マスク警察(6)
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私は、小柳郁郎太38歳。アスカ保育園の園長をしている。前園長は私の母で、息子の私が譲りうけた形で、園長になった。今思えば母は努力の人だった。この園を愛し、園児を愛し、保育士を愛し、長い年月を掛けて地域でも評判の保育園を真心込めて育ててきた。毎年入園を希望する園児たちが溢れ、園の経営は安定していた。
しかし、私が園長になった年に、未曽有の感染症によるパンデミックが起こった。病院や、お年寄りが暮らす施設、保育園や幼稚園など、様々な施設で、クラスターが起こった。この園は、早めの感染防止対策で、クラスターが発生することは無かったが、園児を通常の半分に減らしたり、感染対策に掛かる莫大な経費が重なり、大幅な経営改善が必要になった。現在は、保育士の人員を削減し、人件費を減らすなどして、何とか経営を続けている状態だ。
園長である私は、園内の感染対策、園児のケア、保育士のケア、そして何よりも、この終わりの見えない、感染症の脅威に、ストレスを抱え、それを解消できないまま毎日を過ごしていた。
私は、このストレスを解消するため、あらゆる事を試してきた。ランニングや、筋トレで体を鍛えたり、ドライブをしたり、ひとりキャンプをしてみたりした。いろいろ試したが、これは、というものに出会えないままストレスだけが溜まる日々を過ごしている。そもそも人と一緒に酒を飲んだり、大勢でBBQを楽しんだりと、このご時世出来ないことが好きだったため、そもそもひとりで何かしても気が晴れないのだ。
友人に誘われていったサウナでも、私のストレスは一向に消える兆しはなかったが、一定量の汗をかくことで、何もしないよりはましというレベルで効果はあり、運動するよりも手軽だったので、仕事終わりに利用することが多くなった。このサウナの習慣が今の私の精神をギリギリ持ちこたえさせてくれる最後の砦のような存在であった。
その日もいつものように、仕事帰りにアスカ区にある行きつけのサウナ施設を利用していた。サウナと水風呂を往復する3セットを行うのが、いつもの私の利用の仕方だが、3セット目のサウナから水風呂に向かう途中で声を掛けられた。
「タオル、落とされましたよ。」身長は、185センチくらいだろうか、細身だが、日ごろから鍛えていると思われる筋肉の付き方をしている、いわゆる細マッチョの体形の男性だった。年は、30代後半だろうか。髪は短くカットされていて、眼光が鋭かった。普通のサラリーマンではない感じだ。私はお礼を言い、一緒に水風呂に入った。
「何か、心配事がおありですか。」私の様子を見て、彼が、声を掛けてきた。優しく、しかし力強いその声に私の心は融解し、仕事の事や最近の自分の精神状態など、今日初めてあった男に、いろいろ話してしまった。彼は聞き上手で、タイミングよく相槌を打ってくれたり、心配そうな顔をしてくれたり、自分の心に寄り添ってくれている安心感があった。よく考えれば、自分には、こんな風に悩みを打ち明けて相談に乗ってもらえる存在がいなかったことに今更気づいた。悩みを聞いてもらえたことで、だいぶ気持ちが晴れている自分に気が付いた。
彼は、竜崎智也と名乗った。貿易関係の会社を経営しているらしい。小さな会社だと謙遜していたが、着替えをして出てきた彼は、全身高級ブランド物でコーディネイトされ、時計も家が一軒買えるような高額なものを身に着けていた。
「よかったら、これどうぞ。」別れ際に、彼が小瓶に入った薬を渡してきた。様々な効果があるサプリメントだと説明してくれた。彼の会社で輸入している商品だそうだ。高価なものらしいが、私に同情してくれたらしく、無料で譲ってくれた。
