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認知の消失

作者: さんしあ

「ふあぁ…」


朝、目が覚めるとすぐみのるは顔も洗わずに食卓に着いた。何とか目を覚まそうと寝ぼけ眼を擦るが、頭の中の靄のようなものが取れる気配は一向に無い。そのうち稔は諦めて目を瞑り、机に座りながらボーッと意識をどこか遠くへやろうとした。


「おはよう」


食器が強く机に置かれた音を聞いて、稔は肩をピクリと震わせる。

目を瞑っていてもわかる、珈琲の仄かに甘い香りが全身を包み込む。


「あ、おはよー、お姉ちゃん」


稔は目の前に置かれた熱いマグカップを手に取り、フーフーと息を吹きかけ、珈琲をそっと舌で舐めた。


「う…にが…」

「あはは」


稔がコーヒーを飲む様子をみて軽く微笑む彼女は、稔の姉で、名前はまことという。


「早く着替えないと、遅刻するよ」

「うん、これ飲み終わったら、行くよ」


眞は、空になったマグカップを片付けたあと、前髪をさっと整えた。去年初めて着たばかりの黒いスーツがもうすっかり馴染んでいて、警察官になった彼女は、昔に比べてより一層大人びてみえる。


「いってらっしゃい、お姉ちゃん」

「いってきます」


稔が手を振ると、眞は振り向かずに挨拶だけ返して、リビングから出て行った。両親のいない柊家にとって、この朝は見慣れたものだった。


一人になった稔は、トーストに一欠片のイチゴジャムを塗り、口に頬張りながら席を立った。


急いでシャワーを浴び、濡れた髪をドライヤーで乾かしてアイロンで整える。

こういうとき、ボサボサの髪で学校に登校してくる男子が本当に羨ましく思える。ふと頭に、昨日授業中に居眠りして怒られた男子の顔が浮かんだ。涎を垂らした間抜け面を思い出してクスリと笑う。


制服を着て、化粧セットが置いてある机の前に座る。そして未だ慣れない手つきで化粧をする。


「よし、ばっちり」


化粧を終えて、色んな角度から鏡に映った自分を見た後、稔は独り言を呟いた。


稔の少し子供っぽさの残る笑顔と、その清純で優しそう見た目は、男子からの人気も高い。

また、自分の意見を強く主張するようなタイプでもなかったので、苛めに会うことも、人を苛めることもなかった。

なんというか、パッと見どこにでもいるような可愛らしい女の子だ。


「いってきます」


玄関の鍵を閉めて家を出た。今日も学校に間に合いそうだ。


「おはよー」


通学路を歩いていると、後ろから肩を叩かれた。


「おはよう」


見知った声に、稔は振り返らずに挨拶した。ショートヘアの女の子が稔の隣に並んで歩き始めた。身長は稔と同じくらいだ。


「今日は朝練、無いんだっけ。沙耶」


稔が話しかけると、沙耶と呼ばれた女の子は肩を項垂れて下を向いた。


「いつもどおり、起きたらこの時間だったの」

「あはは」


慰める言葉も見つからず、稔は愛想笑いを返した。この少女は柏木沙耶、バスケ部に所属しているものの、遅刻癖も相まって顧問から余りよく思われておらず、試合中コートに入ることは少ない。


彼女は稔の一番の親友だった。面倒くさがりだけどいつも明るく、誰とでも分け隔てなく接する、クラスの人気者だ。そんな彼女が稔とよく一緒にいてくれることを、稔は嬉しく思っていた。


「宿題、やってきた?」


沙耶は稔の言葉にビクッと肩を跳ね上がらせた。きっと忘れていたのだろう。


「見せてあげるから、落ち込まないで」


そう稔が助け舟を出すと、沙耶の眼がパァっと輝いた。稔は沙耶の屈託のない笑顔がたまらなく好きだった。宿題を見せたら人の為にならないなんて言葉は、どこか知らない国の大人の言葉だ。困っている人を見たら助ける。そんな言葉の方が、少女たちの胸をより弾ませた。


何気ない会話。何気ない日常。そんな当たり前が、稔は心地良かった。稔はそんな日常が大好きで、こんな日々がずっと続けばいいなと思っていた。


今日も、いつも通りの楽しい生活が待っている。そう思っていた。


その日の放課後だった。


帰宅部の稔は、部活に向かう沙耶と教室で別れて、一人で帰路に着いた。


今日の稔はいつになく明るかった。というのも、帰って来た中間テストの結果が思っていたよりも良かったのだ。テストの点数が良かったときは、姉の眞が、ご褒美として好きなものを何でも買ってくれる。稔は嬉しさを抑えきれずに思わず笑みが零れる。


