第三十一話
「私が皆さんにお伝えしていることは、簡単です。ええ、すごく簡単。たった一つ。誰にでもできて、誰にでもあって、誰にも避けられない……運命です」
フィーアの喋り方が、その抑揚を変えた。ぼそぼそとした小声から、秘め事を囁くような優しい声色に。
「アマモさん。幸せって何だと思います? もちろん、具体的な言葉にするのは難しいと思います。人によって、たくさんありますからね。食べる事や、遊ぶ事、人と話す事に、何かを達成する事……まさに千差万別でしょう。
でも、逆に言えば、不幸せもたくさんあるってことじゃないでしょうか? なぜなら、個人差はあるにせよ、幸せが確かに存在するのなら、そうでない状態は不幸せと呼ぶしかないのですから。そして私は――」
彼女はフードを下ろして、その素顔を見せた。現れたのは、まだあどけないとも言えるような、ごく普通の少女の顔だった。
「私は、皆さんが不幸せであって欲しくないんです。例えどれだけ世界に幸せが溢れようとも、それがある限り、不幸せもまた絶対に無くならない。欲しい物を手に入れて嬉しければ、それを無くして悲しくなる。愛しい人に出会えば、それを亡くして辛くなる。成りたい自分に成れたとしても、結局いつかは消えてなくなる。技術があればいくらかはその猶予を伸ばせるかもしれない。けれど、終わりはどんなものにでも必ずある。あるいは、劣化してその価値を変えてしまう。
知っていますか? 人の脳はどんな喜びの感情でも、一度経験してしまえば、最初と同等の感動は二度と味わえないんです。それはすごく……残酷なことだと思いませんか? 皆さんが求めているいつかの幸せの多くは、つまりは劣った焼き直しに過ぎないんです。でも、でも……不幸せは違う」
フィーアは声のトーンを落とした。深く、暗く、床を這うような低音が、静まり返った教会を支配する。
「幸せでじゃない、ことには慣れません。もし、慣れるのだとすれば、それは幸せを求めていない、廃人だけです。けれど、多くの人は違います。ちゃんと生きていて、ちゃんと欲しい物があって、その分だけ――不幸を抱えて生きている。
私はそれが哀れでならないのです。いずれ失う物のために、辛く、苦しい不幸を味わい続ける。結果、手に入れた物は喪失という不幸の種をまき散らす。空しいと思いませんか? こんな苦行に何の意味があるというのでしょう。まるで罪人に与える刑罰のようです。いえ、まだその方が生易しい。なぜなら、刑罰には限りがあるのですから」
「だから――」
呪文の詠唱でもするかのようにとうとうと語るフィーアを、私は強引に遮った。
「だから、死ねというの? 無茶苦茶じゃない。そりゃ人が楽しめることには限りがあるだろうけど、全ての幸せを反故にするほど辛くはないでしょう。美味しい物を食べた、とか面白い物語を見た、聞いたとか、そんなありふれた些細なことでも人は十分やっていけるわ。一つ一つはすぐに失われるかもしれないけれど、それらは無数に存在しているのだから」
反論されるかと思ったが、フィーアは「その通りですね」と素直に私を肯定した。
「日常の幸せを糧として、人は普通に生きていきます。この世界の人々だって、一人一人を見ていけば、大きな幸せを手にできなかった人はたくさん居たでしょう。しかし実際のところ、ここまで発展することができました。あなたの世界がどんな場所かは知りませんが、技術的にはたぶん進歩している方だと思います。違います?」
残念ながら、平均値で言えば発展している方ではない。しかし、殊更に言う必要も無いので、「ええ、まぁ」と先を促す。
「けれど、この先もずっとそうだと断言はできますか? ずっと、何事もない、平穏な毎日を送ることができると言えますか? 美味しい物を美味しいと感じ、面白い物を面白いと思える……いわゆる普通の人生は、はたして確約されていますか?
