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アフター・サイゼ【ママの時間】

 私はこの日を待っていた。


 今日、娘の彩菜は幼稚園生活初日。


 予想通り「ママと離れたくない!」と園門の前で泣き叫び、幼稚園の先生に抱きかかえられながら遠ざかって行った。どの新園児も既に車内で泣き叫び続け、先生の腕の中で魚のごとく跳ねまわっている。控えめに言って地獄の光景。だが、保護者にとっては天国の入り口に立つような心待ちの光景だ。


 今、私はサイゼリヤの店内にいる。


 席に座り、私はわくわくしながらメニューを開いた。レストランなんて、四年ぶりだ。


 娘の彩菜は癇癪の激しい子だった。産まれ落ちた瞬間からママが離れると瞬時に泣き、睡眠が一時間おきの期間は二年に及んだ。スーパーに行けば毎度おねだりをして泣き叫ぶ。道を通れば公園遊具を見つけて泣き叫ぶ。寝る前も寝起きも泣き叫ぶ。とにかく全ての伝達手段が「激しく泣く」に特化している子どもだった。


 スーパーでおじいさんから注意を受けたこともあった。ご近所さんから虐待をしているのではと通報されることもあった。


 心がバキバキに折れる毎日。


 でも「幼稚園に入れば楽になる」と自分に言い聞かせ、ようやく園生活初日を迎えることが出来たのだった。


 ひとりの時間をようやく手に入れた。長かった。


 そんな私が、いの一番にしたかったことがあった。


 学生時代から足しげく通って来た、サイゼリヤに行くことだ。


 近年、外食産業のメニュー価格は高騰し続けている。マクドナルドからワンコインセットが消えて久しい。でも、サイゼと言ったらあれから一円しか値上げしていない。もう一度言おう、一円しか上げていないのだ。


 子を幼稚園に預けるような主婦にはお金がない。園代もかかるし、いいレストランに行くお金があるならなるべく貯金に回したい。夫の一馬力がしばらく続く現状、貧乏主婦が取り得る選択はサイゼ一択だ。


 今食べたいのは、辛いもの。


 毎日作る食事は、娘に合わせた「辛くない」「苦くない」ものばかりだ。大人ひとりだからこそ、そういったものが食べたい。コロナ禍と彼女の癇癪のせいで娘と外食したことはないが、もし行ったとして親の食べているものを寄越せと癇癪を起すのは容易に想像がつく。


 ひとりで食べよう。ひとりの食事を、お腹いっぱい、贅沢に。


 私は店員さんを呼んだ。


「辛みチキンとカリッとポテトと、ガーデンサラダ。あとドリンクバーで」


 普段家で食べないものを頼みたかったのだ。ドリンクバーでゆったり過ごしながら、余裕があればデザートも頼みたい。


 食事はドリンクバーでカフェラテをいれる間にやってきた。早いのもとても助かる。


 テーブルに広がる、夢にまで見たメニューを眺めて心ときめかせていると、どやどやと団体客がやって来た。


 ふとそちらに視線を向け、はっと息を呑む。


 同じ幼稚園のママ達だ。あちらは私に気づいていない。私は顔をそむけ、息をひそめた。


 やめなはれと思いながらも、耳をそばだてる。


「わ、きょうちゃんママ、そのネイル可愛いー!」


 ひとりのママがネイルの話をし始めた。きょうちゃんママは何の気負いもなくこう言う。


「私、前職ネイリストなんだ。これは暇つぶし、大したもんじゃないよ」


 私はそれを聞いて心底羨ましくなった。ネイリストなんて凄くキラキラした存在。手に職って感じでかっこいい。きょうちゃんママは綺麗な人だなーと思っていただけに、納得の話だ。


「お迎え行くまで、話そうよ。お迎え13時だっけ?」

「ううん。私、おばあちゃんに送迎頼んだから、もっといられるよ。15時まで」


 私の胸はきゅっと痛んだ。私の母は遠方に住んでいるから、育児を助けてもらうことが叶わない。実家が近いって、いいな。


「うちはダンナが迎えに行くよ。今在宅ワークだから」

「えー、協力的で羨ましい!うちなんて頼んだってやってくれないよ。送迎はこっちに丸投げだよ?」


 いいなあ。私の夫は激務で出張続きだから、基本ワンオペ。全部私がやらなくちゃいけないのは勿論だし、あんなに忙しく動き回ってる夫に頼んだりするところまで行かないよ。


 聞き耳を立てていた私は、ハッと我に返った。


 全然サイゼを楽しめていない。


 とにかく、目の前の食事を楽しもう。そうじゃないと損だ。


 食前のガーデンサラダをはんでいた、その時だった。


 急に手元のスマホが鳴ったのだ。


 え?


