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400円のサイゼアレンジャー【定年退職した夫】

 私が世界で一番嫌いな言葉。


 それは


〝俺の飯は?〟


である。


佳代子かよこ。俺の飯は?」


 ……ほら来た。




 夫の啓介けいすけが65歳で定年退職を迎え、今日で一か月が経つ。


 正直ここまで昼夜問わず夫といるのがキツイとは、思ってもみなかった。子どもが全員巣立ち、夫と二人暮らし。今一番私が頭を悩ませているのは、お昼ご飯のことである。


 夫の退職前、昼間は家に私ひとりだったので、お昼ご飯は余ったご飯と納豆とか、前日の残り物でやり過ごして来た。


 けれど、一度だけ夫に残り物を出したら、露骨に嫌な顔をされたのだ。


「なんか作ってよ」


 はぁ?


「しっかりしたものを食べとかないと、健康になれないぞ」


 うっせーわ。あたしゃねぇ、三十年間毎日残り物を食べてこの通りピンピンしとるんじゃ!


 しばらく文句を呑み込みつつ、渋々うどんとかラーメンとかを作って来た。でも、毎日毎日もう限界。


「なぁ、俺の飯は?」


 12時を回っても動き出さない私に業を煮やしたのか、夫がしつこく問いかけて来る。


 ついに私の堪忍袋の緒が切れた。


「うっさい!」


 私の怒号に、夫はびくついた。


「毎日毎日メシメシメシメシメシメシメシメシ……そんなに欲しけりゃ自分で作んなさいよ!」


 夫は頭にハテナを浮かべ、こちらに怪訝な顔をしてみせる。


「佳代子。だってお前は料理好きじゃ……?」

「好きじゃないわよ!あんなのは義務よ!」

「毎日美味しいご飯を作ってたじゃないかぁ」

「はい?毎日仕事していれば〝仕事好き〟になりますかぁ?」


 夫は黙った。と同時に「面倒くせぇ」という表情を浮かべる。


「はー、しかたない。じゃあ弁当でいいよ」

「ああそう。じゃあ買って来れば」

「……はぁ?買い物はお前が……」

「嫌だ、勝手に役割を押しつけないで。私は納豆ご飯で済ませるから、お父さんは自分のだけ買って来なよ」


 夫はしばらくポカンとしていた。自分が買い出しに行くことすら、まるで想定していなかったようだった。


「佳代子。弁当屋ってどこに……」

「そんなの、そこのスマホで調べなさい!」


 夫は肩を落としてスマホをスワイプし出した。そうそう、それでいいのよ。


 しばらくすると、夫は静かに家を出て行ったのだった。




 一時間が過ぎた。


 ふらりと夫が帰って来る。先ほどまで彼が纏っていた空腹の気配はない。


 手に弁当はナシ。私は奇妙に思い、夫に尋ねた。


「あれ?お弁当は?」


 夫はぼりぼりと頭を掻きながら、狐につままれたような顔で開口一番、こう言ったのだ。


「レストランで食べて来た」


 一瞬、私の腹は怒りに煮えたぎった。老後のために今まで毎日節約生活をして来たのに、レストランに行っただなんて一体何を考えてるの!?


「はぁ!?あんた、レストランでランチなんてねぇ、そのお金で何日分の夕飯が食べられると思ってんのよっ!」

「えっ……違う違う……300円」

「は?」

「レストランでドリアを食べたら300円だったんだ」


 私は首を傾げてから、ああと思い至った。


「サイゼリヤに行って来たのね?確か弁当屋の向かいに最近出来た……」

「開店って大きく書いてあったから、ちょっと足を延ばしてみた。前、テレビか何かで安い店だって聞いたから」

「ふーん……」


 まあ合格点をあげるわ。あんたにしちゃ、機転が利いたんじゃない?


「良かったわね。毎日ドリアにすれば安上がりじゃない」


 それを聞くと、夫はちょっとだけ嫌そうな顔をした。


「毎日300円のドリア……?」

「いいじゃない。毎日残り物とどっちがいい?」

「……」


 夫はしばらく考え込んでから


「しばらくはドリアかな」


と正直なところを吐いた。私は頷いた。


「私はずっと残り物で行くから、お父さんはサイゼに行きなさい。あ、300円以上使うのはナシで」

「……えー」

「300円オーバーしたら次の日から一週間、お昼は残り物ね」

「……」


 夫は何かをしばらく考え込み、何やら熱心な表情でスマホをポチポチやり始めるのだった。




 一週間後。


 ある日の午前11時、夫が何やら深刻そうな顔でこちらにやって来た。


「佳代子、頼みがある」


 え?何?と私は身構える。


「昼ご飯のことなんだが」


 はー?さてはまた「手作り料理がいい!」とでも言い出すのかなぁ。


「……400円使ってもいいか?」


 私は思わぬ言葉に毒気を抜かれた。彼の真剣な表情からは、メーデーで100円賃上げの交渉に入るかのような、どこか物々しい空気が漂っている。


 まあ……確かにずっと300円のドリアって言うのもね。たまには彼だって温玉乗せドリアくらいはいただきたい、というところなのだろう。


「よろしい」


と私は頷いた。夫もほっとした顔で頷いている。


 きょうび弁当でも400円はする。まあ、妥当なラインかな。


 それからというもの、夫は昼に足しげくサイゼリヤへ通うようになって行った。私は残り物を食べる。夫はサイゼランチ。各々別の場所で食べる、以前のような平穏な昼間が帰って来た。


 しかし、あれから夫の様子がどこかおかしい。


 ずっとスマホとにらめっこするようになってしまったのだ。まあ定年後だから、暇に任せてネットに溺れたい気持ちも分かる。しかし、なぜかその視線がとても真剣なのだ。何か趣味でも始めるのかな?と、その時の私は軽く考えていた。


