第一話
第1話
眩しくて、目を覚ます。すっと空へ手をかざした。光を遮り、目に映ったのは白い腕。何の変哲もない、私の右腕。
次に風。伸ばした指先に暖かな陽気が触れる。それを掴もうと、ぎゅっと握った。しかし叶わず、すり抜けて、力を込めた手のひらにほんの少しの痛みが走る。自分の爪によるものだと、数秒遅れて思い至る。
なぜだか妙に嬉しくなって、数回ぐーぱーを繰り返す。痛い……。痛くない……。痛い。
馬鹿みたいに続けているうちに、似たような感触が背中や脚にもあると気付く。ごつごつとした、鈍い痛み。
ようやくそこで、自分が地面に仰向けで横たわっていると知った。
とたんに、それまで寝ぼけていた頭が一気に情報を受信しはじめる。風のそよぐ音と、遠くから伝わる木々のざわめき。日光で温められた砂利道の熱さ。
左手を支えにして、ゆっくりと立ち上がる。広がった視界に、見渡す限りの草原と、地平線の向こうへと続く道が映る。しかしそれは、全く見知らぬ景色だった。
ここはいったいどこなんだろう? 月並みな疑問をきっかけにして、ぼんやりとした謎が次々と頭に浮かんでゆく。どうやって、どうして、いつ……。
だが、どれ一つとして到底答えは出そうになかった。自問自答を諦め、とりあえず道路を先へと進んでみようと、私は一歩、踏み出した。
「目は覚めたかい? トワ」
右足が砂利を踏みしめたのと、背後からその声が聞こえたのはほぼ同時だった。すぐさま振り返ると、そこでは不思議としか言いようのない生物がぷかぷかと宙に浮いていた。あえて表現するならば、デフォルメされた小動物といったところだろうか。長く上に伸びた耳と、やけに大きな両目。ずんぐりむっくりとした毛むくじゃらの胴体に対して、短すぎる四肢。全体の大きさとしては人間の頭部ほどもないが、どんな原理なのか、空を飛んでいるせいで、その存在感はひとしおだった。
他に人影らしきものは一切ない。もしや、この面妖な生物が先ほどの声の主だとでもいうのだろうか。
「トワ。聞こえているんだろう? 返事をしてくれよ」
自身の存在を主張するように、そいつはくるりと横へ回転してみせる。無視するわけにもいかず、私は恐る恐る口を開いて……。
「……誰? というか、何?」
響いた声に、自分で驚いた。初めて聞く声色だったから。そんなはずないのに。
こちらの動揺を知ってか知らずか、そいつは嬉しそうにくすくすと笑った。大口を開けるその様子はますます奇怪で、まずはこいつの正体を確かめるのが先だと、理性が囁いた。私は声の違和感をかみ殺し、先を続ける。
「今、私に話しかけたのってあんた? まさか、喋れるの?」
そいつはふよふよと高度を上げて、詰め寄る私と目線を合わせた。
「もちろんだとも。こんなナリだが、僕は立派な案内役だ。意思疎通ができなきゃ、文字通り話にならない。トワ。君が目覚めるのを、ずっと待っていたんだよ」
愉快な見た目に似合わず、低く落ち着いた調子でそいつは言った。聞きたいことが多すぎて、質問攻めにしそうになる心をどうにか抑える。
「……そう。とりあえず、私をどうこうする気はないってことでいいんだよね?」
私の言葉に、ようやくそいつは自身が警戒されていることを悟ったらしい。心外だとでも言いたげに、大げさに腕を振り上げてみせる。
「僕をそのへんの魔物と一緒にしてくれちゃ困るなぁ。ここでは、唯一と言ってもいい君の味方なんだから」
確かに、ぶんぶんと振られるそいつの両腕はいかにも頼りなく、よしんば殴られたところで蚊ほどの痛みも無さそうだ。浮遊しているのは不気味極まりないけれど、ひとまず襲われる心配はしなくて良いだろう。だが、問題は後半の内容だ。
「唯一の味方ってどういうことよ。まるで、他は全部敵みたいな言い方を……」
途中で思わず言いよどんでしまう私に、しかしそいつは大きく頷いた。
「その通りさ。君にとって、ここには排除すべき敵しかいない。そのために、来たのだから」
高く晴れ渡る空のもと、草原を横切り、どこかへと続く一本道を例の生物と連れだって歩いてゆく。態度も体も地に足のつかないそいつに、私は矢継ぎ早に質問をぶつけ続けていた。
「ともかく、この先に目的地があるって言いたいわけ? さっきからそればっかり繰り返しているけど」
「ああ。何をするにせよ、まずはそこへ到着しないと始まらない。君の使命を果たすためにはね」
その言葉に信用できる要素など欠片も無かったが、私とてこの草原に特別な用があるわけではない。さしあたり、そいつ――『キツネ』という名前だそうだ――の案内に従っていた。
私が起きた場所からそれなりに歩いているはずだが、いっこうに眼前の景色は一面の青空と草原から変わらない。若干不安もあったが、今は考えても仕方がないだろう。
「使命? また変な単語が飛び出してきた。自分のことすら良く分からないってのに、そんなの意味不明だよ」
私が投げやりに道路端の小石を蹴ると、励まそうとでもしているのかキツネがぽんと肩に手を置いてくる。こういう仕草はまさに人のそれなのだが、見た目がいかんせんキテレツすぎて、同じ言葉を解す生き物だとは受け入れがたい。
「使命は使命だ。君はこの場所へとやってきた。そこには必ず理由がある。そして、僕の役目はその手助けとして案内をすることだ」
