白百合姫
ある雪の降る夜、お妃様は編み物をしていた。
夕方からずっとそうしており、気がつけば窓辺には真っ黒な空、そして積もりゆく白い雪が見えた。
暖炉からの熱にガラスは曇り、彼女は大きくなった腹をかかえてから身を起こす。身体が冷えますよと侍女からたしなめられたが、大丈夫だと手を振って答えた。
どうしても、シンと静まりかえる雪景色を見たかったのだ。
わがままを言わない、笑顔を絶やさない、何があろうと決して己を見失わない。それが異国を生きる彼女が大事にしていたこと。
子を成してからというもの王は部屋へ決して近寄らず、そして彼女の座を虎視眈々と狙う存在も見え隠れしている。
憧れていたはずの城は、魑魅魍魎の住む世界だと気づく。
そのような環境へ抗うよう、子を成してからというもの不思議な力に目覚めたように思う。具体的には、子を守るため、己を守るため、あらゆる危険を察知するようになった。
小指の先ほどの段差。
ゆったりとした階段。
季節の食材を使った料理。
そのような物を見たときに、チクリ、と指先を刺される感覚が走るのだ。
なぜか何か嫌なことが起こると直感し、ただの思い過ごしかもしれないが、その不可思議な力を今日まで信じ続けてきた。
窓枠に手をかけ、ほんの少しだけ開く。どうしても、この静まりきった世界に触れたかった。
争いも憂いも、なにもない世界に触れたかったのだ。
暖かい空気の風に乗り、ほう、と白い息が流れてゆく。
あともう少しで、ようやく子は生まれるだろう。そしてまた、チクリとした痛みが指に走る。
この命の危機を知らせる信号は、この数週間、ずっと続いていた。
いったいどのような危機が訪れるだろうと長いこと警戒していたが、ようやく知らせの意味に気づいた。
子を産んだとき、私は死ぬのだろう。
日増しに高まるチクリとした痛みは、それが真実であると告げている。
降り積もる白い雪は、やはり綺麗だった。
汚れの無い色彩をし、移り住む前の祖国を思い出させてくれる。
最後に雪を見ることが出来、妃は母親らしい微笑を浮かべた。
「お妃さま、お身体にさわります。暖炉のそばで暖まり……あら、指先を針で刺されたのですか、血がにじんで……」
「いいえ、針ではないの。血が出るほど刺したのは、もう時間切れという意味かしら」
不思議そうな顔をする侍女にはそれ以上の説明をせず、ぽたりぽたりと血は垂れる。それは白い雪へと染み込み、赤と白のコントロラストは鮮やかなものだった。
このような子が生まれたら良いなと思った。
夜空のように黒檀の髪をし、雪のような白い肌し、そして血のように赤い唇をした子が生まれると良いなと願う。
そうすれば鮮やかにも美しく、周囲の女性になど決して負けない子になるだろう。
「この子には、白百合という名を与えましょう」
そう漏らすと魅力ある母としての笑みに、同性であろうと侍女はしばし見とれてしまう。
それにしてもなぜ男子は生まれないと分かるのか。しかし彼女は妖精の住む地から移り渡ったと聞く。ならば本当に女子が生まれるかもしれない、などと侍女は思った。
想い描いたままの子は生まれ、そして妃は翌朝に息を引き取った。
あの夜のような黒檀色の髪、雪のような白い肌、そして血のように赤い唇をした子が生まれ、そして十三歳を迎えた冬に物語は始まる。
∽:.:∽:.:∽:.:∽:.:∽:.:∽:.:∽:.:∽:.:∽
白百合と呼ばれる子は、すくすくと成長をした。
男子ではなかった為、お稽古や礼儀作法を学ぶ日々を送る。しかし、既に周囲からは熱い視線を注がれていた。
肌は透き通るよう白く、まっすぐの髪は夜のように神秘的な色。
少女ゆえの瑞々しい唇には、思わず食い入るよう眺めてしまう赤色をしている。まるで雪のなかへ血を垂らしたよう、と周囲の者は褒め称えた。
周りから浮いて見えるほど容姿端麗であり、また婚約者の決まっていない状況に異性らは「宝石の果実が手つかずの状態」とさえ見ていただろう。
血筋の良さもあり、近寄ろうとする者は後を絶たない。
しかし……。
「こちらでお会いできるとは。白百合姫、私はボードゥク家のバストラと申します。噂通りにお美しく、しばし妖精かと見とれておりました」
背後から声をかけられ、白百合は振り返る。
