舞妓はんとサイゼ【日常が非日常】
どこの何が美味しいと聞くと、それが脳内にこびりついて離れなくなる。どんな味なのかと想像し、気もそぞろになるのだ。
かつては料理研究家で現在フードライターの私は、料理だの食材だのという名のお宝を探して、いつも各地を彷徨っている。
悲しいことに、私はそれらを探すのにもスマホを手放せないでいる。「ごはんではなく情報を食べている」などと言われる昨今、食べ物でさえ、自分の舌を信じにくくなっていたのだ。情報を一挙に集め、とりあえず新しい食に飛びつく。ずっとそんな毎日を過ごして来た。
食事が仕事になり、何だか落ち着かない日々。そんなある時、私はとある店に出会った。
日本人なら誰もが「最高」と思える、あの場所──
「おこしやす、貴美子はん。よう来とくれやしたなぁ」
「琴乃さん、また呼んでしまいまして……」
「構いまへん。次はいつ貴美子はんいらっしゃるんやろて、うち長いこと待っとったんよ」
京都のとあるお茶屋さんで、舞妓の琴乃さんと落ち会う。夕日の落ちて行く祇園に、三味線の音色が響き出す。もう巷には響かないぽっくりの音。きしむ玄関引き戸に板間。この静寂、この空気。日本のここでしか味わえない、独特の世界だ。
「女の人でおひとりでお越しになる方、よう見ませんもん。女性のお客さんら、普通はなかなかつきまへん」
私はちょっと嬉しくなった。琴乃さんにつく数少ない女性客の一人が、この私だ。舞妓さんを呼ぶのはお金がかかるから、どうしても男性客が多くなるようだ。
この芸者置屋兼お茶屋「かしく」さんを紹介されたのは、三年前のこと。一見さんお断りの店だったが私が行きたがっていたところ、とある馴染みの旅館の女将が「かしく」さんへ連れて行ってくれたのだ。それが縁で、私はたびたびこのお茶屋を訪れることになった。
現在私は料理雑誌のコラムを担当している。産地へ直接行って、その地域の特産品を紹介する仕事だ。その仕事の中で私は自身の食に関する知識が圧倒的に足りないのを痛感し、食材や料理を再び学び直さなければならないと考えていた。
そこで参考にしたもののひとつが、京都の料亭のお食事だ。
「かしく」では料理を作らない。基本的には懐石料理屋に仕出しを頼んで、持って来て貰うのである。そういうわけで既にお座敷には、豪華な懐石弁当が用意されていた。蒔絵の蓋を開けると、宝石のような食事が詰まっている。それからいつも私が好んで頼む日本酒を、琴乃さんが持って来てお酌してくれる。祇園のお茶屋には、常に「最高級」が用意される段取りとなっているのである。それがお茶屋の「信用」だ。
私は懐石料理をつまんで行く。どれも出汁が効いていて、けれど薄味で味わい深い。ただし、どうしても基本的には冷えているので味は薄味に感じる。京料理の欠点ではあるが、「はんなり」な魅力でもあった。
「お仕事はよう入りますか?」
私は美酒をちびりとやりながら返事する。
「最近、ようやく軌道に乗って来ました」
「それやったら、またいらしてくれはりますね」
「琴乃さん、ゲンキン」
「だって、貴美子はんが来てくれなんだら嫌やもん」
本当にこの子は18歳なんだろうか?私は彼女に慕われているかのように見えて、実のところ掌の上でころころ転がされていた。この感覚はとても心地いいものだ。お茶屋と言えばおじさんばかりが来るみたいだが、女性が行った方が彼らより数倍楽しめると私は思う。彼女たちの話術、魅せ方、飽くなき努力は、女性こそ感動させられるものだと思うから。
「京都におるんは、いつまでどす?」
「別の仕事がありますので、あと二週間は滞在しますよ」
「ほんなら、一回ぐらいは一緒にそこら回りたいどすなぁ」
来た、と私は思う。
任せておけ。私はこの日のために稼いで貯めて来たと言っても過言ではないのだ。
「〝ごはん食べ〟(※同伴)……行きます?」
「ええの?貴美子はん」
「ええの?て、そっちが言い出しっぺでしょー?」
「わー、嬉しいわぁ。どこ行かはります?」
そこまで話が進んで、私は少し言葉に詰まった。
よく考えたら私はこのお茶屋さんや琴乃さんに何もかも選んでもらってばかりだったのだ。私にはこれといって京都の料亭に伝手も何もない。
うーん、お母さん(お茶屋の女主人)に聞いた方がいいかなぁ。きっとなじみの店があるはず……
そこまで考え、私はふと思い至った。
そうだ。琴乃さんが行きたいところに連れて行ってあげればいいのではないか。
「琴乃さんが行きたいところに行きますよ」
私がそう言うと、琴乃さんはちょっと困った顔になった。
「行きたいとこ……」
そこで私は気がついた。そうだ、この子は京都の出身ではなかったのだ。更に私も京都に不慣れだった。それに舞妓さんを適当なところへ連れ歩くわけには行かない。彼女たちには格式があるから、コンビニやファミレス、遊園地へ行くなどもってのほかだろう。
「あー、ごめんね。困らせちゃったかな」
「いえいえ、えらいすいまへん。うちが行きたいのはファミレスか遊園地ぐらいですから、一瞬止まりましたわ」
あ、お認めになりますか……私が呆けていると、琴乃さんは赤い目尻でいたずらっぽく笑った。
すると配膳をしに来たお母さんが横からこんなことを言う。
「琴乃はん、日本髪解いたらファミレスでも遊園地でも、行ってええわよ」
え!と、私はびっくりする。
「ほ、本当に……?」
「相手が貴美子はんだからええんやわ。絶対変なことせえへんやろ」
