マスク警察(9)
<37>
そうか、さっきから感じていた、私への周りからの冷たい視線。今日、私はマスクを着け忘れてきている。
通勤電車の中、伊藤潮見(29)は、冷や汗をかく。彼女は普段から、ちょっとした失敗が多い。所謂おっちょこちょいの性格なのだ。先日も、ヨガ教室で、他人の靴を履いて帰宅してしまった。自分の靴とは似ても似つかない色とデザインなのに。しかも、それに気づいたのは翌日だった。携帯電話をどこかに置き忘れるのは、日常茶飯事。財布もしょっちゅう無くしている。そもそも自分の部屋もモノが溢れていて、何がどこにあるかも分からないような有様である。それでも、このご時世だ。彼女もマスクは一番に気を付け外出時は、忘れずに着けていた。昨日までは。
予備のマスクでもあれば良いが、自分のカバンをいくら探してもテンパった時のドラえもん宜しく、役に立たない物ばかり出てくる。彼女はため息をついた。いつもそうだ。肝心な時に肝心なものを忘れる。これは一生治らないかもしれない。でも、そのことが自分で分かっていたから、忘れないように、玄関に張り紙をして忘れ物を防いだり、カバンの中に忘れた時用に、予備になるものを積めておいたのだ。自分なりに対策をしていたつもりだった。
昨日、いつも使っているカバンから、新しい鞄に替えた時だ。中身も全て入れ替えたつもりだったが、入れ替える際に、マスクを入れ忘れたらしい。周りを見渡すと、自分の周りで、マスクををしていない人など誰も居なかった。マスクを着けていないだけなのに、まるで下着姿で外出しているような気分になる。彼女はだんだん悲しくなって悔しくなって、泣きそうになってきた。
その時、「これどうぞ。」隣の女性が、新しいマスクをカバンから出して渡してくれたのだ。「いいんですか?」彼女は既に涙声だ。「予備で持っている物なので、使ってください。実は、以前私もマスクを忘れたことがあって、同じように知らない方に頂いたことがあったんです。だから、今度は、自分が誰か困っている人が居たら、渡せるようにって、何枚か予備のマスクを持ち歩くようになったんですよ。お役に立てて良かったです。」彼女は、隣の女性に感謝した。そして、この素敵な親切の連鎖を自分も誰かに繋ぎたいと、思った。
<38>
「アスカ保育園」の園長である、小柳郁郎太は、ずっと悩んでいた。
竜崎智也にもらった薬の内容はたぶん違法的なものだ。これを警察に通報し、薬と竜崎について捜査してもらうか。ただ、藤丸先生に分析のため渡した分と、自分が実験に使った分で、もう手元に薬は無くなっていた。警察に相談するならあの薬が必要だと思った。薬の現物が。しかし、このまま警察に通報せず、あのサウナへも私が行かなければ、竜崎に遭わずに私は、ずっと平和に過ごせるのだろうか。
いや、違う。もし分析をお願いした藤丸先生が、竜崎と繋がっていれば、自分が薬の成分を疑っていることがバレている。そうなれば自分は竜崎に、何をされるだろうか。竜崎の正体は不明だが、場合によっては、命を狙われることもあるのだろうか。
気になる事は、もう一つ。ここ一週間くらい、気のせいかも知れないが、誰かに監視されている気がするのだ。私が竜崎にマークされているのだろうか。竜崎が私をどうにかするタイミングを虎視眈々と狙っているのだろうか。悪い想像は、どんどん膨らみ、睡眠もうまく取れない。
藤丸先生に薬を分析してもらった時から私の運命は変わってしまったのか。いや、あのサウナで竜崎という男に遭った時から、捻じ曲げられてしまったのか。どちらにせよ、運命の列車は既に走り出している。だったら、自分から飛び込むか。あのサウナに行って竜崎に遭い、薬をもらって警察に届けるか。
そもそも私は、そんなに正義感のある人間だとは思っていない。ただ、私は子供たちを愛している。子供たちにとっての輝く未来を望んでいる。そして、その子供たちの未来にあってはならない、ふさわしくない危険な薬。これを未来に残していっていいのだろうか。そんなの良い訳がない。排除しなくてはならない。私は、子供達の未来のために、今戦わなくてはならない。乗り込もう、あの場所へ。もう一度竜崎に会って薬を譲ってもらおう。最悪、私の身に何かあったら、警察に動いてもらえばいい。私は気持ちを決めた。
事務仕事を終え、小柳が2Fの園長室から1Fに降りてくると、外はもう日が暮れているというのに、職員室には、明かりが灯っていて、職員がまだ誰か残っているようだ。職員室を除くと、保育士の遠藤佐紀が一人で事務仕事をしていた。
「お疲れさま。遠藤先生。まだ残っていたんだ。」小柳が声をかけると、遠藤が振り返った。
「お疲れ様です。園長先生こそ、今日も遅いんですね。たまには早く帰って、体を休めてください。」