「私はいつもこのサウナに居ますので、薬がまた欲しくなったら、いつでも声を掛けてください。それと、この瓶は中の薬の効果を持続させる特殊な瓶です。他の容器に移し替えないようにご注意を。」そう言って、白い高級ミニバンで去っていった。これが私と竜崎智也の最初の出会いだった。
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時刻は23:30を過ぎていた。OLの君津さくら(26)は、家路を急いでいた。
普段から残業の多い職場だが、此処まで遅くなるのは稀だ。月末の忙しい時期に、同じ職場内で、ワクチン接種のため、2名の欠勤があり、普段自分が扱わない仕事まで、手を回さなければならなかった。何とか同僚と協力し、目途をつける所まで進める事が出来たが、帰りがこんな時間になってしまった。
最寄りの駅までの電車には、間に合ったが、駅から自宅までのバスは終了していた。駅のロータリーにタクシーが何台か止まっていたが、歩いて15分の距離という事もあり徒歩で、帰宅の途中だ。
「ケチらないで、タクシー使えばよかったかなぁ。」普段の時間帯と違い、道を歩く人はほとんどいない。静かな街に自分のヒールの靴音だけが、コツコツと夜の闇に響いていた。君津さくらは、不安を抱きながら歩き続けた。住宅街を抜けると、道の左手に広めの公園がある。住宅地と駅の間にあるこの公園は、通勤通学時間には、大勢の学生や勤め人が、自転車や徒歩で、近道としてショートカットする場所である。
「ここを突っ切ると、近道なんだけど・・・。」いつのも帰宅時間なら、人通りも少なからずあり、躊躇なく通れるこの公園も、この時間だと暗くて薄気味悪く、女性一人で通るのには勇気がいる場所になっていた。
君津さくらは、公園の入り口で、立ち止まり、公園を突っ切ろうか、公園の周りの明るい道を通って帰るか悩んでいた。
「そういえば。」彼女は、今朝TVで見た占いを思い出していた。おとめ座の順位は最下位で、今日一日を振り返ると当たっているなと思った。しかしラッキーフードがバナナで、ラッキープレイスが公園だた。「公園で、素敵な出会いがあるかも?」なんて言ってたっけ。
「よし、占いを信じて公園をダッシュで突っ切ろう。」心を決めた君津さくらは、公園内に走っていった。しかし、高いヒールで、ダッシュをするのには無理があった。数十メートル走ったところで、足首をひねってしまった。
「全然ラッキープレイスじゃないじゃない。」ぶつぶつ文句を言いながら、公園の中央部まで歩いてきた。公園の中央部には噴水が出る小さな池がある。
左手には、滑り台やブランコ、砂場などが備えてあり、子供たちが遊べるスペースになっている。そのブランコに誰か座っている。始めは暗いので目の錯覚かと思ったが、だんだん近づくにつれ、目が慣れてくると、男性が座っているのが分かった。
気味が悪いと君津さくらは思った。もし、サラリーマン風の姿の人がブランコに座っていたとしたら、彼女は、こんなにも、この光景を不気味に感じていなかっただろう。帰宅中のサラリーマンが、日々のストレスを、このブランコに乗るという行為で、解消しているのかもしれない。そんなことを彼女は想像できた。
しかし今、目の前でブランコに乗る40代と思われる男性は、全身体操選手が着用するユニフォームを着ていた。しかも最近の選手が来ているそれではなく、昭和の時代の選手が来ていたような上下白のヤツだ。もうその光景は、違和感しか感じなかった。過去からタイム・リープして来たわけでもないだろう。
彼女が噴水池を通り過ぎようとした時、体操選手が、ブランコを降りた。そして次の瞬間。自分のいる方に思い切りダッシュしてきたのだ。彼女は驚いた。驚き過ぎて身動きが取れず声も出なかった。体が硬直した。体操選手は、身動きの取れない彼女に向かって側転を始めた。2回、3回と回り、次の瞬間体操選手の体は、彼女の頭上にあった。回転しながら空中で体をひねり、立っている彼女を飛び越えたのだ。