男性客がいないからこそ、オフレコのような会話が成り立っている。琴乃さんは今まで見たことのない幼い表情になって、私に視線を移した。
「貴美子はん。それやとお着物やのうて、洋服になってしまいますが……」
それはそうだ。舞妓さんを同伴して連れ歩くのは、彼女たちが日本髪にお着物で来てくれるから人気なのだ。しかし。
「行ってくれるんですか!?」
私はむしろそれを喜んだ。贔屓している琴乃さんの私服や素顔が見られるなんて、むしろご褒美である。琴乃さんにも笑顔が浮かんだ。
「貴美子はんがええて言うならええわ。たまには琴乃はんも、町の流行を押さえとかなな」
かしくのお母さんはそう言って、ふふふと襖を閉めた。
「わー、貴美子はんおおきに。こんな機会、なかなかないわ」
「やっぱりそうなの?舞妓さんだってまだ年齢的には高校生とかなのに、どこにも行けないのね」
宝石のような懐石弁当も、きっと芸舞妓さんたちは毎日飽きるほど食べているのだろう。そしていつもお客さんが頼むものを食べているから、好きなものなどほとんど食べられないのだ。
私は琴乃さんと次回の約束をすると、地方さんを呼んで琴乃さんの踊りに見入った。
彼女の舞妓としての姿を堪能すればするほど、次に私服で会う時の高揚感が得られると言う寸法だ。
一週間後。
私は駅前で琴乃さんと待ち合わせた。
琴乃さんは着物を脱ぎ捨て久々に日本髪を解き、黒い髪をひっつめにして白いシャツワンピースを着て来た。ウエストにサッシュベルトをしているのが、何だか着物の名残があって面白い。
「えらいお待たせしました」
「琴乃さんの好きなところ連れてってあげるよ。どこにする?」
すると、琴乃さんは緊張の面持ちでこんなことを言った。
「サ、サイゼリヤ……」
「は?」
私は驚いた。そんな安いところでいいのか。舞妓さんはお客さんに連れられて京都じゅうの高級料理を堪能し、舌など肥えまくっているだろうに。
「いいの?琴乃さん、そんなんで」
「そんなん……なんてこと、あらしまへん」
琴乃さんはぶんぶん首を横に振った。
「そんなん、がうちらには滅多に食べられへんのです。こんなこと頼めるの、貴美子さんだけどす」
「なるほど。じゃあ……サイゼ行く?」
「やった!」
私はルンルンの琴乃さんと連れ立って歩き出す。まるで娘を連れている母の気持ちだ。
琴乃さんは本当に興奮していた。
「ネットで見て、ずっと来てみたかったんどすっ」
えー?という言葉を飲み込みながら、私は琴乃さんとサイゼリヤのメニュー表を眺めた。
琴乃さんはマルゲリータピザとコーンスープを頼んでいた。
「舞妓の格好やとこんなんは汚すかもしれんから、よう食べられん」
「確かに、そうだね」
笑い合ってから、琴乃さんは静かに言った。
「正直、懐石料理も毎日食べれば飽きます。常連さんに連れて行ってもらう懐石もフレンチも、だいたいがすごい肩書の方とばかりの食事になりますから、うち、最近食事の場で力を抜けたことがないんどす。力を抜かんと、味って分からなくなるもんやさかい、もうしばらく〝味わう〟ってことをせんでおりました」
ふーむ、力を抜いた食事、か。
「いっつも味なんて分からしまへん。でも貴美子はんの前やから、今日は味わうことが出来てるんどす」
んまーこの子ったら、また私を掌の上でころころ転がすんだからぁ。
すぐに料理はやって来た。琴乃さんは本当に美味しそうにそれを口に運んだ。正直、お座敷で彼女のこんな笑顔を見たことはほとんどない。普段の苦労が偲ばれた。
この子はいつでもハレの日の役を担っていて、誰かにハレの魔法をかけている。その魔法使いの魔法を解くのが、このサイゼリヤという日常。誰もが知っているレストランなのかもしれない。
「貴美子はん、デザートも貰てええかしら?」
「……おあがりやす」
子どもみたいにキラキラした目で、サイゼのベルを鳴らす琴乃さん。ああもう、いじらしい。どんどん頼めどんどん。
目の前の琴乃さんの魔法が解けて、ひとりの少女になって行く。着物も日本髪も脱ぎ捨てた女の子に。
私はそれを眺めながら、ちょっとだけ自分の料理や食材に対する態度を改めた。ハレの食事にばかり気を取られていたけれど、食事って本当はこういうものなんだよね。平和で、気取っていなくて、いつでも安心して食べられるもの。それが最高の食事。
一番〝日常〟の大切さを知っているのは、彼女たちのような芸舞妓さんなのかもしれない。
「ああ~美味しかった」
琴乃さんはお腹いっぱいになったらしく、満足げだ。
「力が抜けました。ずっと、食べたかったものを食べられましたから」
そっか、力が抜ける料理こそ、いいものなんだね。
私、勘違いしてた。気合入れて食べるものが至高の料理だなんて──
「さ、次は遊園地に行きますえ!」
きっと遊園地には、懐石料理なんてない。あるとしたらポップコーンとかソフトクリームとか、そんなのばかりだ。
琴乃さんは、世界の誰よりもそれを楽しむんだろうな。
フードライターが決して書くことのない、地味で日常的な食事を。
気づけば、私は今日は一日中スマホを開いていなかった。高級食材や懐石料理でいっぱいだった頭は、サイゼに行ってからすっかりリセットされてしまったらしい。
私もサイゼに行って、琴乃さんみたいに久々に肩から力が抜けたのかもしれないな。
何も考えずに食べられる幸せが、確かにそこにはあった。