そして男は再び息を呑む。鮮やかすぎる唇に目を吸い寄せられてしまったのだ。魔性、とでも呼べばよいのか、声をかけたことを後悔するほど、頭はグラッと揺れてしまう。
そして甘い蜜のような声が鼓膜に届き、今度は心臓を震わせる。
「バストラ様、と申し上げるのですね。すると本日の晩餐会にはご出席されるのでしょうか?」
彼女の声が耳を通り抜けてゆく。たったのそれだけで、男の頭はジンとしびれてしまった。
このバストラなる男は隣国の王家の者であり、所有する領土はこの国に匹敵をする。王位継承を受ける前、早めに顔を売っておきたいという思いから声をかけたというのに、そのような行為を恥じるほど――美しい。
「うっ、あっ! そのっ、よ、よろしければ今夜はご一緒に舞踏をいたしませぬか?」
「ごめんなさい、私、男性のような汚らしい物体に触れることなど無理なのです。だって濡れた野良犬のような匂いがしますでしょう?」
その言葉に、しばし男は凍りつく。
相変わらず声は美しく、正面から顔を見れないほどに瑞々しく美しい。しかし正反対の言葉から胸をザクザクとえぐられており、癒やしと痛みを同時に与えられてしまったのだから。
木陰から様子を見ていたのだろうか。侍女らしき者が走り寄ってくると、すぐさま彼女を背で隠してしまう。不出来な劇を畳むように。
「バストラ様、申し訳ございません! 白百合様はこれから稽古の時間でございますので!」
「あら、スニージー。私をどこに連れてゆきたいのかしら? また秘密の小部屋だとしたら、もう私の身体はもちません」
「ち、ちがいますっ! でででは、バストラ様、失礼いたします!」
慌てた顔をスニージーと呼ばれる侍女は残し、頭を下げると駆け去ってゆく。そのような光景もどこか魅力的であり、男は目で追い続けてしまった。
そのとき、周囲からこのような言葉が流れてくる。
「白狼と呼ばれたボードゥク家も撃沈だ。見ろよ、あの呆然とした顔」
「絵に書いたような王子様でも、ああしどろもどろじゃなあ。途中で噛んだとき、姫も笑っていたぞ」
しかし嘲笑も耳には入らない。
それほどに美しく、声を聞けただけで宝石を手にしたような感覚がある。白狼という代名詞の元となるピンとした耳を、彼はなでつけた。
∽:.:∽:.:∽:.:∽:.:∽:.:∽:.:∽:.:∽:.:∽
たおやかな白百合の腕が伸ばされ、とん、と侍女スニージーの背後の壁に触れる。たったそれだけの仕草で、彼女は身動きの全てを封じられた。
「し、し、白百合、さまっ、くっ、唇っ、ちかいですっ!」
「あら、どうして近いと困るのかしら? ただ話をしているだけでしょう? 頬を真っ赤にさせて、まるで熟した林檎のよう」
人目に触れない物陰に移ると、いつものように追い詰められた。
スニージーなる女性は砂国からやってきた者だ。褐色の肌、ふわふわの明るい色の髪、そして健康的な肉体をしている。
身分などもちろん高くはなく、姫の侍女になると決まったときは心から驚いた。通例であれば高貴な女性が侍女となり、身の回りの世話をするものだ。
しかし庶民に近しい彼女が選ばれたのだから、喜び以上に周囲からの嫌がらせに悩まされていた。
「どうしたのかしら、悩ましい顔をして。ほら、私の手をにぎりなさい」
すべすべの指が絡みつき、命じられるまま握り返す。すると下腹部のあたりがうずいてしまい、ほんの少しだけ、溜め息にまぎれて熱っぽく喘ぐ。
人影の無い通路、その柱へもたれかかる姿を誰かに見られたら、きっと噂になってしまう。だから離れて欲しいのに、己の指はしっかりと白百合を握り返したままだ。
「白百合、様……普通なら、貴族の方を侍女にされるはずです。今からでもお考えなおしをされたほうが……」
すっと周囲は影につつまれた。
白百合からさらに近づかれ、その鮮やかな唇に惹きつけられる。
「知っているわ、ずっと私の唇を見ているでしょう。いま、好きなことをしても許してあげる、と言ったらどうするの?」
ぞくり、と腰から震えた。
魅力的な提案であり、そして絡みついた少女の指がすべすべで、先ほど発した問いかけさえ、雪に覆われるよう忘れてしまいそうだ。
スニージーは、この悪戯めいた瞳に弱い。まつげは長く、宝石のように美しい瞳から見つめられただけで、ぼうっと熱にうかされたようになる。
