ラスト・サイゼ【ヤングケアラーの夕暮れ】
私はいつものように市営アパートの八号棟に行くと、エレベーターに乗って真尋ちゃんの家に向かった。
ピンポーン。
呼び鈴を押すが、誰も出て来ないので勝手にドアノブを回す。鍵はかかっておらず、あっさり扉は開いた。
「真尋ちゃんいますか?」
玄関から声をかける。ゴミだらけの玄関を抜けると廊下の先の部屋で、真尋ちゃんのママが畳に横たわっているのが見えた。
真尋ちゃんのママはいっつもこう。ずっと横になって、たまにしか口を開かない。かと思えば、横になってゲームをしている時もある。いつも夜にお仕事があるらしい。昼間はずっとこんな感じだ。
とにかく動かないママなのだ。けど、私は何も気にしないよ。
「おじゃましまーす」
いつものように、家に上がり込んで真尋ちゃんを待つ。真尋ちゃんはお姉ちゃんを迎えに行ってるから、ここには三時に帰って来るんだ。
私は背中におぶっているリュックを下ろした。中学受験の参考書や辞書がぎっしり入ってて重いんだ。
しばらくすると、予想通りの時間に真尋ちゃんが帰って来た。お姉ちゃんの千尋ちゃんの車椅子を押している。千尋ちゃんは足が不自由で、私たちより年上で大きな体だけど、言動はめちゃくちゃ幼い。
千尋ちゃんは、うーうー唸って車椅子から立ち上がり、壁伝いに歩いて行く。長年のリハビリが上手く行って、自力でトイレに行けるようになったんだって。よかったね。
「あー、京香ちゃん!」
真尋ちゃんが私を見つけて駆け寄って来る。私はリュックから漫画本を取り出した。
「これ、返しに来たよ。すっごく面白かった!」
「三巻は来月発売なんだって」
私たちがはしゃいでいると、真尋ちゃんのママがおもむろに立ち上がった。
そして、ぴっと真尋ちゃんに千円札を差し出す。
「ほら、食べに行っといで」
「うん!」
真尋ちゃんは千円札をポケットに入れると、私の手をぎゅっと掴んだ。
「ね、京香ちゃんも行こう?」
私は頷いた。きっとその時の私の顔は、かなりニッコリしていたに違いない。
「行こう行こう、いつものところに」
「うん!」
私はリュックを背負うと、時間が勿体ない一心で真尋ちゃんと駆け出した。
行先は──駅前商店街にある、サイゼリヤ。
千円あれば、二人で食べられる。
私は300円のチョコレートケーキを頼んだ。真尋ちゃんは、いつもこの時間にここできっちりとした夕飯を食べる。今日、真尋ちゃんはエビクリームグラタンとポテトを頼んでいた。
真尋ちゃんは、いつもここで私にとてもいいおやつを奢ってくれるのだ。そして、二人で食事する。こんな日が週に2~3回はある。真尋ちゃんも真尋ちゃんのママも、気前がいいよね。
私は、いつも夜は塾でママの作ったお弁当を食べている。中学受験のための塾に週5日行ってるから、土日しか家族と夕飯を囲む日はない。だから真尋ちゃんとこうして一緒に食事が出来るのは、とっても楽しい。
「来年は私たち、中学生だけど……京香ちゃんは、どこの中学に行くの?」
真尋ちゃんがグラタンを頬張りながら聞いて来た。私は困惑しながら答える。
「受かったところ……としか言えない。今のところ第三志望まで決めてあるけど」
「ふーん。東京?神奈川?」
「東京」
「じゃあ、通学時間がかかるね」
「そうなんだー。だから、どの学校に行くにも早起きしなきゃね。帰りも遅くなるかも」
「大変だねー」
私たちは小学六年生。幼稚園も小学校も一緒の幼馴染だったけど、恐らく同じ中学には進学しない。
寂しいけど、仕方ない。私のママは、私に絶対私立中に行って欲しいんだって。「この地域は治安が悪いから」だって……そうなのかな?私には分からない。
五時から塾がある。それまで真尋ちゃんとお喋りするのが受験の息抜きだった。
真尋ちゃんはひとしきり笑ってから、はぁと息を吐いた。
「じゃあ……来年はもう私たち、サイゼに行けないのかな」
私は弱った。真尋ちゃんたら急に何てことを言うんだろう。
「行けるよ!また真尋ちゃんちに本借りに行くからさぁ」
「本当?だって私立って、お金持ちが行くんでしょ?京香ちゃんにお金持ちの友だちが出来たら、もううちみたいな家には遊びに来てくれないんじゃないのかなぁ」
私は首を横に振った。
「そんなわけない!真尋ちゃんは友だちだもん、卒業しても絶対遊びに行くから」
「本当?私、全然友だちいないから、京香ちゃんだけが頼りなんだよ」
私は言葉を失った。そうだっけ?確かに、よく考えたら真尋ちゃんが他の子と遊んでるのを見たことがない。
「……何で友だちがいないの?」
「んー……多分、私、いつもお姉ちゃんといるから」
私はちくりと胸が痛んだ。ああ、そうか。お姉ちゃんのお迎えをしてるからか。
「そんでさぁ、私、お姉ちゃんについてなきゃいけないから、遊べない」
「でも、サイゼで話す時間はあるじゃん」
「これは晩御飯の時間を利用して、京香ちゃんと話せているってだけのことだよ。京香ちゃんとバイバイしたら、速攻家に帰って千尋ちゃんにご飯食べさせなきゃいけない」
「……え?」
私は言葉を失った。
「……お母さんは?」
「仕事」
「……そっか」
