第十五話
でも……生きる意味……あるかなぁ?
どうしてもその答えがでない。さっきからずっと、刺された時からずっと――違う――角を曲がる前からずっと、考え続けているけど答えがでない。
キツネは死に、使命も無くなり、ついにはこうして存在していること自体が、誰かを傷つけていると知った。
そんな私が、足掻くだけの理由。どうしても、見つけられなくて。
「はぁっ。はぁっ」
ビビが急に苦しそうな呼吸になった。それまでのすすり泣きは、絞り出すような呻き声へと変わる。閉じかけていた目を開き、彼女へと視線を戻すと、右手を自身の胸に当てて俯いている。次第に姿勢はそのまま前傾していき、しまいには這いつくばるようにして倒れ込んだ。
ショックのあまり意識を失ったのかと思ったが、咳き込む声は断続的に続いている。過呼吸……とも違う気がするが、彼女の身に異変が起きているのは間違いない。腹部を地面に当てないよう注意しつつ、私は彼女のもとへと這った。
「どうしたの? どこか、痛いの?」
声をかけながら、その肩へと手を掛ける。立場があべこべな気がしたが、彼女に何かあっては、それこそ死んでも死にきれない。顔を覗き込もうとしたら、彼女は一際大きく咳き込んだ。水っぽい音が、地面に弾ける。
物凄く嫌な予感がして、私は即座に彼女の口元へと手を伸ばした。唾液とは絶対に違う、生暖かい、ぬめりとした感触。特徴的なその匂いは、血液のそれだった。
私の腹部から流れたものだと、最初は思った。しかし、再び彼女が咳き込み、かざしていた私の手にそれが掛かって……理解する。
「ビビ! 大丈夫?」
肩を揺らすが、彼女の反応はごく弱い。暗がりのせいで顔色などの身体の様子がはっきりしないが、吐血している時点で、非常に危険な状態であるのは間違いない。一応、口内を確認してみたが、舌を噛んだわけではないようだ。
「どうしよう……。どうしたら。なんでこんな」
焦るばかりで、何も考えが浮かばない。私の傷と同じく、治療できる場所は知らないし、ここまで追いかけて分かっているが、この付近に人通りは全くない。
「……っ!」
訳が分からなくなって、ひたすらビビの身体を抱きしめていたその時、ふと彼女が言った。
「ビビ? 何? 何か言った?」
とっさにその口元に耳を当てる。だが、さっきのそれは幻聴だったかのように、何も聞こえてはこない。だけど、私は信じて、ずっと待った。そして。
「……フェネクス、様。ありが」
彼女は間違いなくその名前を口にして、それが最期だった。
奴の屋敷は遠くなかった。あの路地から走って十分ほど、明らかに他の家とは違う、仰仰しい見た目の西洋館を発見する。敷地はホロの家の倍は優にあり、階数は四と、まさに豪邸だ。
中に居る確証は特に無かったが、とりあえず二階の窓をぶち破って突入。ここに居なければ、しらみつぶしに村を探すことになるから、手短に済んでくれればいいが。
偉い奴というのは大抵、上の階の奥にいるものだ、と何となく思ったので、入った廊下の壁を蹴り上がって、天井を頭から貫き、三階、四階と強引に上がる。この時点で全身が猛烈に痛んで、あちこちから出血したが、まぁ死にはしない。そもそもビビの包丁も、抜いても処置できないので刺さったままだ。
廊下には何人かの警備兵的な人が談笑していて、床から飛び出してきた私に驚愕していたが、数秒で全員黙らせる。力が加減できず、何人かには後遺症が残る怪我を負わせた気がするが……しょうがない。
警備しているのなら中に居る証拠だと、私は一番広そうに見える部屋へと壁から突っ込んだ。はたして華美な装飾に包まれた室内に、フェネクスはいた。
ゆったりとしたベッドの上で寝っ転がっている奴へ向かって、そのまま私は突撃する。だが相手もさるもの、私が暴れる音から、事前に危険は察知していたのか、ひらりと一撃目は躱された。
「お姉ちゃん!?」
驚くフェネクスの様子からして、私とまだ友好的でいられると思っているらしい。とんだ役者だ。怒りに任せて再び飛びかかり、ようやくその身を捕えることに成功する。首根っこを掴んで床へと叩きつけ、上からぎりぎりと押さえつけた。