その跳躍力は、TVで見る体操選手の床の演技のようであった。いや、実際に体操選手の演技を見たことは無かったが、跳躍力だけならオリンピック選手以上、いや、人間の限界を超えているように見えた。彼女を飛び越えた体操選手は、何事もなかったように彼女の方に向き直った。そして笑顔を見せ、こう言った。
「体操選手になるのが、夢だったんです。」その時彼女は思った。これは、夢なのかしら、と。想像を絶するこの状況に、彼女の思考回路は、バグり始めていた。月明りで見える体操選手は、改めて見るとマスクを着けていなかった。ユニフォームの胸には、「なかもと」とマジックで書いてある。
「私の話を聞いてもらえますか。」ナカモトが、話しかけてきた。彼の表情は、異常だった。笑顔なのだが、鬼気迫っていた。例えるなら、竹中直人の笑いながら怒る人だ。君津さくらは、これは相手に従わないと、何をされるか分からないと判断した。心とは裏腹の返事をしないといけないと思った。時刻は、23時30分を過ぎている。本当は、一刻も早く家に帰りたい。足首が痛いし、心も体も疲れ切っている。早く家でシャワーを浴びて柔らかなベッドに横になりたい。人は様々な理由で嘘をつく。彼女は今、自分の身を守るために嘘をつく。
「はい。聞かせてください。」君津さくらの声は震えていた。そんな彼女の様子には、お構いなしにナカモトは陽気に話し出す。
「ありがとうございます。決して怪しいものではないんですよ。」お前以上に怪しい奴は、今までの人生で見たことがない、と思いながら君津さくらは頷く。
「小さいころから、体操選手になりたかったんです。オリンピックに出るのが夢でした。」ナカモトは、続ける。
「小学校から体操を始めまして、日々の厳しい練習で、中学校の頃には全国大会に出られるレベルまでになったんです。周りの人間にも期待されました。でも、そこまでが私の限界でした。その後、大きな怪我もしてしまいましたし、オリンピックの選手にはなれませんでした。」
「はい。」君津さくらは、力のない返事をする。彼女にとって、世界一興味のない話だ。
「私はその後、普通の会社に就職し、普通のサラリーマンになって、普通の生活を送っていました。」私にも普通の生活をくださいと、君津さくらは思った。
「ある時、TVで、オリンピックの体操選手を見た時、思ったんです。やっぱり自分もこの彼らと同じ舞台に立ちたいと。」ナカモトは興奮してくる。
「そんなときに、この薬に出会ったんです。」ナカモトの手には、小さなビンが握られていた。
「パイザー製薬の、≪ビーナス・サイマティクス≫です。マスクをしても息苦しくならない画期的なサプリメントです。」そもそも貴方、マスクしてないじゃん、と君津さくらは思った。
「このサプリの効果はそれだけじゃない。先ほどの私の跳躍力を見ましたよね。そうなんです。身体能力も飛躍的に向上します。これには、個人差がありますが、マクロミル調べで、78%のユーザーがその効果を実感しています。」マクロミルは、そんなことまで調べてるのか、と感心する君津さくら。
「今なら通常価格、1瓶3万円のところ、キャンペーン価格で¥9,800。しかも初めてご購入の貴方ならプラス1瓶サービス。」君津さくらは思った。とても、お買い得だと。
「そして、この商品を他の2人以上にお勧めすると、貴方にも利益が発生するんですよ。」え、お金を稼ぐことができるの?君津さくらは思った。
「君ならできる!!」君津さくらは思った。私はできる、と。
「君に見せたい演技があるんだ。」彼女は、そう言われ、私で良いんですかと思った。完全に思考回路がバグっていた。次の瞬間体操選手は、彼女の後方に向かってさっきのように、ダッシュを始めた。今度の演技は、大技らしく、さっきよりも助走が必要なようで、彼女との距離が数十メートル離れた。その時、君津さくらは、我に返った。