稔はキョロキョロあたりを見渡して、周囲に誰も居ないことを確認すると、ピョンピョンと小さくスキップした。


小鳥のさえずりが聞こえてくる。

その日は、いつになく快晴だった。


「どこか遠回りでもしていこうかな」


帰り道、何というわけでもなく、ふと近くにある森の中を散歩してみたくなった。稔の住んでいる場所は、都会とは離れていて、未だ自然が多く残っている。


森を見ていると、小学生の頃、危ないからはいってはいけませんと先生に言われたことを思い出す。


昔、沙耶とよく二人でこっそりと何度か探検したなぁ。もし木陰からお化けが出てきたらどうしようって、ドキドキしたことは今でも懐かしい思い出だ。それに、いけないことをしているというスリルが、より一層当時の稔を楽しませた。


稔は懐かしくなって、森へと向かっていった。


森の入り口からそっと中をのぞく。地面には落ち葉が絨毯のように敷き詰められ、昼だというのに少し薄暗い。


稔は一歩、森の中に足を踏み入れた。パキッ、と枯れた木の葉を踏んだ音が耳に響く。一歩、また一歩と森の中を進んでいく。


小学生の頃と違って、身長も伸びた。昔はあんなに怖かったこの森も、今ではすっかりと居心地のいい場所だ。小鳥の囀りに耳を傾ける余裕さえある。


さぁ、どこまで行こうかな。

稔が歩き始めたそのとき、


「う…」


突然のことで、稔はドキリとして震えあがった。


何処かから、声にもならないほどの小さな音が聞こえてきた。低い男の声だった。


初めは聞き間違いかと思った。風が人の声に聞こえただけなのかもしれない。


でも、もし人の声だったら、そんな気持ちがどんどん強くなっていく。体全体が心臓になったみたいに、鼓動が激しく高鳴る。


もしかしたら誰かいるのかもしれない。もし重症を負っていて動けなかったら。


そんな人を放っておけばそれこそ死んでしまうのではないか。そうなってしまったら、稔は見殺ししたことになる。


そう思うと、居てもたってもいられなくなり、怖いという気持ちをグッと抑え込んで、稔はもう一度森の中へと足を進めた。


息を止めて、ゆっくりと歩いた。


さっきまで薄暗いながらもどこか懐かしい哀愁の漂う森だったのが、今ではすっかり昔のような、不気味な密林に変わり果ててしまっていた。


稔は辺りを何度も見渡しながら、最大限に注意を払いながら声のした方へと歩いていく。落ち葉を踏む自分の足音がやけに大きく聞こえてきて、森の騒めきがより一層恐怖を掻きたてる。先ほどの浮かれていた気持ちは、もうとっくに何処かへと飛んでいってしまっていた。ただ、破裂しそうな胸を抑えて、ゆっくりと歩く。


「あ…」


声のした方に歩いていくと、全身黒いスーツの倒れている男を見つけた。稔は、ゆっくりとそれに近づいて、近くでしゃがんだ。


男は眉間に皺を寄せながら眼を閉じていた。黒いスーツと髪の毛は土で汚れ、地面の落ち葉は血で赤く染まっている。


「大丈夫ですか!」


こういうとき、稔はどうしてよいのか全く分からなかった。けれど、どうにかしないといけない。


闇雲に動かしたらダメって先生言っていた気がする…。ああもう、保険の授業、ちゃんとしっかり聞いておけばよかった。


とにかく、呼吸があるかを確認しよう。


稔はパニックになりながらも屈んで、じっと顔を覗き込んだ。近くで見ると、整った顔をした男で、不謹慎にも、少し胸がキュンとなった。


「大丈夫ですか…?」


稔はもう一度男に呼び掛けた。


「う…」


男は稔の掛け声で少しだけ意識を取り戻したようで、静かに呼吸していたかと思うと、急に身体を捻って地面に手を付き、力をグッと入れ、無理やり起き上がろうとした。


「あ、あ、動いちゃ駄目です!安静にしていないと…」


稔は慌てて止めようとしたけれど、どこか怖くて手を出すことまでは出来なかった。


男はふらふらと傷口に手をあてながら起き上がり、歩こうとしたけれど、すぐ倒れそうになったので咄嗟に稔は男を受け止めた。誰かに刺されたのだろうか、傷はかなり深そうだ。