これだけ近いと果実のような甘い匂いまで伝わり、浅く短い呼吸を繰り返してしまう。とっくにバレているのだ。すっかりと姫に魅了されていることを。
そして混乱しきっていたせいで、心の奥底へ隠していた言葉を、つい口から出してしまった。
「くっ、唇っ、その唇を舐めてみたいです!」
互いに瞳を丸くする。正直すぎる言葉に面くらい、白百合は頬を赤くしてみせる。元の肌が白いせいでみるみるうちに赤くなり、こちらまで赤面するような可愛らしさだ。潤んだ瞳で見上げてくると、ようやく白百合は唇を開く。
「ば、馬鹿ね。そんな事を願っていただなんて」
「わああ、違うのです! いまのはうっかりで、混乱していたせいで、変なことを口走ってしまったのです!」
しかし、白百合から「本気だったでしょ」という瞳を向けられて、思わずスニージーは頷く。
そりゃあ、触りたいか触りたくないか問われれば、触りたいに決まっている。形も綺麗で、普段からまぶしいほどの色彩に見とれていたのだし……などとブツブツ呟いてしまう。
それにしても、色白な彼女が真っ赤になると、すごく可愛い。
暑そうに頬をあおぎ、そしてちらりと瞳を向けられると、どきっ!と胸が痛いくらいに鳴ってしまう。
「い、いいわ、言い出したのは私だから。向こうの隠し通路に行きましょう」
「わっ、わっ、いけません! あそこは大人の方しか使用してはいけない決まりです! 私たちには早すぎますから!」
まるで散歩を嫌がる犬が引っ張られるようだ。
手を引かれ、つんのめるよう侍女は歩かされる。
とはいえ護衛として鍛えられているスニージーにとって、姫を拒むことなどわけもない。しかしこの日この時ばかりはまるで抗えず、薄暗い隠し部屋へと近づいてしまう。
そんなスニージーに向け、白百合は笑いかけてきた。
「侍女にした理由を、あなたは気づいているのではなくて? スニージーがいなければ、もう3度も私は死んでいるのですから」
「!? 白百合さま、ご存知だったのですか……」
こくりと頷かれた。
この城では女性たちの謀が多い。最も目立つ白百合は誰からも敵視をされており、幾度か毒を盛られたこともある。
「でも、どうして気づかれたのです。私はちゃんと見つからないよう隠していたつもりです」
「どうしてなのかしら。危ないときにだけ、指先がチクリとするの。たぶん遺伝ではないかしら。母がそのような事を口にしたと聞いたわ」
その言葉に驚いているうち、薄暗い小部屋に誘い込まれてしまった。周囲は日差しから遠ざかり、白百合のうっすらと赤い顔が近づいてくる。
「だから、これは私からのご褒美。ね、スニージー、舐めていいよ?」
あたりは静まりかえり、はっはっという小刻みな呼吸だけ響く。あさましい犬のように、しかし止められない呼吸。
王宮の隠し部屋には品の良い家具が並び、どこか絵本を見ている気さえする。現実から一歩遠ざかったような思いをし、だからこそ彼女はもう一歩だけ白百合へと歩み寄った。
すると指一本分の距離は埋まり、いつも見とれていた唇と触れ合ってしまう。想像していたよりもずっと柔らかく、瑞々しく、先ほどとは比べ物にならない興奮により、スニージーの頭はジンと痺れてしまう。
甘い。揶揄ではなく甘い。
舌で触れると分かるが、彼女の身にまとう香りそのものの味がし、たったそれだけで腰が抜けそうだ。かくかくと膝は震え、それに反して身体は熱を持つ。
どいどうと心臓は騒ぐ。
嵐のように。豊穣祭を迎えたように。
夜のように美しい髪、そして雪のように白い肌。
今までずっと抑えていたけれど、今は自由に触れることを許されている。思わず乱暴に二の腕を掴んだのは、決して逃したくないと思ったから。
わずかに姫は瞳を開き、そして満足そうに微笑んでから唇を差し出してきた。
この子は誘惑が強すぎる。花へ群がる虫のように、何をしてもどうしても本能から背中を押されてしまう。
ちう、とわずかに触れて、ふかりとした厚みのある感触に眩暈がする。
荒々しく抱き寄せて、押し倒してしまいたい欲望が起こる。何度と無く口づけをし、ふっくらとした感触を楽しんでいると、ようやく己の欲望に気がついた。
手に入れたい。落としたい。誰もが羨む宝石を、今このときだけは私が色づかせたい。
