第八話
指先に、ひんやりと冷たい何かが触れた。掴もうとして、それはつるりと抜け落ちる。
水、だ。なんでマキナの中に水が? と考えかけて、見える景色が全く変わっていることに、ようやく気が付いた。
仰向けの私が見るのは、どんよりとした曇り空。窓や壁といったものは影も形も無くなっていて、そもそもビルの内部ですらないらしい。
いったい何がどうなったというのか。急いで周囲を確認しようした私は、盛大に足を滑らせた。これだけならまだ良かったのだが、どうやら私がいたのは川辺だったらしく、流れに身体をさらわれて、さらに深みへと追いやられてしまう。まずいと思った時にはもう手遅れで、あっという間に全身が水中へと没していた。
心の準備などしているはずもなく、私は一瞬にしてパニックに陥った。必死に手足をばたつかせるが、川の水深はかなりあるらしく、全く水底には届かない。水を吸った衣服が重たくへばりついてきて、もがく私を嘲笑うように身体は深みへと沈んでいく。
苦しさのあまり開いてしまった口に、水が一気に流れ込む。手放しかけた意識の端で、腕が何者かに強く掴まれるのを感じた。
反射的に振りほどこうとした私を強引に抑え込み、その誰かはぐいぐいと腕を引っ張っていく。あれだけ重かった身体はいとも容易く上がっていき、最後にはその誰かに抱きかかえられるようにして、私は水面から顔を出すことに成功した。
「大丈夫?」
その声は確かに聞こえたが、咳き込みが止まらなくて何も答えられない。頭も一切働かず、助けてくれたらしい人物に、私はとにかくしがみついた。
「わわ……。まずは上がろうか」
その人は相当に泳ぎが上手いらしく、力いっぱい抱き締めている私を物ともせず、すいすいと進んでいく。あれだけ苦しめられた川は呆気ないほど狭く、ほんの一瞬で浅瀬へと辿り着いた。
「立てる?」
ようやくまともに呼吸ができるようになっていた私は、どうにか頷き返して、震える足で立ち上がった。
「良かった。てっきり人工呼吸とかしなきゃいけないかと」
苦笑交じりで言う彼の顔に、やっと焦点が合う。お互いの目線がぶつかって、浅黒い肌をした少年は気恥ずかしそうに、短く刈り込んだ黒髪を押さえた。川に入る際に脱いだのか、身に着けているのは下着だけで、のぞいた皮膚には健康的な筋肉が浮かんで見える。
「……ありがとう」
短く感謝の言葉を口にすると、少年はいっそう照れたようにはにかんだ。その歳の頃はまだ十代半ばのように見える。流れのある川で溺れる人を助けるなんて、大人でも相当難しいはずだ。彼はその危険を承知のうえで、私のために川へと飛び込んでくれたのだろう。
そう考えると、ありがとうの言葉だけじゃ到底足りない気がして、私は思わず俯いてしまう。キツネのことが脳裏にちらついた。あれだけ私を助けてくれたのに、結局お礼の一つもあげられなかった。
「そうだ。服の着替えとか持ってないよね。濡れたままじゃ風邪ひくし、俺のやつ、貸そうか?」
黙りこくってしまった私に、少年はおずおずと話しかけてくる。指摘されて初めて、全身が心底冷え切っているのを自覚した。がちがちと歯の根が合わないほどの震えが遅れてやってくる。
少年は私の手を引いて川べりの土手の下へ連れていくと、「ほら」としっかりとした生地の衣服を差し出した。
「着なよ。あー……。大丈夫、昨日洗濯したばっかりだから。まぁ、ちょっとアレかもしれないけど。でも、そのままよりはマシだろ?」
そう言ってにっこりと笑う彼に、どうしたものかと戸惑った。彼の提案は非常に嬉しいのだが、さすがに気おくれしてしまう。しばらく私が無言でいると、彼は急に申し訳なさそうな顔をして、伸ばしていた腕を引っ込めた。
「ご、ごめん。やっぱ俺が着ていた服なんかいらないよな。悪い。俺、デリカシーとか良く分かんなくて。妹にもたまに怒られるんだ」
まるで自分が悪事を働いたかのように、手を合わせて謝りだした彼に、慌てて私は首を振った。
「違う違う。その、助けてもらったのに、服まで貸してもらうなんて。だいたい、あんた……あなたの着る服が無くなるじゃない」
「ん? ああそっち? 気にしなくていいって! 今日はそう寒くないし、慣れてっから。じゃあこれ」
と、にわかに笑顔を取り戻した彼はぐい、と私の腕に衣服を押し付けるが早いか、
「向こうの方で待ってる! 終わったら声かけてくれ」
と言い残して、足早に土手を登って行き、そのまま姿を消してしまう。着替えを済ませろという意味なのだろうが、なんとも勢いの良い少年だ。若干感動しつつ、私はぐしょ濡れになった上着を脱いで、渡されたものを手に取った。
それは至って普通のシャツとズボンに見えた。素材にしても、手触りは私の知るそれらと大差ないように思える。
当たり前だが、あの少年は人だった。
人から生まれて、人とともに育ってきた、そんな何の変哲もない人間。妹という発言からして、他にも家族がいるようだし、私の存在に格別驚いた様子も無かった。
つまりここはノンライブじゃない。マキナやキツネの話との矛盾を解釈するなら、それが最も適当な答えだろう。
となると私は世界を移動した、のだろうか。あるいは時間を遡行、跳躍したのか。見当は全くつかないが、少なくともマキナを屠ったあのビルの内部から、どこか違う空間へと飛んだのは間違いないようだ。
私は右手を開いて、じっと見つめた。マキナの胴体へと吸い込まれた時、異常な感覚を覚えた。もしかすると、あれが原因だったのだろうか。ならば、と再びキツネの言葉が蘇る。
私は使命を果たしたんだ。『永遠』を壊し、ノンライブを滅亡させた。
だから、あの世界から抜け出せた。私がノンライブへ行った理由は、使命を果たす、それだけだったのだから。
では、同じことがこの世界にも当てはまるのだろうか。
ノンライブのように、ここにも果たすべき使命があって、そのためにやって来たのだとしたら?
無意識に私は右手を握りしめていた。もちろん、続けるとも。死んだキツネのためにも、立ち止まるわけにはいかない。なにより、私は……。
「トワ、だから」
その名前を口にしたその時、胸が締め付けられるような感じとともに、不思議なイメージが頭に浮かんだ。