「…すまない」


男は低い掠れ声で、小さく礼をした。大きい身体をしていたため、稔には支えるのがやっとだった。稔だって、落ち着いているわけではない。頭はパニックに陥っていたし、今にも気絶してしまいそうなほど、呼吸が冷たくなっていた。


これは誰がどう見たって事件だ。殺人未遂。いったい誰が何のために。


「安静にしていてください。今、警察を呼びますから」


稔の言葉に、男はピクリと反応した。


「警察は、駄目だ」


その言葉を聞いたとき、一瞬違和感を覚えるとともに、男が犯罪者なのではという疑念が稔の頭を過った。そんな稔の考えを理解していたのか、男はふらつきながら、ゴソゴソと自分のスーツを漁り、黒い手帳を取り出して稔に渡した。


それは紛れもない一冊の警察手帳で、眞に何度か見せてもらったそれと全く同じだった。


「柏木…透…」


手帳に書いてある名前を稔は読み上げた。この手帳が本物かどうか稔には判断できない。


「これくらいしか、自分が刑事である証拠は…ないが…、信じて欲しい。怪しい者じゃない。だが…頼む。警察は、止めてくれ…」


肋骨が何本か折れているのか、呼吸することも苦しそうで、途切れ途切れの掠れた声でそう言った。


「でも、このままだとあなたは死んじゃいます…それに、私じゃどうしようも出来ません…」

「…」


男は眉間に皺を寄せて黙った。何か言いたげだったけれど、言葉を吐く余裕すらもないようだった。

その様子を見て、


「わかりました。でも、救急車は呼びますね」


と、稔は言った。


透は暫く黙り込み、どうにもならないと思ったのか、息を一つ吐いた。


「わかった…。ありがとう…。だが頼む、俺の身元は明かさないでくれ…」

「わかりました」


稔はそういうと、少し待っていてください、と、透をそっと地面に置いたあとに、急いで病院に電話を入れた。


電話の向こうの男が、すぐそちらに向かいますと言って通話を切った。救急車が来るまでの数分が、途方も無いほどに長い時間に感じる。


稔はチラリと透と名乗る警察官の方に目をやった。彼は目を瞑り、意識を失っていた。


「奇麗な人…」


稔はそう思った。


救急車が到着して、稔は先ほど透が倒れていた場所まで案内する。


救急隊員は透の脈を確認したあと、そっと担架に乗せた。稔はただその様子をジッと見ていた。


「すみません、あなたにも同行していただきたいので、救急車に一緒に乗っていただけますか」


救急隊員にそう言われ、稔はコクリと頷いた。


揺れる車内で、隣に座っていた救急隊員から、何か彼の身分証のようなものをもっていませんか、と尋ねられた。稔はスカートの中に透から渡された警察手帳があったけれど、


「いえ、何も」


と首を振った。


「何か知っていることがあったら教えてください」

「…いえ、偶然森の中を散歩していたら、うめき声が聞こえてきて、声のする方にいったら、この人が倒れていたんです…」

「その時、他に誰かいたような様子はありましたか?」

「いえ、そこまでは…ごめんなさい、本当に何もわからなくて…」

「…」


救急隊員は、少し黙ったあと、


「…わかりました、ありがとうございます」


と言って、軽く稔に頭を下げた。


「あの、この人、助かりそうですか…?」

「まだ何とも言えませんね…」

「そうですか…」


病院に着くとすぐに救急車を降りて、稔は透の運ばれていった集中治療室の前にある椅子に座った。


もう既に日は沈んでいた。


長い間待った後、中から白衣を着た高齢の男が顔を出した。その男が医者であることは、直ぐにわかった。


「大丈夫です。命に別状はありません」

「そうですか…よかった…」


稔は胸を撫で下ろした。