「待って、何度キスをしたら気が済むのっ……いくら人影が無いとはいえ」
「ああっ、すみません! あと一回だけで気が済みますから!」
なぬ!?と白百合は驚愕の表情を見せ、それから押し倒した。
頭の後ろを支えてやり、しがみつく白百合の体温を楽しみながら、胴体から胸まで密着させながらのキス。
うーーっ、やっこいし気持ちいい。
そう思った瞬間に、ついにスニージーは目覚めてはいけないものに目覚めた。
膝と膝の間に胴体を割り込ませ、無理やりに奪うような口づけというのはたまらない。汗をたらたらと流す華奢な少女は、色気がさらに高まるようだ。
やがて気づく。酸素が足りず、くたりと力を失った白百合に。白い喉を震わせ、何度かあえいでからようやくという体で少女は声を漏らす。
「も……っ、馬鹿っ、どれだけ舐めたら気が済むの? このままだと砂糖菓子のように消えてしまうわ」
「お可愛いです、白百合様。顔を赤くして、涙を浮かせ、私をじっと見つめてくれて。さあ、砂糖菓子を取り戻すため、私の唇も舐めてくださいまし」
そう囁くと、口元に手をあてて白百合はさらに赤くなる。小さな声でぽそぽそと「おかしいわ、こうなるだなんて本には書いていなかったのに」などと漏らしており、瞳が合うとまた顔を染めてしまう。
恐る恐るという風に舐めてくれ、スニージーは天国に上るような思いをした。
ずっと上の人物から、謀に加わるようしつこく打診をされていたのだが、この日以来、スニージーは全てきっぱりと断るようになった。
∽:.:∽:.:∽:.:∽:.:∽:.:∽:.:∽:.:∽:.:∽
「鏡よ鏡……」
薄暗い私室で、怪しい言葉を呟く女性がいた。
名をウィックと呼び、すらりとした手足、そしてドレスの胸元を大きく膨らませている。己の魅力を知っているらしく、黒い刺繍に飾られたドレスは、大きく胸元を開かせていた。
整った眉といい、この王国の王妃としての美貌も兼ね揃えているのだが、実は魔の国から嫁いだ魔女である。
体内に魔石を宿し、それにより幾つもの魔術を行使できる。そして手にした鏡には、魔力を注ぎ込むことで魔なる存在が宿った。
「王妃様、ご機嫌麗しく。本日はどのようなご用件でございますか?」
「真実のみ語る鏡よ。私の問いかけに答えよ。この国で最も美しい者の名は?」
「白百合姫にございます。本日も変わりはございません」
義娘の名を告げられ、ウィックは「そうか」とだけ呟いてウェーブがかった金髪を指で払う。そして、ふっくらとした形の良い唇を開いた。
「本当にしぶといな、あの娘は。ただの人間にしては嗅覚があるのか、ことごとく罠から逃げてゆく。まるで野生のリスを見るようだ」
淡々とウィックは呟く。
数百年を生きる魔女にとって、白百合は小娘に過ぎない。しかし今のうちに殺しておけば、次に肉体構築をするときに彼女の容姿を選ぶこともできる。いわば長い寿命を得るための備えだ。
「一刻も早く、もっとも美しいうちに殺しておかないと。染みやシワなどが出来る前に」
そう決意をし、パン!と手を叩くと、両の手の間から黒いもやが生まれてゆく。そしてゆっくりと手を開いてゆくと、魔の属性であることを表す血塗られた瞳が見開かれた。
「お前に猟師をいう名を与える。白百合の肺臓と肝臓を儀式のために持ち帰れば、この世界で行き続けられる力を与えよう」
デュフッ!と猟師は笑う。
開かれた口のなかも血の色に染まり、つい二百年前には女子供を引き裂いたという悪魔は目を覚ます。
魔女の力を得れば、この世界でまた狂乱を楽しめるだろう。
頭を下げる人型の闇に向かい、さっさと行けとウィックは手を払う。そして史上最悪の殺人鬼は解き放たれた。
去ってゆく影に向かい、まだ意識を持ったままの鏡はつぶやく。
「宜しいので? あなたの領地を襲いますよ、あれは」
「魔女の約束を信じる程度の知能だ。それにどうせ私の国などではない。ああ、こういう時は、せいぜい楽しむが良い、と言うのが正解だったか?」
「そうですね、あるいは待っていろ白百合、などでしょうか」
それは格が落ちてしまいそうなので、形式上は継母であるウィックは嫌そうな顔をひとつする。
そのように、白百合を狙う魔の手は王国に放たれた。