「あ、今なら逃げられるかも。」彼女は、ヒールを脱ぎ捨て、さっき足をひねったことも忘れて、全力疾走で、公園の出口へと向かった。深夜の公園を夢中で、彼女は走った。走って走って走りぬいた。こんなに全力で走ったのは学生時代以来だ。ようやく公園の出口が見えた。公園の出口には街灯が設置されある程度の明るさがある。そこまでいけば自分は助かると思った。
公園の出口に到達した彼女は、息を切らし、その場にへたり込んでしまった。ナカモトの気配は近づいて来ない。彼女は助かったと思った。ほっとした次の瞬間彼女は後ろから声を掛けられた。
「大丈夫ですか。」ナカモトかと思って彼女の体は、ビクっと震えたが、彼女がゆっくりと見上げると、その声の主は別人で、グレーのスーツを着たサラリーマン風の男性だった。彼女はやっとまともな人に出会えたと思い、ほっと安堵した。
「今、変な人に絡まれてしまって。」君津さくらは少しずつ我を取り戻しつつあった。
「それは、大変でしたね。」サラリーマン風の男性の声が、優しくてとても心地良い。君津さくらは思った。今朝のTVの占いで、言っていた、公園での素敵な出会いとは、この人との出会いなのではないかと。さっきまでの異常な状況を脱した今の状況で、この人に恋をしてしまうかも、と君津さくらは思った。改めて、彼の顔を見ようと顔を上げると、こちらを見つめてほほ笑む優しい顔があった。しかし、その視線を少しずつ下げていくと、股間のあたりに違和感を感じた。よく見ると、月明かりに照らされた、ヌラヌラと黒光りするイチモツがそそり立ち、露になっていたのだ。
「あ、気づかれましたか。私の黒光りバナナ君です。」男は、自分のイチモツを紹介した。君付けで。
「イヤー!!!!!」君津さくらは、立ち上がり、再び走り始めた。君津さくらは、自分の家ではなく、交番に向かってダッシュした。君津さくらは全力で走りながら不安になった。私は、今日のこの出来事をきちんと説明できるだろうか。警察は私の話を信じてくれるだろうか。そして、あの占いのTV番組は2度と観ないと心に誓う、君津さくらであった。
<22>
「先輩。このマスクどうですか?昨日買ったんです。布製でフリルが付いて可愛くないですか?」ツカサは、前日マスク専門店で買ってきた新しいマスクをデュークに見せていた。
「ああ。」
「全体的に淡いピンク色で、私に似合ってると思うんですけど。」さらにツカサはアピールするが、デュークの反応は薄い。
「ああ、・・・そうだね。」
「ちょっと先輩。反応薄くないですか。ちゃんと見てます?可愛いでしょ?」デュークは、ツカサのマスクをちらりと見ただけで、手元の資料から目を離さない。
「何、見ているんですか?」ツカサも資料が気になる。
「先日公園で、不審者に絡まれたという女性の調書を見ていたんだが。また例の薬≪ビーチク≫を不審者が服用していた可能性があるらしい。しかも被害の女性に購入を促してきたらしい。」君津さくらの件だ。実害はなかったが、注目の薬品≪ビーチク≫が使われていたこともあり、彼女には丁寧な聴取が行われていた。この薬品に関しては、サンプルも少なく、製造元や、販売元の特定が進んでおらず、彼女の経験は、警察にとって、貴重なものだった。
「それより、ツカサ。先日の首相イベントの警備計画担当者は誰か分かったか?」
「それが、ネットワークでアクセスしようとしたら、アクセス制限がかけられていて、確認できませんでした。」「そうか。だろうな。」そう言いながらも、デュークは手元の資料から目を離さない。
「その資料なら、私も見ました。証拠の残るネット通販をやめて、所謂ねずみ講で、販売ネットワークを広げているのかもしれませんね。それより、このマスクどうですか?」ツカサは引き下がらない。
「そのマスクな。」デュークがやっとツカサを見た。
「なんだか、フリルが下着みたいで、エロくて。うん、イイゾ。」その答えは、ツカサの期待していたものではなかった。
「先輩。サイテーです。」