説明しているようで、全く具体的な内容に触れていない。だというのに、自信満々なキツネの言い方に少しむっとして、その腹部を私はぽんと弾いてやった。思った以上の勢いで、キツネは中空を飛んでいき、そのまま地面へ激突した。
浮遊している方法は定かでないが、どうやら踏ん張りがきかないらしい。さすがに可哀想になって、小さく謝りながら砂利道に頭から突っ込んだキツネを拾い上げてやる。
「痛た……。ひどいことをするなぁ。せっかく何も知らない君に説明をしてあげているのに」
ごめんごめん、と繰り返しつつ、試しに彼を右肩へと置いてみる。特等席に満足してくれたようで、キツネはどっしりと座り込んだ。耳元で話されることにはなるが、隣でほわほわ浮遊されるよりは、こっちの方が私としても落ち着く。
「何も知らないのは当然でしょう。目が覚めたら、いきなり人っ子一人いない草原のど真ん中だもの。理解不能にもほどがある」
「イライラするのは分かるけど、だからって僕に当たらないで欲しいなぁ。君がここへ来たのは、まぎれも無く君の意思なんだから」
再び弾き飛ばしてやろうかという衝動をぐっとこらえる。話がこのままでは堂々巡りだ。
「そもそも、ここってどこなのよ。あと目的地は? もっと詳しく教えてよ」
すると、彼はふふんと一丁前に鼻をならしてみせた。
「ノンライブ――この国の名前さ。そのまま首都の名前でもあり、その首都こそが、まさに今向かっている目的地。君の使命が果たされる場所だ」
キツネが告げたその名を私は小さく呟いてみる。
ノンライブ。聞きなれない単語だ。使命とやらにも、やはり心当たりはない。だが、キツネの先ほどの口ぶりからして、そこは掘り下げても答えは期待できないだろう。
「国、ね。どんな国なのよ」
得意げに喋っていた彼は、この質問にわざとらしく首を傾げた。
「どんな……ってどんな?」
「……人が多い、少ないとか。技術が発展しているか、そうじゃないか。……王様はいるのか、いないのか。あるいは特別な宗教や、風習だとか。とにかく、その辺だよ」
少々、しどろもどろになりながらもそう付け加えると、キツネは私に一言だけ返した。
「うーん……無いよ」
しばらくの沈黙が、私達に降りる。無言で数十歩ほど進んだ後、とうとう堪忍袋の緒が切れて、私はキツネを肩から追い出した。しかし、今度は彼の方も予想していたのか、着地は綺麗に受け身を取った。おかげでこちらも安心して話を再開できる。
「真面目に答えて」
「僕はいつだって真面目だよ」
堂々と言い張る彼に呆れたが、どれだけ待ってもその言葉をひるがえす様子はない。しょうがないので、こちらで考察してやることにする。
「無い……もしかして、さっき挙げたものは、そのままの意味で存在していない?」
かなり広範の例を挙げたはずだから、一つもかすらないというのは考えづらい。恐々と彼に尋ねると、はたして彼は「うん」 と大きく頷いた。
「ノンライブに、人は居ない。一人たりともだ。したがって、王も宗教も風習も無い。まぁ、技術は発展していたと言えるかもしれない」
キツネがそう、事もなげに言いきったせいで、驚くタイミングを逸してしまう。人が存在していない国……。もちろんにわかには信じがたいが、かといって嘘であると断定もできない。
「戦争か、流行り病か。それとも災害? もう滅亡しちゃった国ってこと?」
とりあえず思いついた可能性を列挙してみると、キツネは急に私の肩から飛び立ち、正面へ躍り出た。足を止める私の眼前で、分かっていない奴だ、とでも言いたげな態度でくるり、と宙で前転を決める。
「もったいぶらないで、早く教えてよ。あんた、案内役じゃないの?」
極めて優しくゆっくりと、人差し指でそのおでこを突っついてやる。彼は一瞬顔をしかめた後、短い右手(右前脚?)をぴんと立てた。
「滅亡なんてしちゃいない。ノンライブは確かに、国として成立している。だけど、そこに人間は居ない」
人間、と強調した彼の言葉に、閃くものがあった。
「ああ、キツネみたいな謎生物が支配している国なんだ。それで人間は居ないと」
納得する私の額を、お返しとばかりにキツネがどついてくる。しかし、ほとんど衝撃は無く、むしろ反動でまたも墜落しそうになるので、慌てて両手で引っ掴んだ。私の両手にすっぽり収まって、それでも彼は偉そうな態度を崩さない。
「違うよ、失礼な。この世界で、僕はオンリーワン。二つとない特別な存在だ」
言われてみれば、こんな生き物に国の支配なんてどだい無理だ。手足の先の肉球は細かな作業に向かないし、筋力に至っては自重を支えられるかも疑わしい。宙に浮いているのは凄い能力なのかもしれないが、百匹集まっても私一人にすら敵わないだろう。そんな彼が、両手の上でえへんと胸を張っているのに哀れを感じ、私は再び元いた肩へと戻してやる。
それに気を良くしたのか知らないが、彼は自慢げに話を再開した。
「ノンライブでは、人は生まれないのさ。死んだんじゃなくて、もとからいない」
息を呑む私に、彼は続ける。
「それがこの国のルールなんだ。神様が決めた、不変の約定。さぁ、もう分かっただろう?」
彼はひときわはっきりとした声で、告げた。
「君の使命は何かって」