 しかしこれは、夫豹変の序章に過ぎなかったのだ──




 ある日、ふと私もサイゼリヤに行きたくなった。残り物ばかり食べているのも味気ない。たまには外食もいいだろう。


「ねえお父さん。今日は私も一緒にサイゼ行くよ」

「おう、そうか……」


 夫は釣り師が釣り竿でも準備する時のような渋い表情でスマホを見ている。いつものことなので、私はその時間で外出の準備にとりかかった。


 夫の運転する車でサイゼリヤへ向かう。駐車場は平日なのに結構な混雑ぶりだ。


 席につくと、私はメニューを開いた。わ、新メニューのリゾット&牛肉のシチューだって!たまにはこんなのもいいかな~。食後は、これも新作のピスタチオのジェラートにしちゃおうかしら。


「佳代子、決まったか?」


 私はメニューの新作を指さした。


「これとこれにしたい」


 その時だった。


 夫の背中に、紅蓮の炎が立ち上がったのは。


「は?合計金額、1250円だぞ?」


 私は何を言われたのか分からなかった。確かにそうだ。でも、外食にしては充分安いではないか。


「お父さんったら……たまにはこれぐらいの贅沢、いいじゃない」

「ダメだ。せめてランチメニュー500円にしろ」

「え~、私はずっと残り物を食べて来たんだから、いいじゃな~い」


 すると、夫は目を吊り上げてこんなことを言った。


「……創意工夫って知ってるか?」


 ファミレスでいきなり何を言い出すのだこの人は。


「私は家でずっと残り物を創意工夫して食べて来ましたが、何か?」

「お前……サイゼに何をしに来てるんだ?」

「?」

「サイゼはな……そこらへんのファミレスとは違う。れっきとしたイタリアンレストランなんだ。そしてこの店はな、無限の可能性を秘めているんだよ……!」


 え、何々?新興宗教とかネズミ講の布教?


「例えばドリアのチーズを〝よく焼き〟してもらって食感を変えたり……目玉焼きを単品で注文して乗せることも出来るんだ。野菜ペーストを単品で注文し、それをドリアに乗せれば食感も増えてお得……!これらをペペロンチーノに混ぜてもかなり美味い!」


 何を言ってるの?ドリアの食べ過ぎで頭おかしくなっちゃった?


「サイゼでは400円で夢が買える。腹いっぱいになる夢をな……」


 まあいいや。


 ピンポーン。


「リゾット&牛肉のシチューと、ピスタチオのジェラート下さい」

「お、お前……!」


 夫は愕然と私の注文を聞く。だって食べたいんだもん。


 一方の夫は──


「ドリアをよく焼きして、野菜ペーストと……ドレッシングを別で」


 おお?何やら謎の呪文を唱えている。どうやらサイゼ上級者を気取っているようだ。


 今まで全く料理なんてしたことがない昭和の男の、お手並み拝見と行くか。


 料理はすぐに来る。この安心感が、サイゼの好きなところだ。


 対して、夫のドリアは何だか面白いことになっている。


 夫はまず、ドリアにドレッシングをかけ始めた。ドリアにドレッシング?と思ったけど、オーロラソース風味だから、まぁアリと言えばアリか。


 そこに、野菜ペーストをどっさり乗せる。うーむ、サイゼのドリアは見た感じ野菜少なめだから、これでいいのかもしれないな。


 夫は慣れた様子でそれにぱくついている。私はそれをしげしげと眺めながら、うんうんと頷いた。


 この人は仕事人間だったから退職したらどうなっちゃうのか心配してたけど、案外夢中になれるものを見つけられたみたいだ。


 よかった~。


 この人も、スーパーでよく見る「女房べったり濡れ落ち葉ジジイ」の仲間入りを果たちゃうのかなーって、ちょっと心配だったんだ。退職後すぐにサイゼアレンジャーにジョブチェンジ出来たみたい。よかったよかった。


 二人で黙々と料理を味わっていると、ふとテーブルに人影が落ちた。


 夫と同時に顔を上げると、見知らぬじいさまがひとり、声を掛けて来た。


「啓介さん、今日はどうした?女房連れか?」


 夫はそのじいさまを見上げるなり、満面の笑顔を浮かべる。誰だろう、お友達かな?


「おお、朔太郎さくたろうさん」


 そう返事をする夫に、私は小声で問う。


「……誰?」

「水曜日の昼に、よくサイゼで会う人。顔見知りになった」

「へー、そうなんだ」


 夫も、地域に知り合いが出来たようだ。朔太郎さんは話を続ける。


「あんたドリア頼むんなら、たまにはドリンクバーもつけようぜ。いつも大慌てで帰っちゃうもんだから」

「いやあ、ハハハ……」

「奥さんもさ、たまには彼に500円あげてよ。そしたらドリンクバーでわしとたむろ出来るってわけ。ははは」


 夫が気まずそうに私を見やる。朔太郎さんが去った後、私はこっそり夫に耳打ちした。


「水曜日だけ、500円使っていいよ」


 夫はそれを聞くや、今までにないテンションでガッツポーズする。そんなに嬉しいのか……ふふふ、よかったね。


 私は400円のアレンジドリアを食べる夫の前で、350円するピスタチオのジェラートを心行くまで堪能するのだった。

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― 新着の感想 ―
[一言] 男は何かに熱中してないと、生きていけない生き物ですからね( ˘ω˘ )
[一言] 面白いです。1話目から一気に読ませていただきました。 夫の社交場がサイゼリア…これは予想外でした。制限のある中での試行錯誤は脳トレに良さそうです。
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