医者が言うには、コートのお陰で、ナイフの刺さりが浅かったらしい。明日にはきっと目を覚ましているだろうから、見舞いに来てあげてください、と稔に言った。


「この時間だとバスはもう出ていない。タクシーを呼んであげるから、それで帰りなさい。これくらいあったら足りるかな」


医者は稔に数枚のお札を握らせた。稔は医者に丁寧に挨拶をしたあと一人で病院の外に出た。日はすっかりと沈んでいた。


タクシーに揺られて、稔は今日一日の出来事を思い出していた。得体のしれない黒い靄が心の内からジワジワと沸き上がり、まるで稔の全身を包み込むようだった。

家の前で降ろしてもらい、お金を払う。医者からもらったお金では足りなかったので、残りは自分の財布から出した。



大好きだった平凡が遠ざかり、何か不気味な足音が近づいてくる、そんな気がする。


「あ…」


お風呂に入ろうと服を脱いだ時、ポケットの中に、彼の警察手帳があることを思い出した。


もう一度、その警察手帳を開く。詳しくはわからないけど、やっぱり眞の警察手帳と同じもののように思える。


柏木透、彼は一体どうしてあんなところに倒れていたんだろう。


「そうだ、手帳返しに行かなきゃ。明日病院に行こう」


その日、稔は眠れない夜を過ごした。目を瞑っては頭の中に、森の中で倒れていた透のことが浮かんでくる。そうしているうちに、いつの間にか外からチュンチュンと鳥の鳴き声が聴こえてきた。外が少し明るい。


今日は土曜日で学校も無い。結局どうしても寝付けそうに無かったので、やるせない思いで布団から起き上がった。


意外と身体は疲れていなかった。


「今日は早いね」


居間に向かうと、既に眞は起きていて、珈琲を片手に新聞を読んでいた。


「うん、ちょっとね」


稔は、呟くようにそういって席に着いた。お姉ちゃんが新聞を読んでいるの、珍しいなと思いながらも、別段気にも留めなかった。


「今珈琲淹れるから」


そう言って、眞が席を立ってキッチンの方に向かった。


「何か悩みごとでもあるの」


珈琲を淹れながら、普段と様子の違う稔を心配したのか、眞が質問した。


「別に、そういうわけじゃないよ」


稔は言葉を濁らせた。


「ひょっとして、好きな人でも出来た?」


眞はニヤついた顔で稔を見て、珈琲の入ったマグカップを稔の前に置いた。少しは面白い反応をしてくれるのではないかと期待していた眞だったが、稔は、表情を少しも変えることはなかった。


「そんなんじゃないよ、ただ…」

「ただ?」

「…何でもない。ごちそうさま」


稔は、煮え切らない言葉を残したまま、折角淹れてもらった珈琲を一口も飲まずに自分の部屋へと帰っていった。


姉と何を話せばいいのか、わからない。


稔の中でも考えが纏まっていなかった。警察官である姉なら何か透のことを知っているかもしれない。


けれど、警察には言わないでくれという、透との約束を稔はちゃんと守った。


眞にくらいだったら話しても良さそうだなと一瞬思った。けれど、どうしてしまったのだろう。もし眞に話してしまったら。眞も一緒に、もう日常には帰って来ることが出来ないのではないか、そんなよくわからない不安を、どうしても拭い去ることが出来なかった。


その日の午前中に、稔は家を出て病院へ向かった。透の入院している病院は、バスを二度乗り継いで、小一時間程度の場所にあった。これなら時間はかかるけれど、通えない距離ではない。


病院に向かう途中も、心臓のドキドキが鳴りやむことは無かった。稔は何度も自分の胸に手をあてて、スーハーと、深呼吸を繰り返した。暇つぶしに読もうと思って持ってきた好きな漫画の最新刊も、少しも頭に内容が入ってこなくて直ぐ閉じた。