ごめんなさい。そんなの分かるわけがないですよね。だって、この世界に神は居ませんから」
彼女は、背後の像――おそらく女神をかたどった像を振り返りながら、言った。
「私はそうじゃなかった。毎日が辛くて苦しくて、悲しくて、そんな繰り返しだった。やらされる仕事は痛くて汚くて危なかったし、周りの人達も怖い人ばかり、いっつも怒られて、叱られて、殴られた」
「……仕事? あなた、働いていたの?」
「ええ。私の使命は単純でした。病気や怪我をした人々を救う――そんな仕事です。お医者さん、とはちょっと違いますね……」
ぼやかした表現に少し気になって、同時通訳を強化してみる。
……介護……? だろうか。そんな単語が想起された。年若い女子が就く仕事ではないし、そのまま正解ではないだろうが、それに近いことをやっていたのだろう。呪法の中には記憶を覗く技術もあったが、フィーアの正体は依然不明なので、ここは止めておく。
なんにせよ、彼女が非常に過酷な生活を送っていたのは間違いなさそうだ。
「でも、それは別に良かったんです。私が我慢すればそれで済むことですから。けれど、あるきっかけで知ってしまった。私だけが特別じゃないってことを。
恐ろしかった。辛いのは自分だけじゃなかったって気づいて、私はとても怖くなりました。だってこんなに酷い苦しみを、世界のどこかでたくさんの人が受けているんです。押しつぶされそうなほどの現実味を伴った苦痛に、ひたすら立ち向かっている人がいるんです。
こんな、こんな話ってありますか? 幸せはあんなに脆くて、すぐに消えてしまうのに、痛みや悲しみはいつでも圧倒的です。ちっぽけな嬉しさ楽しさなんて、すぐに吹き飛ばして、後に残るのは暗い感情だけ。そんな悲劇が、いつもどこかで繰り返されているんです。
もし、そうでない人が居たとしても、未来はどうなるか分かりません。今は笑顔でいられたって、いつかはそんな環境に放り込まれるかもしれない。事故に遭って手足を失う。病気で知識や思考を失う。自分でなくても、親、兄弟、子供達、全員が一生健全だなんて、もの凄く低い確率です。人類史にはありふれた災害や戦争だって、ひとたび起これば何万、何億という人が巻き込まれることでしょう。
絶対の平穏なんて無いんですよ。人は生きているだけで、苦しみという鬼に追いかけられ続けているんです。
だから、ですよ。だから、終わりにしてあげるんです。
まやかしの幸せを切り捨て、残酷な苦痛から解放する。私の、今の使命はそれだけです。
人々に、『永遠』の安寧を与えてみせる。
死、だけが全ての人にとっての救いなんです」
「下らない」
私は彼女の双眸をはっしと受け止めて、睨み返した。
「馬鹿にするのもいい加減にして。一言で表すなら、余計なお世話なのよ。あなた一人が、勝手に不安を膨らませて大言壮語を吹き込んでいるだけ。人生はそんなに辛いものじゃないわ。人は、そんなに複雑に物事を考えて生きてはいない。大概の人は、もっと気楽に、のんきに生きて、それで十分満足なの。あなたはそんな彼らを無理やり自殺に追い込んだ――けれど、私にそれは効かないわ」
「違いますね」
彼女はそんな私に、笑いかけた。
「一番、『永遠』が欲しいのはあなたです。むしろ、あなたがいたからこそ、私がいる。死は絶対にして唯一の『永遠』です。生まれないのも、老いないのも、病まないのも、結局は概念に頼ったシステムに過ぎない。けれど、『死』は違う。これだけは、何の特技も、特殊な能力も要らない。万物に与えられた、究極の終焉です。それこそ、あなたが求めてやまない救いのはず。
なぜなら、『死』があれば結局、それで全部済むからです。忘却も、劣化も、消失も、どんな変質であれ、もう怖がらなくていい。
『トワ』に安らぎを与えられるのは、『死』だけなんです」
「やめて」
「いいえ、止めませんよ。あなた、これまでにいったい何人の人を犠牲にしてきました? ここに来るまでに、何人殺しました? すごく痛かったでしょうね、苦しかったでしょうね……。全部、あなたのせいなんですよ。……キツネも、ビビも、藤月トウカも」