「そうしたいんだが、色々考える事があってね。」小柳は、遠藤先生に珈琲を淹れてあげた。
「園長先生って色々大変ですよね。特にこんなご時世だし。」
「僕だけじゃないよ。遠藤先生たち、保育士にも負担をかけていると思っているよ。毎日子供たちの為とはいえ、リスキーな仕事をしてもらって、本当に感謝しています。」感染症を考えながらの保育は、想像以上に大変なことだ。小柳の心の底からの言葉だった。
「私たちは、本当に子どもたちが大好きなんです。それだけで出来る仕事じゃないですけど、子供が好きじゃなかったら、本当に大変な仕事だと思います。だから、たまには、自分の為に体を休めることも必要だと思います。園長先生、サウナには最近行っているんですか。」
「それが、最近行けてないんだよねえ。」「サウナに行って一度、整ってきた方がいいですよ」
「明日は、少し早く上がれそうだから、行ってこようかな。」
「そうしてください。私たち保育士も園児達も園長先生の疲れた姿は、見たくないですから。」
「・・・ありがとう。遠藤先生。」
〈39〉
穏やかな昼下がり、デュークとツカサは、アスカ区内をパトカーでパトロール中だ。
「なんだかポカポカして、眠くなちゃうなぁ。」助手席のデュークは、昼食を摂った直後という事もあり、眠気が襲っているようだ。「先輩、眠らないでください。運転替わりますか?」ツカサが不機嫌になる。
「昼飯食べ過ぎたなぁ。セットにしちゃったもんなぁ。ラーメンだけでよかったなぁ。」
「先輩、ちょっと食べ過ぎですよ。」
「そういうツカサもラーメンセットだったじゃん。餃子と半チャーハン食べてたじゃん。だから先輩として負けられないじゃん。」ツカサはラーメンセットをペロリと平らげていた。
「先輩と私では、新陳代謝が違い過ぎますよ。私はたくさん食べても体が燃焼してくれるけど、先輩くらいの年齢になると、食べた分だけ脂肪がついちゃいますよ。気を付けてください。先輩の唯一の長所の素早い動きが鈍っちゃいますよ。」
「唯一の長所ってなんだよ。他に良いところ無いのかよ。あと、さっきチンチンって言った?」
「言ってないですよ!小学生ですか。このド変態!!」
「あ~、もっと言って~。もっとひどい言葉を~。プリーズ。」デュークは体をくねらせる。
ツカサはガン無視状態へフェーズする。
片道2車線の道路を、軽自動車が、法定速度オーバーで、パトカーを追い抜いて行った。
「先輩、20キロオーバーです。切符切りますよ。」「ふがっ。」
「先輩!静かになったと思ったら、寝てたんですね。」ツカサがブチ切れる。
「寝てないよ~。お花畑で、妖精さんとお話ししてたんだよ~。」
「しっかり夢まで見てるじゃないですか。とにかく、あの軽自動車止めますよ。」
「はい、喜んで~。」「居酒屋かっ。」
ツカサがパトカーのマイクで、違反車両に呼びかける。
『黒のワゴンRの運転手、車を路肩に止めてください。』
軽自動車は、素直に路肩に止まった。
運転手は、30代女性だった。助手席に乗っているのは、彼女の子供だろうか。小学生低学年の女の子が怯えた顔で、私たちを見ていた。
「お嬢ちゃん大丈夫だよ。怖くないからね。ちょっとママにお話聞くだけだからね。」デュークは、そう言って、母親だけを、降車させた。
デュークは、女性の免許証を確認する。
「お母さん。この道路は、40キロの制限速度だけど、今、60キロ出てたね。」
「ごめんなさい。少し急いでいて・・・。」彼女は反省しているようだ。このまま反則切符を切れば、反則金は、¥15,000だ。デュークは、少し考えてから、ツカサを呼んだ。
「ツカサ、パトカーにマスクの予備があったよな。10枚持ってきてくれ。」「分かりました。」
ツカサが、不織布のマスクを10枚持ってくると、それを母親に渡した。
「お母さん。今日は、特別に、反則切符の替わりにマスクあげるから使って。安全運転で帰ってね。」
女性は、きょとんとした顔で、デュークを見た。「え、良いんですか。」
「今日は、ラッキーデーです。私の気が変わらないうちに、行きなさい。急いでいるんでしょ。」
「ありがとうございます。済みません。」女性は、深々と頭を下げて、車に乗り込むと、娘とともに、去っていった。
彼女の車を見送った後、ツカサがデュークに聞いた。「先輩。良いんですか。切符切らなくて。」
「ツカサも彼女と、娘のマスクを見たろ。あれは、何度も洗濯した布製マスクだ。とうに使用限度を超えたものだ。恐らく、厳しい状況の中、あの母親が女手一つで、あの子を育てているんだろう。それを考えたら、反則金を取るのが、気の毒でな。確かに速度違反は、ルールを破っている。でも、正論だけが正義じゃないだろ。」
「先輩、優しいんですね。」「いや、お母さんが、私好みの美人さんだっかたらな。」「うぉいっ!!」ツカサが変な声で突っ込んだ。