病院が近づくにつれて、心が破裂しそうになる。昨日から、何か変だということは稔もわかっている。


ただ、この異常が、恐怖や不安だけではないことも、稔は薄々ながらも理解しつつあった。


病院には思っていたよりも早く着いた。


バスのドアが開いて少し時間が経ってから病院に着いたことに気が付いたので、稔は慌てて手に持っていた本を鞄の中に詰め込んで、急いでバスから降りた。


受付で病室を聞き、面会プレートを貰って、透の入院している病室へと向かった。


「お見舞いにきました」


ノックして病室に入ると、透は個室のベッドで上半身だけを起こして窓の外を見ていた。


透は稔のことに気が付いているようだったが、稔の方を見なかった。


「こ、これ。一昨日近所の人に貰って、家に余っていたから、持ってきました。お腹空いたら食べてください」


稔は、家から持ってきたリンゴ二個と、ミカンを鞄の中から一つ取り出して、傍にある机にそっと置いた。


「ああ、すまない、ありがとう」


透は稔の方を振り向かないで礼を言った。稔は、近くにある折り畳み式の椅子を開けて音を立てないように座った。


病室に沈黙が訪れた。お互いのことは、殆ど知らない。何を話せばいいのかすらわからない。


警察手帳をさっさと返して、帰ろう。


「どうして森で倒れていたの?」


けれど、ポツリと、不意に出てきた言葉に、稔は自分でも驚いて目を丸くした。


透は、ゆっくりと稔の方を向いた。


「…ある人物に、殺されかけた」


そして、表情を変えないままそう答えた。その目つきは真剣で、透が真実を話していることを物語っていた。


殺されかけた、昨日の状況だけ見ても、そうとしか考えられなかったけれど、実際にその言葉を本人の口から聞くと、現実味が一層増す。殺人事件なんて、テレビの中だけのものだと思っていた。


「やっぱり」


とても冗談だと茶化す空気ではなかった。


「誰かに恨まれて…とかですか…?」

「いや、私怨というより、自分の正体を知った人間を殺したかった、ってところだろうな」

「え…」


稔は血の気が引いた。そうであれば、今この場にいてこの話を聞いている自分にも被害が及ぶんじゃないだろうか。


「ああ、心配しないでくれ、あんたにこのことを話したからといって、奴があんたを殺しに来ることは無い」


そんな稔のことを察してか、透はそう答えた。けれど、その意味するところが稔には理解できなかった。


「どうして?」

「あんたを殺す必要が、あいつには無いからだ」


ますます意味がわからない。


透は喉が渇いたらしく、机に置いてあるコップを手で取ろうとした。それを見て稔は椅子から立ち上がって、コップを手に透の口元まで持っていき、飲み終わるまでそっと支えた。


透の顔が近い。じっと顔を見てしまう。大人びていて、整った顔立ちに、不謹慎にも、少しドキッとする。


「私を殺す必要が無いって、どういうことですか?」


稔は、コップを机の上に置きなおすと、また透に質問した。


「そのままの意味だよ。少し長くなるが、聞くかい。荒唐無稽で、にわかには信じ難い話だが」


稔は何度か目を泳がせたあと、コクリと頷いて、椅子に座った。


透は静かに話し始めた。


「俺は警察官になって、今年で5年目になる。大きな波乱も無く、自分で言うのもなんだが、どこにでもある、割と普通な人生だったと思う」


稔は、黙って透の話に耳を傾けた。


「去年の春先、警察官の仕事にも大分慣れてきた俺に、ある一人の部下が出来た。そいつは明るくて仕事も出来る凄いやつで、誰にでも分け隔てなく接していた。完璧な人間ってやつを、そのとき俺は初めてみたよ」


透は続ける。


「一目見て、俺はその部下のことを好きになった」


稔は少し顔を赤らめた。


「そ、そうなんですね」

「趣味も合ったから、俺たちは直ぐに仲良くなって、そこからまあ、なんだかんだあって、付き合うことになった」


稔はただ透の言葉を黙って聞いていた。


「で、ある晩、一緒に過ごしていたら、そいつが突然俺に、誰か消えて欲しい人いますか、って、聞いてきた。訳が分からないだろ」

「どういうこと…?」

「で、どうしたって聞き返したら、私が消してあげる、って」

「え…」

「俺が問い詰めると、彼女は、人間の存在を消す力を持っていると言った」

「存在を…?」


透は少しの間黙り込んだ。


「ああ、人を殺すと、殺したやつの存在が、この世から消える」

「ありえない」


透はすぐに言葉を返した。


「ああ、あり得ないと俺も思った。馬鹿げている冗談だ。だが、そいつの眼は決して茶化せるようなものではなかった。…俺はあの時の顔が、今でも頭から離れないよ」

「そんなの、馬鹿げてる。その女の人の言うことが本当だなんて証拠どこにも…」


そこまで言って、稔はハッとした。


「そうだ、証拠なんてどこにもない。殺した人間の存在が消えてしまうんだ。証拠が出せるわけがない」

「…存在が消えるって、どういうことですか…」


「彼女が言うには、殺された人間は、この世界から居なくなるそうだ。産まれたという事実さえも無くなり、所有物は全て消え、人々の認知からも消失する」

「…」

「どうやってそんな力を手に入れたのか、彼女も理解していないみたいだった。が、もしこの話が本当だとするならば、そいつは、史上最悪の犯罪者だ。なんせ、被害者が世界から消えちまうんだから、そいつを法で裁くことなんて出来やしない。彼女はこれから人を殺し続け、何食わぬ顔で平凡な生活を続けるんだ」