 手に取って、光る画面を見つめ、私は愕然とした。


〝着信アリ:大里幼稚園〟


 震える手で、痛む胃を押さえて電話に出る。


「はい……目黒です」

「あ、目黒彩菜ちゃんのお母様ですか?彩菜ちゃんが嘔吐しています。申し訳ありませんが、園まで彩菜ちゃんをお迎えに来て下さい」


 嘘だ。だってまだ11時半なのに……


「……あの、嘔吐というのは……?」

「はい。登園時からずっとママを探して泣き叫んでいたんですが、泣き過ぎて吐いてしまったみたいです」


 私の目の前は真っ暗になった。


「念のため病院を受診してください。コロナも流行っておりますし、明日は休んでいただいた方が良いかと」


 目の前の食事が色あせて行く。


「……分かりました」


 私は注文した食事を、味を感じるところまで行かずにとにかく流し込む。


 もったいない。


 もったいない。


 もったいない。


 その一心で口の中にポテトをかきこんでいると、訳もなく涙が滲んで来た。


 私は、二度と休むことを許されないのかな。


 自分一人の時間なんか贅沢だ、と、神様に取り上げられてしまう運命なんだ。


 全てを娘に捧げよ、と社会全体が私を押し潰している気すらして来る。


 調子に乗ってドリンクバーなんか頼むんじゃなかった。


 ドリンクバーなんて、時間のある人しか注文出来ないものじゃないのか。何で最初に気づかなかったんだ。


 フードファイトで胃が辛い。私は己のバッグをひったくると、慌てて会計に走った。


 呼出しボタンを押して店員さんを待っていたそんな時──


 ふとレジ下に貼ってあったポスターに目が留まった。


〝お持ち帰りも出来ます〟


 店員さんがやって来る──


 気付けば私は会計の前に、流れるように口を動かしていた。


「冷凍辛味チキンと冷凍イタリアンプリンを、ひとつずつください」




 彩菜を迎えに行った。


 本人はケロッとしていたが、一旦家に帰り、念のため小児科にスマホで予約を入れる。


 冷凍庫に、辛味チキンとイタリアンプリンを、娘にばれないよう押し込んだ。こんなのを発見されたら、大泣きで寄越せとわめかれるのが目に見えている。


 病院に行ったが、熱もないし、特に異常なしと判断された。とりあえず明日は一日、様子見だ。


 精神的にボロボロになっていた私に、彩菜はこともなげに言った。


「彩ちゃん、お腹空いた」


 そうだよね、吐いたもんね。




 その後の彩菜はご飯をもりもりと食べ、何ら変わらない日常を過ごした後、泣き叫びながら眠りの中に落ちて行った。


 まさか四歳近くまで寝かしつけが必要だとは。育児書なんか、本当にあてにならない。


 気付けば夜10時。夫はまだ帰って来なかった。


 余りにも忙しい一日を送ると、寝るのが勿体なくなって来るものだ。私は何も面白くないテレビをとりあえずつけてから、ふとサイゼリヤの持ち帰りメニューを思い出した。


 そうだった。


 私の時間は、まだあったんだ。




 私は冷凍庫から辛味チキンを取り出した。


 説明書を読む。レンジで解凍後、オーブントースターで焼くのがいいらしい。


 その通りにすると、台所に何ともジャンキーな匂いが立ち込める。ああ、これこれ。この香りをとことん吸い込みたかったんだ、私。


 ほかほかの辛味チキンをあらゆる角度から見つめ、カリカリの部分を探してかぶりつく。


 ああ、夜のチキンは何て美味しいんだろう。背徳感をスパイスに、どんどん行けちゃう。


 追い辛味チキンで、更に幸福感を倍増させることにした。また数本をレンチン。この待ち時間に食べるチキンも、たまらない。


 辛味チキンで心の隙間を満たした私は、眠りにつく前に冷凍庫からイタリアンプリンを取り出し、冷蔵庫に移し替えた。


 明日の私時間は、このイタリアンプリンのねっとりした甘味で満たすことにしよう。


 娘の隣に寝転んでその寝顔を覗き込みながら、私は冷凍食品ごときで心満たされる意外とチョロかった私に、幸福な苦笑いを浮かべるのだった。




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― 新着の感想 ―
[良い点] こんなに短いのに、笑えて知識欲も満たされて、濃厚にデフォルメされたドラマを叩きつけられる。このサイゼリヤ文学シリーズは、胃の弱い私には読んでて辛いので少しずつ味わっていこうと思います。
[一言] 学生時代はサイゼリヤに足繁く通ったものです( ˘ω˘ ) ミラノ風ドリアの驚異的な安さは、お金のない学生の強い味方でした( ˘ω˘ )
[良い点]  なんと、まさか連投ですね。食の逆転ホームラン、サイコーです。  あ、もしよろしければ、私のページにリンク貼り付けてもよろしいでしょうか? 微力ながら、もっと沢山の方にも読んでいただきたい…
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