見えないサイゼリヤ【離婚の後で】
不動産屋から見せられたタブレットの画面を眺め、俺は家の間取りを確認する。
「うーん、これならさっき見せて貰ったB学園前の物件の方が……」
「高梨様はおひとりですから、A町の物件の方が掃除が行き届きやすいと思いますよ」
おひとり。
それを聞くと、大きなため息が出てしまう。そうだ、下手をしたら、ここが終の棲家になるかもしれないのだ。これから住む場所なのだから、もっと慎重に探さなければならない。
俺は、つい最近離婚した。
離婚協議中に、今まで住んでいた一軒家は売り払ってしまった。妻が娘を引き取ることになり、俺はひとり暮らしとなった。不動産屋でアパートを探すなんて、大学の上京時以来だ。
こどもがひとりいる。中学一年生の娘だ。反抗期を迎えたが最後、そのまますっかり別れた妻に取り込まれてしまった。あの子は彼女から色々あることないこと吹き込まれ、俺を毛嫌いしている。
ま、離婚の原因なんて──〝薄給激務〟ってだけなんだけどね。妻は実家が太いから、孫を連れて帰って来いと彼女の両親にせがまれたらしい。子離れ出来ない典型の両親だったから、妻も言いなりになっちまった。今思えばもっと彼女たちに構えば良かったんだろうけど、疲れを言い訳にしてケアしてもらってばかりいた。気づけば引き返せない所まで、家族関係はこじれていたんだ。
慌てて家族の時間を取るために転職したけど、後の祭り。俺の家族はもう、俺の元に帰って来ない。
「高梨様、周辺地図も見比べていただきたいのですが」
不動産屋の指が、俺の思いわずらいに構わずスルンと画面をスワイプする。
「A町の物件は駅から徒歩10分、B学園前の物件は駅から15分です」
数字だけでみれば、A町物件の方が条件はいいはずだ。不動産屋もこの物件を推して来る。だが、俺はふとB学園前の駅周辺地図を眺め、目を留めた。
B学園前駅周辺には、サイゼリヤがある。
俺の中の天秤が、ガクンと片方に振り切れて落ちた瞬間だった。
「B学園前の物件にします」
「そうですか。ではまず、内覧に行きましょう。ご予約はいつになさいますか?」……
そんなわけで、俺はB学園前に住むこととなった。
B学園大学の最寄り駅なので、いつも駅前は学生でごった返している。
みんな、いかにも人生を謳歌しています、といった様子だ。若い男女が並んで歩いているだけで、きらきらして目に眩しい。
はしゃぐ学生の間を縫って、俺は足早に向かう。
サイゼリヤへ。
ひとり暮らしをしてみると、いかに家事労働がキツいかが身に染みる。料理ひとつするにも、買い物から後片付け、冷蔵庫の管理がついて回る。外注できるところは外注したかった。
転職したとはいえ「薄給激務」から「薄給」になっただけだ。使える金は少ない。
店に入りメニューを読んでいると、隣の学生カップルの女の方が、こんなことを言い出した。
「ねぇ~、いっつもサイゼばっかりで飽きた」
俺はその発言をちょっと羨ましく思う。サイゼを飽きたとか、考えたことなかったな。サイゼは「必要だから行く」──そんな場所だ。
「うっせーな、学食以外だったらここが一番安いんだよ」
男が答えた。懐かしい。学食、俺も学生時代はお世話になったなぁ。
「もっといいところない?私まだここに来て三か月だから、お店知らないんだけど」
「俺は四年目だけど、サイゼ以上に安い店知らねーから。行けるとしてバーミヤンが限界」
男の方が上級生らしい。この街のことをよく知っている。
「大体、外で食べる時は俺の奢りだから、店を決める権限は俺にあるんだぞ」
「んー、でもぉ」
「お前、ちょっと考えてみろ。俺がもしサイゼに行かなくなったことでこの世からサイゼがなくなったら、日本はどうなる?」
いきなり壮大な話が始まった。俺は危うく吹き出しそうになるのを堪える。
うーん、確かにどうなるのだろう。
「サイゼはな、空気なんだよ。みんなサイゼが街にあるのを〝当然〟って思ってるし、基本的に感謝すらしない。連れて来られれば〝また?〟とか言い出す。だけどさ、なくなったら〝サイゼなくなった!ギエー!〟ってなるんだよ絶対。だからさ、お前サイゼのありがたさを今日から認識しろよマジで」