稔は生唾をゴクリと飲みこんだ。


「不気味に思ったよ。きっと彼女は、自分の障害となる人間を全て殺してきたんだ。性格が捻じ曲がって当然だ。だが、本当に怖い所はそこじゃない」

「というと…」


透の目つきが鋭くなった。その目に稔はビクッと肩を震わせる。


「彼女がそんなぶっ飛んだ異常性を心の内に秘め、頭の良さでそれを隠してもって、ただの平凡な人間を取り繕っているところだ。想像してみろ。昨日まで一緒に居たやつを殺して、何事も無かったかのように、彼女は殺したやつが居なくなった世界で、楽しそうに笑うんだ」

「そんなことって…」

「俺はその話を聞いたとき、冗談だと思って軽く受け流したんだ。酒が入っていたから変なことを言ってしまったんだろうって」

「でも…」

「そう、昨日、二人で森の中を歩いているとき、背中を包丁で刺されて、そのまま俺はまともに抵抗することもなく意識を失った。あとはあんたの知っている通りさ」


透がまたコップに手を伸ばそうとしたのをみて、また稔は慌てて立ち上がって、透の口元にコップを持っていった。


「もし俺の存在が消えていないことにそいつが気付いたら、必ず俺を殺しにやってくる」

「…その女の人の名前は」

「名前なんて聞いてどうする気だ。それに、どうせ俺が殺されたら、あんたは俺の存在も含めて、今日聞いた話を全て忘れてしまうんだ。だから俺はあんたに話したんだ」

「じゃあ、と、透さんは、どうするんですか…」

「その前に、俺が奴を殺す」


その言葉に、稔から血の気が引いた。


「そんな…どうやって」

「わからないさ、だが、やるしかない」

「でも、透さんが彼女を殺しても、彼女の存在は消えない…。透さんは、人殺しになって…」

「彼女を生かしておいたら、信じられない数の殺人が起こる。それを考えると、俺が犯罪者になるくらい安いもんだ。それに、彼女は、俺にしか殺せない」


透は続ける。


「それと…」

「それと…?」


稔が聞き返すも、透は神妙な顔をしたまま暫く黙った。そして、少し時間をおいて、透は口を開いた。


「…いや、何でもない」


透の瞳は、どこか哀しい眼をしていた。


透の話を聞いて、稔はどうすれば良いかわからなかった。そもそも、認知が消える、そんな話を信じろという方が難しい。けれど、透の目は決して嘘をついているとは思えないし、事実、透は彼女に殺されかけている。


透は、彼女は自分にしか殺せないといった。それは、彼女の罪を知っているのは自分だけ、という意味だろう。


けれど、今は違う。稔も、彼女の罪を知っている。


「何か、私に役に立てることって、ない…ですか」


稔は、心の内から沸き上がる恐怖を抑えながらそう言った。


「無い」


けれども、透の突き放す言葉が、グサリと稔の心を抉った。


「でも…」


そう返す稔を透は睨みつけた。その真剣な目が怖くて、稔はサッと下を向いた。稔はどこか泣きそうになっていた。


「…悪いな。助けてくれようとする気持ちは嬉しいが、あんたを巻き込みたくないんだ」


矛盾してる。稔はそう思った。


本当に巻き込みたくないのなら、こんな話、いくら死んだら存在が消えるからって、しなければ良かったのだ。けれど透は、稔に話した。それは、透からの、助けてほしいというサインに他ならない。