「うち、お父さんはいないから」
「……」
「千尋ちゃんが無事寝るまでついていてあげなきゃいけないんだ。お風呂も、千尋ちゃんを洗ってあげないと」
「……」
ケーキを食べたはずの舌が、じんわりと苦くなる。
何で気がつかなかったんだろう。真尋ちゃんは、五時以降はお姉ちゃんのお世話係になっていたのだ。それで色々と腑に落ちることがあった。真尋ちゃんが宿題をやって来なかったり、洗濯すべきものを洗濯して来なかったり、遠足を欠席したりする理由が。
私ったらサイゼに浮かれて、本当に馬鹿みたいだ。
真尋ちゃんがどんな思いでこのケーキを奢ってくれていたのか、今になってようやく気づく。そうか、これは真尋ちゃんが私を繋ぎ止める小さな手段だったんだね。
私は宣言した。
「私、ずっと真尋ちゃんと友だちだよ。来年もここに来よう」
真尋ちゃんが、目をこすり始める。ああ、本当にずっと心細かったんだね。
「……本当に?」
「もちろん。よく考えてよ、学校が違うから友だちやめるなんて、変でしょ?」
「そっか、そうだよね……」
時計の針が、五時を差す。
「……ごめん、そろそろ塾に行くよ」
「そう……またうちに来て。お母さん、真尋ちゃんが来るときにだけ、お金くれるの」
「……そうだったんだ」
真尋ちゃんの気持ちを受け止めてから、真尋ちゃんのママの思いも何となく感じることが出来た。娘にちょっとでも友だちとの時間をあげたかったのかな──きっと、そうなんだ。
私が塾を終えて家に帰ると、ママが鬼の形相で突っ立っていた。
私はどきりとして立ちすくむ。何をそんなに怒っているの?
「見たわよ、京香!塾の前に、真尋ちゃんとサイゼリヤにいたでしょ!」
えー!?何でバレたんだろう。
「お金はどうしてるの!?まさか、お小遣い使い込んでるんじゃないでしょうね?」
わわわ!ママ、それは誤解だよ。
「ううん、真尋ちゃんにおごってもらったんだよ」
すると、ママの不機嫌に更に火がついてしまった。
「何ですって!?どうしてそんな大事なことを言わなかったの!」
「えー?だって、真尋ちゃんがいいって言うから……」
「いいもんですか!真尋ちゃんのママに謝らなきゃいけないわ。今から真尋ちゃんちに行くわよ!」
「待ってママ。真尋ちゃんのママ、夜は家にいないんだよ」
それを聞いて、ママは今度は青くなった。
「……どういうこと?」
「お仕事してるんだって。だから、真尋ちゃんはあそこで夕ご飯を食べてるの」
ママはじっと何か考え込んでいる。
「……あそこ、お姉ちゃんいるよね」
「うん、車椅子の。真尋ちゃんが体洗ってあげてるんだって」
ママは深く息を吸った。
「それなら……余計に、真尋ちゃんのママと話さないと」
「?」
「昼ならいるのよね?」
「うん、反応悪いけど、いることはいるよ」
ママの反応がころころ変わるのでびっくりしたけど、私はなぜかほっとしていた。
真尋ちゃんの置かれている状況を知っている人は、この地域に本当に少ない。ママに話せたことで、何かが動くといいな。
その一週間後のことだった。
私は真尋ちゃんに電話で呼び出された。待ち合わせ場所は、いつものサイゼリヤだ。
「ママ、サイゼ行って来るね」
ママは何かを察したように頷くと、私に千円をくれた。
何が起こるのだろう。私はドキドキしながらサイゼに向かう。
真尋ちゃんは、先にいつもの席に座って待っていた。
私はそれを見つけて座る。真尋ちゃんはゆっくりこちらを見上げると、困ったように笑った。
「真尋ちゃん、急にどうしたの?」
真尋ちゃんはもじもじすると、ぽつりと言った。
「京香ちゃん、ありがとう」
「?」
「うちに、明日からヘルパーさんが来てくれることになったんだ」
私は首を傾げた。なんでそんなことで、私が感謝されているんだろう。その疑問に、すぐに真尋ちゃんが解答を出した。
「京香ちゃんのお母さんが、うちのお母さんに会いに来たの。京香ちゃんのお母さん、色んな支援先に問い合わせてくれたみたいで、そこのヘルパーさんを紹介してくれた。何か……実はお母さん、病気だったらしくて、それでよく動けなかったんだって」
私は何度も頷いた。
「そっか。真尋ちゃんのママは、病気でああやって寝転んでいたんだね」
「そう……だから、代わりに京香ちゃんのお母さんが動いてくれたみたいなの。ヘルパーさん、掃除もしてくれるし、食事も作ってくれるんだって」
「そっか……よかったね」
真尋ちゃん、ほんとうに肩の荷が降りてスッキリしたって顔してる。この子のこんな顔、いつぶりに見たっけなぁ。
「だからさ、京香ちゃん」
「?」
「今日でサイゼに来るの、多分ラストなんだ」
ああ、そうか。明日からはヘルパーさんが食事を作ってくれるんだもんね。サイゼリヤに頼らなくてもよくなったんだ。
「じゃあこれが、私たち最後のサイゼリヤ……?」
「そうなるかもね」
私たちはメニューを開いた。しばらくここには来ないだろう。今日は何を食べようか。
「私リブステーキにしちゃおっかな」
「それで千円するから、ライスが食べられないよ」
「そっか。あはは」
私たちは笑い合って食事を選んだ。
また来年も二人で、こうして笑い合えるといいな。