Prologue ー衰退ー 西暦2141年10月23日 0232
西暦2141年10月23日 0232
アメリカ合衆国 メリーランド州ベセスダ アメリカ国立衛生研究所
国立アレルギー・感染症研究所 ラストウィルス研究班
「人類は進歩しすぎた。そうは思わないか、アベル?」
兄さんがふいに呟いた言葉に、思わず苦笑してしまった。
「急にどうしたのさ、兄さん? そんなことジェファーソン博士が半世紀以上も前に指摘していたことじゃないか」
マニピュレーターグローブを操作しながら、軽口を返す。
「そう、そうだ。こんなことは現在も思考を続けている心ある人種は皆が思っている」
でも、だからこそ。兄さんは静かに物を置くような前置きをして、
「俺は今の人類が救われる必要があるとは、思えない」
そんな、誰も口にしなかったけれど、どこかで感じてはいた想いを言葉にした。
思わず、ミクロの世界を透視するモニターを見ていた目を引き結んだ。心を落ち着けるように一呼吸を置いて、開き直した目を兄さんに向ける。
口を開こうとして、開けなかった。
いつも怜悧に真実を探求し、真理を見つめていたアッシュ色の瞳。兄さんのその瞳は今、何も映していないように遠くを、遠くの虚空をぼんやりと眺めているだけだったから。
何を言えばいいのか? 何が正しいのか?
そんなこと、兄さんがわからないのに、僕にわかるとも思えなかった。
幸いにしてというか、兄さんのことだから当然このタイミングを見計らったのだろうが、兄さんと自分以外、誰もいない白一色の研究室をぼんやりと見回す。
五列の長いカウンターテーブルと白いチェア。幾つものマニピュレーターにモニター、デスクトップマシン。僕達二人で使うには広すぎる研究室と数多の機材。
いつも通りであれば、ここには僕達以外にも多くの研究者が存在している。そんな彼らを脳裏に思い描いたことで、口は動いた。
「兄さんが言いたいことはわかる」
本当に、痛いほどわかる。この研究室の外、関わりたくもない怠惰な人類の半数以上を想って、初めに同意が浮かんだ。
でも、と僕は力を込めて続ける。
「救いたい人達もいる。違うかな?」
身近で共に努力する人達のことを、僕は見捨てたくない。
そんな想いで兄さんの横顔を見つめ続ければ、兄さんはゆっくりと僕に振り向き、やがてその細い口の端をフッと吊り上げた。
「そうだな。人類全体はどうあれ、個々人では大切な人達がいる。だから、その大切な人達を守らなきゃな」
優しい色味をその瞳に滲ませて、兄さんは微笑んだ。
「うん、そうだね」
いつも通りに戻った兄さんの優しさが嬉しくて、僕もそんな兄さんに微笑み返した。
この年、天才ナイト兄弟の研究により、人類は最後の外敵と謳われたラストウィルスを克服する。この研究過程で確立されたナノテクノロジーは、人類から疫病すらも駆逐するに至った。
しかし、その中で発見された力を巡って、人類が新たな問題に直面することになることを、この時はまだ誰も知らない。