この人は、自分も死ぬ覚悟で、彼女を殺すつもりだろう。


それが分かっていても、稔には、何もすることが出来ない。それは稔自身が一番よくわかっている。ハッキリ言って、役立たずなのだ。それが、たまらなく辛い。


「…わかりました」


稔は少し黙ったあと、小さな声で答えた。


「ありがとう」


透は礼を言った。


「あ…そうだ、これ」


稔は震える声で、ふと思い出したかのように、持ってきた鞄をゴソゴソと漁ると、透の警察手帳を取り出した。


「…お返しします」


透は警察手帳を受け取り、机の上に置いた。


「すまない。感謝するよ」

「いえ…じゃあ、私…そろそろ帰りますね」


そういって稔が病室から出ようとすると、


「そういえば、あんたの名前を聞いていなかったな」


透はふと口を開いた。


「言っていませんでしたね。私、柊稔って言います」


稔が名前を告げると、透はピタっと身体の動きが止まった。

透の目が大きく見開いたかのように見えたが、一瞬で元の表情に戻った。


「そうか、柊稔か、良い名前だ」


透は少し考え事をするようなそぶりをしたあと、ありがとう、と口にした。


「どうしましたか?」

「いや、何でもないよ」


透は、それきり黙って、窓の外を向きなおした。もう稔と話すつもりは無いようだ。


「あの、もうお見舞いは…」

「もう明日にはこの病室には居ないだろう。何時までも同じ場所に居たら、彼女に居場所がバレてしまうかもしれないからな」

「そうです、か。分かりました、じゃあ、お大事に」

「ああ、あんたもな、柊稔」


稔はニコリと笑顔を見せ、ふらふらと覚束ない足で病室を後にした。


稔は病室から出ると、胸に手を当ててハーッと息を吐いた。


「怖かった…」


稔は独り言を呟いた。


どうして、手伝えることが無いと言われたとき、傷ついたのだろう。

平凡な日常に満足し、日常を壊されたくないと思いながらも、その反面、心の奥底では、どこかで退屈に身を焦がしていたのかもしれない。どうしようもないほどの緊張感を、味わってみたかったのかもしれない。


そんなこと、今まで思ったこともなかったのに。


いつも見ていた漫画や小説の世界、その中に自分が入り込む感覚、圧倒的な恐怖と緊張。それが、稔の手の中に握られていた。


「でも…」


病院を出て、稔は振り向いて、透の入院している病室の窓を見た。太陽の光が窓に反射して、彼の姿は見えなかった。


稔は早くも後悔していた。透は誰が見てもまだ動ける身体じゃない。水を飲むのだって精一杯なのだ。そんな身体で、彼女のことを殺せるわけがない。


この事実を知ったまま何もしないでいるのは、彼を見殺しにしたのも同じじゃないか。

そうだ、もう一度病院に行って、また透さんに、何か協力出来ることはないか、お願いしてみよう。今日行ってもダメと言われるだけだろう。なら、明日もう一度行こう。



その日は疲れが溜まっていたのか、家に帰ると、シャワーも浴びないままに自室のベッドにバタリと倒れた。まだ夕方で日も沈んでいなかったけれど、疲労感が身体全体に溜まっていた。


「凄い一日だったな…」


稔は暗い部屋の中で、ポツリと呟いた。


そんな余韻に浸る気持ちとは裏腹に、稔の身体は深い眠りへと入っていった。


そうして、次の日がやってきた。


「ふあぁ…」


朝目が覚めるとすぐ、稔は顔も洗わずに食卓に着いた。何とか目を覚まそうと寝ぼけ眼を擦るが、頭の中の靄のようなものが取れる気配は一向に無い。そのうち稔は諦めて目を瞑り、机に座りながら意識をどこか遠くへやろうとした。


「おはよう」


食器が強く机に置かれた音を聞いて、肩をピクリと震わせる。珈琲の仄かに甘い香りが鼻孔をくすぐる。


「おはよう、お姉ちゃん」


稔は目の前に置かれたカップを手に取り、フーフーと息を吹きかけた後、珈琲をほんの少しだけ舌で舐める。そうしているうちに、意識は徐々にはっきりとしてくる。三口も舐めれば、大分眼も醒めてきた。


「早く着替えないと、遅刻するよ」

「うん、これ飲み終わったら、行くよ」

稔の姉である眞は、マグカップを机に置いて、前髪を整える。

「いってらっしゃい、お姉ちゃん」

「いってきます」


稔がそういうと、眞は振り向かないまま手をひらひらと振って挨拶だけ返して、リビングから出て行った。


さて、そろそろ支度でもしようかな。稔が椅子から立ち上がろうとすると、


「あ、そうそう」


出て行ったと思った眞が、リビングに帰ってきて、稔に声を掛けた。何か忘れ物でもあったのだろうか。


「どうしたの、お姉ちゃん?」


眞は何げない顔で稔に聞いた。


「柏木透って人、知ってる?」

「ううん、知らない。誰?」

「いや、知らないならいいよ」


眞はそれだけ聞いて、今度こそ行ってきます、と言って部屋から出て行った。稔は、不思議に思いながらも、学校に向かった。


 

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