「痛い痛い痛い!」
叫ぶフェネクスがうるさいので、平手打ちをして黙らせてから、確認する。
「ビビにあらぬ事を吹き込んだの、あんたでしょ」
泣きながら、ふるふると首を横に振るフェネクス。
「私がこの村に来てから、自分の目的について触れたのは、サダクの前でだけ。それをビビが知っていたってことは、初めから私を知っている奴がいて、そいつが教えたとしか思えない。つまりフェネクス、あんたよ」
フェネクスは、ひたすら泣きじゃくっている。
「知らない家の部屋に、気のせいでたまたま上がり込んで、その日移動してきた私と運よく出会う? あまりにも偶然が重なり過ぎている。最初から私を狙っていて、あわよくば殺そうとしていた――そうでしょう」
異なる世界からやってきた私を、先手を打って排除しようとしたフェネクス。
だが、その試みは失敗に終わった。シャワーを浴びるはずの私が、急に風呂場から出てきたからだ。奇襲に失敗したばかりか、姿まで見られてしまったフェネクスは、自らの手で私を殺すことを断念。その挙句に、他人を誘導するという発想に行き着いた。
ビビの嫉妬心を利用した悪辣な計画だ。果たして、私が『死んでもいいや』と思ってしまうことまで想定していたかは分からないが、実際ほとんど成功しかけた。フェネクスに敗因があったとするのなら、最初の出会いと、最後の不手際だけだろう。
「見た目が見た目だから、油断してた。あんたこそが、このアンチエージの『神様』だったわけね」
そう言い放った瞬間、びくりとフェネクスの身体が震えて、着ている真っ赤なワンピースが床いっぱいに広がった……ように見えた。遅れて、それが翼だと悟る。鳥に生えるべき翼が、フェネクスの背中から飛び出していた。
「……『永遠』はやっぱりあったんだ。老いない、『永遠』」
サダクの態度は、十年後に確定している死を待つ者としてはあまりにも落ち着きすぎていた。また、人を生んでいるわけでもないのに、村には多くの若者が溢れている。これらの矛盾の原因……フェネクスが神様だと分かった今なら、理解できる。
「つまり、私の世界とこの村では『死』の定義も異なっていた。教えて。この村で四十歳になった人は、いったい何をされるの?」
フェネクスは顔中を涙やら鼻水塗れにしながらも、ぼつりと「生き返る」と言った。
「生き返る。皆、生き返るの。古くなった入れ物を捨てて、新しい身体として魂をよみがえらせる。そうやって、『永遠』に……老いない」
それらをフェネクスが取り仕切っていたことから、連れてくるなんて表現が伝わったのだろう。だが、と私は腹立ちまぎれにフェネクスの翼を踏みつけた。
「じゃあ、最後の質問。どうしてビビを殺した? まさか、あの状態からでも生き返るのか?」
『老いない永遠』。それを操作しているのがフェネクスならば、能力下にある村人の生死を左右するなど造作もないことだろう。あの状況下でのビビの死亡は、どう考えてもフェネクスに関係しているとしか思えなかった。
とうのフェネクスはいよいよ悲痛な呻きを上げながら「いらないもん!」と喚いた。
「あんなに汚れたのはいらない。ここには綺麗な物しかないの。綺麗な、美しい身体と魂だけが、わらわのもとへ集うことを……」
あっそう、と私は腹部の包丁を抜き放って、フェネクスの首へ突きたてた。ごぼり、とビビとは比較にならない量の血液が噴水のように湧き出し、私の腕を伝って落ちる。ピンで刺された虫けらのように、フェネクスの胴体はびくびくと痙攣し、せっかく生えた翼は風を掴むことなく地を這うばかりだ。
次第にその動きも収まっていき、いつしかあたりは無音になる。それを見届けて、私は糸が切れたようにしゃがみ込んだ。放っておいた腹部からの出血は、今やフェネクスだったそれと大差ない。痛みはとっくに麻痺していて、ただぼんやりと、予感がした。
終わるかな……?
今度こそ、終わるかな? それとも、また別の場所へ行くのかな。
ホロ、ビビ、サダクの顔が、瞼の裏に浮かんでは泡のごとく掻き消える。
フェネクスの身体から飛んだ血の暖かみだけが、最後に残った感覚だった。