ああ、なんかすごくよく分かるな。
「あって当たり前」って思わせるのって、実は凄いことなんだ。
そう、実は凄いこと……
あれ、何でだろう。何やら急に泣けて来た。
日常って当たり前だと思ってるけど、絶対誰かの努力で成り立ってるんだよな。少し前の俺は、そんなことにも気づけなかった。金を稼げば全てどうにかなる。残業を入れたら入れただけ儲かる。そんなしょうもないことばかり考えていたんだ。
ひとりになり、全ての家事と孤独がのしかかる毎日。
でも、その苦しみを少し楽にしてくれるのが、このサイゼなのだ。サイゼのない生活なんて考えられない。
俺は店員を呼ぶと、ハンバーグステーキとライスを頼んだ。
そんな時。
「ごめんねコウ君、もう限界」
急にカップルの女の方が衝撃的なことを言い出したのだ。俺は少しだけ前の妻のことを思い出し、ひやりと汗をかいた。いきなり何を言い出すんだ、この子。
「部屋デートとサイゼの往復ばっかり……コウ君、私のこと大切じゃないんでしょ」
男の方はいきなりのことにぽかんとしている。
「え?何で?大切だってば」
「私のこと、ミラノドリア300円でどうにかできる女だと思ってるんでしょ」
「そんなことないって!マナと過ごす時間が一番大事で……」
「私は同じ時間を過ごすなら、サイゼリヤなんかにいたくない。もっとムードのある所に行きたいの」
「じゃあ、来週にでも代官山に……」
「今更ご機嫌取ろうったって遅いよ。女は限界まで我慢するけど、限界来た時にはもう気持ちなんか切れてるから。じゃあね、コウ君。一生サイゼで食事しな」
なかなかに辛辣なワードを残し、彼女はサイゼから、そしてコウ君の元から飛び去った。
彼女とすれ違った店員さんも、どこかいたたまれない様子でこちらにハンバークを運んで来る。働いてる店を思いっきりディスられたんだもんな……本当にお疲れ様です、気を取り直して下さい。
コウ君には、無情にもミラノドリアがふたつ与えられた。悲しいかな、ふたつ食べても600円だ。
単身の男二人は通路を挟んで並び、何かを考え込みながら黙々と食事をした。
俺は勝手に彼との連帯感を感じていた。君も今日からひとりか、なんてね。声はかけないけど。
そう。俺たちって、なぜか気づかないんだよな。身近なものほど軽んじてしまうんだ。
お金がかからない彼女、と判断した。その安さが誰かの我慢や努力で成り立っていることに気付かずにね。その価値は、失くしてからでしか気づけない。
サイゼリヤの価値も、なくなって初めて気づくんだろうな。
食事を終えると、俺はアパートに向かって歩き出した。
夜の涼しい風にほっとしながら歩いていると、聞き覚えのある声がする。
コウ君と一緒にいたマナだ。コンビニ袋を持ち、電話をしながら俺のずっと前を歩いている。俺は彼女を驚かせないよう、同じ道のうしろを音もなく歩いた。
「行こう!火曜日のディズニーシー、めっちゃ楽しみー!」
ほう、学生だから平日にディズニーシーか。忙しい社会人には、ちょっと羨ましい。
そんな時だった。
「ハァ!?イクスピアリのサイゼで食べてから行くの!?」
マナがいきなり声を荒げたのだ。俺は驚き、思わず立ち止まった。
「もう二度とサイゼは行かないって決めたの!私だけ先にディズニーシー入ってるから!園内で食べてるから!……いーや、絶対サイゼには行かないんだから!じゃーねっ」
マナは怒りに任せて電話を切ってから、ぽつりとひとりごちた。
「何よ……みんなサイゼサイゼって……馬鹿じゃないの?」
俺の胸がきゅっと痛んだ。
悲しいこと言うなよ。みんなそれだけ家計と時間が切羽詰まってるんだ。
どうやら、マナは俺と同じアパートに住んでいるようだ。
怯えさせては悪いので、彼女がアパートに入るのを待ってから、俺も自分の部屋に帰る。
色々考えすぎて疲れたな。そういえばこの部屋も、近くにサイゼがなかったら住むことのない家だったんだ。
「……馬鹿じゃないの?」
俺はそうひとりごち、少し笑ってから少し泣いた。
サイゼがなかったら絶対住まないよ、こんなアパート。
家族と別れなければ、絶対──
見えないサイゼリヤが、俺にささやく。
馬鹿じゃないの。
馬鹿じゃないの。