に部屋を引き払って引っ越していった。三河が六月三十日の鹿島のアリバイを聞く前に、マンションから姿を消しているため、三河の二度目の聴取から漏れたと想像できた。
「ところで、鹿島さん」
三河は、それでも追及の手を緩めないように見えた。慇懃さが故意に、より強調されている。
「あなたは、死んだ三橋の相方、勝沼晋一をご存知ですね」
「もちろん、知ってます。二度ほど、話をさせてもらいました」
鹿島は、三河が卑怯な次善の策を発動させたと悟った。得体の知れない悪寒が、首筋に粟を抱かせる。
「その勝沼と、色々と話をしたようですね」
なるほど、三河が葛海の件で鹿島まで辿り着いたのは、勝沼の証言に依るところが大きいようだ。勝沼が三河の前で、大人しく恐縮している様が思い描かれる。
「勝沼から聞いた話によれば、あなたは、三橋から送られてきた《松室運輸サービス》の伝票を、コピーして持ち去った。しかも、伝票の件は警察には言うな、と口止めしたそうですな」
鹿島は内心、むかっと舌打ちした。三河からの嫌らしい追及に耐えられなくなって白状したのだろう。
「懼れ多い。口止めしろとは、言った覚えはありませんよ。きっと彼の勘違いでしょう」
「微罪に問うてもいいのですけどね」
三河の口の端が嗜虐に歪むのを見ても分かるように、どうせ、微罪で拘束して、強引な手法で主犯に仕立てようという目論見だ。
「それと、……伝票に写っていた〝トラン・アナン〟の意味は、分かりましたかな?」
ここまで三河の言葉を聞く限り、警察は、まだ事件のほんのとば口に辿り着いたに過ぎない。〝トラン・アナン〟という語句は、葛海を追い掛けているようでは、まだ当分の間は解明されない。
〝トラン・アナン〟、つまり《レストラン・アナンタボガ》という店名の一部は、〝インドネシア大使館〟というキーワードを介して初めて意味を成すものだからだ。
しかも、〝アナンタボガ〟が、葛海が密輸した競走馬の種類だ、という発想は、三河には全くない。まして、牧瀬の自殺や麻耶との関わりも把握していないだろうし、沢木の関与すら察知しているわけもない。
三河は、ここで腹を割って話をし、取引を申し出ても問題ない相手ではない。下手をすると、沢木に余計な詮索をさせて取り逃がす可能性もあるし、〝主権国家・インドネシア〟という言葉に恐れを感じて、鹿島を犯人に仕立てて強引に幕引きしようとするかも知れない。ここは、これ以上、口を開かないほうが賢明だ。
鹿島が三河の眼差しを見返すと、痺れを切らせた三河がずいと身を強く乗り出した。そろそろ周囲も、団体客で賑やかになってきたため、時間的な限界も近いと感じたのだろう。
「もう一度お伺いします。鹿島さん、あなたは今から福岡に何をしに行こうとしてらっしゃったのですかな?」
「だから、観光ですよ。それとも、福岡に何かあるのですか? 私が行っては警察にとって不都合な何かが?」
三河は、しばし唇を尖らせて口を噤んだ。口を割ろうとしない目の前の無職の男に、いつ強権を発動しようかを思案しているのが分かる。
ここで拘束して強引に吐かせようとしても、鹿島が簡単に尻尾を出すような相手ではないと踏んだのだろうか。このまま福岡へ行かせて、逃走されても困る。かといって、手を拱いているままでは、事件解決進展の埒もない。果たして如何するべきか? そんな心の声が聞こえてきそうだ。
その時、三河の思考を遮るように、笹田のスマホに着信が入った。
笹田が険しい顔を歪めて三河に首を振る。どうやら、鹿島のアリバイが確認できたようだ。これで、飛行機のキャンセルの必要はなくなっただろう。
三河は上向きの鼻をひくひくさせて、苦渋の決断を下した。
「……今日のところは、お暇しましょう、鹿島さん」
「お忙しくて、何よりです」
笹田が大きく舌打ちする。三河も、心では同じはずだ。
「あなたのアリバイの裏が取れましたよ。確かに六月三十日の朝、小谷氏と会っているようですな」
「最近の警察は、仕事が早い」
「ですが、一つ警告しておきましょう、鹿島さん。あまり素人が事件に首を突っ込むと、ロクな目に遭いませんからね」
鹿島には負け惜しみのようにも聞こえたが、最終通牒を突き付けるように、三河は言い放った。せいぜいの負け惜しみの言葉が、空しくすら聞こえる。
「ご忠告、痛み入ります。もし、何かこちらからお話しするようなことになれば、またお電話させてもらいますよ。必要なら、福岡の滞在ホテルをお教えしましょうか?」
「殊勝な心掛けですな。あなたのような善良な市民ばかりだと、こちらとしてもありがたいのですがね」
心にもない言葉を連ねた三河の顔が、次第に険しくなっていく。鹿島は、この上ないほど、愉快に感じた。
「……では、飛行機の時間もありますので、この辺で失礼します」
鹿島は、三河のお株を奪うような丁寧過ぎる会釈をし、ゆっくりと立ち上がった。
恐らく三河は、福岡で〝観光する〟鹿島に尾行を付けるはずだ。だが、それは、鹿島にとってもある意味、ありがたかった。
常に警察の目があれば、真犯人からの襲撃も最小限に防げるだろう。一朝、何か起こった場合は、素直に警察からの助力も期待できる。
ともあれ、鹿島は、事件の真相がすぐそこまで迫っていると、身に犇々と感じていた。
(後編につづく)